非国民通信

ノーモア・コイズミ

拒絶された変化

2023-05-28 23:02:06 | 社会

 「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」とは、ダーウィンを騙るコンサルの言葉で、政治家や企業経営者からも何度となく引用されてきたものです。とかく「変化」とは良いものとされ、それに適応することが正しい在り方として無条件に扱われてきました。しかし稀に逆転現象も起こる、世を挙げて「変化」を拒絶して「昔に戻る」ことへと舵が切られることもあるように思います。

 それがすなわち新型コロナウィルスの感染拡大によって生じた変化で、日頃は変化そのものを追い求めて内容の良し悪しを考慮できないような人々すらも、コロナによって生まれた変化については例外として扱い、変化に適応するよりも変化を拒絶して昔に戻ることを正常化として認識しているのが現状ではないでしょうか。リモートワークを止める会社は続出し、公衆衛生の水準も着々と低下しているわけですが、それでも「日常を取り戻した」との声が巷には溢れています。

 たとえ業務効率を悪化させるような類いであろうとも、「やり方を変える」こと自体が私の会社では評価されてきました。皆様の勤務先でも、概ね似たようなものではないかと思います。たとえ結果が良いものであっても、従来通りのやり方を続ける、そんなルーチンは誰にでも可能なものと見下されることこそあれ、評価されることはありません。だからこそ、要否に関わらず新たな仕組みを導入すること、やり方を「変える」ことが社員としての役割と、どこの会社でも期待されているわけです。

 ところがコロナによって生じた変化についてはどうでしょうか? リモートワークにも抵抗勢力は存在しました。これがもし経営者やコンサルタントが旗を振っての変革であったなら、それに適応することが社員には求められ、背を向けることは許されなかったはずです。しかし実際はリモートワークに適応できない社員には何の責も負わされることなく、リモートで働くことの方が断罪されてしまったと言えます。

 リモートワークで成果を出せない、リモートで業務効率が悪化する、そんなものは社員の資質の問題であって、リモートに適応できない社員はリストラ要員として切り捨てる判断もあり得たわけです。少なくとも経営者やコンサルタント主導で行われた「改革」であったなら、そこに付いてこられない人が配慮されることはあり得ません。しかるにリモートで成果を出せないのも業務効率が下がったのも本人の問題ではなくリモートという働き方の問題なのだと、そう判断する会社は後を絶たず、出社回帰の傾向は止まるところを見せません。

 社員がOA化に対応できないからと言って、OA化を放棄してアナログ環境に踏みとどまろうとする会社を想像することは出来るでしょうか? 時代の変化に適応できない人を安易に切り捨てることは出来ないにせよ、社会全体の進歩のためには受け入れなければならない変化もあります。ところがリモート化に関しては例外で、対応できない無能が多かったので無能に合わせて昔のやり方に戻す──というのが社会の主流派になっているわけです。

 新型コロナウィルスの感染症分類の引き下げもあり、公衆衛生の水準低下も止まりません。マトモに感染症対策を行っていれば流行はほぼ完全に防ぐことが出来ると証明されたインフルエンザですら、数百人単位の集団感染が冬場でなくとも発生する有様です。コロナのおかげでようやく、周囲の人間からウィルスをまき散らされない衛生的な社会が実現されたにも拘わらず、我々の社会は躊躇なくその果実をゴミ箱に放り込んでしまったのでしょう。

 コロナの感染拡大は、日本にとって敗戦以来の社会変革をもたらす契機たり得たと私は考えています。しかるにGHQが去っても一応の民主化を維持したのとは裏腹に、コロナ後に関しては「復古」が国家方針となってしまいました。GHQが去ってもアメリカによる支配権は及び続けているのと同じように、コロナだってウィルスが消えてなくなったわけではありませんが、かたや進歩を受け入れて定着したかと思えば、進歩を拒んで反動勢力が勝利を収めてしまうこともあるようです。

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ウクライナ人とウクライナ人が対立しているのであって、ウクライナ人とロシア人は少し違う、という話

2023-05-21 22:59:32 | 政治・国際

「私たちの間に戦争はない」ロシア人とウクライナ人がサッカーリーグ結成、避難先のジョージアで(ロイター)

ロシアのウクライナ侵攻後、旧ソ連のジョージアに逃れたロシア人やウクライナ人らがアマチュアサッカーリーグを結成し、国籍の違いを超えた絆が生まれている。

ロシアがウクライナに侵攻してまもなくジョージアに逃れたロシア人とウクライナ人の有志が、首都トビリシでアマチュアサッカーリーグを結成した。その名は「フットビリシ」。

記者「戦争は全く関係ない?」
選手のイェホルさん「私たちの間に戦争はない」
選手のスタニスラウさん「でも戦争は常に頭から離れない」
選手のバシリーさん
「私たちは冗談を言い合い、親しみを込めてからかい合っている。この方が話題にしやすいのだ。もちろん、みんな自分がなぜここにいるのか理解している。私たちはお互いをサポートし合っている。それが私たちをこのクラブに引きつけるのだ。サッカーを超えたコミュニティなんだ」

フットビリシには現在、約700人の選手が所属しておりジョージア人、ロシア人、ウクライナ人、その他の外国人が集まっている。

ジョージアは、ウクライナでの戦争や徴兵、弾圧から逃れる移住者の最重要避難先の一つとなっている。ジョージアは、ロシアやウクライナを含む国々の人にビザなしでの入国を認めている。

ドネツク出身のロディオンさん
「外国にいると、コミュニケーションが取れる人を探すでしょ。ジョージアでも言葉の壁がある。これはスポーツイベントでありながら、人と出会い、話すこともできる。試合の後は、散歩したり、バーに行ってビールを飲んだりする。そのための環境は十分に整っている」

 

 この記事を読む前提として知っておくべきは、ウクライナでは成人男性の出国が禁じられていると言うことです。ロシアから国外に出た人は概ね合法的に出国したものと思われますが、ゼレンスキーの支配するウクライナから若く健康な男性が脱出するのは合法ではありません。それでも敢えてウクライナから逃れた人は当然ながらゼレンスキー政権とは反対の方向を向いていると推測されます。ではどちらと同じ方向を向いているかと言えば、ロシアの方……ということにもなるのでしょう。

 元よりインタビュー対象として登場するのが「ドネツク出身のロディオンさん」です。ドネツクと言ったら2014年のクーデター政権に対抗して立ち上がった地域の中核の一つであり、対立しているのはロシアではなくキエフ政権の方でもあります。地域に住む人の考え方も一様ではないにせよ、親ロシア派の拠点都市の出身者からすれば「ロシアとの間に戦争がない」のは当然であり、意外でも何でもない結びつきと言えるでしょう。

 根本的に対立しているのはウクライナ内部の反ロシア派と親ロシア派であって、必ずしもロシアとウクライナとではありません。今に至る根本的な原因は反ロシア派が選挙で選ばれた大統領を暴力によって追放して実権を掌握したことにあり、そのクーデター政権を承認しない親ロシア派との間で武力衝突が始まった、NATOを後ろ盾とする反ロシア派に対して窮地に追い込まれた親ロシア派の「後ろ盾」の国が集団的自衛権の行使に踏み切っただけです。

 ゼレンスキーの支配に服する反ロシア派のウクライナ住民がウクライナ人であるのと同様に、その支配を受け入れない親ロシア派住民もまたウクライナ人であることを、しばしば日本国内の報道は忘れさせようとしていると言えます。つまり日本のメディアに登場するウクライナ人は一様にゼレンスキー信奉者であり、ロシアに勝つまで戦いを続けることを支持しているわけです。

 しかし反ロシア派だけが本当のウクライナ人なのでしょうか? ロシア軍と行動を共にし、キエフ政権から反逆罪に問われているドンバス地方の住民はウクライナ人ではないでしょうか? とりあえずロシアによるドネツクなど4州の併合を承認するのであれば、彼らはロシア人であってウクライナ人ではなくなるのかも知れません。しかし4州の併合を認めず、該当地域をウクライナ領として扱う政府方針に従うのならば、その地域の住人がいかなる政治信条の持ち主であろうとウクライナ人として扱うべきと言えます。

 「ジョージア」というアメリカの属州であることを宣言したかのような恥ずかしい名前の国では、かつてサアカシュヴィリという強硬な反ロ主義者が大統領に君臨していました。この人も結局は権力を失うのですが、その後なんとウクライナから国籍を付与されてオデッサの州知事に任命されます。オデッサもまた親ロシア派の強い地域であり、その押さえ込みがウクライナのクーデター政権では急務だったため、「同志」が起用されたものと推測されています。元グルジア大統領もウクライナ人になったりするのですが、いったいウクライナ人とは何なのでしょうね?

 今回のウクライナを舞台にしたNATOとロシアの戦争の中で、隣接する沿ドニエストル共和国の存在が注目されることもありました。この沿ドニエストル共和国はモルドバ中央政府との戦いを経て形成されたものですが、そこにはロシア系住民だけではなく、ウクライナ系住民も住んでいますし、ロシア語の他にウクライナ語もまた公用語として定められています。元より今の地位を勝ち取る上で軍事的な支援を行ったのはロシアだけではなく、ウクライナもまた兵員を送り込んでいました。ロシアとウクライナが手を携えるのは、決して珍しいことではないのです。

 近年は反ロシア派が政権を掌握したことでウクライナは二つに割れています。そして日本を始めとする西側諸国は反ロシア派だけをウクライナの代表として扱ってきました。しかしそれはウクライナの片面でしかありません。日本が目を背けてきた親ロシア派もまたウクライナの国民であり、ロシアとではなく同国の反ロシア派と対立している、そうした現実にこそ目を向ける必要があります。もし日本が公正であろうとするのなら、一方の陣営にのみ肩入れするのではなく、異なる政治的立場のウクライナ人をも尊重する必要があるのではないでしょうかね。

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(東京への)ギリ(ギリ通勤)圏のリアル 其の二

2023-05-14 22:57:24 | 社会

 さて先週もお伝えしましたとおり、私は東京へのギリギリ通勤圏に住んでおりまして、これを心の中で「ギリ圏」と呼んでいるわけです。そんなギリ圏の特徴として子育て世帯の流入を紹介したところですが、これと少なからず関連する形でもう一つの特徴が形成されていたりします。結論として職住分離ならぬ「商住分離」と、これまで他では使われない言葉になってしまうのですけれど、少し詳しく見ていきましょう。

 先週ご紹介した通りギリ圏には子供が溢れており、その結果として保育園だけではなく小中学校まで新設されたりと少子化とは真逆の動きが見られます。そこでは当然ながら、子供達の親が住む家だって必要です。では流入した子育て世代の住処はどうなっているのかと言えば、住人が転出や死亡した跡地というよりもむしろ、商業施設の撤退した跡地に住むケースが目立ちます。

 つまりギリ圏でも少し栄えているところですとショッピングモールやデパートが閉鎖されたその跡地に建設されたマンションへ転居してくる、私の住むような地域ならば個人商店や診療所が閉鎖された跡地の建売住宅に子育て世代の若い夫婦が転居してくるわけです。結果として駅近でもマンションばかり、駅から遠いと住宅の他には小中学校と保育園、児童公園しか存在しない買い物難民エリアが出来上がったりしています。

 住宅需要が商業需要を圧倒的に凌駕しているのがギリ圏の特徴の一つですが、しかし人口増の続く地域ならば商業面で栄えても良さそうな気はします。ただ住宅と商業の両輪で栄えてしまうと必然的に地価も上がって不動産価格も高騰し、若い夫婦が住宅を取得するのは難しくなることでしょう。ひたすら住宅だけが増え続ける歪な地域であるからこそ不動産価格が子育て世帯に手の届くレンジに収まる、そうして成り立っているのがギリ圏なのだと言えます。

 私の住居から最寄りの保育園や小学校までは徒歩5分圏内ですが、最寄りのスーパーマーケットは徒歩30分の駅前まで行かなければ存在しません。かつてはgoogleマップ上でスーパーマーケットと表示されていた個人商店もあったのですが、今は廃業し跡地には間違い探しのようなデザインの建売住宅が立ち並んでいます。お世辞にも生活に便利な立地とは言えませんけれど一応は都心まで通勤可能であるせいか、出来上がった小さな建売住宅は飛ぶように売れている、それがギリ圏のリアルです。

 日本全体の人口が減少に向かう中で市の人口は増加している、少子化が叫ばれて久しいにも拘わらず小学校のクラスが増えたり小学校の新設が始まったりと子供の増加が止まらない、しかし商業施設は減少傾向で潰れた跡地にはマンションか建売住宅が建つ──私の住む類いの街は成功しているのか失敗しているのか、いったいどちらでしょう? 自分は今の街から出て行きたいですが、もっと暮らしやすい街の不動産を取得できるだけの収入はありません。

 ひたすら住宅ばかりが建ち並び商業施設から切り離された「商住分離」の街は不動産価格も抑えられる傾向にあり、私の手が届きそうなのはそういうエリアが限界になるのですけれど、これが社会的に改善される未来はあるのでしょうか。バランス良く発展した住みやすい街は不動産価格も必然的に高騰する、結局は自身の収入を増やす以外に解決策はないにせよ、しかし子育て世帯が流入する一方で商業施設の撤退が続く、そんな歪な発展は行政上の課題でもあるはずです。

 人口が増えても商業施設の売上が伸びない原因としてはネット通販の拡大や娯楽の分散化あたりが挙げられます。しかし生鮮食料品などは実店舗での販売が今でも主流のはずで、地域住民の生活インフラでもあるスーパーマーケットぐらいは住宅地の中にも存在して良いと私は思うわけです。勿論スーパーすら駅前にしかないような地域だからこそ地価も低くて私が住んでいられるのだ、という堂々巡りにはなってしまうのですが、他の地域住民がどう暮らしているのかは気になるところです。

 結局のところ、自家用車を中心としたライフスタイルがギリ圏の生活を成り立たせているのかも知れません。どんな小さな建売住宅でも駐車スペースだけは完備している、価格帯は控えめのマンションでも駐車場だけは立派、それがギリ圏です。自宅周辺に日用品を買える店はないけれど、自家用車に乗って国道沿いまで出て行く、沿岸部の大型ショッピングモールまで足を伸ばす、それが当たり前の生活として定着していれば、ギリ圏の暮らしも悪いものではないのでしょう。

 ただ駐車スペースを確保するために居住面積が寂しいことになっているのでは?と私などは疑問に思うことが多いです。駐車場をなくせば土地代はそのままに居住面積を確保することが出来ますし、自家用車の利用が減れば慢性的な生活道路の渋滞も緩和され、バスだって定時運行に少しは近づけることでしょう。私の家から駅までは徒歩30分ですが、荒天時ともなると道路は自家用車で溢れ、バスでは1時間近くかかることすらあります。しかるに自家用車で道路が塞がれていなければ、家から駅までバスならば10分もあれば十分なはずです。

 そして住民が自家用車で国道沿いまで買い物に出かけるのではなく、徒歩圏内で日用品を調達するようにあれば、住宅地内のスーパーマーケットの経営だって成り立つことでしょう。そうなれば格段に私の住む街は暮らしやすくなります。しかし地域住民が自家用車中心の生活を望んでいる限りは何も変わらない、年を取って足腰が弱るほどに自家用車を必要とするような地域だって増えていくわけです。

 コンパクトシティを目指して失敗した事例は少なからずあります。住宅エリアの徒歩圏内に商業施設を作っても、住人には徒歩圏内の店よりも国道沿いの店へ車で出かける習慣が染みついており、目玉だったはずの商業施設が倒産してしまった──そんな事例は少なくありません。コンパクトシティの構想自体は正しいものと思いますが、それを実現させるには住民の生活スタイルを変えること、すなわち自家用車中心の生活を放棄させる措置が必要ではなかったか、というのが私の見解です。

 高齢ドライバーが事故を起こすと、囂々たる非難が巻き起こります。しかし私の住むような地域ですと、最寄りのスーパーマーケットまで徒歩では30分かかります。今はまだ歩くことが出来る、自転車にも乗れますけれど、年老いて足腰が弱ってきたらどうしたら良いのでしょうか? 自宅の徒歩圏内で日用品を購入することが出来ない地域こそが日本のボリュームゾーンです。むしろ高齢化するほどに自家用車という移動手段が必要になるのが現状だと思います。

 だからこそ自家用車の保有や利用を全世代で制限すべき、というが私の立場です。自家用車を禁止すれば国道沿いの店ではなく徒歩圏内の店を利用する人だって増えることでしょう。そうして日用品を歩いて買いに行けるような街を作る、駐車スペースを削って居住面積を確保する、自家用車をなくして道路渋滞を緩和し、バスが定時運行する街──そういう方向に舵を切って行くべきだと私は考えています。戦争のない世界を夢見る人もいるわけですが、私の夢は自家用車のない世界ですね。どうしても車を運転したい人がいるのなら、職業としてドライバーをやってもらえば人手不足解消に繋がって一石二鳥ですし。

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(東京への)ギリ(ギリ通勤)圏のリアル

2023-05-07 22:39:25 | 社会

 直近では統一地方選挙との関連で自分の住む地域について何度か言及しました通り、私は東京へのギリギリ通勤圏に住んでいます。この東京へのギリギリ通勤圏を私は「ギリ圏」と心の中で呼んでいるわけですが、その特徴について少し考えるところがありましたので、幾つか書いてみたいと思います。

 いつかはコンクリートのマンションに住みたいと漠然と夢見ておりまして、不動産情報に係るサイト巡りが日課のようなところもあるのですが、具体的な物件を追いかけると必ず上記の「ギリ圏」に辿り着きます。何故ギリ圏なのかと問えば、リモートワークもあるとはいえ結局は都内の企業勤めですので、頑張れば通勤できる範囲には住む必要がある、しかし予算はないので地価の高いエリアは選択肢から外れてしまう、そうなるとギリ圏の不動産しか残らないわけです。

 人は何故ギリ圏に住むのか、多くは積極的な理由によるものではないでしょう。郊外の就職先は至って限られますし、不動産価格がどこも同じであれば通勤にも生活にも便利な都心を選ぶ人が圧倒的多数になるはずです。そもそも人が「住みたい」と思う地域だからこそ都心の地価は高騰するわけで、相対的に不動産価格の抑えられている地域はそれだけ不人気ということです。

 ただ、そんなギリ圏でも人口流入は続いています。住みたい地域のベストではなくとも、予算を考えれば妥協できるエリアとしてギリ圏への転入は後を絶ちません。中でも目立つのは「子育て世帯」の増加でしょうか。先般はこどもの日もあって児童数の一貫した減少が深刻に伝えられた一方、私の住む街では至る所を子供が駆けずり、叫び回っています。投票所でもある最寄りの小学校では1クラス増えたり近隣に保育園が新設されたり等々、少子化とは真逆の動きが続いているわけです。

 私が眺めているギリ圏の分譲マンション界隈でも同様なのか、児童数の増加に合わせて小学校を新設するという話も聞きました。あるいは児童数の急増で最寄りの小学校では収容できなくなり、特定のマンションごとに学区が割り当てられる、特定のマンションの児童は少し離れた別の小学校に通わされる、なんて問題も発生しているそうです。日本全体では少子化が加速しているはずですが、私の住む街やマンションを買いたいと思っている街、いずれもギリ圏となると子供は増える一方なのかも知れません。

 若い間の仮住まいと、住宅のグレードや居住面積に妥協できる単身の若者は都内の借家に住む、昇進と昇給を重ねた富裕層も都心に住む、しかし昇進はこれからの若い夫婦が都心に居を構えるのは金銭面で非現実的です。そうなると都内に通勤可能な地域でギリギリの価格帯を探ることになる、結果としてギリ圏に辿り着く子育て世代が増えているのではないでしょうか。だからギリ圏は子供で溢れている、しかしギリ圏に子供が増えても転入の結果に過ぎず、転出地域と合わせれば±0、むしろ偏在を引き起こしているだけでもありますね。

 ただ一口にギリ圏と言っても区切りの難しいところがありまして、児童数の増減なんかは都道府県別で発表されるものの、東京でも23区と多摩地域では全く話が異なるように、千葉でも北西部ベッドタウン地区と外房とでは別世界が広がっているわけです。これを市町村単位に分けても同様で、私の住む市も結構な面積があるため、子供で溢れるギリ圏もあればそれなりに栄えた駅近の商業地もある、公共交通機関とは無縁の陸の孤島エリアもあったりします。市全体では転入増でも、市内の地域によって格差は大きく、統計では見えづらいものも少なくありません。

 ともあれ少子化が進む中でギリ圏に子供が偏在する、これが人々の「子供観」にも影響を与えているように思います。例えば動物園で珍しい生き物の鳴き声を聞いて、これをうるさいと感じる人はいないでしょう。しかし自宅周辺を縄張りにするカラスや躾けられていない隣家の犬の鳴き声を不快に感じている人は多いはずです。これと同じことが子供を巡っても起きているのではないか、というのが私の考えです。

 少子化と子供の地域的偏在によって、子供に接する機会の激減した人と、子供と日常的に接している人への二極化が進みました。その結果として子供の声を「動物園で聞く鳴き声」のように感じる人と、「躾けられていない隣家の犬の鳴き声」のように感じる人に分かれているのではないでしょうか。普段は子供に接することのない人からすれば、子供の声を煩わしく思う感情など想像も出来ないわけです。一方で子供と接する時間が長ければ長いほど、子供の騒々しさにストレスを溜める機会も多くなります。ヒマなときに時々しか子供に遭わないのであれば、子供の声もかわいらしく聞こえるに違いありません。しかし忙しい日々でも深夜でも絶えず子供の叫び回る音に囲まれていれば考え方も変わるというものです。

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