非国民通信

ノーモア・コイズミ

ニッポンの技術力

2021-02-28 22:04:58 | 雇用・経済

 電化製品や半導体を始め世界市場における日本製品の優位は90年代には崩れ出し、今に至るも巻き返しの機運が皆無であることは周知のことかと思います。問題は、そうした状況に日本の経済界がどう対応してきたか、ということですね。正しく対処できていたのであれば状況は変わった、間違った対応を続けていれば事態は悪化する一方となりますが、まぁ結果は既に明らかなことでしょう。

 T型フォードは1,500万台以上が販売され、自動車を金持ちの道楽から市民の交通手段へと変化させました。もちろん自動車そのものはT型フォードが市場に出る以前から普通に販売されていましたが、売れ行きは全くの別次元だったわけです。発売当時における競合他社の製品を性能で上回るところもあったかも知れません。しかし明白な強みは、他社の同クラスの自動車よりも安価であったことです。

 日本製品も、中国や韓国の(日本製より)安価な製品に市場を奪われ続けてきました。「安い」という点はどの時代でも消費者にとって重要です。ではどうして競合国の製品は自国の製品より安いのか――その原因を正しく認識できないと、必然的に対応策もまた正しくないものを選択してしまうと言えます。

 T型フォードが安価であったのは、少なくとも「人件費が低いから」ではありませんでした。それどころかフォード社は人手を確保するために賃金水準を倍増させ、退屈な流れ作業でも従業員の離職を防ぐべく世に先駆けて8時間労働や週休2日制の導入を進めていたわけです。当然ながら、フォードは他社よりも人件費が高くなります。しかし発売される製品の価格は下がり続け……

 伝統的に日本では、日本製品が中国製品よりも割高な理由として「人件費が高いから」と説明されています。この信念に基づき日本企業は四半世紀にわたって人件費の抑制に挙国一致で取り組み、主要国中では最も賃金上昇率の小さい国であり続けてきました。その結果として日本の人件費は先進国レベルから中堅国水準へと推移したわけですが――日本製品が市場でシェアを取り戻すには至っていません。

 人件費が高いはずのフォード社が自社製品を安価で販売できたのは、「コストを下げる技術」を産み出したからです。技術があるからこそ、より良い製品をより低コストで製造できたのです。一方で技術のない会社あるいは国は、コストを下げるためには人件費を下げる以外の選択肢を持つことが出来ません。製品を安くできないのは、人件費もさることながら技術がないからだ、と言えます。

 サムスンなりファーウェイなり、技術力で日本企業を上回る会社は実のところ日本企業のそれを上回る給与水準で人を募っているわけです。人件費は、日本企業よりも中国や韓国の企業の方が高い、そう言える状況は着々と進み続けています。しかし日本企業より給与水準が高い中韓メーカーの製品は日本の同等製品よりも安価で市場に供給されており、人件費の高さは製品の価格に必ずしも比例していません。

 我が日本の技術は世界一ィィィィーーーーッ!!!! ……という信念は日本国内で幅広く共有されていますが、一方で人件費が安いにも関わらず中韓よりも割高な製品しか作れないという状況もまた続いています。まぁ日本の人件費が高いという信念もまた技術力に関する自惚れと同様に根付いていると言えるかも知れませんが、現実に向き合えない者が状況を改善することはないでしょう。

 技術力は日本が最高であるという幻想にしがみつき、製造コストが高い理由の全てを人件費に求め、賃金水準の抑制に全力を注いできた結果が今に至るわけですけれど、それに政財界が満足しているのかどうかは興味深いところです。国際市場における日本メーカーの存在感は薄れゆく一方ですが、まぁ労働者が弱い社会、雇用主優位の力関係を築いたことに精神的な喜びを見出している人もいるのかも知れません。

 例外的に「ニッチな」領域で日本企業が高いシェアを残しているものは存在しますし、それをことさらに強調したがる人もいます。ただ、こうした分野が莫大な収益をもたらし日本経済を牽引しているかと言えば、残念ながら微塵も気配がないわけです。儲かる分野ではシェアを取れず、儲からない分野での高いシェアを誇っているとしたら、それもまた悲しい話ではないでしょうか。

 以前に働いていた職場で、ある町工場が製造している部品の不足から全体の工期が遅れるなんてことがありました。ただ、全体の工期を左右しているはずの町工場の部品は、至って安価なものでもありました。ヨソの工場からは調達できない部材でもあるからには市場での優位性を発揮して価格も上昇しそうなものですが、そうはならなかったわけです。

 問題の町工場でしか作れない部品だったのならば、販売価格の上昇もあり得たかも知れません。しかし「儲からないから作る人が少ない」だけの部品であったならば話は別です。安値で買い叩かれる部品なんて大手はどこも作りたがらない、その分だけ小さな町工場でも高い市場シェアを有することが出来ていたと言えますが――シェアが高いのに全く儲からない状態もまた続いていたのです。

 日本企業が世界トップクラスのシェアを占めている領域は、探せば幾つか見つかることでしょう。しかし、それに胸を張れるのかどうかは別問題です。収益性が高く他の国が羨む領域でならば、それは自慢できるものです。しかし収益性に乏しく「日本ぐらいしかやろうとしない」領域であれば、徒にシェアを誇るのは失笑を誘う行為でしかないと言えます。

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留学狂想曲

2021-02-21 21:51:40 | 社会

外国人学生数の調査要望 筑波大、学長選考批判の教授ら(朝日新聞)

 大学運営の自由度を高める特例が適用される「指定国立大学」の公募に際し、筑波大学(茨城県つくば市)が文部科学省に出した外国人学生の数と実態に食い違いがあるとして、筑波大の教員らが10日、萩生田光一文科相あてに調査を求める要望書を出した。大学側はこの件に「コメントはない」としている。

 文科省は昨年10月、筑波大と東京医科歯科大を新たに指定国立大に選んだ。10日に記者会見した筑波大の教員によると、公募書類には外国人学生の数として3千人台の数字を記載しているのに対し、日本学生支援機構に報告している人数は2千人台だという。

 筑波大の竹谷悦子教授は会見でこの差について「大学を訪問してきた短期の滞在者を含めているのだろう。そうした学生まで含めてアピールするのは、水増しではないか」と話した。

 留学生を増やす計画を掲げている筑波大は、英国の教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)」の世界大学ランキングにも、外国人学生数として3千人台の数字を出しており、THEは筑波大に数字の乖離(かいり)について説明を求めている。

 竹谷教授ら教員有志は、現職の永田恭介氏が選ばれた昨年10月の学長選考に異議を唱えてきた。学長の通算任期の上限が撤廃され、教員の考えを問う投票も無くなったためで「不正な選考を認めず、責任追及を続ける」と訴えている。

 筑波大広報室は教員有志でつくる団体について「誰が運営しているか分からない会」と言及し、「そのような会に対し大学としてのコメントはない」と答えた。(土屋亮)

 

 ……引用が長くなりましたが、省略して良さそうなポイントの見つからない報道であり、国立大学はおろか国策大学とすら呼べる筑波大学にして色々と問題もあるようです。今回報道の主題ではないながら「学長の通算任期の上限が撤廃され」云々の行もいかがでしょう? 自ら憲法を改正して任期の上限を廃止する国家元首は日本の隣国にもいるわけですが、似たようなことは国内でも見られるのかも知れません。

 筑波大の広報室のコメントがまた振るっており、曰く「誰が運営しているか分からない会」とのこと。顔も名前も明らかにした上で全国紙を相手に記者会見まで開いている大学教員達を指して「誰が運営しているか分からない会」と言い切れるあたり、学長の傀儡と教員有志がいかに対立しているか窺われるというものです。

 ともあれ、日本学生支援機構に報告している外国人学生の数は2千人台、文部科学省の公募や雑誌に出した人数は3千人台と、明白な食い違いがあるわけです。まぁヨソでも例えば東京ドームなど、消防署には定員46,314人で届けられていたにもかかわらず、読売球団は収容人数56,000人と発表していたなんて事がありました。大学だって似たようなもの、水増し自体は珍しくはないのでしょう。

 それにしても、留学ゴリ押しの大学が本当に増えましたね。ついでに英会話学校かと見紛うばかりに英語推しの大学も幅を利かせるようになりました。英語や留学に縛られず好きなように勉強できる時代に大学時代を過ごせた自分は、今の時代の学生よりも恵まれていた気がしないでもありません。

 ただ学生よりも政府や企業からの評価が問われる時代には、そういう人々向けのハッタリの方が教育より重要になってしまうのでしょう。教育の質の高さなんて、それを本気で勉強している学生にしか分からないものです。真面目な学生にだけ分かるようなアピールポイントでは、大学の名声には繋がりません。もっと「外」に向けて大学の魅力を発信するためには――留学生の「数」を多く見せるのが有効と、そう判断されているのだと思います。

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ミソジニストの沈黙

2021-02-14 22:02:23 | 社会

恨み節残し途中退席、森会長「意図的な報道があった」(読売新聞)

 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(83)が12日、辞任を表明した。発足以来、大会の運営組織を率いてきたが、女性に対する不適切な発言で表舞台を去ることに。後任を巡る混乱も起きており、大会関係者からは「早く騒動を収めて」との声が上がった。

(中略)

 「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」。辞任の引き金になった3日の会合での発言については、「女性を蔑視する気持ちは毛頭ない」と強調。「女性をできるだけたたえ、男性より発言してもらえるよう絶えず、すすめてきた」と主張し、「多少、意図的な報道があった」などと不満も口にした。

 

 さて森喜朗が女性蔑視発言を取り沙汰されて組織委の会長を辞任するに至りました。発言の内容自体に擁護の余地はありませんけれど、辞任にまで追い詰められたことには少し同情しないでもありません。何しろ、このレベルの妄言なら別に珍しくないですから。

 特定の人々を蔑み、貶めるような暴論なら、普通に有力政治家の口から聞かされてきたはずです。この程度の発言で辞任しなければならないようであったなら、石原慎太郎が首都の知事になることはなかった、麻生太郎はとっくに政界を退いていた、トランプだって共和党の予備選で早期に撤退していたことでしょう。政治家の妄言は別に珍しいことではありません。それが失脚に繋がることが珍しいのです。

 問題発言として報道されたとき、多くは「発言が誤解された」「真意が伝わらなかった」そして森氏が言うように「意図的な報道があった」みたいな弁明が行われます。総じて政治家の問題発言とは自身の真意が伝わったからこそ問題視されるものですが、一方で擁護の声を聞かされることも少なくありません。発言を批判する側は曲解している、メディアの偏向報道である云々…… しかし森氏に関して擁護の声はほぼ聞こえないわけです。

参考、ヘイトの町・小田原

 かつて小田原市役所では2007年から2017年にかけて、生活保護受給者を罵倒する文面の入ったグッズを職員が作成、市役所内部で頒布や販売を行っていました。10年に及ぶ地道なヘイト活動の結果として全国紙で報道されるに至ったのですが、それに対する批判もあれば、同数に近い擁護の意見も寄せられたことが伝えられています。世の中、そういうものではないでしょうか。

参考、賛同者も多いようではありますが

 あるいは公立福生病院で医師が透析患者に治療中止を促し、死亡者を続出させていたなんて事もありました。背景には医師の思想信条があり、「人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」などと主張した日本維新の会の某公認候補を彷彿とさせるものでしたが、やはり意思を擁護する声も多かった、治療中止を正当化する超理論を展開する人も目立ったわけです。

 ……こうしたことを思えば、森"元"会長だってもう少し擁護されても良さそうな気がします。なぜ森氏ばかりが批判されるのか、発言の中身がどうしようもないことについては異論がないかも知れません。しかし、どんな妄言、暴論、ヘイトスピーチにだって支持者はいた、賛同者も多く、批判に負けないだけの擁護者もいました。それなのにどうして森氏にだけは味方がいないのでしょう?

 まぁ総理大臣在籍期間中には記録的な低支持率を残すなど、元から不人気な人ではありました。そんな不人気でも要職を渡り歩くあたり、国民から不人気なだけで政界やスポーツ関係の理事会に所属する人々の間では、何かしら支持を得るものを持っていたのであろうと推測されます。国民が政治家を判断するのとは別の基準で、高く評価されてきたに違いありません。国民とは別の基準で、ですね。

参考、厳罰化を求める世論>反中感情

 10年余り前、中国で日本人4名に対する死刑が執行されたことがありました。容疑は麻薬の密輸と言うことでしたが、これに対する日本側の反応が専ら中国政府による執行に肯定的なものであったことを覚えています。当時も今も変わらず反中感情の強い日本ですが、それ以上に厳罰志向が強く、死刑制度への信頼感が高いことが要因でしょうか。

 右派の著名人でこれを批判したのは櫻井よしこくらいで、いつ何時であろうと中国のやることに批判的であるという点で一貫性を見せた人は少なく、排外主義者の多くはこの問題では沈黙を守ったと言えます。中国に対する敵意よりも、犯罪容疑者へ厳罰を与えること、毅然として死刑を執行する姿勢への賛同が優った結果と判断するほかありません。

 森喜朗と同じような女性観を持っている人は、本当は多いはずです。だからこそ組織委も男性中心で運営されてきた、今回のような発言も人目を憚らず口にされたわけです。それでも森氏への賛同者が表に出てこないのは、かつて中国への反発感情を死刑への賛同意識が上回った時と同じようなものだと言えます。森の不人気は、ミソジニーを超克した、と。

 結局のところ、誰もが泥船から逃げ出す機会を窺っていたとも言えます。何事もなければ森喜朗体制の下、昨年の段階で終わっていたはずのオリンピックも、新型コロナウィルスの感染拡大状況を鑑みるに今となっては無茶な話でしかありません。ナショナリズムの祭典への熱気を維持できなくなった人も少なくない、スポンサー企業も協賛金の支払いをダラダラと続けたくはないでしょう。

 そこへ来て今回の件は、引き際を見計らっていた人々にとって好都合だったはずです。撤退の大義名分として森氏の発言は十分に「使える」ものでした。ファンの多い政治家は問題発言があっても無理筋の擁護をしてくれる人が少なくありませんが、森氏のファンは国民の間に少なく、オリンピック熱もすっかり冷めたところ、かくして森氏は引責へ。でも他の妄言政治家の存在を思えば、自分ばかりが詰られることへの恨み節くらいは許されても良さそうな気がしますね。

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慣れと痛み

2021-02-07 22:09:53 | 社会

 さて先週も書いたことですが、地元の医療機関はどこも子供で溢れています。走り回る子供達から身をかわしながら待つことしばし、そろそろ自分の番かと思い始めた頃に、診察室で子供が大泣きして一向に進まず……というのも珍しくありません。

 注射が怖くなくなったのは、いつ頃からでしょうか。子供の頃は確かに、自分も注射が怖かったことを覚えています。ある程度まで年齢を重ねても、血管に針を刺す行為には一定の恐れがありました。それなりの頻度で医療機関を受診せざるを得なくなった今では、注射も顔を洗うのも同じようなものですけれど、それが良いのか悪いのかは分かりません。

 注射が怖かった幼少の頃であれば、泣き叫んで診療をストップさせる子供の気持ちも理解できた気がします。今となっては「注射ごときで……」としか思えないのですけれど、それが恐ろしいこととしてイメージできた時代も自分にはあったはずです。

 ○○が痛い、○○で辛いと、挨拶代わりにアピールする人もいます。自分にしてみれば「いい歳なんだから、どこかが痛むのは当たり前、どこか悪くなるのは当たり前」としか言えないのですが、体の何処にも痛みなどなかった若かりし日の自分であったならば、もう少し違う感じ方をしたのかも知れません。

 恵まれない境遇から苦労を重ねて成功した人にとって、他人の苦境とはどう見えるのでしょうか。不利なスタート地点に立たされたにもかかわらず、周囲の倍の労力を費やすことで社会的に成功する人もまたいるわけですが、こうした成功者が過去の自分と同様の恵まれない境遇にいる人をどう考えているのか、興味深いところです。

 公的な助けや周囲の助けを得られなかったにもかかわらず、自分の努力でなんとかしてきた人もいます。そうした人が同様に公的な助けや周囲の助けを得られず困窮している人を前にしたとき、何を思うのでしょうか。(自分がしてきたのと同様に)自身の努力でなんとかするべきものと思うのか、それとも自分とは異なる選択肢が与えられるべきと考えるのか――

 家柄にも周囲のサポートにも恵まれ、何ら苦労することを知らずに立身出世を重ねてきたが故に、苦境に置かれた人々の存在を想像することすらできない人もいます。一方で苦労を知り、自力でそれを乗り越えてきたからこそ、同じ事を他人にも当然のように求めてしまう人もいるわけです。苦労人なら他人の苦労に同情的かと言えば、むしろ苦労に対する感受性が麻痺していたり等々。

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