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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

ツイート集 2017.3.6-3.21

2017年03月22日 | ツイート集

2017/03/06
今までは生活者→選挙→国会議員のルートで投票するという行動はあっても、それ以外は政治家の見識に任せるかそんな世界とは無縁に生きるかしかなかった。もちろん、反対の意思表示や街頭行動はあり得た。わたしもまた、苦々しい思いを抱きながらずっと無縁に生きて来た。
 
SNSという仮想世界の登場で、その世界が少し変わって来た。家計消費が伸びないなどの生活者の沈黙の選択・行動の表現ではなく、いろんな問題含みつつも仮想世界に一人一人が考えや意志を表現できるようになった。形式的な民主制度で実質ムラ政治を揺さぶるものとして機能できるような気がする。
 
これからのこととして、SNSという仮想的世界で、イデオロギーや知的な思想ではなく、生活者としての意志の表現とそれを束ねることができるような気がする。古臭い骨董品政治家やどこ向いてんの政治家たちを蹴散らすものとして。政治を生活世界の方に回収する方向へ。
 
 #消費を控える活動01
 
 
 
2017/03/08
(1/4)覚書 2017/03/08
「森友学園問題」で少し社会の表面に切開されたが、なぜこのような隅っこで消えゆく運命にある退行的なイデオロギーや感性が近年花盛りになり、政治の舞台中央に陣取っているのだろうか。しかも、こうした現象は従来の政治を拒否するように先進諸国で共通の現象のようだ。
 
(2/4)例えば、パソコンが流行出すと、進んで受け入れる層、仕方なく受け入れる層、反発して受け入れない層、が必ず登場する。しかし、文明や社会の主流は、それらの各層を巻きこんで、推移してゆく。パソコンやケイタイなど生み出されるものすべてが良いことばかりではないが、使いこなされていく
 
(3/4)こうしたことは、現在でも続いているのだが、社会全体の推移としてはもうこうした通常状態ではなくなってきているのだと思われる。つまり、現在を、死に瀕した社会、どん詰まりの社会と吉本さんが言っていた、そんな状況に先進諸国は共通になってきているのだと思う。
 
(4/4)したがって、だんだん問題も積み重なって従来的なやり方ではうまくいかなくなってきている。人々の鬱積も溜まっている。従来的な政治の決定的な無効という感覚や判断から威勢のいい退行的な政治勢力が表舞台に登場してきているのではないか。未来性を持つ社会への構想力が問われているのだ。
 
 
 
覚書2017.3.9
最近、時々〈批評〉ということを考える。吉本さんも晩年に現在の作品の探偵推理が〈批評〉というのはおかしいのではないかと言っていた。坂口恭平の作品で、作者の意識的かつ無意識的な表現の底流に立ち合い、付き添うことが〈批評〉ではないかとわたしは言ってみたが、よくはわからない。
 
覚書2017.3.9
〈批評〉という言葉の視線を対象に向けるとき、その対象が遙か太古でもあるいは現在のこの列島の他者や他国の他者であっても、一様に困難さを抱え込むように感じる。同時代同地域でも他者を了解することは難しい。これは日常的な経験として誰もが経験することだろう。
 
覚書2017.3.9
いずれの対象に対しても〈批評〉という言葉の視線を対象に向けるとき、わたしは現在やわたしの局所系を無意識的に携えてその対象に対しているように思う。例えば、天皇制は明治に近代的な衣装で大規模に荘厳化されたが、天皇はそれ以前は武家が尊重したり、他方で
 
覚書2017.3.9
無意識的にも政治利用する、もっと小規模の名誉会長的なものだったのではないかという疑念がある。私たちはどうしても現在の有り様からの視線を過去に向けてしまいがちである。日向と言われる天皇の出自や権力掌握の様はよく知らないが、それに対応するものは社会に生きている。
 
覚書2017.3.9
今でも小社会に生き延びている、名誉会長的なものやそれに対する人々の遇仕方は、滅びつつある地域社会のつながりなどのアジア的なものよりもっと古いのかもしれない。そういう社会に相似な制度として太古から天皇制が乗っかってきたのかもしれない。
 
覚書2017.3.10
現在の象徴天皇制やそれに対応する小社会の名誉会長的なものの命運は、わたしたち生活者の生活意識の変容とともに減衰していくだろうと思う。しかし、無償性をまとった象徴天皇が類のないマレビトに見える内は生き延びていくのだろう。(おわり)
 
 
 
2017/03/13
相変わらず、「左派」や「右派」を自認する者がおり、「左派」とか「右派」とか言って揶揄している評論家からちょっとネコ被ったネトウヨまでいるけど、きみたちはどこに座って居るのかな?私にとっては「生活者(住民)」ということがすべて。
 
イデオロギー対立は不毛で血を招く。明治以前はイデオロギーではなく、武家などの支配層と大多数の「生活者(住民)」が居るだけ。いいかげん、「左派」や「右派」という死語はやめてもらいたいなと思う。それらは問題の本質の隠蔽や隠れ蓑にしかならない。
 
 
 
RT
伊勢崎賢治
野党が、自衛隊撤退を「遅きに失した」と?
ふざけちゃいけません。こういう野党が政権とったらまた同じことが起こります。:日本はずっと昔に自衛隊PKO派遣の「資格」を失っていた!
 
↓ もちろん、漱石に倣って「生活者本位」と言っても、このRT(PKO派遣問題)のように難しい問題があるのはわかっている。しかし、外交問題やそれらは第二義の問題だ。わたしたち生活者の第一義は、グローバル化で世界とつながっているとしても日々の生活に関わる地域的国内的なことである。
 
PKO派遣問題は過去の政権が、勝手にアメリカとかと関わりあるいは忖度して憲法九条との矛盾を拡げてきた。そして安倍政権の安保法制(戦争法案)がそれに拍車をかけている。ほんとは、これや近隣国との外交などは私たち生活者には知ったことじゃない、あるいは私たちの代表としてきちんとやれよという第二義の問題だ。
 
 
 
2017/03/14
オウム真理教は、選挙にも手を出したことがあるが、結局は非合法のしかもサリン散布という未だかつてない悪逆非道の方法でこの社会をひっくり返そうとした。しかも、その構想はアニメ的な社会観や政治観でしかなかったように思う。
 
何年か前NHKが入手ビデオを放送していた。麻原が周りの弟子達に先の戦争ではどの位の死者があったか尋ねていた。300万人かそこらと答えていて、麻原の口ぶりでは新しい世界を作るにはそれ位の犠牲はやむを得ないというような誘導の語りだったと記憶している。
 
日本会議等-現政権は、そんなオウムのような悪逆非道は持ち合わせていないとは思うが、この社会のあちこちにくさびを打ち、社会を自分らの復古思想で合法的に改造しよう、ひっくり返そうとしていることは確かだと思う。今回の森友学園の小学校建設構想もその小さなくさびの一つだったろう。
 
簡単に言えば政治は、私たちの毎日が平穏無事であるための代表としての仕事をしているはずなのに、おちおちのんびりもできない日々が続いていますね。あと変な事件が起こっているのは、生い立ちもありましょうが、この変な社会という社会病もそれを促進しているように思います。
 
 
 
2017/03/18
アフリカ的な段階では絶対権力を握っても大きな不始末したら「殺され王」という段階があったらしいけど、また人柱もあったようだが、人類は少しずつ新しい解決法を模索し改めてきた。現在のヨーロッパ出自の民主制、我が列島では依然として三権分立もあいまいなムラ政治+借り物民主制。
 
しかし、私たちの感性や意識も表層から中層まではずいぶん民主的な人権や平等の感覚が滲透している。「極右」の者さえ自分の人権を主張していた。ほんとは公人でもわたしは具体的な人物をあんまり批判したくないけど、余りに傍若無人、阿諛追従、嘘八百万、・・・エエカゲン。
 
冷静になってみると、落ちついてじっくり考えなくてはいけないような問題群が時々浮上してくる。わたしが(註.「」は後からの補足、「総理夫人・安倍昭恵」の)私人・公人問題にしつこくこだわったのは、この列島がそれらをあいまいにする風習や意識が依然としてあるからだ。これをもって「ムラ政治」と言う。西欧のようなギチギチもきついけど。微妙な塩梅
 
 
 
2017/03/19 (たぶん半世紀前の、大村崑のオロナミンCの看板広告などをRTして)
今から振り返ったら、なんとのんびりして見える看板広告の時代。ま、まだあるの?というように今ではうんざりするほどのテレビコマーシャルの数になっている。また消費資本主義に対応して広告産業花盛りで、もう少し静かにしてくれんかなと思うほど。
 
 
 
2017/03/19
ひとつ言えることは、アフリカ的な段階で宗教・政治の総責任者である王が大失政したら殺されるという「殺され王」というシステムがあったのは、大失政は今以上に普通の人々の死や病などの社会病に直結しているからだ。しかし、このつながりは現在でも変わらない。
 
政治が当番制になり、その行政担当のリコールもわたしたちが自由にできるようになれば話は別だが、現状の(私はいやだが)なぜか成りたがる政治家が局所利害に向けて政治を行う現状では、行政の総責任者はいろんな施策によってほんとは人を殺しているのではないかという自覚は必要だと思うのだが。
 
 
 
2017/03/19
日々、なんとか自足しているように見える猫や犬と違って、表現者のどんな言葉も生きるい意味への探索の旅荷を背負っている。気ままにダンスしたり、人や風物とにこやかに会話したりしてても、そこに終始しているように見えても、ひとそれぞれ固有の旅程を持っている。
 
 
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2017/03/20
私たちはふだんほとんど気にすることなくテレビをシームレスなものとして観ていると思う。しかし、当然ながらドキュメンタリーでさえ作者(たち)がおり、登場人物がいて、モチーフがあり、素材の取捨選択や切り貼りがある。つまり、生身とは違ったイメージの身体に包まれている。
 
 
 
2017/03/21
現在の知見では人類はアフリカ出自、世界の各地域に散らばっていてもおんなじ、人。初めは戸惑っても出会いくり返せば慣れていく。しかし、キライということもある。初めは具体的な誰それがキライ。そこから「ドイツ人」や「ドイツ国家」がキライというのは、大いなる飛躍
 
それは同じ国の中でもありうるから、例えば初めは具体的な誰それがキライ。そこからその人が住む東京の「東京都民」はキライとか「日本人」や「日本国家」がキライという大いなる飛躍は、普通は起こらないなあ。この飛躍はなぜか対「外」的なものとして政治がらみで現れやすい。
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