読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『日本軍のインテリジェンス』

2019年03月30日 | 評論

小谷賢『日本軍のインテリジェンス』(講談社選書メチエ、2003年)

加藤陽子が『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で紹介していたので、読んでみた。未曽有の戦死者・負傷者を出した太平洋戦争へいたる日本政府や日本軍の情報活動について詳述した本である。

生の情報であるインフォメーションを分析して、大局的であれ、直前的であれ、様々な局面において使用可能な状態にしたものがインテリジェンスであるという分類にもとづいて、暗号解読や現地の日本人(大使から派遣武官その他)の情報収集に優れていたにもかかわらず、日本政府や日本軍が進むべき道、取るべき方向を間違えたのはなぜか、という観点からいろんな事例が紹介されている。

独ソ戦勃発の情報の処理のあり方について触れたところで、課長級による部内の意見取りまとめ→参謀本部作戦部長→陸軍省軍務局長→陸軍省次官→参謀本部次長→陸軍大臣→参謀本部総長の決済を経て、陸軍の試案が作られる→さらに海軍をはじめとする他省庁との調整という煩瑣な過程を示し、こんなことではどんなに的確な情報も有効に利用することはできないと指摘する。

他方イギリスの場合は情報収集→JIC(情報集約・評価)→首相(政策決定)と、きわめてシンプルだと評価している。

なによりも根本のところで、日本軍は「作戦重視、情報軽視」であったと指摘されており、上記のように、生の情報を分析するための過程が重視されなかったので、生の情報がそのままトップに伝えれ、それが政策決定者の都合のいいように解釈されたことで、間違った判断を生み出す結果になったと批判している。

ここではいちいち具体例を挙げることはしないが、太平洋戦争にいたる政策決定や、戦争中の様々な決定にいたる情報の扱いを見ていると、こんな無能な連中のために、何百万もの日本人が無駄死にさせられたのかと、忸怩たる思いになる。

これは、70年近い昔の話であって、現在とは関係ないとは言い切れない。首相の発言に忖度するために、文書が書き換えられたり、統計数字が改ざんされたりする事態は、70年前となんら違うところはない。三本の矢だとか、有効なインフレーションを起こして雇用を増やすなどの首相発言を忖度した連中の間違った情報で、自分の政策が正しかったと成果を誇る安倍首相を見ていると、嘘八百の大本営発表とそっくりだなと思えてくる。


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「低すぎる最低賃金が人手不足の真の原因」

2019年03月29日 | 日々の雑感

「低すぎる最低賃金が人手不足の真の原因」

今日の電子の日経ニュースを見ていたら、表記のようなタイトルの記事があった。

こちら

現在の、そしてこれからも人材不足は深刻で、政府や経済連などは、それを安い人件費を見込める東南アジアからの移民によって解決しようとして、それ関連の法律が制定された。彼らは使い捨ての機械ではない。一人の人間だ。命もあれば家族もある。

「研修」とか称して劣悪な労働条件で働かせて、いらなくなったらお国にお帰りください、で済むような問題でない。彼らも日本人と同じ条件で働いてもらうのが筋だ。

移民問題は、その先進国である、欧米の例を見れば一目瞭然であるように、様々な問題を引き起こし、社会全体に大きな禍根を残すことになる。

就職できない日本人がたくさんいるのに、なぜ労働力がこれほどまで不足しているのか。

この記事によれば、賃金が安すぎるからだ。労働者の側が最低限度の生活ができる賃金は時給1500円だという。ところが現在の最低賃金は東京でさえも1000円に届かない。

法律によれば、最低賃金は「労働者の生活費」「類似の労働者の賃金」「通常の事業者の賃金支払能力」3つの要素を考慮して決めなければならないとあるが、実際には労働者の生活費はまったく考慮されていないという。

そんなことは私にでもわかる。現在の最低賃金でフルタイムに換算しても、生活保護費に足りないくらいの低さなのだ。こんな状況で、だれが真面目に働こうと考えるものか。それよりも生活保護費を受けたほうがいい生活ができる。

こんな、だれでもわかるようなことが、今更なが、何かすごい発見をしたみたいに言わなければならないほど、社会が腐っている。本当ならば、政府が主導して、最低賃金を上記のようなレベルまで上げなければならない。

しかし安倍首相は、そんなことには「イニシアティブ」を発揮しようとはしない。国民が反対する辺野古の埋め立てを強行し、国民の批判をよそに嘘を連発し、教育基本法の改悪によって滅私奉公の国民を作ることしか考えていないのだ。

オリンピックだ、万博だ、カジノだ、と浮かれ騒いでいるうちに、日本社会はボロボロになるだろう。


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米子東高校が甲子園出場

2019年03月25日 | 日々の雑感

米子東高校が甲子園出場


母校の米子東高校野球部が春の選抜野球で甲子園で初戦を戦った。相手は札幌大谷。

初回のトップバッターにいきなりホームラン(先制先頭打者ホームラン)を打たれた。普通なら茫然自失状態になって、大荒れになっても不思議でない。そこをなんとか踏ん張って、スピードはないけれど、大きな楕円を描くカーブと鋭い直球を組み合わせて4点に抑えた森下はしっかりした選手だと思う。

ただ応援している方としては、そのカーブもだんだんと札幌大谷の選手にクリーンヒットされるようになってきて、はらはらのし通しだった。しかも直球も上ずって、高いボールにカウントされる球が多くなって、こちらも心配の種だった。

札幌大谷の投手はポンポンとリズムよく速いテンポで投げてくるので、盛んに解説ゲストの人が言っていたが、それに乗せられてしまって、簡単に打ち取られてしまうことが多かった。やはり山陰勢が初回を突破するには、この貧打をなんとかしないね。二回戦・三回戦と進むのは難しいだろうな。

野球服の黄緑のネームや帽子の黄緑の校章がなんだか爽やかな印象を与えていた。2回表の後に校歌紹介で高校の校歌が流れたのは感慨深いものがあった。いろいろ運営側も改善しているよう。

ダイジェストはこちらで見ることができる。

しかし大会運営をしている高野連はグランドに女子部員が入るのを禁止している(怪我をしてはいけないからというもっともらしい理由で)らしい。こういうのを見ると、高野連というところはなんか時代遅れというか、いつの時代の話やねんというか、馬鹿らしくなるというか。実際には選手もマネージャーも一緒になって自分たちの野球を作り上げているのだから、こういう馬鹿な規制をする高野連を見ていると、ほんとくだらない団体だなと思う。


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『日本の朝鮮統治を検証する1910-1945』

2019年03月21日 | 評論

アキタ&パーマー『日本の朝鮮統治を検証する1910-1945』(草思社、2013年)

家の中では歩けるようになったが、また外歩きをするほどではなく、読書の時間が有り余るほどあるので、よく読める。

この本は、日本の朝鮮統治を民族史観的立場から史上最悪の「暗黒時代」とする主張に対して、自ら修正主義であると公言して、「日本の統治が様々な恩恵を朝鮮とその人民にもたらしたことを証する」ために書かれたものである。

このような立場においてこの本の著者たちが、可能な限り公平で科学的な立場を貫いていこうと努力していることは一読すればよく分かる。

まず第一章と第二章で日本の朝鮮統治政策に対する否定的見解を列挙して、それらがどのようなものなのかを示す。

第3章と第4章では朝鮮での徴兵制度や朝鮮統治の主役たちの同化政策のイデオロギーを精査している。また第5章では日本統治下の朝鮮の暮らしがどんなものであったかを現在はアメリカに在住している朝鮮系の人々からの聞き取りで示している。

そしてご丁寧にも欧米列強がアジアやアフリカでどのような植民地政策を行い、そこでの人民たちがどんな扱いを受けていたかを示して、それに比べたら、日本の統治は穏健であったことを示そうとしている。

挙げればきりがないのだが、それでもこの本に根本的に欠落しているのは、日本の朝鮮統治は侵略にほかならないという大前提である。日本の総督府が朝鮮でどんな近代的遺産を文化やインフラにおいて残そうとも、そしてそれが戦後の朝鮮の経済発展の重要な土台になったのだとしても、そもそも日本の朝鮮統治は、朝鮮から頼まれもしないのに武力をもって他人の国に押し入り、頼まれもしないのに国を支配するという、あってはならない行為であったことには変わりない。

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が冒頭から明らかにしているように、明治日本は一貫して朝鮮半島を「生命線」として捉えていた。だがそれは日本の都合だろう。朝鮮が日本の「生命線」だからといって、あるいは朝鮮が日本と同じように「近代化」の道に進もうとしないからといって、朝鮮を侵略していいということにはならない。

昨今では、こうした朝鮮統治時代の遺産が現代の朝鮮の発展の土台となったことをもってして、あれは決して侵略ではなかったなどという主張さえあるようだ。

朝鮮からはいかなる被害も受けていないのに、他人の家に勝手に上がり込んで、他人の家の中を無茶苦茶にした(きれいにリフォームした、というべき?)ことは、けっして拭い去ることはできない。

したがって民族史観的統治批判が事実に基づかない側面があると言って、客観的な事実にもとづく統治批判をせよと主張したところで、意味がない、というか朝鮮の人々の心に響くことはないだろう。


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『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

2019年03月18日 | 評論

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫、2016年)

先週の金曜日(15日)に孫たちが遊びに来て、こんどサッカークラブに入るという孫がサッカーをしようというので、じいちゃん・ばあちゃんと孫二人でやり始めたところ、普段使わない筋肉を使ったせいか、肉離れを起こしてしまった。痛いけど歩けるという軽症ではなくて、痛くて歩けない中程度の症状のようだ。肉離れにはRICEが大事という。安静、アイシング、圧迫、高くする。安静とアイシングなら自分でもできるので、それから家から出ずに、ずっと安静状態にしていた。本を読むことぐらいしかできない。

1894年日清戦争、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦、1931年満州事変、1941年太平洋戦争と、10年毎に対外戦争を行ってきた近代日本の軍事史を政治や世論の動向をからませながら解き明かした本である。もともとは栄光学園の高校生を相手に5日間で行われた講義をもとにしたものだという。したがって、語り口も柔らかで読みやすい。

「それでも日本人は戦争を選んだんだよ」というこの本のタイトルからこの本が出版された2009年くらいから読みたいと思っていた本であったが、それでも日本人は戦争を選んだというところにもう少し重点が置かれているのかと思ったが、そうでもなかった。上記の軍事史をきちんとした資料をもとに分りやすく解説するものというにすぎなかった。だからといって、つまらない本というわけではない。

この本を読んで私が思ったことは、軍隊を大きくしてはいけないということ。軍人には軍人の行動原理がある。それは決して国民の生命と財産を守ることを主眼としているわけではない。そういう人間や団体が国家の運命を動かすようなほどに巨大化したらどんなことがあっても戦争の道に突き進むほかない。シビリアンコントロールとか言うが、軍部が巨大化したら、そんなコントロールなど効かなくなる。それをこの軍事史は教えてくれる。


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私の30冊

2019年03月12日 | 日々の雑感
私の30冊

私なりに平成の30冊を選んでみた。といっても私は平成にこだわる気がないので、2006年にこのブログを始めてからの10数年のあいだに読んだ中での30冊である。数字は順位ではない。

1.川端裕人『川の名前』(早川書房、2004年)
一見するとどぶ川のような桜川での一夏の冒険を描いたのが、この小説である。小学5年生の菊野脩、ゴム丸こと亀丸拓哉、河童こと河邑浩童は夏休みの自由研究の課題に、たまたま見つけたペンギンのつがいと、彼らが育てている卵の観察にあてることになる。子どもたちと自然との関わり、テレビ局や水族館員といった大人たちとの関わりを通して、子どもたちの冒険話に彼らの人間としての成長物語までがセットされ、なかなか面白い作品になっている。


2.奥田英朗『サウスバウンド』(角川書店、2005年)
早く先を読みたいけれども、読み終わりたくない、いつまでも作品世界に浸って主人公と行動をともにしていたいというような小説だ。世の中に流されないで生きていく決心をした親子の生き様を描いた小説。東京での子どもの世界を描いた第一部と西表島に移住してからの沖縄の問題を描いた第二部の構成になっている。

3.横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(文春文庫、2006年)
1985年8月12日の起きたJALの御巣鷹山墜落、五百数十名の死者という未曾有の航空機事故を報道する「北関東新聞」の全権デスクに任命された悠木と周辺の記者たちの奮闘や軋轢の話である。


4.早川いくを『へんないきもの』(バジリコ、2004年)
早川いくを『またまたへんないきもの』(バジリコ、2005年)
抱腹絶倒まちがなしの面白い本。タイノエだの、ヨーロッパタヌキブンブクだのイレズミコンニャクアジだの、ツッコミどころ満載の生き物たちも面白いが、なによりも早川いくをの語りが最高に面白い。


5.奥田英朗『最悪』(講談社、1999年)
奥田英朗『邪魔』(講談社、2001年)
奥田英朗『無理』(文芸春秋、2009年)
まったく接点のなかった複数の人間たち(たいていは四人)の人生がなぜ絡み合って一つになり、最後には破綻してしまうという形式を取った、まさに奥田ワールドとでも呼べそうな作品群である。主題はどれも社会の底辺にあってジタバタしている人間たちの姿を描き出すことで、この社会の不条理を浮かび上がらせるというものになっている。現代日本のリアルを描き出していると言って過言ではないと思う。

6.重松清『いとしのヒナゴン』(文芸春秋、2004年)
小説によるエンターテイメントの金字塔と言ってもいいような素晴らしい出来の読み物になっている。広島県か岡山県あたりの山奥の町で起きたヒナゴン事件と過疎地の振興問題を主題にした小説である。登場人物が生き生きとしている。推理とかサスペンスとかでなくってもこんなにはらはらドキドキさせ、そして読者を感動に浸らせてくれるものが書けるのだということを教えてくれる。重松清の中でも最高の作品。


7.中沢新一『カイエ・ソヴァージュⅠ-V』(講談社選書メチエ、2002~4年)
これは中沢新一が中央大学の神話学とか宗教学の講義を本にしたもの。神話に残された古代の人間の精神的営みというか、人間と自然の関わりを読み解いていこうとするもので、知的興奮をそそられる優れた著作。
『カイエ・ソヴァージュV』
『カイエ・ソヴァージュIV』
『カイエ・ソヴァージュIII』
『カイエ・ソヴァージュII』
『カイエ・ソヴァージュI』


8.若桑みどり『象徴としての女性像 ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』(筑摩書房、2004年)
男女の性差は社会的に作り出されてきたものだというジェンダーの視点から、洞窟に残された狩猟の絵を始めとして、古代ギリシャ・ローマの壺絵、キリスト生誕を描く聖母マリアの絵などを解読していくのは、驚きの連続であった。


9.金谷武洋『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ、2002年)
金谷武洋『日本語文法の謎を解く』(ちくま新書383、2003年)
主語がいらないというのはある意味人の関心を引くためのキャッチフレーズのようなもので、そのじつは日本語の仕組みをまさに現実の日本語に即して説明した本である。「は」は主語を表すものではなくて、主題提示の手段だという。もちろんこの著者が発見したことではないにしても、現実にカナダで日本語を教えつつ、さまざまな研究をしてきた成果がここに凝縮されている。本当に目から鱗の一冊だ。

10.恩田陸『夜のピクニック』(新潮社、2004年)
この年の本屋大賞とやらに選ばれた作品なので、そんな作品を改めて私が...と思ったのだが、よい作品には違いないので、選んでみた。本当に現実を見ているようなリアル感、これはもう文章力が神の域に達しているとしか思えない。


11.佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』(新潮社、1997年)
たぶん恩田陸の「夜のピクニック」もそうだが、映画化された小説はたいてい映画が面白くないことが多い。この小説もきっとそうだろう。それは主人公の国文太一が悪いわけではなくて、脚本家がそして監督が、何を小説から読み取ったかによるし、絶対に映画というメディアでは描ききれない側面が小説にはあることがたぶん彼らにわかっていないからではないだろうか?すべての小説がそうではない。たとえば同じく恩田陸の「ドミノ」なんかは映画化しても小説と遜色ないというか小説以上のものができるだろう。語り手が語る主人公の内面の細やかな動きという小説に固有の手法が生かされた小説、これが「夜のピクニック」であり「しゃべれども しゃべれども」である。

12.松浦寿輝『半島』(文芸春秋、2004年)
純文学も捨てたものではないという思いをこめて、これを挙げた。いろいろな仕掛けがしてあるので、読んでいて楽しい。


13.松本修『全国アホ・バカ分布考』(太田出版、1993年)
人文科学の研究のあり様を教えてくれる一冊。これから研究者になろうとする人は、「人文科学の論文作法」だとか「人文科学の研究者になるためには」のような本を読むよりも、これを読むべし。

14.村上龍『半島を出よ』(幻冬舎、2005年)
一小説家というカテゴリーを越えて、政治・経済・金融などの分野にも関心をもってさまざまなリサーチを行い、コメントを発している村上龍がやっと時代と自分を一致させることができるような小説のテーマを得た。水を得た魚とでも言えばいいのか。やっと本領を発揮できる場を見つけたとでも言えばいいのか。とにかく世界に誇れる小説を書いたのだから、これを外国語に翻訳してほしい。

15.大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』(桜井書店、2011年)
流行り言葉に流されたようになって、私自身もマルクスなんて古いと思っていたけど、やはり偉大な思想家は古びることがないということを思い知らされた一冊である。今後も私の生きる指針となってくれそうな本として繰り返し読んでいくつもり。


16.小川洋子『ミーナの行進』(中央公論新社、2006年)
これほど読むことの幸福感を味わわせてくれる小説は他にはないだろう。この小説ではいろんな幸福感が味わえる。珍しいマッチ箱を集めているミーナがそのマッチ箱のイラストから思いついた物語を作る幸福感。本を読むという幸福感。図書館で本を借りてくるという幸福感。芦屋市立図書館のカウンターで係りをしている「トックリさん」に会えるという幸福感。この家にまつわる昔の話を聞くという幸福感。小説を読むということはこれに尽きるのだろうな。

17.川上未映子『わたくし率イン歯ー、または世界』(講談社、2007年)
「それにしてもブンガクというもんは尽きるところをしらんものやな」と思う。ここにまた新しい文学世界が生まれたと言ったら、大げさだろうか。いや、おおげさでもなんでもない。小説は一つには語り口にある。こんな語り口だれが想像できるだろう。いまでは結婚もして子どももいるこの作家には、処女作ともいえるこの小説を思い返して気恥ずかしいかもしれないが、幼少の頃からややこしい面倒くさい子であったのに、それが花開いてこんなブンガクを書かせるようになったと思うと、感慨もひとしお。

18.水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008年)
私が勝手に私淑している水林章さんに負けず劣らず、彼とはまったく別の手法によって、小説をその時代に置き戻して読み直し、あたらな価値を浮き彫りにする評論を書ける稀有な小説家として、私はこの人に注目しているが、それとはまた別に文化論においても優れた視点をもっていることを示してくれたのがこの評論だ。なぜ日本語が日本語となりえたのか、まさかそこに文芸の共和国の話がでてくるとは思わなかったので、びっくり。ここでもまた水村早苗と水林章はつながっていたのだ。

19.内田樹『日本辺境論』(新潮新書、2009年)
一億以上の人口を持ち、その消費需要だけでどんな商売でも成り立っていけるのに、なぜ国家を上げてグローバル化を進めようとするのかと疑問を呈した問題作。こんな視点でものを言う人は初めて。


20.上杉隆『新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか』(PHP新書、2012年)
ジャーナリズムの精神の退廃ということが、ジャーナリストのサラリーマン化として語られることはあったと思うし、こうした側面も現実にあると思う。現に、日本記者クラブとかいうところは、菅官房長官が特定の記者を排除するような発言をしても抗議もしないところらしい。鋭い質問をしつこくするからといって記者会見から出禁にしようとした大統領広報官を全員で非難したアメリカのジャーナリストたちとは大違い。この本は個々のジャーナリストの問題ではなくて、大新聞会社・テレビ会社の体質の問題を取り上げて、会社全体がジャーナリズム精神を失っているという構造的な退廃を指摘している。貴重な本だと思う。

21.平山洋『福沢諭吉の真実』(文春文庫、2004年)
思想家の本当の姿が弟子によってこれほど歪められているとは信じられない、というのが率直な感想だが、だからこそこの著者の研究が意義をもつのだ。世間の常識を疑って、「ホンマでっか」と言われるような研究を、私もしてみたい。

22.松本薫『TATARA』(今井出版、2010年)
私の出身地を舞台にして、いまは廃れてしまた「たたら」の事業の盛衰に女性の自立をからめて描き出した小説であるうえに、地元の贔屓目なしでも、イチオシの上等な出来になっているのだから、ここに挙げないわけにはいかない。あまりに地元地元していて、舞台が、寂れた町から動かないので、ドラマにしにくいかもしれないが、NHKの朝ドラあたりに採用してもらいたい。

23.井上ひさし『一週間』(新潮社、2010年)
井上ひさしがなくなったのは2010年だったのか。この人の脚本を書くときの遅筆は有名だが、小説なんかでもそうだったんだろうか。何十年という主人公の生き様を、一週間の出来事のなかに凝縮してしまう、小説ならではの技法もさることながら、目の前に現実を見ているような文章には敬服する。しかも面白おかしく、ハラハラ・ドキドキも感じさせてくれる。

24.和田竜『村上海賊の娘』(新潮社、2013年)
若手で突然登場してきた時代小説書きのスターといっていい。『天地明察』の冲方丁と混同してしまいそうだが(私だけ?)、大阪弁をここまで使いこなせるのは、大阪に住んでいたということだけでなく、言語中枢がものすごく発達しているのだろう。同じ時代をまったく違う角度から切り取って見せてくれるのは素晴らしい。

25.白井聡『永続敗戦論』(太田出版、2013年)
戦後日本の根本的な異常さ―アメリカの従属国―をえぐりだし、読者に突きつけてくる衝撃の本。この現実を直視して、真の独立国となることから再出発しなければ、日本の将来はない。

26.立花隆『武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋、2016)
武満徹の音楽がどうやって創造されてきたのか、出生から戦争経験、音楽教育も受けずに始めた作曲、肺結核で生死の境をさまよったこと、そして研ぎ澄まされた音への感覚など、実際に武満徹の音楽が好きでたくさん聴いてきたという立花隆によるこの評伝は、音楽の素人にも分かるように噛み砕いて説明している武満徹の声をできるだけ多く引用し、また素人である立花隆自身が理解している言葉で語ることによって、じつに読みやすいものになっている。

27.小林惠子 日本古代史シリーズ(現代思潮新社)
大学などの研究機関に所属しないで古代史を研究発表してきた人で、独自の見解を展開している人だが、それだけに実に斬新な内容が書かれている。古代史を倭国だけではなくて、半島や中国、はてはペルシアまで視野に入れて、文献を渉猟して、東アジアの動きに連動させて歴史を見ていく姿勢は、従来の古代史研究に欠けていたものだろう。興味深い内容が満載。
『「壬申の乱」―隠された高市皇子の出自』(現代思潮新社、2012年)
『史上から消された聖徳太子・山背王朝』(現代思潮新社、2012年)
『聖徳太子の正体』(現代思潮新社、2012年)
『継体朝とサーサーン朝ペルシア』(現代思潮新社、2012年)
『広開土王と「倭の五王」』(文藝春秋、1996年)
『海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝』(現代思潮新社、2011年)
『江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武』(現代思潮新社、2011年)



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「平成の30冊」

2019年03月10日 | 評論
朝日新聞「平成の30冊」(3月7日号)

朝日新聞の3月7日号に「平成の30冊」というのが載っていた。

ベストテンの中では、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』、桐野夏生『OUT』、小川洋子『博士の愛した数式』、小熊英二『<民主>と<愛国>』、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいる。

さらに11位から30位までの20冊の中にも読んだものとして、山本義隆『磁力と重力の発見』、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』、高村薫『マークスの山』が入っている。

識者120人が5冊を選び、1位は5点で、5位が1点という点数化によって集計したとある。誰が何を選んだのかも知りたいが、それは書かれていないようだ。

例えば桐野夏生の『OUT』を私はものすごく高く評価しているのだが、どんな人がこの小説を評価しているのだろうか。私は描かれた女主人公の骨太さに感心したのだが、ノンフィクション作家という人が「繊細にして凶暴、複雑で魅力的な人格を入れ込み、読者を驚嘆させた」と書いているのを見ると、私と同じような感想を持ったのだなということが分かる。

これを目安に今後の読書案内としていこうと思う。

以下に私の感想にリンクしておく。

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』

桐野夏生『OUT』

小川洋子『博士の愛した数式』

小熊英二『<民主>と<愛国>』

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』

山本義隆『磁力と重力の発見』

高村薫『マークスの山』→これは『レディー・ジョーカ』についての感想。『マークスの山』も書いているとおもったが、勘違いだった。でも高村薫について書いているのはこれしかないので、こちらにリンクを貼っておく



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『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』

2019年03月07日 | 作家ア行
大橋巨泉『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』(講談社、2004年)

1934年生まれの大橋巨泉がまさに70才の節目に書いた自伝。

私にとっては大橋巨泉といえば兎にも角にも「ゲバゲバ90分」というとてつもなく面白いテレビ番組の登場人物の一人というイメージしかない。この本のタイトルもこの番組のタイトルをもじったものになっているほど、一般人にはこの番組は衝撃的だった。

もっと一般には「クイズダービー」の司会者というほうがよく知られているのかもしれないが、その頃は学生だったので、テレビは持っていなかったから、あまり見たことがない。たまに銭湯で見るくらいだった。だから、司会者がどうのこうのというよりも、回答者のはらたいらとか篠沢教授や竹下景子などのほうが印象に残っている。

しかしこの自伝を読んでみると、大橋巨泉というのは、本当に人の数倍も濃い人生を歩んできたのだということが分かる。

その趣味たるやすごい。俳句、ジャズ、英会話、将棋、麻雀、ゴルフ、フィッシング、ボーリング、競馬など。しかも一つのことに熱中するタイプで、そのどれもがプロ顔負けの腕前ということだからすごい。

ボーリングにのめり込んだ話しの端緒のところでも書かれていたが、どうして・・・になるのか?彼はどうして上手いのか?などの疑問がわいて、それを解明しようとして、研究したり、試行錯誤をしたりすることで上達するタイプのようだ。たしかに天才的なものをもっているわけではなくて、一つのことに火がつくと熱中するタイプというのが功を奏したのだろう。

私の知り合いにも、真空管アンプ制作、合奏団での指揮、天体写真、陶芸など多趣味で、どれもプロ顔負けという人がいるが、私もほぼ同じような趣味を持っていたが、どれも中途半端でやめてしまったのとは大違い。こういう人たちのことを見ると自分が嫌になるから、あまり付き合わないようにしているのだが・・・。

もう還暦を過ぎてしまってから、濃い人生をなんて思っても仕方がないことなので、生きた証となるものを一つでも残したいものだ。

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石山寺で観梅

2019年03月05日 | 日々の雑感
石山寺で観梅



前日に大津のびわ湖ホールでワグナーを見て、大津に一泊した。一昨年は浜大津の古いホテル、昨年は大津駅前のビジネス・ホテルに泊まったが、どちらもイマイチだったので、今年は奮発してこのあたりでも上等のホテルに泊まった。

部屋は広々、バスルームとユニットバスのあいだの仕切りはガラス張りという豪華さ。そして何よりもベランダ側からは琵琶湖が一望できる。残念ながら、晩も朝も天気が悪くて、夕日や朝日を拝むことはできなかったが、眺めは素晴らしい。

ホテルってなぜか知らないが空気が乾燥している。部屋の中は温かいのでエアコンは消して寝たのだが、夜中に喉がイガイガして目が覚めた。空気が乾燥しているのだと思い、加湿器を作動させると、だんだんと治ってきた。

朝はホテルのレストランで朝食をとり、天気が悪いので、グズグズして10時前にチェックアウト。京阪電車に乗って、終点の石山寺へ。駅から20分くらい歩いて石山寺に到着。



石山寺ってなんで有名だったのかなと思っていたが、説明書きを読むと、紫式部がここで『源氏物語』を着想したのだそうだ。

今日の目当ては梅なので、600円の入園料を払って、境内に入る。第一梅園から第三まであるのだが、第三はずいぶんと山の上のほうにあるので、第二と第一を見る。



ところが五分咲きというところか、人がほとんどいないのはよかったが、梅も見るところがもう一つという状態で、消化不良の気持ちで、下山する。

昼食は境内のすぐ前のレストランと思っていたのだが、まだ時間が早くて開いていないし、こちらもあまりお腹が空いていないので、JR石山駅まで出て、そこで食事をして帰った。昨日の疲れが残っていたせいか、なんか疲れた。

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『ジークフリート』

2019年03月04日 | 舞台芸術
ワグナー『ジークフリート』(「ニーベルングの指輪」第2日、びわ湖ホール)

びわ湖ホールにワグナーの「ニーベルングの指輪」第2日『ジークフリート』を見に行った。今年で3年目になる。演出はミヒャエル・ハンペ、美術・衣装はヘニング・フォン・ギールケ、指揮は沼尻竜典のシリーズである。

神々の長ヴォータンの計略で英雄ジークムントは指輪奪還を計るが、非業の死を迎えた。戦乙女ワルキューレの一人ブリュンヒルデが、ジークムントの形見を宿していた妻ジークリンデを助けて、森の奥深くへ逃れさせた。彼女は森の中で瀕死の状態でいるところを、鍛冶屋の小人ミーメ(アルベリヒの弟)に助けられる。ジークリンデは男子を生んで息を引き取った。

ミーメがその赤子ジークフリートを立派な若者に育てた。ここからが今回の『ジークフリート』の内容になる。ジークフリートは父親の形見である宝剣を自ら鋳溶かして鍛え直す。それをもって、黄金の指輪と隠れ頭巾を守っている大蛇ファフナーのもとに行き、大蛇の胸に宝剣を突き刺して殺し、指輪と隠れ頭巾を取り上げる。そこに住む小鳥の教えと道案内によって、燃える岩山の頂上に眠るブリュンヒルデを眠りから目覚めさせ、妻とする。

ジークフリートは一癖も二癖もあるというような人物ではなく、まさにこの作品の大前提である「怖れを知らない」若者であり、英雄である。そんな人物が面白かろうはずがなく、最初から最後まで出ずっぱりでたいへんな役ではあるが、面白みのない登場人物である。

他方、鍛冶屋の小人ミーメと大蛇を見張っているアルベリヒはどちらもなんとかして指輪を奪回して、世界制覇を目指している、見るからに強悪そうな人物であり、時にはへつらい、時には威張り散らすという、人間の本性を体現したような役どころである。それをミーメ役の高橋淳とアルベリヒ役の大山大輔がじつに見事に演じていた。とくにアルベリヒ役の大山大輔は、序夜『ラインの黄金』でせっかくライン川から黄金を奪って魔の指輪を作ったのに、ヴォータンに奪われてしまった悔しさもあり、二度とヴォータンにはだまされないぞという悔しさ、憎しみ、いろんな情念が混ざりあった人物を素晴らしく演じていた。

幕の間に30分の休憩があって、終演まで5時間10分という長丁場が今年は体にこたえて、とにかく疲れた。とくに第三幕でジークフリートがブリュンヒルデを眠りから目覚めさせて以降のやりとりが退屈で退屈で仕方ない。延々と30分も何をやっているのかねー、早く終わらないかなと思いながら見ていた。最後には見ているのがしんどくなってきたほど。すっ飛ばしてほしい。

終演後、カミさんと二人疲れ果てて、近くのロイホに夕食にでかけた。来年は最後の『神々の黄昏』なんだが、どうしようかな~。ここまできたら最後まで見ないと悔しいしなー。

昨年の『ワルキューレ』の感想は、こちら

一昨年の『ラインの黄金』の感想は、こちら



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