読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『人口減少の社会の未来学』

2019年01月16日 | 評論
内田樹編『人口減少の社会の未来学』(文藝春秋、2018年)

編集者の良し悪しが本の出来具合を左右するという好例のような本であった。

内田樹の序論は本人も書いているとおり、出版社からこの本の企画を提案されて書いたもので、それがそのまま今回の本の執筆者に送られたという。もちろん内田樹は編集者ではないが、そのような役割を担っている。

誰に依頼するのか、どの程度まで執筆者の執筆内容を方向づけるかということは、それぞれの執筆者が書いてきた文章のレベル以前の問題で、編集者なら必ず検討して実行しなければならないものだろう。

だがこの本の好き勝手さには呆れる。池田清彦の「ホモ・サピエンス史から考える…」から隈研吾の「武士よさらば」まで、とても「人口減少の社会の未来学」というタイトルの下に置けるようなものとは思えない。

それぞれの執筆者がこれだけ好き勝手なことを書いているということは編集者が何も手を打たなかったからだろう。内田樹の文章は素晴らしい(彼の序論はいつもの内田風論理が全開)けど、彼には編集者としての資質はないようだ。あるいは編集者として何もしなかったか(たぶん何もしなかったのだろう)。

内田樹は、古武道家の甲野善紀との対談もそうだったが(こちらを参照)、他人と組んで作った本はまったく面白くない。一人で好き勝手なことを書いたものが一番興味深い。

この本で私が興味深く読んだのは、日本社会は「根拠のない楽観」だけにすがりついて、冷静にあらゆる可能性を考え、それぞれの可能性における対策を検討するというクールな態度ができない日本人を嘆いている内田樹の「序論」が一つ。

第二に、イギリスの現状を報告し、緊縮策の危険性(というか実効性の薄弱さ)を訴え、1930年代のアメリカの「ニューディール政策」が現代にも必要だとするブレイディみかこの「縮小社会は楽しくなんかない」。

第三に「若い女性に好まれない自治体は滅びる」で岡山県奈義町の子育て支援を例に挙げて、社会全体が子育て支援をするような仕組みと認知を作っていくこと、底辺層を社会に取り込んでいく様々な運動の大切さ―それが結局は社会の活気と活力を取り戻すことに繋がると主張する平田オリザ。

藻谷浩介の「日本の人口減少の実相と…」は、『里山資本主義』を読んでその斬新な切り口に関心したことがあったので、一番期待していたのだが、統計が表す事実から日本人の誤解を切り捨てようとする姿勢はいいものの、やたらと数字が多くて、辟易した。数字が事実に基づいているのなら、もっと特徴的な(例えば東京都と北海道と沖縄)くらいを比較するような手法でもよかったのではないかと思う。

しかし全体としては、「人口減少の社会の未来学」というタイトルにひかれて読んでみた人をがっかりさせる内容であることには変わりない。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『大阪弁ブンガク論』

2019年01月09日 | 評論
江弘毅『大阪弁ブンガク論』(ミシマ社、2018年)

こんなものがあるというのをどこで知ったのだっけ。たぶん新聞の書評欄だと思うのだけど、思い出せない。いずれにしても、ずいぶん待たされて、やっと私の手元に届いた。

大阪弁で書かれた小説についての批評であるが、それ以上に大阪文化論のようなものでもある。

大阪に住んで40年を超えるというのに、いまだに碌な大阪弁を喋れない私には、大阪弁を論じること自体が、なんか嫌なことであるのだが、私が論じるわけではないので、スラスラと読んだが、あちこちで気持ちが突っかかるのが感じられる。まぁそれをいちいち挙げてみてもつまらないので、簡単な感想だけ書いてみる。

この本で取り上げられている大阪弁ブンガクの一つが谷崎潤一郎の『細雪』だ。谷崎潤一郎はたしか芦屋あたりに住んでいたと思う。しかしウィキペディアで調べたら、案の定、生まれは東京で、関東大震災後に関西に転居して、居着いた人だ。だから生粋の関西弁は難しいだろうなと思う。しかし谷崎潤一郎の偉いところは、それを自覚して、関西の商人たちを描いた『細雪』をはじめとする小説では高木治江さんという女性に監修をやってもらったというからすごい。

私は山陰の田舎で生まれて高校までそこで過ごした。中学までは山間部で過ごし、高校から都市部に出て暮らした。だから、同じ山陰、同じ鳥取県西部と言っても、山間部と都市部で微妙に方言が違うのを感じた。

私が大学に入って大阪に出て来るときに、大阪弁を勉強しようと思って、谷崎潤一郎の『細雪』を読んだと書いたら、笑われるだろう。いったいいつの時代の大阪弁やねん、それに世界がぜんぜん違うやん、と。

だから、きっと大学に入って、クラスの連中と喋りだした頃は、へんな言葉使う奴やなと思われていただろう。

さて、この本で扱われている小説でもうひとつ私が読んだものは和田竜の『村上海賊の娘』である。これはこのブログでも書いた。私はそこで泉州の海賊たちとその泉州弁が異彩を放っていると驚嘆している。そして

「私は泉州に住んでいるけど、生まれも育ちも泉州ではないから、彼らの泉州弁には惚れ惚れする。それにしてもこの作者は生まれも育ちも泉州とは関係ないようなんだが、いったどこでこれほどの泉州弁を身につけたんだろう。」

と書いているが、これまたウィキペディアを調べると、和田竜は生まれこそ大阪だが、生後3ヶ月で広島に引っ越したとあり、泉州とは関係ないのだが、やはりこの本によれば、林英世という人に監修をしてもらったものだというから、なるほどとうなずく。

その他、山崎豊子の船場ものがブルディユーだとか内田樹なんかを引き合いに出して論じてあったりするのも興味深く読めた。

ここでは取り上げられていないけど、田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』も大阪弁が主人公の造形に大きな意味を持っている作品だと思う。こちら

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする