読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「うつへの復讐」

2007年06月27日 | 日々の雑感
ドキュメンタリードラマ「うつへの復讐」

俳優の高島忠夫がうつ病になりそれとの闘いの様子をドラマにしたものを昨日見た。じつは私も身近にうつ病になって長年闘い社会復帰した人を知っているので、ひとごとのようには思えなかった。

Kさんとは、子どもが通っていた保育園の父母会とか、小学校に上がってからは学童保育の父母会で一緒に役員をしたりした関係で親しくなった人で、家は近所だったが、車で通勤していたので、私は普段はあまり会うことはなかった。

Kさんに異変が起きたのを知ったのは、忘れもしない12年前の秋のことだった。平日に休みだった私は近くのスーパーに買い物に行った帰りに、向こうから歩いてくるKさんにばったり出会った。昼間に家の近くで会うのも珍しいので、どうしたん?と聞くと、仕事を辞めたとのこと。外見はいつものにこにこしたKさんで、特別変わったところはない。まぁ家に来てコーヒーでも飲みますか?と誘うと、そうだねといって家に来た。コーヒーを飲みながら、彼が話すには、どうも職場の同僚との共同の仕事がストレスになって、これ以上仕事が続けられないと判断して辞めたとのこと。だいたい誰に対しても愛想のいいKさんに、そんな人間関係で仕事を辞めるなんてと、そのときの私は思ったが口にはださなかった。よっぽどのことなんだなと思ったからだ。そのときは、世間話などして分かれた。

そして転機はその半年後に起きた。私がいつものように出勤のために駅に向かっていると、向こうからKさんらしき人が来る。しかしどう見てもいつものにこやかなKさんではない。スーパーのビニール袋をぶらさげて、背中を丸めて、俯きかげんに歩く姿は、普通じゃないなと一瞬にして分かるほどだった。しかし「おはようございます」というとちょっと顔をゆがめてあいさつを返してくる。ちょうどKさんの長男がこのあたりでは有名な私立高校に合格したということを聞いていたので、「A君、受かってよかったですね」と言うと、「なにがいいんだか」と思いもよらない返事。しかもこちらも見ずに、投げ捨てるようにつぶやいた言葉に、私は思わずひるんだ。「じゃまた」と言って、私は駅のほうに向かった。

ちょうどその頃人からKさんがうつ病だという話を聞いて、なるほどと合点がいったのだが、それ以降Kさんの病状は急激に進み、たまにすれ違うので、声を掛けても、もう返事は返ってこなかった。

Kさんは現在は社会復帰を果たして新しい職場を見つけて働いているが、そうなるまでに10年くらいかかっている。一口に10年というが、それは長い。とくに本人も苦しければ、家族も苦しいなかで、本当に治るのだろうかという確信が持てないで10年も暮らすのは大変な苦痛だろう。たぶん子どもたちはすでに高校から大学そして就職をした時期だから、それほど苦にしないでいたのかもしれないが、本人以外には奥さんが一番大変だったのだろう。もともと共働きだったから、食事をKさんがつくったりして待っていたのかもしれない。そうした新しい夫婦の関係もいいじゃないかと思えるようになれば、ずっと楽かもしれないと思ったりするが、どうなんだろうか。

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「<フィガロの結婚>読解」

2007年06月26日 | 人文科学系
水林章『モーツァルト《フィガロの結婚》読解、暗闇のなかの共和国』(みすず書房、2007年)

私が勝手に私淑していて、出費節約のためにほとんど本を買わないのに、その著書だけは自分のお金で買って手元にもっておきたいと思っているので、ほとんどすべてを買い揃え、座右の書としているフランス文学の研究者である。その最新作で、6月1日発行となっているから出版ほやほやである。著者の専門分野は18世紀の文学や思想ということだが、それを土台としつつも、その時代の象徴的な思潮であった啓蒙の現代的意義という観点からもっとも典型的な人物と作品としてモーツァルトの《フィガロの結婚》が選ばれ、詳細に論じられている。

文学のテクストをその時代におきなおして読み解くという、口先だけならじつに簡単そうに思えるが、外国の300年も昔のコンテクストを自らの血肉とするところまで身につけるということをした上で、なおかつことばに対する人並みはずれたセンスをも必要とされるこの分野の研究において、日本でも第一人者といえるだろう。

『「ドン・ジュアン」の埋葬―モリエール「ドン・ジュアン」における歴史と社会」において、モリエールの作り出したドン・ジュアンという人物が貨幣の完璧な平等主義的特長をまとっていることを鮮やかに浮き彫りにしてみせた。また『公衆の誕生、文学の出現』ではルネッサンス以降知識人たちのあいだに形成されてきた「文芸の共和国」をその限界まで推し進めることで、その限界と新しい「共和国」の出現の未来を「闘う」ヴォルテールの姿を追うことによって垣間見せてくれた。また『カンディード<戦争>を前にした青年』では、ごく短い「カンディード」というヴォルテールの作品の詳細な読解によって、テキスト分析とはかくあらんというような見本を見せてくれた。いずれも、それ一冊で、後世に名を残すにあたいするような著作である。

ここでは、フィガロやスザンナという、その時代の底辺の人間たちを伯爵や伯爵夫人と対等の自立した人間として描くことで、「フィガロの結婚」が革命的ともいえるような革新性をもっていたことを、ダ・ポンテのテキストはもちろんのこと、場合によってはモーツァルトの作り出した音楽そのものによって導き出している。もちろん音楽の専門家ではないとことわりつつも、「フィガロの結婚」を高校生の頃から愛し、さまざまな演奏を見聞きしてきた著者ならではの、斬新で細かな分析を読むことができる。

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「ある島の可能性」

2007年06月24日 | 現代フランス小説
ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』(中村佳子訳、角川書店、2007年)

ミシェル・ウエルベックの最新作「ある島の可能性」は難しかった。彼の過去作品と同様にフランス語で読み始めたのだけど、難しくて、途中で断念し、翻訳が出ていることが分かったので、こちらに切り替えた。翻訳でも難しかった。

そもそもタイトルからして意味不明だ。「ある島」と訳されたのはune ileで英語のaのような不定冠詞がついているから特定のものをさしているわけではないので、「ある島」なのだろう。だが「可能性」ってどういう意味だろう?まったくわけが分からない。

おまけにこの作品は、50歳台の人間を絶望のふちに追いやる。ウエルベック自身がその年齢にたっしており、自分の体験にもとづいて書いているのかもしれないが、セックスの快楽を得られなくなった人間はもう生きている理由がないというような、絶望的な真実を突きつけられると、同世代の人間としては、もう返す言葉がない。

たしかにこの小説には絶望的な真実があちこちにちりばめられている。身体の性的能力は完全に急降下をしていて、意識もそのことを理解しているのに、欲望だけがいつまでも若い頃の欲望を持ち続けてしまうとどこかで書いていたが、その通りだ。そうして身体的な欲望を社会的ヒエラルキーにおける上昇の欲望に置き換えられる人、何か趣味とかへの欲望に置き換えられる人は、幸せなのだろう。だがそうした性的欲望以外のものにすんなり転換できる人は少ないだろうし、そもそもそんなに簡単に転換できるということは、性的欲望もたいしたことなかった人なのではないか。ウエルベックの突っ込みはきつい。

のっけから、ダニエル1とダニエル24というのがいったい何を意味しているのかよく分からなくてこの作品をとっつきにくいものにしてる。ダニエル1というのはこの小説の主人公、私たちと同時代に生きているコメディアンのダニエルのことだ。彼の死後に<エロヒム教>の<学者>によって開発されたクローニングの技術によって、胚分裂をへずに、つまり赤ちゃんから幼児期という発達を経ずに、成人を作り出す技術が開発されたということらしい。その結果、ダニエル1が死んだ後に、彼の全身にわたる生体情報を元に作られたクローン人間――ネオヒューマンと呼ばれている――の24世代目がダニエル24であり、25世代目がダニエル25というわけだ。そのあいだにはたぶん数百年の時間的経過があるように書かれている。

ダニエル1の話は、彼が書いた自伝のようなものであり、それをダニエル24が読んでいくという形式をとっているのだということが分かってきたのは作品の中ごろにいたってのこと。

ウエルベックには一貫して子ども期への嫌悪があり、子ども期を経ないで人間になることへの願望がある。両親から育児を放棄され祖父母の元に預けられて育てられたという彼自身の体験がそうしたものを作り出した原因になっているのかどうか知らないが、「素粒子」でもミシェルが研究していたのはセックスを経ずに人間を作り出すシステムだったはずだ。セックスを経ずして、つまり卵子と精子の結合から細胞分裂を経て誕生するというのではなく、あらかじめ人間という身体を作り出すシステムということだ。

情報テクノロジーの発達が身体だけでなく意識レベルでのクローニングを可能にすると思わせるほどのレベルまで達していたことがウエルベックのこの作品の発想になったのに違いない。

だがそうした表面的なところを取り去ってしまって見えてくるのは、寒々とした人間の行く末でしかない。人間を性的なものだけから成り立っているとみなす性唯説とでも名づけたくなるようなウエルベックの人間観は、ある種の視点からは人間の本質をついているように見えるが、あまりにも悲しい。でもそれが現実だと言わせる切実さももっている。

いずれにしてもウエルベックは人間の未来を描いてしまうことで、自らの「可能性」を閉じてしまったような気がする。こんなものを書いた後で次にいったいどんな作品が書けるのだろうか?

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「ゾディアック」

2007年06月20日 | 映画
『ゾディアック』(2006年、アメリカ映画)

昨日、「ゾディアック」を見に行った。Yahooによると「1969年、自らを“ゾディアック”と名乗る男による殺人が頻発し、ゾディアックは事件の詳細を書いた手紙を新聞社に送りつけてくる。手紙を受け取ったサンフランシスコ・クロニクル紙の記者ポール(ロバート・ダウニーJr)、同僚の風刺漫画家ロバート(ジェイク・ギレンホール)は事件に並々ならぬ関心を寄せるが……。」という解説。

はっきり言って、なんのためにとった映画なのかよく分からないし、事実を丹念に追っているのは分かるのだが、事実を丹念に追えばいいというもんではないということぐらい、ハリウッドの映画監督や脚本家だったら分かっているだろうに。あまりに事実を詳細に追っているので、私にはわけが分からない所だらけで、面白くもなんともなかった。たしかに上の解説にあるように、記者のポールとイラストレータのロバートがこの事件にのめりこみすぎて、人生を棒にふったというようなことは分かるが、それもロバートのほうだけで、ポールは映画を見ている限りではそうは見えなかった。

刑事のホースキーのほうは確かに無念だったろう。犯人と思われるリーに面会までして、彼がzodiacという時計をもっていることやそのほかの状況証拠までそろえても、結局は起訴できるだけの証拠(あの当時で言えば、筆跡鑑定とか指紋)がなかったのだから。

まだあの当時はプロファイリングというような手法もなかったのだろう。今なら、「ボーンコレクター」とか「「スパイダー」みたいに、専門家が登場してはらはらどきどきのサスペンス仕立てになっていたのだろうけど、なんのために作ったのかわからない映画になっている。アメリカ人には強烈な映画なのだろうか?

あまり宣伝もしていないし、パッとした内容でもないし、がらがらだろうと思っていたら、なんとけっこうな入りだった。チケット売り場に行列が。しかも私の後ろに並んでいたおばさんたちが、「あ、これこれ、ゾディアックっていうのよね」とか言っているので、「うそだろう」と思いながら、映画館に入ったら、3分の2は埋まっている。しかもおばさんだらけ。いったい何がおばさんたちを駆り立てたのか?なんか格安チケットでももらったのだろうか?こっちのほうが映画よりも不可解だった。

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「イレギュラー」

2007年06月18日 | 作家マ行
三羽省吾『イレギュラー』(角川書店、2006年)

高校野球と洪水災害の被災者問題を結びつけたお話で、あっという間に読んでしまった。読みやすい文体であることもさることながら、その作りのうまさにひきづられて、夢中になって読んだ。あまりに夢中になったので、通勤のときに天下茶屋駅で降りなければならないところを、危うく乗り過ごすところだった。あぶないあぶない。

才能のある人間(べつに才能のない人間でもいいのだが)をやる気にさせるコツというのは、部下をいかにやる気にさせるか式の、よく書評などで見かけるような一般受けする主題とはまた違うのだろう。その当人がこの小説のように洪水災害にあって他所の自治体の仮設住宅に長期にすまなければならず、多くの人々の義捐金にたよって生活しているとか、ほかの高校のグラウンドを借りなければ練習ができないというような状況に置かれて鬱屈した精神状態にある場合には、なおさらだろう。

この物語が題材にしている高校野球の中身については、そんなことはありえないだろうチッチキチーみたいな話なのか、野球のことをよく知っている人の書いた話なのかというところは私にはよく分からない。本当にカットボールだとか、千工のリカルド投手の消える魔球的なボールもありうるのかどうか私にはよく分からないが、面白く読めたからいいかという感想である。

この小説の場合、登場人物の人間的なすばらしさとかはあまり感じない。なにか自分の生き方を見つめなおすようなフィードバックもない。でも、降りる駅を忘れるほど夢中にさせてくれたということは、なにかしら光るところがあったっからだろうと思うけど、自分にはそれがなにかよく分かっていない。

私は高校時代ボートをやっていて、もちろん隠れた才能がある的なものではなかったが、勉強のほうはさっぱりでクラスでも落ちこぼれで暗かったので、ボート部にいて、もちろんすごく勉強のできる奴もいたけれども、ほとんどそういうことを問題にしなかったクラブの仲間の存在が、それとバランスをとるのにすごく意味のあるものだったのだろう。でも、そういうことは現役の頃には気づかなかった。

私の学年は部員が非常に多くて、一つ上の学年はやっと一クルーが組めるくらいの人数しかいなかったのに、私たちはAクルーとBクルーが作れたうえに、シングルスカルをやるものもいた。私はあまり勝負にこだわるたちではないので、べつBクルーでも楽しかったが、なかには熱くなるタイプのものもいて、それはそれで面白かった。けっして腹を割ったような会話をしたわけではないけどれも、艇庫で酒を飲んだり、夏休みに京都旅行をしたり、バンカラごっこをしたりと、けっこう練習以外でも一緒に遊んだりしていた。私はつねに人間関係で振幅がある人間なので、そういう振幅に関係なくまわりに私とかかわってくれる人間がいたということは、じつは得がたいものだったのかもしれない。ボート部に入っていなければ、そういう人間関係を作ることはできず、ずっと暗い高校生活を送ったにちがいない。

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「涙の谷、銀河の丘」

2007年06月17日 | 評論
『涙の谷、銀河の丘』(劇団大阪2007年春公演)

堀江ひろゆきさんの演出で、松田正隆の「涙の谷、銀河の丘」という芝居を劇団大阪が上演したので見に行った。いつもは谷町六丁目にある劇団のアトリエをつかった公演なのだが、森之宮にあるプラネットホールというところでの上演だった。劇場の雰囲気はアトリエと同じで、階段状の客席からかぶりつきというくらいにすぐ目の前の芝居を見ることができる。ただ違うところはここには回転テーブルがあって、今回の上演ではこれを利用していた。

タイトルどおり、なんか詩的な受けを狙ったのか、随所に詩の朗読とおぼしき箇所があるのだが、芝居の話の流れとどう関係があるのかよく分からなかった。まさに詩的な受けを狙ったとしか思えない。

芝居のあらすじは敗戦によって朝鮮から命からがら逃げてきた4姉妹と赤ちゃんの佐々木家族(両親は亡くなった)が原爆によって見るも無残な姿になった廃墟のような長崎の浦上で必死に生きて50年後の老後を迎えるまでを、長崎にやってきた直後、18年後、50年後の三つの時点で描いてみせるというものである。

生きるために食うことと反戦平和の叫びをあげることはけっして矛盾したことではないのだろうけど、毎日の生活をどうして行くのか、どうやって日々の糧を得ていくのかということに一所懸命になっているときには、反戦平和のために活動するのは難しい。朝鮮から命からがら逃げてきて、親がなくて(長女の道子は何歳という設定なのかよく分からなかったが)、子どもたちだけでなんとか食い扶持を見つけてこなければならなかったという状況(三女のふく江が水商売をすることで家族を養っていた)を描き出すそばから、原爆で死んだ娘の骨を捜してさまよう女性とかを登場させることがまったく生きてこないのが残念だった。はっきりいって、佐々木家の四姉妹はそうしたものとはまったく別の世界に住んでいるように見えた。

唯一、増本という男が、岡田さんの息子の光一とやりとりする議論が、面白かったのだが、キリスト教徒の中にもそれなりの論理で持って反戦の戦いをしている人たちがいるのを考えると、どうもこの作品はキリスト教に対する強烈な敵対意識があるように見受けられる。あんたたちと同じ神を信じるアメリカが落とした原爆がこんな悲惨な状況を作り出したことをどう説明するんだと、嘲笑気味に言う増本は、自らが中国で同じような虐殺を経験してきたがゆえに、強烈な響きをもっていたが、一エピソード的な位置づけしか与えられていない。

18年後、終戦当時には赤ん坊だった吉夫が高校生になっている場面は、63年頃だろうか。女子高校生でさえもマルクスだとか革命だとかにかぶれた時代。やっぱ時代だったんだろうね。

50年後、はたしてここまで描く必要があったのかどうか。ケロイドの顔をもつ少女や少年の場面、舞、そして冒頭のせりふのかずかず、なんか必然性が見る側に理解できない部分がたくさんあって、2時間35分は長すぎる。

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「愛のかけっこ」

2007年06月16日 | 現代フランス小説
Amelie Nothomb, Le Sabotage amoureux, Albin Michel, 1993, Livre de Poche13945.
アメリー・ノトン『愛のかけっこ』(アルバン・ミシェル書店、1993年)

アメリー・ノトンって面白いなぁ。以前に読んだ『驚愕と震え』は大人になって日本に帰ってきた(この小説の中でも夙川生まれの彼女は自分を日本人だと思っているらしいから)アメリーが日本の会社に就職して日本の会社組織の不可思議さを体験するというもので、映画になったというような話も聞く。

この小説は外交官をしていた父親の都合で5歳のときに夙川から北京に移り住んだアメリーたちの子ども社会の、信じられないようなハチャメチャぶりが、なんとも強烈。

1972年から74年のころというから、たぶん田中角栄が日中国交回復をなしとげ、東アジアの情勢が劇的に変化したころが舞台である。5歳まで夙川で育ったアメリーは兄と姉の三人兄弟の末っ子で、両親とともに北京の、外交官ばかりが住む界隈に移り住むことになる。そしてそのSan Li Tunという界隈を中心に5歳から7歳までのアメリーの世界が展開する。

外交官の子どもたちが通う学校の中にいろんな人間関係があり、それは自然と社会主義国と自由主義国の子どもたちの対立して現れる。アメリーたちフランス語圏(中核はフランス、ベルギー、カメルーン)の子どもたちは「連合国」であり、東ドイツの子たちは「東側」である。彼らの住む地域は「ゲットー」で、両軍は戦闘状態にあり、アメリーはまだ小さいということで「斥候」の任を与えられるが、彼女はこの仕事がえらく気に入ってしまう。eclaireurはeclairから派生した名詞で、エクレアというお菓子の名前にもなっているが、要するに稲妻というような意味で、その敏捷な動きによって敵の動静を察知して知らせなければならない。そういうのがグループの中で一番小さかったアメリーに割り当てられたのだ。

敵側の子を捕まえたりすると、泥や糞尿によるさまざまな「拷問」を加え、解放する。逆に「連合国」側の子が「東側」につかまると、青あざだらけになって返されてくる。

そしてアメリーが6歳になったころにやってきたのがエレナというイタリア人の同い年の子で、アメリーは彼女を好きになってしまう。それはすごい美人で、しかもそのことをはっきりと意識しており、ゆっくりと「ゲットー」のなかを歩いて人から見られることに無上の喜びを感じている子なのだ。恋に陥ったやんちゃ娘とのやり取りが面白い。

「最初の日から、彼女はまるですべて理解しているかのようにふるまった。そしてそう思わせるだけのところがあった。自分なりの意見をもっているけれども、それを証明しようなどとはしなかった。彼女は口数がすくなかったが、話すときには尊大で無遠慮だった。「私は戦争ごっこなんかしたくないわ。面白くないもの。」
こんな冒涜的な言葉を聞いたのが私一人だったことにほっとした。」(p.36)

「私は男の子も女の子も友達というものがなかったし、考えもしなかった。そんなものがいてなんの役に立つだろうか?
私に必要だったのは、両親、敵、軍仲間だった。そして奴隷と観客が必要だった。この五つのカテゴリーに属さないものは存在しなくてもよかった。」(p.36)

でもエレナは彼女のことを振り向いてくれない。なにかしなければとあせるアメリー。彼女は馬をもっていると自慢するが、その馬とは自転車のことにすぎない。エレナには「それは馬じゃないわ、自転車でしょ」と馬鹿にされる。

7歳のときファブリスという男の子が転校してきてエレナは彼にほれてしまう。彼女は彼と親しくなりフィアンセだと言い張るようになる。あせったアメリーはなんとか二人を引き離そうとして、ある日エレナに冷たく言い放つ。フィアンセなら頻繁に会っているべきだと言うと、毎日学校で会っていると答えるエレナに、アメリーは夜でも一緒にいて映画にでも行くべきだと言い、どうしてファブリスはエレナに会いにこの地区に来ないのかと問い詰める。

「じゃ、ファブリスは怖いのかしら?私なんか毎日出かけているのに。」
「両親が許さないのよ。」
「彼は言いなりなわけ?」
沈黙。
「明日ここに会いに来るように彼に頼んでみるわ。そうすれば分かるでしょ。彼は私が頼んだことはなんでもしてくれるわ。」
「だめよ!もし彼があんたのこと愛してるなら、一人でそういうことをしようと考えきゃ。そうでなかったら意味がないわ。」
「彼は私のこと愛してます。」
「じゃどうして来ないの?」
沈黙。
「たぶんワイジャオタリュ(ファブリスのすんでいる地区)に別のフィアンセがいるんでしょうね。」と私は冷たく言い放つ。
エレナは軽蔑したように笑って言う。
「ほかの女の子は私よりずっときれいじゃないわ。」
「あんた何にも知らないのね。女の子がみんなフランス人学校に来てるわけじゃないのよ。イギリス人だっているんだし。」
「イギリス人ですって!」エレナはこう言えばあらゆる疑いが晴れるとでもいうかのように笑って言った。
「イギリス人ですってって、何よ?ゴディヴァ夫人がいるでしょ。」
エレナは目を疑問符のようにして私を見た。そこで私はイギリス人の女たちは素っ裸で馬に乗って長い髪をなびかせてうろつく習慣があると説明した。
「でも居留区には馬はいないでしょ。」と彼女は冷たく言った。
「そんなことでイギリス人の女たちがためらうとでも思っているの?」(p.87)

次の日エレナはファブリスと婚約を解消する。なんとかして彼女を自分に向けさせたいアメリーは自分のためならなんでもするというのなら、グラウンドを20周してよというエレナの言葉に反応して、走り続け、20周した後に、見ていなかったというエレナの冷たい言葉にまた走り続ける。それはアメリーが喘息もちだということを知ってのことだったのだ。ついに彼女は発作がでて(?)倒れてしまう。

とまぁこんな調子で、聖書と「千夜一夜物語」しか読んだことがなかったというアメリーの筋がね入りのやんちゃぶりは、じつに面白い。14歳になるまで、この世界には大人の女性と女の子と、あとは馬鹿だけと思っていたいう、彼女の人間の分類のしかたも、まったく痛快としかいいようがない。

これを翻訳したらきっとベストセラーになること間違いなしと思うのだけど、この5歳のやんちゃ娘のませた言葉遣い、語りは26歳の自分なのだが、視点は26歳だったり5歳の自分だったりするので、そういうところをうまく訳し出せないと、子どもの真実を知らない大人が子どもを気取って書いたどっかの馬鹿小説のようになるから、注意がいる。難しいぞ、これは。

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大山崩壊の危機?

2007年06月15日 | 日々の雑感
大山崩壊の危機?

数日前に紹介した「大山王国」を見ていたら、大山の山頂にある碑が崩壊の危機にあるらしく、それを阻止すべくいろいろな提案がされているとのことらしい。

大山はかなり古い火山で、もともとカルデラ式の火山だった。つまりおわん型の噴火口があったらしいのだが、度重なる噴火によって北側の斜面が吹き飛ばされて、日本海に開いた形の山容をもつことになった。西側からみると、つまり米子とか安来のほうから見ると、いわゆる伯耆富士とも呼ばれるような、じつに秀麗な山容をしているが、南北の側からみると、屏風を広げたように見えるのは、そのためである。

かつて私が高校生のころにはこの屏風上の稜線を縦走することができた。大山寺にある夏山登山道をあがって山頂に着き、そこから細い尾根道をつたって剣ヶ峰を経て三鈷峰まで行き、また大山寺に戻ってきたり、もうすこし先まで足を延ばして川床というところまで出てから大山寺に戻ってくるなどのコースがあったのだが、残った南側の壁がどちら側からも崩落を続けており、尾根道がだんだんと細くなって、ついには通れなくなってしまった(現在は通行禁止になっている)。

今度はその崩壊が屏風だけでなく、大きな山塊をなしている西側にも忍び寄っており、これは航空写真でみると、一目で分かるのだが、大山きゃらぼくが生い茂る8合目あたりから灰色の亀裂があちこちに見える。それの一番上がだんだんと山頂に近づいているのだ。
写真では見えないけれど、たぶん山頂にある碑のすぐ後ろは、切り立った崖になっている。それがさらに崩れて、碑がうしろにつんのめっているのだろう。上の写真は2005年の秋にとったものだが、あれから2年もたっていないのに、そんなことになろうとは、大山崩壊もかなりのところまできた感じがある。

大山山頂は、私らが高校生のころには保護がされていなかったために植物が枯れてしまい、丸坊主になっていた。それで植生の保護のために遊歩道をつくったり、苗を植えたりして、だいぶ回復はしてきたが、なんせ毎年地元の学校の登山コースになっているし、関西圏からも登山にやってくるし(うちの娘も中学のときに学校から登山している)、もちろん一般の人も夏になると家族連れであがってくるしで、そうした保護もなかなか難しいものがあるのだろう。

しかしこの大山崩壊はそもそもそういうこととは関係のない、自然のサイクルの一環であり、どうしようもない過程の一こまなのだから、まぁ人間に手出しのできる話ではない。自然の作った美は偶然の産物であり、それは時とともに失われたり、あるいはまた別の自然の造形が生まれたりするのだ。それを人間が人工的にどうこうしようとするのは、あまりにも不遜で傲慢な考えといわねばならない。もちろん大山崩壊が人間の生活に危害を加えるというようなことにでもなれば、それなりの対策をかんがえなければならないが、いまはまだそのような話ではないのだから、碑が崩れ落ちてしまうのは残念だが、そもそもそんなものを山頂に作った人間がばかなのだから、撤去すればいいだけの話だと思う。自然の力をなめてはいけない。

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「ハーブティー図鑑」

2007年06月13日 | 自然科学系
板倉弘重監修『ハーブティー図鑑』(主婦の友社、2003年)

ベランダで草花を栽培していると(って別にベランダでなくてもそうだろうけど)、アブラムシとかの害虫にやられることが多い。この数年の間バラを栽培したくて、花屋とか植物園に行ったときとかにバラの鉢植えを買ってくるのだけど、いつもアブラムシにやられて無残な姿になっていた。バラ専用の土とか肥料も買ったりして、毎日のように観察しては、花が咲いたら喜んだり、花が終わってアブラムシがついたりしたら、手で取ったりしていたのだが、どうももたない。

ところが、去年娘がどこからか買ってきてポンと置いていた黄色のバラの鉢植えを、またそのうちアブラムシにやられて枯れるわと思って、ほったらかしにしていたら、冬を越して、春にぐんぐん葉をつけ、茎も新しいところから出てきて、あっという間に蕾をつけたのだった。

そこで考えたのがハーブを買ってきてバラのそばにおいて育てることだった。ハーブはにおいも結構きついからアブラムシなんかの害虫を寄せ付けなくしてくれるのではないかと思ったのだけど。これがまた的中!(って本当かな?)今年はアブラムシがつかず、一度花が終わったので、これでおしまいかなと思っていたら、あれあれ!また根元から新しい茎がぐんぐん伸びてきたと思っていたら、次々とたくさんの蕾をつけた。

ミニバラなので(上さんはミニバラが好きだから、まぁいいのだけど)、あまり豪華さはないけど、黄色の花をたくさん咲かせてくれた。今は全部の花が終わったところ。まわりにレモンタイム、ラベンダー、イタリアンパセリ、ローズマリーの鉢を置いてやったせいか、ぜんぜん害虫がつかない。やっぱり効果があったのだろうか?

いまはちょうどこれらのハーブもどんどん伸びて新しい芽やら葉を伸ばしている。香りなんかはあまり気にしていなかったのだけど、伸びた葉を摘んでかいでみたら、けっこういい香りがしている。イタリアンパセリは夜盗虫とかいって、夜の間に土の中から出てきて葉っぱを食べてしまう虫がいるらしく、あらかた食べられてしまったので茎だけになっているが、その虫もやっつけたので、いまは花芽を伸ばしている。

なんかこの葉っぱを料理に使えないものだろうかとあれこれ調べているのだけど、どうもいいものがない。そしたら図書館でハーブティーの本を見つけた。ハーブごとにいろんな薬効があるのはすごい。東洋医学の薬草のようなものなんだね。たしかにローズマリーなんか新芽を摘んでかいでいるだけでなんかリラックスできる気がする(気のせいかも)。
ローズマリーのところを見ると、脳や身体の機能の活性化にいいらしい。血管も強化するし、血行促進の機能もあるようだ。肉と混ぜて料理したらいいらしい。

ラベンダーも葉っぱを摘んでちょっと揉むようにしてやると強い香りが出てくる。これにも強い鎮静効果があるというからリラックスしたいときにいいらしい。

レモンタイムは本当にレモンのような香りのする小さな葉っぱのかわいらしいハーブ。パスタにのっけて食べてみたけど、まぁちょっといける。近くのスーパーで一袋100円くらいで売っていたくらいだから、料理にいいみたい。

もっといろんな種類のハーブを栽培してみようかな。

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「素粒子」

2007年06月12日 | 映画
『素粒子』(オスカー・レーラー監督、2006年)

なんか最近ミシェル・ウエルベックの「素粒子」を読み返した直後にこの映画の広告を見たので、グッドタイミングだった。

原作と映画のよしあしの問題はいつでも映画化された作品について回る。たいていは原作を読んでいなかったほうが、素直に映画に入り込めて、映画に対する評価も高くなるし、そこから原作を読んでみようという気にもなるものだが、その逆はあまりない。つまり原作に高い評価を与えている場合には、映画は「ちょっとな」という印象に終わってしまうことがおおい。

この問題は原作が、この「素粒子」のようにセンセーショナルな話題を呼んだ作品だったりすると、よけいに映画にぶが悪くなるものだ。だって、原作をたくさんの人が読んだということは、それだけの数のイメージが出来上がっているということだからだ。そんなに多数のばらばらのイメージを映画が受け止められるわけがない。結局、みんなが好き勝手に作り上げたイメージを持って映画を見に行くから、映画は面白くなかったということになる。

だから原作があるといってもほとんど知られていないようなものなら映画に有利になる。「魔女の宅急便」だってそうだろう。まぁ両者の幸せなコアビタシオンが成り立ったのは、「ハリー・ポッター」くらいのものかな。あれだって、私は原作をまったく読んでいないので、なんとも言えないが、原作を読んでいた人たちはどう思ったのだろうね。

さてこの「素粒子」だが、原作をできるだけ尊重して作ろうという意欲が伝わってくる。そういう意味では丁寧に作ってある。できるだけ時代の雰囲気も出そうとしているし、内面も描こうとしている。そういう点では良心的な作品だといっていいと思う。(「だけど」とかって書いて、じつはそうじゃないとでも言いたいの?)

私は原作を読んでいなかった人の意見を聞いてみたいな。衝撃的な映画だろうか、時代の絶望感をあますところなく描き出している映画だろうか。ブルノのあの性に対する焦燥感を映画で描くのはなかなか難しいと思うのだが、案の定、映画では駆け足になりすぎていて、ブルノの絶望感がもう一つ伝わってこないように思う。他方ミシェル(映画ではミヒャエルとドイツ人風)のほうは高校生のころのミシェル役がなかなかハンサムで繊細な感じをよく出していた。ただこちらもたんに奥手だったというだけの描き方になってしまっている。

やはり二人がどういう人間に育っていったのかを幼少のころから描ききっている小説の重要な部分が、かなり駆け足で描かれているので、原作の印象とまったく別物の印象を映画に対して感じてしまう。

でも、原作以上に面白くしてくれるのは至難の業じゃないかと思うんだよね。

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