読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『69sixty nine』

2020年02月28日 | 作家マ行
村上龍『69sixty nine』(集英社、2004年)

初版は1984年から85年にかけて雑誌に掲載され、1987年に出版されている。今回は、映画の公開にあわせて、新装版というかたちで出版されたものを読んだ。

この映画を私は観ている。妻夫木が「ケン」で、安藤政信が「アダマ」だったのはぼんやり覚えているのだが、佐世保の高校生の話という以外には内容はほとんど忘れていた。

映画は2004年だが、どういう経緯で観たのかもすっかり忘れている。調べてみたら、長山エミを水川あさみ、レディー・ジェーンを太田莉菜がやっていたようだし、バリケード封鎖のときに緊張して校長の机の上にウン・をやった中村を星野源がやっていたみたいだけど、もちろんまったく記憶にない。

ヘラヘラした感じの「ケン」に妻夫木がぴったりだし、ハンサムで真面目な「アダマ」には安藤政信がそのままの配役のように思った。

1969年、東大闘争の年、東京の高校生でなくても、田舎の高校生でも進学校ではけっこう政治的な運動があったらしい。例えば私が71年に進学した山陰の高校でも、一つ上の学年の人たちが、69年や70年になにやら政治的な動きがあったという話をしているのを聞いたことがある。

そんなだから、米軍基地があった佐世保あたりでそのような学生がいても不思議ではないが、この小説は、右も左もわからない、人生というものがまだ何も分かっていない高校生の、それでも何か世の中や大人にたいする不満や不安を形にしたいという思いと、女の子にもてたいという想いが渾然一体となった行動をよく表している。

まさに高校生特有の生態を示しているといえる。私たちの世代でいえば、せいぜい、バンカラを気取って、高下駄を履いてみたり、ボロボロにした学生帽をかぶってみたりする程度だったが、もうこの小説の高校生はぶっ飛んでいる。

高校生ってこういう馬鹿なことをするいきものっていう感じがあって、いやあるいはこの小説がそういうイメージを作ったのかもしれないという気になっている。

妻夫木聡主演の映画のDVDはこちらをクリック

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『作曲家の発想術』

2020年02月27日 | 評論
青島広志『作曲家の発想術』(講談社現代新書、2004年)

この芸人のような顔で得しているのか、損しているのか、私にはわからないが、作曲家?と思わず首を傾げてしまいそうな雰囲気を持った人で、なんどかテレビでも見たことがある。

もちろん音楽的には申し分ない人で、たぶん一つのテーマを与えられたら、その場で、バロック風に、モーツァルト風に、ベートーヴェン風に、マーラー風になどに変奏曲を作って聞くものを魅了するだけの力量を持っているようだ。

それを如実に示すのが、この本の第三部の「作曲なんてこわくない!」である。ハ長調の一オクターブの7音だけを使って書いたたった8小節の簡単な曲に、ピアノ伴奏を付けていく、オーケストラ伴奏を付けていく、さまざまなタイプの変奏曲を作る作法を紹介している。

なんだか本当に私でも作曲ができてしまいそうと勘違いさせるほどの巧みさである。本当に私も簡単な詩を見つけてきて、それに音楽を付けてみようという気になっているから、恐ろしい。

さらに面白かったのは、第一部「作曲家への階段」で、こちらは著者の幼少の頃から作曲家として知られるまでを詳細に記述して、それに自らいろんなコメントを入れる形で書かれており、べつに作曲家を目指す人でなくても、読んでいるだけ面白かった。

いずれにしても作曲家として活躍するには、子供の頃からそうした活動をしていることが必須のようだということがわかる。

あまり期待しないで借りてきた本だけに、面白かった。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『山本直純と小澤征爾』

2020年02月24日 | 評論
2月24日
柴田克彦『山本直純と小澤征爾』(朝日新聞出版、2017年)

山本直純については、寅さんの主題歌の作曲家という程度のことしか知らなかったので、この本で多くのことを知った。

幼少の頃から音楽に親しみ、天才的な記憶力の持ち主であったこと、11歳で作曲を始めたこと、斎藤秀雄の門下生であったこと、小澤征爾と音楽家として同志のような関係であったこと、正統派クラシックからCMソングにいたるまで幅広い作曲を手掛けたこと、などなど。

一番の驚きは斎藤秀雄門下であったということだ。私は、昔、斎藤秀雄についての本ー『斎藤秀雄のチェロ教育』ーを読んだことがあり、斎藤秀雄の音楽家としての業績や、教育家としての功績などの他に、弟子たちが対談したり、思い出を書いたりしているのを読んだ経験がある。

しかしそこに山本直純の名前が出てきたという記憶がまったくないので、驚いている。

小澤征爾のことは、彼の本などをけっこう読んで知っているが、音楽家の同志としての山本直純との関係で読むことは、またたいへん興味深いものだった。

『山本直純と小澤征爾 (朝日新書)』へはこちらをクリック

『斎藤秀雄のチェロ教育』へはこちらをクリック

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『サラムとサラン』

2020年02月22日 | 評論
朴慶南(パク・キョンナム)『サラムとサラン』(岩波書店、2008年)

在日のエッセイストの本で、小説でも書いているのなら読んでみたいと思ったのだが、どうも小説は書いていないよう。

この人のものの考え方や捉え方には共感するところが多い。具体的にどこがと言われても困るけど。

この人の別のエッセー集のレビューで触れていたが、あちこちに出かけていって、いろんな人やことを繋がりを持って生きているというのは、羨ましい。講演会もあちこちでやっているみたい。きっとどんな人とでもすぐに仲良くなれるそんなバリアフリー的な心の持ち主なんだろうなと思う。

で、いったい何をした人なの?と思って調べてみてもとくにこれというものはない。それでも岩波書店からこのエッセー集以外に、二冊も本を出しているって、岩波書店編集部に彼女のファンでもいるのだろうか?

私と同じ鳥取県米子市の出身だという。ウィキペディアによると、高校卒業までは新井慶子という日本名を名乗っていたが、大学入学とともに朝鮮名で通すことにしたという。

このエッセー集の冒頭近くに、考古学者の佐古和枝さんとお友達だと書いてある。生まれはこの人のほうが2歳くらい年上だから、同郷のよしみでお友達になったのかな。佐古和枝さんには面識がないが、彼女の弟とは高校三年生の時に同じクラスだった。スポーツマンで、みんなから慕われる好青年。いまは眼科医になっている。

こんなふうに、このエッセー集の本題と無関係のことしか書くことがないのも、どうなんだろう。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK100分で名著 フランクル「夜と霧」

2020年02月17日 | 評論
『NHK100分で名著 フランクル「夜と霧」」(NHK出版、2013年)

先にフランクルの『夜と霧』を読みたかったのだが、解説書のほうが先に図書館から来てしまった。

『夜と霧』のほうは、高校生の頃に読んだ北杜夫の小説に似たようなタイトルのもの(『夜と霧の隅で』)があり、それがすごく陰鬱な内容だったので、それと勘違いして、長いこと敬遠していた。

私のブログで勝手にリンクを張っている「40からのパリ日記」の著者さんが、最近この本のことにふれて、最近出たらしい仏訳のDecouvrir un sens a sa vieについて、生きる勇気を与えてくれる本だと書いているのを見て、すごく興味を惹かれた。こちら

もちろん著者の諸富という人の解説はこの本の意義をわかりやすく提示しているものであるのは言うまでもないが、巻末にある姜尚中の文章も、彼の息子の自死という、触れたくないようなことまで率直に告白していて、深いものだ。

私自身が先の見えない牢獄に閉じ込められているような毎日を過ごしているので、これらの文章を読んで、心が晴れたとまではいかないが、今後どうしていくべきかについて、重要な示唆を得られたことは確かだ。でも、まだ、「本当によい本に出会った」と述懐するところまではいっていない。今後、じっくり自分に向き合うしかないだろう。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『羊と鋼の森』

2020年02月11日 | 作家マ行
宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋、2015年)

北海道の小さな都市を舞台に調律師として生きていくことを決心した若者の成長を描いた小説で、本屋大賞を始めとして三つの賞を受賞した。

この小説で私が付箋を張って読み返したのは、めったに一緒になることがない板鳥が有名なピアニストのコンサートチューナーをすることになって、同伴させてもらった時に、板鳥が言った「あきらめないことです」という言葉だ。能力があるとか・ないとか言う前に、とにかく諦めないで続けること、これだけが一つの仕事を成し遂げるために必要なことだという話に、私も納得した。

私の場合、オイルショック後の就職氷河期に大学を卒業する時期だったからではなく、一般企業に就職する(父親が田舎にある銀行に就職を決めていた)のがいやで、ぼんやりと研究を続けてみたいと思っていた。しかし実際に大学院に入ってみると、私なんかよりもできる人たちばかり。彼らの話を聞いていると私の知らないことばかり。いかに自分が無教養で無知かを思い知らされた。

だからといって娑婆にでる勇気はない。私にはここにしかいるところがない、そんな思いで離れなかったというのが本音のところだった。

世の中には一つのことだけでなく、複数のことを成し遂げる人もいる、若くして仕事を成し遂げる人もいる。周りの人たちが、研究職についたり、欧米に留学に行ったりするのを横目にして、私はただ黙々と「あきらめない」で続けてきた。

しかしだからこそ、50歳目前になって、博士論文を出すことができたし、それはそれで一つの仕事を成し遂げたと自分で言えると思う。

小説では「あきらめないことです」という言葉を聞いた外村が「多くのものをあきらめてきたと思う」と述懐する。そしていろんなことを諦めてきが、調律の仕事だけは諦めないで続けていこうと踏ん張る。

私の場合も、諦めるのが早すぎたようなこともあったかもしれない、でも多くのことを諦めたけど、今につながるこの仕事だけは「あきらめない」で続けてきた。

この小説は、調律師という仕事が本当に自分に合っているか、能力があるのかと逡巡しながら続けてきた外村に新しい世界が開けるのを描いて終わっている。私にはそんな新しい世界が開けたわけではないが、これでよかったと思う。

なかなかいい小説だった。
『羊と鋼の森 (文春文庫)』へはこちらをクリック

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ショウコの微笑』

2020年02月01日 | 韓国文学
チェ・ウニョン『ショウコの微笑』(クオン、2018年)

前回読んだ『ヒョンナムオッパへ』という短編集で「あなたの平和」という作品を書いていたチェ・ウニョンさんの短編集である。

高校の交流事業で、自宅にホームステイさせたことで知り合った日本人女子高生のショウコとの10年来の関係を描いた「ショウコの微笑」、韓国のベトナム戦争参戦という過去を描いた「シンチャオ、シンチャオ」、フランスの修道院にボランティアとして長期に滞在したときに知り合ったケニアの青年との突然の断絶を描いた「ハンジとヨンジュ」、大学時代の先輩ミジンが留学していたロシアのサンクトペテルブルクを訪れて、ミジンのルームメイトであったポーランド人女性ユリアから、先輩ミジンの生き方を知ることになる「彼方から響く歌声」、夫と娘のために働き続けてきた「母」と「娘」のすれ違いを、ローマ教皇の訪韓のにぎやかな町の様子にからませて描いた「ミカエラ」など。

どれもこれも、読んでいるこちらの心が陰鬱になってくる作品ばかりで、最近ではこういう作品に人気があるのだろうかと疑問に思うし、もしそうだとするならば、理由が私にはまったくわからない。

とくに「ショウコの微笑」は2013年の文芸誌の新人賞を獲得したそうだし、2016年に出たこの短編集もベストセラーになったという。

「ショウコの微笑」は、語り手の韓国人女性ソユが、高校の交流事業で自宅に、日本人女子高生のショウコをホームステイさせたことで知り合う。ショウコとソユは英語で会話するしかなかったが、ソユの祖父は日本統治時代を経験しており日本語が話せるので、日本語で会話した。普段は厳しい祖父がショウコとはにこやかにいろんなことを話すことに、違和感を感じる。

帰国するとショウコからソユには英語の、祖父には日本語の手紙が定期的に来ていたのに、ある時、祖父のせいで東京の大学に進学できなくなったという手紙を最後に、文通は途絶えた。やがて大学生になったソユは、日本に来てショウコの家を訪ねる。そこにいたショウコは、うつ病で、薬のせいでぼっとしたショウコで、まともに話もできないまま、韓国に帰る。その時、ソユが感じたものは優越感であった。

また年月が経って、今度はソユのほうが映画監督になるという夢を追い続けた結果、精神的にも経済的にも追い詰められて引きこもりになる。そしてそこへ元気になったショウコが訪ねてくる。

この作品の登場人物は四人でソユと祖父、ショウコと祖父というようにまったくの相似形をしており、いわばショウコと祖父はソユと祖父の鏡に写った姿のようなものとして描かれている。こういう構成を作ることでいったいどういう効果を狙ったのか、どんな意味をもたせようとしたのか、私にはよくわからない。日本の現実も韓国のそれも似たようなものだということなのか?うつ病になっているショウコを見てソユが感じる優越感を相対化したいということなのか?

最近続けて二冊の韓国小説(どちらも女性作家のもの)を読んだが、どれもこれもあまりの陰鬱さに、しばらくそちらには気持ちが行かないと思う。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする