読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『エタンプの預言者』

2023年06月27日 | 現代フランス小説
アベル・カンタン『エタンプの預言者』(KADOKAWA、2023年)

フランスで大変な人気作となっているという話をどこかで読んで、図書館で予約を入れて、やっと到着した。

例によって小説世界にすっと入っていくことができないが、少し読むと、主人公のジャン・ロスコフは60歳代の、もと大学教員で、娘が一人いて、離婚歴があって…ということがわかり、主人公の世界が割りと馴染みやすく見えてきた。

しかしそこで描かれている世界の一つである、フランスにおける差別に関わる人々の意識や運動のありようが、あまりに日本のそれと違っていることに愕然とする。なにか、性に対する考え方が変わってしまって、世の中の動きに乗り遅れたジジイを描いているように見えてくる。

こうした社会とのズレはミシェル・ウェルベックが書いていた小説世界に通じるものがあるように思える。ほっといてくれたらいいのに、土足でずかずかと入り込んでくる社会というものに、怒りを禁じえない、というようなやつだ。

そしてもう一つの主題である、ロスコフが執筆している本の主人公であるフランスで自動車事故で死去した詩人、共産主義者のロバート・ウィローの話。こちらは、コスロフが本を出版した後に、ウィローの縁者(姪の弟、つまりウィローの甥っ子)と偶然に知り合い、彼から、ウィローはソ連KGBのスパイとしてフランスにやってきたが、アメリカにバレたために大量の逮捕者が出て、ソ連はこのスパイのネットワークを解体した。さらにフルシチョフによる暴露本が出て、共産主義を捨てたウィローは反共産主義的作品を発表したために、交通事故と見せかけて殺されたという。

歴史的史実をもとにして書いたと思わせるような入念な書き込みが行なわれているこうした小説が最近は人気があるのだろうか?1950年代60年代からすでにソ連社会主義が幻に過ぎなかったことが暴露されたヨーロッパでは1970年代のユーロコミュニズムを最後に共産主義・社会主義は完全に没落した。

大量のロシア人が移入してきてソ連の真実を市民レベルに暴露するし、ロシア語ができる人もヨーロッパにはたくさんいるからだ。しかし極東の日本では近いようで遠い。

アマゾンのサイトへはこちらをクリック

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひと月ぶりの金剛登山

2023年06月20日 | 日々の雑感
ひと月ぶりの金剛登山

日曜日にひと月ぶりに金剛登山に行った。今回は一人でのお出かけである。(左の写真は金剛山とは関係ありません)

朝から調子がよかったので、7時半に家を出て、8時に河内長野駅に到着した。昼用のおにぎりなどをコンビニで買い物して、バス停行くと、もう人が並んでいる。

8時15分のバスで出発すると、いきなり運転手から車内放送で、先ごろの大雨で正面登山口からロープウエイ前までのあいだが土砂崩れがあって、通行止めになっているので、正面登山口までの運行となるという説明がある。

えーと思いながら、というのは体に負担をかけないためにロープウエイ前のコースを上がる予定だったから、仕方ないと諦める。

大雨で土砂崩れでバスが運行できないなんて初めてだ。もちろん私がたまにしか行かないのに、偶然そういうときに遭遇しただけの話で、これまでも台風の後などにこういうことがあったのだろう。

正面登山口ははっきり言って階段ばかりのコースだ。まぁ大山登山の予行演習だから、ぴったりではないかと自分に言い聞かせる。8時50分に歩き始めて、10時20分に頂上到着で、1時間半の行程。まぁ本当に初めて上がったときは1時間15分くらいかかったから、そんなものだろう。

頂上で写真を取って、それからおにぎりなどを食べる。30分休憩してから、10時50分に頂上を出発して、同じコースを降りる。ちょうど1時間で正面登山口に到着。

バスで帰宅。下りのほうが体にはこたえる。左膝が痛くなったのは、たぶん椎間板ヘルニアのせいだろう。大山登山なんかできるんだろうかと不安になってきた。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユーチューブで人生のすべてを知る

2023年06月19日 | 日々の雑感
ユーチューブで人生のすべてを知る

かつて「映画で人生のすべてを知る」とか「書物で人生のすべてを知る」というような言葉があった。映画や書物(小説)は人生とは何か、どんなふうに生きるべきかを教えてくれるというような意味だと思う。

いまや「ユーチューブで人生のすべてを知る」の時代である。人生のすべてがユーチューブを探せばどこかにある。

1.先ごろカミさんの母親、つまり義理の母親が亡くなった。98歳という高齢ながら、悪いところはほとんどなく施設で元気にしていたが、ここ半年ほどは、急激に衰えていて、コロナ禍での面会規制がなくなったとたんに、親族に看取られながら亡くなった。いわゆる老衰による大往生であった。

地方に住んでいるので、そこまで喪服一式をもっていかなければならない。スーツケースというかキャリーケースの古いのを引っ張り出して使おうとしたら、コマがぼろぼろで使い物にならない。葬式にはもう一つ比較的新しいのがあったので、そちらを使ったが、コマがぼろぼろのほうは、いつもの私ならもう捨てようとなるところだが、念のためにユーチューブで調べてみたら、コマを替えるやり方があった。

アマゾンで替えようのコマを注文して、葬式から帰ってきたら、ちょうど品物が届いていたので、付け替えた。参考にしたのが、こちら。


これは車軸の頭をドライバーでくり抜く(というか削り取る)やり方だが、車軸を金属用の糸鋸で切ってしまうという方法もあるようだ。

2.プリンターの廃パッド交換
今のプリンターは3台目だが、1台目・2台目はキャノンのプリンターで、「廃インク吸収パッドが限界に達しました・・・」というエラー文が出て、他に問題は何もなかったが、印刷も何もできないので、仕方なく、新しいプリンターを購入したという経緯がある。最近3台目にも同じエラー文が出てきた。今回はエラー文のエラー文かして、すぐに消えたのだが、3台目もかなり長期に使用しているので、本当にこのエラー文が出てきても不思議ではない。そこでユーチューブの神頼みで調べたら、やっぱりあった。

それがこちら



これは1で、2もある。これは私の持っているプリンターの型番と同じではないが構造が同じなので、交換の仕方も同じ。ここでは使用済みのパッドを洗って再利用しているが、アマゾンで1000円で交換用のパッドを買った(確かに届いたものを見ると1000円というのはぼったくりという気がする)。
(「廃パッドの洗浄方法」というユーチューブもあるから、1円も出したくないという人は参考にしてみるといいかも。)



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『シャンソンと日本人』

2023年06月11日 | 評論
生明俊雄『シャンソンと日本人』(集英社新書、2023年)

大学の仏文科で仏文学を学んだからでもないだろうが、私がシャンソンに興味を持ったのは、やはり大学でフランス語を学んだからからとしか考えられない。

そもそも鳥取県のど田舎の、しかも農村の生まれで、周りにはシャンソンのシャの字もないような環境だったからだ。

でも、この本によると日本のシャンソンブームの頂点は55年から60年代初めということだから、55年生まれの私は、幼少期をそのブームのなかで過ごしていたのかもしれない。

そうは言っても、私の記憶にはそんなものはまったくない。それどころか、日本のシャンソンを代表する越路吹雪って、私はあまり好きになれない歌手の一人だったくらいだから、たぶん彼女の『愛の讃歌』は好きではなかったと思う。

たぶんシャンソンに関心が向いたのは、高校生になってたぶんフレンチ・ポップスの最初のブーム(同じ時期にボーリング・ブームも)が来たからだと思う。なんとシルヴィー・ヴァルタンの『悲しみの兵士』が私のお気に入りだった。たぶん『あなたにとりこ』のほうが売れていたと思うのだが、私はそれほどすきではなかった。

それと高校時代に小説をよく読むようになって、外国文学では私のお気に入りはエミール・ゾラ(いわゆる自然主義小説というやつ)だったから、そういうことも影響していたのかもしれない。

そんなわけで仏文科に入って、最初に買ったのが、シャンソンのLPだった。これには『枯葉』は言うまでもなく(って、当時の私はこれくらいしか知らなかった)、『ラ・メール』『話してよ愛の言葉を』など定番曲がたくさん入っていた。それからジョルジュ・ムスタキのLPも買った。

最近ボケ防止にシャンソンを歌おうと思っている。でも長続きするにはやはり先生についたほうがいいと思う。

この本は日本にシャンソンがどんなふうに根付いていったかを詳しくまとめてくれている、よい本だと思う。

シルヴィー・ヴァルタンの『悲しみの兵士』
ナレーターはジョニー・アリディ(フランスでは有名な歌手)


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『変動する大学入試』

2023年06月06日 | 人文科学系
伊藤実歩子編『変動する大学入試』(大修館書店、2020年)

フランスの大学入試のバカロレアを含むヨーロッパと日本における大学入試の変化している様子をそれぞれの専門家が分析した著作である。

ヨーロッパ諸国の大学入試の問題点がまとめられているが、昨日の本と同じ坂本尚志という人がフランスのバカロレアの現在を分析している。

フランスでは大学入試を資格試験として、中等教育で一定の学力を獲得しているかどうかを測る物差しとして機能している。したがって競争試験ではないので、基準をクリアした人が合格となり、ほぼ国立だけの大学を自分で選んで入学することができる。

しかし大学の大衆化によって、いろんな問題点が生じた。例えば、定員というものがないフランスの大学では、人気の大学に多数の学生が集中し、教室にもあふれるような状態になった。きめ細かい教育などできるはずもなく、結果的に、大学の授業についていけないで、半分くらいしか進級できないという。

実際、1968年のフランスの大学生の5月革命と呼ばれる事件はまさに急激に進んだ大学の大衆化(つまり合格率の急上昇)によって大学生の数が増えすぎて、大学側のキャパがそれに対応できないことが原因の一つであったのだから、半世紀以上も放置されてきたわけだ。

その改革がやっと動き出して、2019年から、予め(まだバカロレアも済んでいない段階で)高校生が希望をだして、人数を大学側が調整するというシステムが導入された。そうすることで、大学入学希望者を60校くらいある全国の大学にまんべんなく振り分けようというのだが、それでもいろんな問題が起きているという。

普通に考えれば、資格試験としてのバカロレアは残して、その上で、さらに大学が適正な定員程度の学生を選抜する方式を作ればいいのではないのか、と素人考えで思うのだが、どうなんだろうか。バカロレアという制度、フランスの高等教育にせよ、就職活動にせよ、あらゆることの出発点になっている制度を維持する方向で改革が進めばいいのだが。

この論文集には、フランスにおけるエリート養成機関であるグランド・ゼコールについての現状報告も同じく坂本尚志が書いている。こちらも制度の歴史、現状、問題点などがまとめてあって興味深い。

このグランド・ゼコールについてはこちらも興味深い

この本のアマゾンのサイトへはこちらをクリック

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『バカロレア幸福論』

2023年06月04日 | 評論
坂本尚志『バカロレア幸福論』(星海社新書、2018年)

フランスの高卒資格=大学入学資格試験のバカロレアの、とくに哲学の試験が意味するもの、フランスでの中等教育で哲学が目指すものを確かめつつ、哲学の試験で求められる論文作成能力が、フランス人の幸福感に大きな影響を与えているのではないかということを論じている。

バカロレアについては私もいろいろ調べて、授業でフランスの教育の仕組みを話すのに必ず触れてきた。だから、およそのことは私も理解していることが書かれていたのだが、実際に論文の書き方、そのための手順などについては、この本は詳しく書かれている。

しかもたんなるテクニックのような話に見えるかもしれないが、どのようにして哲学の試験の論文を作成するかを論じながら、じつはフランス人の知識習得の仕方やものの論じ方をあきらかにしてくれるとことがこの著書の興味深い点である。

それともうひとつ興味深い話は、哲学の試験は論文作成になるが、それを採点する基準はないという。採点するのは高校の哲学教師たちで、彼ら/彼女らは国家資格として哲学教授の資格を得ているのであり、そうした資格を持っている以上は、正しい採点をするとみなして、自由な採点にまかせているというのだ。ここに日仏の大きな差を感じるのは私だけだろうか?

この問題で一番目につくのがスポーツ指導員の問題である。日本では学校でのクラブ活動にせよ、地域のクラブ活動にせよ、指導員にはなんら資格が必要とされない。たいていは指導者本人が学生時代にそのスポーツをしていたというだけの理由で、指導者になれる。そのためそれこそ好き勝手な指導をして、時には勝利至上主義になって、生徒に暴力・暴言を働いて、生徒を自殺に追い込んだり、柔道に多いが、寝たきり状態にしてしまうこともあり、教育の一環という本来の趣旨を逸脱している。

かたやフランスではすべてのスポーツの指導員になるには国家資格が必要であり、その資格を取るためには、そのスポーツ固有の身体や生理の問題だけではなくて、児童心理学から身体機能全般の知識までが要求される。したがって暴力事件など起こしたら資格を剥奪される。だからというわけではないが、フランスのスポーツ指導には、日本で当たり前のような暴力・暴言事件はない。それでも柔道などお家芸とか称している日本なんかよりも柔道人口も多く、トップの選手の力は日本を超えている。

もう一度バカロレアの哲学の試験の話に戻れば、日本なら論文答案を採点するのに一定の基準で行えるわけがないから、→論文試験はしない→短答式(マークシート式)でやる。こうして、本当にものを考える力を養成する機会は失われる。本来、そうした能力を前提にして、新しい分野を掘り下げていくべき大学という高等教育機関で、論文の書き方から教えなければならないという日本の遅れた状況は、いまの文部科学省には解決する能力も解決しようという考えもないのだろう。

この本のアマゾンのサイトへはこちらをクリック


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする