トーマス・フォスター『大学教授のように小説を読む方法』(白水社、2010年)
小説はすべて過去の小説なり映画なり神話なりに存在する元型(これをテクストという)の、作り直し、パロディー、組み換え、引用であるという文学の世界で広く認められている事実(これを間テクスト性という)から、小説の読み方を学生に示すという趣旨で書かれた本である。
アメリカの大学教授ということになっているので、ほぼ英語圏の文学が取り上げられているが、たぶんフランス語圏やスペイン語圏でも同じだろう。
元型になるもののトップは聖書とシェイクスピアだと指摘されている。聖書にしてもシェイクスピアにしても名前は知っていても、日本では、学校教育では当たり前だが、家庭でも話題になることもないし、社会の雰囲気としてもそうしたことが話題になることはないので、日本人読者にとっては、こうした読み方は鬼門である。まずバックグラウンドが欠けている。
だが、大学教授が大学の授業でこうした読み方を取り上げて授業が成り立つということは、意外と欧米の学校教育でもこうした読み方は教えていないのかもしれない。ちょうど日本で同じような読み方―たとえば、源氏物語とか神話とかを元型とするとか、しないとか―を教えていないように。
15の「すべてセックス」という章ではフロイトの読解手法が取り上げられているが、それによれば槍は男根のシンボル、聖杯は女性器のシンボルという読み替えの仕方は、ほぼここで教授されている文学の読み方の原型であると言える。
昔、ある女性から呼び出されて喫茶店に行き、「私、田舎に帰ろうと思うんだけど・・・」と言われたことがあり、私はよく意味も考えずに「そう、僕は大阪で頑張るよ」と答えたことある。それ以来、何度かこの場面を思い出し、なぜ彼女はそんなことを言うために私を呼び出しただろうかと考えてもよく解らなかった。ある時テレビを見ていて同じシチュエーションになったことがあった。女性は男性に引き止めてほしいと思っており、田舎に帰らないで一緒に暮らそうと男性に言ってほしいと思ってこうした行動に出たことが明らかなので、これを見ていた私は、ようやく分かった。そうか彼女もあの時そう言ってほしかったのかと・・・
こんな調子で日常生活でも言葉の裏を読み取る力のない私が、プロの作家の巧妙な仕掛けを読み取ることが果たしてできるのか、なんとも心もとない。
小説はすべて過去の小説なり映画なり神話なりに存在する元型(これをテクストという)の、作り直し、パロディー、組み換え、引用であるという文学の世界で広く認められている事実(これを間テクスト性という)から、小説の読み方を学生に示すという趣旨で書かれた本である。
アメリカの大学教授ということになっているので、ほぼ英語圏の文学が取り上げられているが、たぶんフランス語圏やスペイン語圏でも同じだろう。
元型になるもののトップは聖書とシェイクスピアだと指摘されている。聖書にしてもシェイクスピアにしても名前は知っていても、日本では、学校教育では当たり前だが、家庭でも話題になることもないし、社会の雰囲気としてもそうしたことが話題になることはないので、日本人読者にとっては、こうした読み方は鬼門である。まずバックグラウンドが欠けている。
だが、大学教授が大学の授業でこうした読み方を取り上げて授業が成り立つということは、意外と欧米の学校教育でもこうした読み方は教えていないのかもしれない。ちょうど日本で同じような読み方―たとえば、源氏物語とか神話とかを元型とするとか、しないとか―を教えていないように。
15の「すべてセックス」という章ではフロイトの読解手法が取り上げられているが、それによれば槍は男根のシンボル、聖杯は女性器のシンボルという読み替えの仕方は、ほぼここで教授されている文学の読み方の原型であると言える。
昔、ある女性から呼び出されて喫茶店に行き、「私、田舎に帰ろうと思うんだけど・・・」と言われたことがあり、私はよく意味も考えずに「そう、僕は大阪で頑張るよ」と答えたことある。それ以来、何度かこの場面を思い出し、なぜ彼女はそんなことを言うために私を呼び出しただろうかと考えてもよく解らなかった。ある時テレビを見ていて同じシチュエーションになったことがあった。女性は男性に引き止めてほしいと思っており、田舎に帰らないで一緒に暮らそうと男性に言ってほしいと思ってこうした行動に出たことが明らかなので、これを見ていた私は、ようやく分かった。そうか彼女もあの時そう言ってほしかったのかと・・・
こんな調子で日常生活でも言葉の裏を読み取る力のない私が、プロの作家の巧妙な仕掛けを読み取ることが果たしてできるのか、なんとも心もとない。