読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『黄色いベスト運動』

2019年09月28日 | 評論
『黄色いベスト運動』(ELE・KING、2019年)

フランスで昨年の11月に起きてフランス全土に広がった黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)運動とは何だったのかを、いろんな人が語っているパンフレットであるが、よく出来ていて、わかりやすい。

とくに堀茂樹、松尾匡、国分功一郎のインタビューはどれも分かりやすくて、よい。なかでもさすがに堀茂樹は分かりやすく話している。

黄色いベスト運動は、従来のような労働組合主導によるデモではなくて、自然発生的に起きた運動で、指導者もいないという。彼らは、EUが推し進めてきた、そしてフランスでは二期目のミッテラン、シラク、そしてサルコジ、オランドが進めてきたグローバリゼーションによって、ヨーロッパのどこでも能力を発揮して高収入を得ることができる中流上層以上の階層ではなくて、今いる場所から出ることができない、地理的にも、社会的にも、文化的にも、中央の政治や社会から無視されてきた周辺部の人々が、どうしようもなくなって街頭に出てきたのだという。

堀茂樹によれば、フランスでは伝統的に、労働組合や共産党がこうした底辺の人々のネットワークを作っていたのだが、共産党の弱体化や労働組合幹部の支配者側への組み込み(要するに御用組合になっていったこと)によって、こうしたネットワークがなくなってしまい、助け合いもなくなり、ばらばらにされていたという。

フランスでは中道が左右に分かれて、政権を担当してきた。左がミッテランとオランド、右がシラクとサルコジだった。だがグローバリゼーションの完成は、そうした余裕をなくしてしまい、ほとんど左翼のような主張をする極右のルペンが大統領選でつねに最終決戦に残るような支持を得るようになってきたために、中道をひとまとめにするしかなくなり、社会党と共和派連合の枠を取っ払ってマクロンが中道の統合をおこなったということのようだ。(このあたりは国分功一郎の解説による)

従来、フランスでは、選挙で社会党なり共和派連合なりのエリートを選んでおけば大丈夫、彼らが行う政治の舵取りにまかせておけば大丈夫で、必要に応じて、デモによって修正してやればいいという考えだったが、もはやエリートたちは多数になった底辺層のことなど考えていないことが分かった。それを知った底辺層が、エリート支配(EU支配)に耐えられなくなって街頭に出てきたのだという。(これは松尾匡の解説による)

最近はあまりニュースでも取り上げないから下火になっているかもしれないが、問題は何も解決していないわけで、また11月ころになったら、街頭に出てくるのだろう。該当に出てきて、自分たちの要求をアピールする彼ら。私たちも消費税増税反対の声をもっとあげようよ。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『抵抗と絶望』

2019年09月27日 | 人文科学系
金哲学『抵抗と絶望』(大月書店、2015年)

国民国家と民族主義という、非常に難しい視点から韓国文学を研究している韓国人研究者の本で、この人は西川長夫なんかとも面識があるらしい。

序章の「喉に刺さったとげ―植民地の記憶と「親日派」とか第一章「国民」という奴隷―抵抗史とファシズム」あたりは、いったい何が言いたいのかよくわからなかった。

しかし第二章「民族」が語られるとき―自己欺瞞と忘却」とか第三章の植民地的無意識とは何か―朝鮮の満州」で、韓国では高い評価を得ているチェ・ソヘの『農軍』という小説の分析で理解できるようになった。

簡単に言ってしまえば、日本人が植民地とした朝鮮の人民を侮蔑的に見たように、朝鮮人民も、日本の(つまり日本に同化された朝鮮人から見たら)植民地となった満州に行ったら、日本人が朝鮮人を見たのと同じ侮蔑的な見方を満州人にたいして取るという事実をこの小説に指摘して、この小説が評価すべき作品ではないと断定したということである。

日本人が朝鮮人や中国人を侮蔑的に見るのは、西洋人から侮蔑的に見られた裏返しである。同じことが日本人から侮蔑的に見られた裏返しとして朝鮮人が満州人を侮蔑的に見ていたという。

そしてそれが無意識に行われているだけに、著者はこうした問題をかなり「絶望」的に見ている。それがこの本のタイトルにも表れているのだろう。

反日とか排日ということがさかんに言われている。日本を排除することに韓国や中国の国民感情の土台があるということはわかるが、それが無意識の中でどんな構造をしているのか、微妙な心理や感情のひだに分け入って分析しないと理解ができないのだということが、これらの論考を読むと、わかる。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』

2019年09月24日 | 評論
鈴木敏夫『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』(文春新書、2019年)

スタジオジブリのプロデューサーをしている鈴木敏夫が『風の谷のナウシカ』から『思い出のマーニー』までの制作から宣伝その他までのプロデュースの経緯を話したものを活字化したものである。喋ったものなのですごく読みやすい。

鈴木敏夫って、プロデューサーって言うけど、別にアニメ制作に関わっているわけじゃないし、楽なことやって、スタジオジブリの代表者みたいな顔してるけど、なんなのって、ずっと思ってきたのだが、これを読むと、最初から最後まで、この人と高畑勲や宮崎駿との人間関係、発想、提案、アドバイス、尽力が、ヒット作を生み出すのにたいへんな貢献をしてきたことがよく分かった。

何よりも、常識では計り知れない高畑勲と宮崎駿の関係のあいだに挟まって、二人をまとめていく力、海の物とも山の物ともつかぬ出発点に、この人のちょっとした言葉に二人が力を得て、制作が具体的になって行く様子は、もちろん高畑勲と宮崎駿という人たちあっての上のことにしても、並大抵の精神力ではやっていけないだろうなと思う。

徹底的に調べる学者肌の高畑勲、ちょっとした話しの糸から次々と物語を紡ぎ出す宮崎駿、『風の谷のナウシカ』から『千と千尋の神隠し』までリアルタイムで見ることができたのは感慨深いものがある。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

iphone7に買い替え

2019年09月18日 | 日々の雑感
iphone7に買い替え

もう数日後にはiosが12から13にヴァージョンアップされるが、残念ながら私が持っているiphone5sは対応外であることが分かっている。

世の中には古いヴァージョンのままで使い続けている人もいるようだが、そもそもiphoneにはセキュリティーソフトが必要ないとか言って乗っ取りまでを視野に入れたセキュリティーソフトはないようだ。でも、ヴァージョンが古いままで使っているのは、なんだか心もとない。

そういうわけで、iphone7の中古を購入した。新品の中古で35000円だった。高い安いは人それぞれだから、今どきiphone7に35000円なんて、驚く人もいるかもしれないが、私としては一応安心できる店で勝ったので、これで良かったと思っている。できればこれから3年使えれば、申し分ない。(そういうところは欲深いんだな。)

今日の昼前に商品が届いたので、早速、あるサイトを見ながら、データの移し替えをやった。パソコンに入れてあるiTunes経由でデータを入れ替えるというもの。そういうつもりだったのだが、いざ始めようとすると、なんと古いiphoneと新しいiphoneを並べて置いたら、思いもかけずに、wifi経由でiphone同士でデータの入れ替えをしてくれた。

なんて便利なんだろう。同じiphone同士だからできたことなんだろうけど、ずいぶんと便利になったものだ。

コンパクトな5sに慣れているので、4.7インチの7にはまだ違和感がある。恐る恐る触っている。

そういうわけで、古いiphone5sどうしようかな。買ってくれるところがあれば、売ってもいいのだけど。もう使えないのに、買ってくれるところなんかないか。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消費税増税を前にして

2019年09月11日 | 日々の雑感
消費税増税を前にして

10月から消費税が8%から10%に上がるが、国民の多くはピンときていない。ピンときていても、これまで賃金低下や労働時間の長時間化やその他の収奪で以前の増税のときとは違って、増税前に買いだめしておこうというような意欲もなくなっている。ひたすら亡国への道を突き進み始めている。

こうした消費税増税にたいして警鐘を鳴らす記事がある。「元国税が暴く「ヨーロッパに比べ日本の消費税はまだ安い」の大嘘」という記事で、ヨーロッパの消費税のことや社会保障のことをよく知っている大村大次郎という人の記事である。

それによれば、そもそも消費税は低所得層にとって以下に大きな負担になるかを明らかにしている。年収200万円の人はほぼ全額を消費に回さないと生活できない。ということは全収入に占める消費税の割合はそのまま8%ということになる。

だが年収1億の人が2000万円を消費にまわしても、160万円の消費税は年収にたいしてたったの1.6%にしかならない。貧乏人に辛くて、金持ちにお得なのが消費税だという。

ヨーロッパでは消費税そのものも軽減措置がたくさんあるし、低所得者に対して様々な補助制度があるという。イギリスでは生活保護を含めた低所得者の支援額はGDPの4%程度、フランス、ドイツも2%程度ありが、日本ではたった0.4%程度。しかも生活保護は必要な人でもなかなか手に届かない。

失業給付金も生活保護と連動しているという。

そして人生ということで考えるならば、フランスのように幼稚園(保育園)から大学卒業まで授業料が一切かからない(無料)というメリットがある。今の多くの若い人たちは、結婚しても、子供の教育費が作れないかもしれないということを心配しなければならない。奨学金をもらって大学を卒業しても、就職できなければ、返済できない。就職しても返済できないかもしれないという未来の展望のない状態にある。

これで恋愛をしようとか、結婚をしようとか、子供を作ろうなどという気になるわけがないのだ。

歴代の自民党政権のやってきたことは、本当に亡国の道だったと言わざるをえない。

台風15号の被害で千葉県で停電が続き、日常生活が相当に困難を極めている。なのに政府は何もしない。電力を供給するのは東電の責任だが、非常時にはそんなことを言っていられない。政府が責任をもって電力をいろんなかたちで供給できるようにするべきだろう。今の社会は電気がなければ何もできないのだから。

こんな状況で、内閣改造だの、憲法改正に全力だのと言っている安倍首相は、国民生活なんかこれっぽちも考えていない。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『あまりにも真昼の恋愛』

2019年09月06日 | 韓国文学
キム・グミ『あまりにも真昼の恋愛』(晶文社、2018年)

1979年生まれの女性作家(クミというのは漢字では鶴姫と書く)の短編集である。まだ30代後半の若手(?中堅?)ということになるのだろう。

現代的なセンスが若者たちの支持を集めていると説明されている。

短編集のタイトルにもなっている冒頭の「あまりにも真昼の恋愛」は、仕事で失敗をして課長から平社員に降格されたピリョンが会社から離れたところにあるマクドで昼食を取っているときに道路の向こうに見えた垂れ幕「木はクククと笑わない」という芝居の案内を見て、学生時代に付き合いがあったウンヒのことを思い出し、昼ごはんを抜いて、その芝居を見に行き、ウンヒと再会するという話である。

次の「趙衆均氏の世界」は、仕事に対して非常に熱心で手を抜かないために、作業日程とか一緒に働いている同僚との連携などをまったく無視してしまう「チョン・ジュンギュン」の「変わり者」ぶりを描いた短編。

この二つは主人公のイメージが具体的で分かりやすくて、作品世界に入っていけたことから、なかなかおもしろいなという印象を受けたのだが、それ以外の短編は、なぜかしら主人公の姿があまりにもぼんやりしていて、作品世界に入っていけなかった。

やっぱり短編というのは、私には合わないような気がする。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『夜のゲーム』

2019年09月03日 | 韓国文学
オ・ジョンヒ『夜のゲーム』(段々社、2010年)

オ・ジョンヒという作家は、1947年生まれで、大学在学中に「中央日報」紙の新春文芸で「玩具店の女」が当選して、作家になってからずっと現役で小説を書いている人だという。全然知らなかったけど、結構な売れっ子作家のようだ。

この著作に収録された「夜のゲーム』は1979年に、韓国で権威のある文学賞の一つを受賞した短編である。でも私には、もともと短編というジャンルがあまり好きでないせいか、そんなすごい作品か?という印象を受けた。

老父と独り身の娘が過ごす夕食後の花札の様子、そしてその後に一人家を出て、近所の労務者と売春のようなことをすることがさらっと書かれている。メインは父親との花札の描写なのだと思うが、それがどんだけすごいことなのか一向に分からない。

韓国ドラマに時々花札をやる場面(たいていはおばさんが大好きなことが多い)を見て、花札って日本から入ったのかな、それとも逆に朝鮮のものだったのが日本に入ってきたんだろうかと思う。子供の頃近所の子どもたちと花札をやっていたことがあるので、親近感を覚える。

もう一つ収録されている「あの丘」は中編小説で、こちらは読み応えがあったが、とくに何かの賞などを受賞したわけではなさそうだ。

30才くらいの主人公のウォンダン(元旦と漢字で書くらしい)は小さな子どもと学校教師をしている夫の三人ぐらしで、春川に住んでいる。今の家を選んだ決めてが、窓の向こうに見える丘が魅力的だったから。そこに、ある日、ウォンダンの父がやってきて、しばらく厄介になると言って、住み着く。この父は、朝鮮戦争を兵士として体験し、大の北朝鮮嫌いで、遊び人で家を顧みないくせに、南北間の大きな事件があると指を切って血書を書くという過激な行動を取る人として、ウォンダンは嫌っている。

ウォンダンの父が同居するようになって家の中に居場所をうしなった夫を慮って、ウォンダンは子供と夫と三人で2泊の旅行をした。家に帰ってみると父は家を出てしまっていたという話。

ほぼウォンダンの視点で書かれたこの小説は、朝鮮戦争を経験した世代と民主化運動を経験した、その子供世代の断絶を描いていて、なかなかの秀作だと思う。この作品はこうした典型的な二つの世代の断絶を題材にしているが、もっと広く老人とその子供(と言っても中年に近い)の軋轢などを描いた作品が韓国ではけっこうある。それだけ急速な近代化が韓国人の親子世代に大きな断絶を作っているからだろう。

この作品のタイトルにもなっている「丘」は、ウォンダンが初めて家を見に来たときに魅入られた丘で、それが決め手になって家を決めたのだった。でもそこに上がるには遠い。同じ丘をウォンダンの父も見て、同じようにいい丘だ、登ってみようかなと言う。「丘」が何かを象徴しているのだろうが、いろいろ考えてみたけど、分からなかった。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギュスターヴ・モロー展

2019年09月01日 | 日々の雑感
ギュスターヴ・モロー展(アベノハルカス美術館)

昨日、かみさんとアベノハルカスの美術館に「ギュスターヴ・モロー展」を観に行ってきた。

ギュスターヴ・モロー、なんか不思議な絵を描く画家。

じつは1982年ころに初めてフランスに行った時に、パリのギュスターヴ・モロー美術館に行っている。

こちらに紹介がある

大学院に入ってまだ右も左も分からない頃で、とにかく一度フランスに行ってみないと話にならないという焦りから、ひと夏を使って、パリの国際学園都市に住んでいた友人を頼ってパリに行った。

キューバ館に宿をとって、そこを拠点にパリだけでなく、パリから行ける近場の観光地などにも旅行をしていた。

その友人の友人に玉川大学で美術を教えている先生がいて、その人が私を誘ってくれたのが、このギュスターヴ・モロー美術館だった。当時の私はギュスターヴ・モローなんて名前さえ知らなかったから、この先生の紹介がなかったら、こんな不思議な画家に目もくれることがなかっただろう。

その先生は画家でもあったので、日本に帰ってからも、個展の案内などを送ってくれていたのだが、私は大阪に住んでいたので、一度も行かないうちに連絡も途絶えた。

しかしギュスターヴ・モローだけはいつまで私の心に残っていて、今回、大阪でやっているのを知って、でかけてみた。

土曜日だったが、夕方4時くらいに入ったので、割と空いていた。石坂浩二の説明を聴きながら、感慨深い時間を過ごした。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする