読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

Windows10にアップグレードした

2018年05月27日 | 日々の雑感
Windows10にアップグレードした


Windows10の悪評をあちこちで読んでいたので、Windows7のサポート終了(2020年1月)までは使い続けようと思っていたのだが、直前になってばたばたすると碌なことがないと思い出し、あれこれ買い替えを検討していた。

いっその事、マックに変えようかと思ってみたりしたが、たんにOSの問題だけではなくて、いま何気に使っているソフトがマックでは使えなくなる可能性が大きいので、私の作ったワード文書がマックで使えればいいというだけのことでマックに切り替えるのはちょっと無謀だなと思うになった。

ではWindowsの買い替えということで、これも現在持っているマウスコンピューターを眺めてみたり、その他のパソコンメーカーのサイトをあれこれ見ていたが、結局ワードやエクセルを入れたりすると、10万円を超える金額になる。

さらに少し前までWindows10に無料でアップグレードできていたんだよなと思い、もうできなくなっているのかと調べてみたら、今年の3月くらいまでできていたという記事を読んだ。

それにそれらに共通することは、アップグレードするといろいろ不都合があるから、クリーンインストールのほうがいいなどと書いてある。しかし一度はアップグレードしないと、クリーンインストールも無料ではできない。一度アップグレードしてから、もう一度Windows7とかWindows8.1に戻せるということが書いてある。それなら一度やってみようと決心。

昨日、まず小手調べにノートパソコンからやってみた。これは購入時にはVistaだったものを、メモリーを増設して2.5Gにしてから、Windows7にしてあった代物。以前、ネット経由でアップグレードしようとしたが、いつまでもできなかった。

今回はデスクトップでアップグレード用のファイルをUSBにダウンロードして、それを使用してアップグレードを試みたところ、なんだかすんなり完了した。しかもなんだかすべての操作が以前よりもスルスルとなめらかになったような気がする。

そこでデスクトップのほうもアップグレードしてみたら、これも簡単に完了した。見た目はほとんどWindows7と変わらないので、やれやれを胸をなでおろす。アップグレードの場合はいろいろ問題が起きるとあちこちで見ているので、もう少し様子を見てから(一応10日間の猶予がある)、このままで行くか、Windows7に戻すか決めようと思う。



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日大アメフトの内田正人とかいう監督

2018年05月25日 | 日々の雑感
日大アメフトの内田正人とかいう監督

嘘つき安倍にならんで、腹立たしいのが、日大アメフトの内田正人監督というヤツ。この問題がテレビで取り上げられてから、ずっと反則をした学生のせいにしてきた(こちらの言葉を学生が勘違いしたとか言い逃れして)。

この学生が記者会見を開いて、どんな状況下でどんなやり取りがあって、あんな反則をしたのかを世間のもとに明らかにした。

すると、指示したこと自体は否定できなくなると、自分はあの学生と面識もないとか、あの反則の場面は見ていなかったとか、今度はコーチの責任にして、自分は責任逃れ。「すべて私の責任ですとか」とか何度も言っているが、すべて口先だけのこと。

これでまったく無傷でこの事件を乗り越えられると思っているようだが、世間から「学生や部下を犠牲にする腐りきった人」と思われていること、こんな人間が常任理事をやっている「日大終わったね」風に日大の評判を奈落の底に落としたこと、まったく分かっていないみたいだね。

井上コーチとやら、君ももうアメフトの世界では生きていけないのだから、最後に真実を明らかにして、償いをしたらどうかね。

さっきヤフー見ていたら、「日大前監督、心労で入院」だって。もう完全に悪徳政治家の行動パターンだね。ひたすら世間の嵐が過ぎ去るのを、一日5万円くらいの超快適個室でお過ごしになるわけね。

監督が超快適個室に入院したかと思ったら、今度は学長さんが出てきて、またまた危機意識皆無の寝ぼけた会見をしたようだ。「想定外」の発言連発。

こんな危機管理意識の欠落した人が学長やっていたり、「潰してこい」なんて言う監督が常任理事している日大が「危機管理学部」だって、笑けるわ。

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『スプートニクの落とし子たち』

2018年05月23日 | 作家カ行
今野浩『スプートニクの落とし子たち』(毎日新聞社、2010年)

1957年の世界初の人工衛星スプートニク1号(ガガーリンが乗っていた)の成功のおかげで、日本では科学技術を重視する方向に政策転換が行われ、大学も理工学部が拡充された。

もちろんこうした政策転換は、若い学生の意識も変えた。これからは科学技術が重視される時代になる。科学技術の世界で生きていけば、食いっぱぐれしない。

こうして1958年に東大工学部に入学した著者と同期の学生たち―エリート集団―の人生を描いた私小説ということのようだ。

ただ、私でも知っている野口悠紀雄をはじめとした有名人(なのだと思うが、私は知らない人ばかり)すべてをまんべんなく描いているわけではなくて、彼らの中で、唯一、悲惨な死に方をした藤原公彦という人が大きなスペースをとって描かれている。

あまりの面白さに一気読みしてしまった。ただ私が感じた面白さは、自分自身も還暦を過ぎて、もうジタバタしても始まらない年令になり、やたらと中学校の同窓会(2020年に開催予定)が待ち遠しかったり、大学時代のサークルの仲間たちとの写真を見返しては、再会したいなと思ったりする(そのくせ、落ちこぼれだった高校の同期生会が今年の夏にあるらしいのだが、これには行きたくないなと思ったりする)ような、精神状態の中で、人の人生をなんだかのぞき見してみたいという根性から来るものだろう。

だから、アマゾンのレビューの多くが、多分若い人が書いたのだと思うが、こんなプライベートなこと、ブログにでも書けばいい内容で、金を取るな、みたいな論評があるのも当然だろう。若い人がこんなものを読んでも面白くないはずだ。だが、人生の選択に間違い、とかあるのだろうか。

だれが付けたのか知らないが、タイトルはいい。『スプートニクの落とし子たち」だって。私の時代なら『アポロ11号の落とし子たち』かな。



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『工学部ヒラノ教授の終活大作戦』

2018年05月20日 | 作家ア行
今野浩『工学部ヒラノ教授の終活大作戦』(青土社、2018年)

2015年1月に、この著者のこのシリーズ第一作『工学部ヒラノ教授』についてのブログを書いている。こちら

そのシリーズ第一作から、すでに出版されている7作か8作をすっ飛ばして、シリーズ最新作を読むことになった。たまたま図書館の返却棚で見つけたからだ。

本のタイトルどおり、研究者を退職してからの、完全フリーな人生の過ごし方、本という研究者にとっては命の一部みたいなものの始末の付け方、工学部ヒラノ教授シリーズの意義、人生における五大後悔、健康対策など、80才を目の前にした著者が、当り前に直面する問題を、面白おかしく書いた本だが、まったく違う世界にいるとはいえ、いろいろと参考になることもあった。

毎日の暮らし方。最後のあたりにでてくるが、夜9時に就寝して、3時頃に目覚め、ラジオ深夜便を聞いて、朝食を取って、5時にウォーキングに出かけるという。仕事を完全に辞めたら、こういう生活もいいなと思う。

私はまだ現役だが、最後の目標をおぼろげに設定しているだけで、緻密な計画を立てて、その目標に向かっているわけではない。

その目標実現のためにやるべきことを、ザーッとダンボールの中に詰め込んでおいて(もちろん後から後から出てくるから、それもダンボールにどんどん詰め込んでおく)、一つ一つ興味のあることから潰していくしか、続かない。それほど気力も体力もない状態で、本当にそんな目標が実現できるのかどうか、心もとない。

しかしある程度まとまった調べ物ができてから形にしようなんて考えていたら、何も形ができないうちに、なにもできなくなってしまうかもしれない。

それよりは、最初はラフ書きみたいなものでも作っておいて、だんだんそれに追加して、部分部分を鮮明にしたり、修正を加えたりしていくほうが、少しずつでも成果が見えて、やる気になる。

それにしてもこんなことに一喜一憂するような日が来るとは思わなかったな。若い頃は無我夢中で走っていたんだな。

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『パリ五月革命私論』

2018年05月16日 | 評論
西川長夫『パリ五月革命私論』(平凡社、2011年)

この本が出ていることを朝日新聞の読書欄で知ったので、あの西川長夫がこんなもの書いているのかと思い、読んでみた。

長い間、西川長夫といえば京都にある立命館大学で教員をしていた方なので、お名前だけは何度も見たことがあるし読んだこともあるが、一度も御尊顔を拝したことはない。今回もこれを書くにあたって、どんなお顔だったのかなとググってみて、初めてなるほどと感じたしだいである。

1968年のパリの五月革命というのは、旧態依然とした大学教育を変えようとする学生運動から、フランス社会の改革にまで広がった運動のことを指すが、時代的にちょうどベトナム反戦運動や、日本でも学生運動の広がりと同時期であったこともあり、社会変革の大きなうねりの一つと見なされている。

この時期にちょうどパリにいてこの出来事を直接に見聞した著者が、その意義や影響などをまとめたのが本書である。

事実の経緯などは、あまりに複雑(詳細)すぎて、これを研究対象にしようという人には意味があるかもしれないが、そうでない私には退屈だった。

私にとって非常に興味深かったのは、第四章の知識人の問題だった。なんと言っても、森有正や加藤周一、ロラン・バルト、アルチュセールなどの私が学生時代によく読んだ(あるいはよく人から聞いた)人々がどんな様子だったか、リアルに書かれているからだ。

私が学生だった頃にもまだバルトなんかの全盛期で、ちょうどこの時期にバルトがセミナーで扱っていたバルザックの『サラジーヌ』を分析した『S/Z』なんかも貪るように読んだものだった。

この事件の後、フランスの大学はどう変わったのか・変わらなかったのか、知りたいところだが。

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『チェネレントラ』

2018年05月13日 | 舞台芸術
ロッシーニ『チェネレントラ』(第56回大阪国際フェスティバル2018)

1817年に初演されたロッシーニの『チェネレントラ』をフェスティバル・ホールで観てきた。

フェスティバル・ホールは建て替えられてきれいになっており、昔の面影はない。ホールに上がっていくセンターの階段にレッドカーペットが敷き詰められて、豪華な雰囲気を醸し出している。

日本で上演されるイタリア・オペラといえばヴェルディやプッチーニばかりなので、当時たいへんな人気を誇り、またスタンダールも『ロッシーニ伝』を書いているほどの作曲家なので、一度観たいと思っていた。

『チェネレントラ』は要するにシンデレラの話である。つまり喜劇仕立てのオペラである。喜劇仕立ての場合、真面目な役は、モーツァルトでもそうだが、その真面目ぶりが、一見するとメインの主張のように見えるけれども、実は小馬鹿にされていることが多い。

このオペラでも、真面目なことを言う-つまり真実の愛と誠実さが私の信条だと言うアンジェリーナや、真面目一方の王子ドン・ラミーロには何の面白味もない。したがって、この役に「世界的・・・」とか「世界で活躍している・・・」を持ってくるということ自体が、この作品を読み違えていることになる。

このオペラで言えば、脇園彩というメゾソプラノが歌う歌にはそれほど魅力はないし、王子役をやるテノールってなんでこうも馬鹿みたいに聞こえるのだろうという、喜劇の王道を行っている。

それよりも面白いのはナント言っても王子の従者で、最初は王子のふりをしてドン・マニフィコ家に嫁探しと称して入り込む役は、あちこちに面白味もあるし、歌にも聞かせどころがある。

そしてもう一人はアンジェリーナの姉役のクロリンダの光岡暁恵である。アンジェリーナをいじめる役で、思いっきり意地悪をしていた。歌唱力も抜群。

歌唱にはもともと見るところがあまりない役だが、同じようにアンジェリーナをいじめる役で父親のドン・マニフィコも滑稽実が上手く出た演技が上手であった。

しかしずっと同じあの舞台美術はどういう意味があるのか最後まで分からなかった。最初はネズミたち(この役の人たちは一生懸命演じていて好感が持てた…拍手!)がでてきたので、ネズミの世界に合わせてあるのかと思った。これでいけば、あれはネズミの世界の物語というファンタジーを示唆しているということか。

しかし中央に置かれた本の中から出たり入ったりするのはどういう意味があるのか?名前からするとイタリア人の演出のようだが理解不可能。


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『AIvs.教科書が読めない子どもたち』

2018年05月07日 | 自然科学系
新井紀子『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)

2月に新井紀子『ロボットは東大に入れるか』を読んで、その斬新な問題意識に興味をいだいて、この最新の本を借りて読んだ。

AIがこれから人間から奪っていく仕事はどんなものなのか、そんな事態になっても生き延びることができるためには、人間に何が必要なのか、そういう問題提起をした本である。

この著者はAIの専門家なので、AIに何ができて、何ができないか、よく分かっているので、変な幻想や驚異を振りまくことはしない。

その肝は、AIがどんなに発展しても、AIには「言葉の意味を理解することはできない」から、AIから人間が仕事を奪われないためには、最低限、「言葉の意味を理解することができる」ようにしなければならないのに、現在の子どもたちは大部分が「言葉の意味を理解できていない」状態にあるという点である。

この本を読んで興味深かった点だけを羅列してみる。

1.AIを国家や企業がプロジェクトとして取り組んでいく姿勢の違いについて。現在、アメリカではグーグルを始めとした巨大企業が膨大な資金を投資してAIの開発に取り組んでいる。AIが人間にとって代わることはできないにしても、現在人間が担っている仕事の多くがAIでもできるようになれば、それを開発して特許をとった企業は世界経済を支配できるかもしれない。

もちろん日本もそんな見通しができないほど馬鹿だったわけではない。1982年頃に通産省が立ち上げた国家プロジェクトが「第五世代コンピュータ」だという。自動診断や機械翻訳の実現を目指して、500億円以上の予算が投下されたのに、失敗に終わり、その後はAIに関するプロジェクトは凍結されてしまったという。

私が興味深く読んだのは、著者の新井さんが、それから20年以上もたって東ロボくんのプロジェクトを開始したときに、この「第五世代」のプロジェクトがどのように総括されているか知りたいと思ったが、資料が一切残っていなかったという。つまり、日本の官僚というのは、国民の財産を湯水のように使いながら、決して総括をして、その後の検証の手がかりを残すということをしない、つまり失敗から学ぶということができないということを示していることだ。まさに第二次大戦の諸々の作戦がそうであり、第二次大戦そのものの敗北がそうだろう。

これに対して、アメリカの企業は日本の失敗に学んで、論理的な手法で自動翻訳などのAIを開発することに見切りをつけて、統計的手法に転換し、現在の成果を上げたという。なんだか500億もの金をアメリカのために捨ててやったようなものだ。

2.科学の限界に謙虚であること。
気象予報、温暖化予想、地震予測など、AIの急速の発展によって、ここ数年でさえも劇的に進化した分野がある。たしかに雨が降る予想やどの程度雨が降るのかという予想は、ここ数年で驚くほど進歩した。

だがしかし、自然現象は、複雑な諸要素の絡み合いの結果生じているのであって、地震が起きるというような理屈では分かっている自然現象でさえも、間違えることが当り前なのだという。

それは人間が自然界を征服できるなどと考えないほうがいいという、謙虚さへの教訓である。現に、コンピュータには意味を理解することができないという。人間の脳も電気信号で成り立っているというのに、コンピュータはそれには遥かに及ばない。

3.偏差値と読解力
私がこの本で一番興味深いと思ったのは、もう最後のあたりになるが、偏差値と読解力のことを書いた部分であった。AIに支配されないような人間を作るのに最も必要なのが読解力であるのに、その読解力ということで今の子どもたちは心もとない現状にあるという。

面白いのは、旧帝大に入れるような子どもたちの読解力は非常に高いということらしい。つまり読解力と偏差値には相関関係があるそうだ。有名私立中学の入試はまさに読解力があるかどうかを調べるというか、ふるい分けるための試験だという。

では読解力がどこで差がつくのか、というと、これがよく分からないらしい。読書の量も学習習慣もスマフォの使用時間も、無関係なのだという。つまり、こうすればこうなる式の読解力改善法はないのだということだ。

でも、埼玉県戸田市の例を上げて、先生たちが教科書にかかれていることを子どもたちに正しく理解してもらえるにはどうしたらいいかという意識からあれこれ試行錯誤していった結果、劇的に読解力が高まったということを報告しているので、地道な努力が必要だということは言えるのだろう。

著者は、深読み…同じ本を何度も読み込む…のがいいのではないかと書いている。

最後に、コンピュータを動かすのは人間だ。人間がプログラミングしなければ、コンピュータはただの箱にすぎない。そのプログラミングができる人材が払底しているという。そこで企業が公教育にプログラミングを入れさせた。小学校からプログラミング教育をするという。やめてほしい。

私はこの手のことは好きなので、プログラミングに何度も手を出した。そのたびに挫折した。私には合わないのだ。かたや小学生がプログラミングをするという話が時々ある。つまりプログラミングというのは相性があるとおもう。

その点で言葉とはまったく違う。言葉は人間が生きていくために絶対に必要なものだ。その言葉を読解力をつけて深めていくことは豊かな人生を送るためにも必要だ。でもプログラミングはそうではない。できる人だけがやればいい。そんなものを小学生に押し付けないでほしい。


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初夏の天野街道ハイキング

2018年05月04日 | 日々の雑感
初夏の天野街道ハイキング

連休の今日は、上さんと天野街道のハイキングに行った。この間のような暑さならとても歩けないが、今日は風もあるし、ずいぶんと風が冷たいので、それほど暑くならないだろうと予想。実際、最適な気温だった。

前半の林の区間を抜けて、明るい日差しの田園風景を歩く頃になると、体も温まってきた。ちょうどその時、上さんが野いちごの実を見つけた。真っ赤な実が大きくなっている。一つ・二つ摘んで食べたら、甘い。


そんな目であたりを見ていたら、あっちにもこっちにもあるじゃないか。合計10個以上は見つけて、食べた。本当に甘くて美味しい。天野街道は野いちご街道じゃないか!と二人して大喜び。

秋はアケビ街道、春は野いちご街道。いいところだね。途中で一箇所、道路が崩れて、工事をしており、通行止めになっているところがあった。7月まで通行止めと書いてある。そこは畑の畦を歩いて、ちょっと迂回しなければならない。要注意。

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恒例の米子行き

2018年05月02日 | 日々の雑感
恒例の米子行き


連休を利用して米子に行った。今回は、休みの日に高速バスで米子まで行き、帰りは連休の合間の火曜日が午後遅くから京都で仕事だったので、米子から特急やくもで岡山まで出て、新幹線で京都まで行った。やはり連休の合間で平日なので、新幹線は空いていた。自由席でも余裕で座れた。

以前も似たような日程の時に、米子から京都までの高速バスを利用したのだが、ちょうどいい時間すぎて、ちょっとでもトラブルがあって遅れでもしたら、仕事に間に合わなくなるので、余裕をもってJRにしたら、今度は着くのが早すぎてしまった。


それで仕事場にわりと近い嵐山に行ってみようかと思い立った。嵐山は学生時代から何度も行っているが、サスペンスとかによく出てくるあの竹林の小道を見たことがない。一度見てみたいとおもったからだったが、やっぱり連休に行くのはミスだった。


あふれるほどの観光客で、風情もなにもあったものではない。ただ人・人・人…。しかも5月初旬というよりも真夏に近い気温で、みんなたいへんそう。外国人観光客は、みんな二度と日本に来るか!と思っても仕方がないような様子でしたな。(上の写真は、人力車専用の道を撮ったもの。人力車専用の道には人は入れないのです。)

早々に退散して、嵐電で仕事場に行った。

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