読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『和声論』

2023年07月10日 | 人文科学系
ラモー『和声論』(翻訳・伊藤友計、音楽之友社、2018年)

近代和声学を確立したことで音楽理論の分野ではつとに有名なジャン=フィリップ・ラモーの最初の理論的著作である『和声論』の本邦初訳である。

18世紀のフランス音楽を研究しようという人にとっては、ラモーのオペラも研究対象としては偉大すぎて、なかなか手に負えないが、ラモーの音楽理論も膨大すぎて二の足を踏む。そのような大きな壁を邦訳という形で引き寄せてくれたのが、この著作である。

ラモーの音楽理論書ということで言うと、

1722年『和声論』
1727年『音楽理論の新学説』
1737年『和声の生成』
1751年『和声原理の証明』

このあたりが必読の書ということになるが、『和声原理の証明』はある意味でラモーの音楽理論の集大成であるし、それまでの試行錯誤がある程度手の中に収められてこなれているし、当時ラモーに共感していたディドロ(あの『百科全書』のディドロ)が執筆に手を貸したということもあって、比較的読みやすい。

しかしラモーの悪文は当時から有名で、実際、原文にあたってみると何が言いたいのかわからないような文章が延々と続くという印象がある。それは文章が下手ということと同時に、ラモーが新しい概念をなんとか文章にしようとして行なった悪戦苦闘の結果であるとも言える。それにしても読みにくいことこの上ない。同じ時代のディドロやダランベールやルソーなんかと読み比べてみるとそれがよくわかる。とくにダランベールがラモー理論をわかりやすく解説した『ラモー氏の原理に基づく音楽理論と実践の基礎』(邦訳あり)と比べるといい。

そういうわけなので、それが日本語で読むことができるというのはこの上ない僥倖であるだろう。しかしこの訳本をちょっでも読んでみると、それを手放しで喜んでいられないことがわかる。なんと言っても訳語の問題がある。

訳語には日本語にそのような概念がないので、日本語にしにくい場合がある。そういう場合にどうするかは訳者の腕の見せどころなんだろうが、これがなかなかたいへんだ。だからちょっと読んでみただけでも、この訳者がたいへんな苦労をしていることがわかる。いくつか挙げてみる。

まずbasse-fondamentale, son fondamentalという語である。この語はラモーの音楽理論を理解するうえで、キーワード中のキーワードであると言える。通常では「根音バス」と「根音」と訳すところだが、この訳者は「基礎バス」「基礎音」と訳している。

たぶん訳者は「根音バス」という訳語が新しいもので、18世紀のフランスではそのような概念がなかったと思っているようだ。(例えば、18世紀のimageという語を現代風に「イメージ」と訳するのは間違っているのと同じ)。しかし日本人の誰が「根音バス」という訳語を最初に使ったのか私は知らないが、たぶんこの人は英語のrootには「根」という意味があるから、「根音」という語を使ったのだと思う。

rootという語は音楽用語としても決して新しいものではなくて、英語では1618年にThomas CAMPIONがA New Way of Making Fowre Parts in Counterpointで使用したのが最初とされていて、もちろんラモーは『和声論』でそれにもっと重要な意味付けをしたわけだが、彼の時代からすでにfondamentalにrootの意味があったのだから、「根音バス」とか「根音」という訳語をラモーの文章に用いることに何の問題もないと思うが、この訳者は「基礎バス」「基礎音」と訳している。

もう一つ訳語の問題を挙げると、sous-entendreとsupposerである。これはラモーの和声理論で初めて概念化された独特の用語なのだが、この訳者はこれを「下に聞く」「下に置く」と訳している。sous-entendreとはラモー自身が『和声論』の用語一覧で説明している文をそのまま使うと、次の通りである。

「暗黙のうちに聞こえる(鳴らす)
音楽では「sous-entendre暗黙のうちに聞こえる(鳴らす)」と「supposer仮定する」という用語はほぼ同義語とみなされている。だがそれらの意味は互いにはっきりと異なる意味を持っている。「暗黙のうちに聞こえる(鳴らす)」という語によってそれが適用される諸音は実際にはそれらが存在しない和音の中に聞こえるということを知っておかなければならない。根音については、それが「暗黙のうちに鳴らされる」という場合には、それが他の諸音の下方に聞こえると考えなければならない。「仮定する」という語によって、それが適用される諸音は、実際には存在しないか、その前後のいずれかに存在する他の音を仮定するということを知っておかなければならない。しかし根音については、それは仮定による和音に私たちが定数外と呼ぶ音のすぐ上方に置かれなければならないと考えなければならない。Supposerを見よ。したがって私たちがここで根音にこれらの用語のそれぞれを正確に適用することによって、それらの真の意味は文字通りに実現されることになる。」(p.xxj)

ラモー自身がこの中で「それが適用される諸音は実際にはそれらが存在しない和音の中に聞こえる」と説明している。つまり実際には存在しないのだが、暗黙のうちに鳴らされていると想定するということである。「仮定する」も存在しない音を想定することでは似ているが、違うのは「その前後のいずれかに存在する他の音を仮定する」ことができるということである。しかも「私たちが定数外と呼ぶ音のすぐ上方に置かれなければならない」と書いているように、必ずしも「下に置く」とは限らない。

この訳者はsous-entendreのsousやsupposerのsuがsous、つまり「…の下に」という意味だからと「下に聞く」とか「下に置く」と訳している。

その他、重要な語としてchantとmodulationがある。chantは普通なら「歌」と訳せるのだが、mettre les paroles en chant (en musique)という形で使われることもある。この場合、明らかに歌詞テキストに作曲する(=音楽を付ける、曲を付ける)という意味であるが、この訳者はchantを一貫して「歌謡」と訳している。「歌」とか「歌謡」という訳は、歌詞と音楽が一体化した状態を意味するので、上記の仏文は「歌詞に歌謡を付ける」となってしまう。「歌詞に曲(音楽)を付ける」でよい。modulationの「横並び」という訳も苦心の結果だとは思うが、「音の動き」と訳すほうがいい。

訳者の苦労は相当のものだったと思うのだが、「これはいい訳だ」、「なるほどこう訳したか、わかりやすい訳だ」と思う箇所もたくさんあって、全体としてみれば、今後の研究者にとって参考になるところがたくさんある。

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『サロメ』

2023年07月05日 | 作家ワ行
ワイルド『サロメ』平野啓一郎訳(光文社古典新訳文庫、2012年)

そもそもワイルドの『サロメ』には、おそらくビアズリーのイラストの影響もあってか、世紀末の退廃的なイメージしかなかった。

よく思い出せないが、誰からのツイッターを読んでいて、平野啓一郎が翻訳をしているというのを知って、あの平野啓一郎が『サロメ』の翻訳!?しかも解説文が面白い?!ということで読んでみたら、これがまた興味深いのなんのって。

まず「訳者あとがき」から読む。演出家の宮本亜門に翻訳を依頼されたという。そして偶然なのか、宮本亜門の洞察力がすごいのかわからないが、京大に在学中からすでに三島由紀夫に導かれるようにして『サロメ』を読んでいたという。

そして平野啓一郎のサロメ観がまた斬新で、これまでの常識のようになっている、あの世紀末の退廃的で、倒錯した性的妄想のような、つまりファム・ファタールのような、妖婦のような、権謀術数に長けた男たらしのようなつまりこれまでの女性像でいえば、ラシーヌのフェードルのような、またメディアのような女ではなくて、キスさえも知らない、恋は何かさえも知らない、処女としてのサロメ。(三島由紀夫の『金閣寺』を三島流の『サロメ』だと指摘しているのもすごい!)

「サロメは決して、単に純真であるわけではない。しかし、よく誤解されているような淫婦でもない。純真であるにも拘わらず、まったく身に覚えのない淫婦性を母から受け継いでしまっている。」「ここにこそ、サロメの悲劇性がある。」(p.134)

「サロメは、最後には恐ろしい残酷さを発揮する。それが不気味であるのは、彼女が無邪気であるからにほかならない。彼女がヨカナーンの首を求めるのは、ただその唇にキスがしたいからである。それは、ヨカナーンにどうしても会いたいという、彼女の最初のささやかなわがままの延長上にある。」(p.140)

平野啓一郎が提示するこのようなサロメ像をもって戯曲を読んでみると、たしかにサロメのセリフは世間のことを何も知らない小娘のように直截で、断言的である。同じセリフを何度も何度も繰り返す。駄々をこねる子どものように。

オスカー・ワイルドがなぜこのようなサロメ像を形象しようとしたのかという問題は、またここでは別の議論が必要になるので、詳しいことは述べられていない。それを調べてみるのもまた興味深いものなるのだろう。

しかし平野啓一郎って作家はただの作家ではないな、と感心した。

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『踊るバロック』

2023年07月02日 | 人文科学系
赤塚健太郎『踊るバロック』(アルテスパブリッシング、2021年)

「バッハの舞曲は本当に踊れるのか?」というキャッチーな解説文のせいで、前々から気になっていた本で、地元の図書館にはなかったので、わざわざ大阪府立図書館から取り寄せて読んでみたのだが、結論から言うと、面白くもなんともない本だった。買わなくてよかった。

当たり前といえば当たり前なのだが、バッハの舞曲をバッハ自身が踊られることを前提に書いたのかどうかは、バッハが何も言及していないので、なんとも言えないということだし、現代人が振り付けをして踊っても、どんな音楽でもそれは可能なのだから、バッハの舞曲が踊れることの証拠にはならないというし、結局、どうとでも言えるということのようだ。

ただ、踊れることを前提に書いていなくても、舞踏としての特徴―例えばメヌエットの独特のリズム―などが舞曲に反映されている、取り込まれているのは事実らしく、しかしそれは著者も書いているように、すでに服部幸三が「様式化」という言葉で指摘しているのはよく知られているし、わかりやすい説明なのだが、それもこの著者は否定的である。

そして専門的という第三章のクーラントと第四章のメヌエットの章を読んでみたのだが、運弓の話ばかりで、なんか面白くもなんともないというのが私の印象であった。確かに専門的な内容なので、専門家にはおもしろいのかもしれないが。

上にも書いたがあまりにキャッチーな文句に期待をしすぎたのかもしれない。

まぁこの点は著者自身も自覚をしているのか、「はじめに」で「本書を読んでもバロック舞曲の演奏が即座に上達することはない。むしろバロック舞曲のしかるべき演奏とはどのようなものかということについて、さらに疑問を深めることになるだろう。(…)」と記している。

最後にフランス語の読みのことで疑問に感じたのは、Rameauを「ラモー」ではなくて「ラモ」と表記していることだ。フランス語のeauは三つのアルファベットがあるからと言って、長音節になるわけではないので、Ramoと書いてあるのと発音は同じだという考えから、「ラモ」としたのなら、coulanteも「クーラント」ではなくて「クラント」とすべきではなかったのかと思う。Rameauの場合は、フランス語では最終音節にアクセントが来て、その場合に多少長く読むので、「ラモー」と表記するのが正しい。

こういう人名や用語の日本語表記はある程度日本語として定着したものを使用するしかない(そうしなかったら、何を言っているのかわからなくなるから)。そういう意味では普通に「ラモー」と表記すればよかったのではないかと思うのだが。

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