読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「ゼロ戦」

2007年10月31日 | 現代フランス小説
パスカル・ローズ『ゼロ戦 沖縄・パリ・幻の愛』(鈴村訳、集英社、1998年)

女性が、処女作で、ゴンクール賞を受賞したというので当時話題になったらしい。もともと文学大好き少女で、演劇集団を主宰し、舞台女優として活躍をしていたし、演劇の脚本も書いていたというのだから、もともと素養はあったのかもしれない。

たしかに主人公の少女時代―母親が戦闘機乗りだった夫を沖縄で亡くしてから精神に異常をきたし、厳しい祖母と彼女に頭の上がらない祖父と一緒に暮らしていた―の、屈折した心の中を描く前半はじつに筆力が相当なものだと思わせる。

「ふしだらな」娘を監禁して外の世界に見せないようにしている祖母、そのためにいつも陰気な家、それと対照的に明るくなんでも言い合えるナタリーの家族。しかしそのナタリーが自分に父親がどこでどうやって死んだのかをもっときちんと見据えるべきだと教えてくれたのだった。そこから主人公は父親がアメリカの戦艦に乗っていて、ゼロ戦の「カミカゼ」攻撃によって死んだことを知る。そしてゼロ戦にのって「カミカゼ」攻撃をして死んだツルカワ・オウシの「我、沖縄に死なんとす」という本を手に入れて読んだことがきっかけとなり、ゼロ戦の轟音が強迫観念となる。

大学に進み、祖父母が養老院に入り、母はある人と再婚したことで、パリのアパルトマンに一人で住むことになる。たくさんの学生が出入りし、そのなかのブルノと知り合い、恋人となる。ミュージック・コンクレートをやっているブルノは、兵役につき、休暇を一緒に過ごしに来るのだが、ゼロ戦の轟音、ツルカワの亡霊が主人公にとりつき、二人の関係はうまくいかない。ブルノが兵役を終えてパリに帰ってきてから他に女性を作り、離れていく。

ツルカワの亡霊が取り付いてしまってからの描写には、前半の少女時代の描写にくらべると、意味不明な描写が多いのは、少女時代がある程度作者自身の体験を基にして書かれたのにたいして、まったくの虚構によるものだからだろう。しかも現実に接触することがまったくないゼロ戦に乗って「カミカゼ」攻撃をして死んだ若者のイメージをつかみ、自分の存在の中に組み込むことはそんなに容易なことではない。

ヨーロッパの「カミカゼ」精神などとは無縁の精神構造をもった人たちにどのように理解されたのか分からないが、センセーショナルな受け取られ方をしたというから、よく読まれたのかもしれない。


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月探査ラッシュ

2007年10月28日 | 日々の雑感
月探査ラッシュ

最近、日本だけじゃなく中国も、またアメリカも月探査のための人工衛星を打ち上げた。たんに眺めるだけの対象だった月が現実に資源探査の対象としてクローズアップされてきたということなのだろうか。

私が子どものころはアポロの時代だ。小6の冬休みに親戚の叔母さんの入院していた病院にいて、退屈なので近くにあった高島屋でアポロ月面着陸船のプラモを買ってもらって作っていたのを思い出す。

私は小5から友人の影響で急に星とか宇宙とかロケットのことに関心を持つようになり、そのころ小学校の図書館にあったこうした関係の本はけっこう読んだ。それで中学時代はぼんやりとだが将来は天文学者になりたいと思っていた。けっこう理数系が得意な科目だったし。しかしロケット製作とか宇宙工学的なことは集団でやる作業なので、自分には合わないと思っていたから、一人でも出来る分野として天文学を考えていたのだと思う。

ところが高校生になって文学というものを知ってから急速にこちらの方面の関心が薄れ、勉強もしなくなって数学がまったく分からなくなった。進路指導の時には「将来物書きになりたい」と言っていた。本当は小説家が希望だったのだが、ちょっと後ろめたい気もあったためにこんな言い方になった。

その後毛利さんや向井千秋さんなどが宇宙飛行士になるなんて新聞記事を読んだり、日本でもロケット開発が進み、それが民間の会社が請け負う形で行われていることなどを知るにつけ、初心貫徹しておけばよかったなどと、馬鹿なことを考えるようになっている。

人間欲を出すとろくなことがないとよく言われるけれど、まぁ、現在自分がやっている分野でそれなりの成果を出していれば、こんなことも考えることないだろうが、人間窮すればなんとかで、ろくなことを考えないなぁ、と自分ながらあきれている。

でも一度ロケット発射を種子島あたりに見に行きたい。これなら実現不可能ではないんじゃないかな。

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「妖精の教育」

2007年10月27日 | 現代フランス小説
ディディエ・ヴァン・コーヴラール『妖精の教育』(早川書房、2001年)

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳の売れ行きが好調ということに象徴されるように、最近小説の古典といわれていた作品群に再び注目が集まっているような気配がある。まぁもちろん音楽だとか漫画なんかにたいする関心に比べれば、かなり数字的にはかけ離れているのだろうけど、もともとお堅い小説が何十万部も売れるというものではないのだから、ちょっと異常なくらいのブームと言っていいのかもしれない。

そういえばあちこちのブログで「私家版10大小説」といった類のものも散見する。そのなかによく見られるのがフランスの小説ではスタンダールの「赤と黒」とか「パルムの僧院」だ。じつは最近読んだフランスの小説にもよく触れられている。行動するファブリスに人気があるのかもしれない。

さてこの小説の作者は8歳から小説を書き出して、現在では毎日15時間くらい書いているというし、「おっかけ」までいるという人気作家らしい。

エールフランスのリムジンバスのなかでであった子持ちのイングリットにほれてしまったニコラは、自分の車が二人乗りだったので、どっかの重役を出迎えに来ていた運転手をだまして三人で乗り込み、恩を売る。次の日に彼女のマンションまで出かけていって再会し、彼女の心を射止めてしまう。このあたりのフランス人の男が女を落としてしまう手管というのは、はっきりいって、日本人には理解不可能だ。いったい女のどこに、どんなしぐさに、可能性を見出したのだろうか?

こうしてノルマンジーにある古い屋敷での三人の生活が始まる。戦闘機に乗っていてアフガンで戦死した父親を誇りにしている(といっても実際の父親はほとんど見たことがない)ラウルをもうまく付き合えるようになって幸せな毎日を送っていた頃、突然イングリットが「あなた鼾をかくわ」といって別れを切り出してきた。自分のどこが悪いのかと悩んでいた頃、町のスーパーのレジ係でえらく古い言葉を使うセザールという二十歳前後の女とのあいだに、けっして仕事上のやり取りしかしたことがないのに、奇妙な親愛感が生じる(もちろんそのことを確認したわけではない)。ニコラにとってはそこに行くのが楽しみになる。

イングリットが出て行って直後に、家の近くでその彼女が負傷して倒れているのを発見する。病院に連れて行ったりして世話した後、家に連れ帰る。彼女を見てラウルはきっとこの人がニコラの話していた「妖精」だと信じ込み、あれこれ話し、ニコラと一緒に住むことを決める。

そこにイングリットが突然返ってくる。じつは乳がんだと宣告されていたためにニコラと分かれることにしたのだが、手術の直前にそれが良性の腫瘍だと分かったのだった。

じつはうちの上さんも30歳代の終わり頃に乳がんだと診断されてついに手術というところまで行ったのだが、手術の直前にもう一度組織検査をした結果、ガンでも腫瘍でもないことが分かり、手術を取りやめたことがあったので、乳がんといわれて、夫に黙って立ち去っていく決心をしたイングリットの気持ちはよく分かる。私が乳がんと言われたわけではないが、どうして子どもが3人もいているのに、まだこんなに若いのに乳がんにならなきゃいけないのだ?と不運を呪ったというのが本当のところだ。

もちろん初期なら生存率は高くなるだろうが、乳がんというのはリンパに近いので相当の部分を切り取る結果、術後も大変らしい。ましてや生存が保障されたわけではないのだ。私の周りでも乳がんでなくなった女性を何人か知っている。じつは私のバイオリンの先生もこれで亡くなったのだ。ついこのあいだまで教えてくれていた人がもう存在しないというのは、信じられないことだった。

良性の腫瘍ということで生還してきたイングリット、修士論文を認めてもらうためにフランスにやってきたが入学許可が下りずにレジのアルバイトをして暮らしている(そして監視役の同国人男性たちからひどい目にあうこともある)セザールの人生。「愛とユーモアのマジシャンが紡ぐ、フランス発ファンタスティックな新しい恋愛小説」とあるが、うーん、どこが?というのが正直な感想かな。

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「永遠の子ども」

2007年10月26日 | 現代フランス小説
フィリップ・フォレスト『永遠の子ども』(集英社、2005年)

フランスの現代文学(フィリップ・ソレルス、アルベール・カミュ、象徴主義詩人、シュールレアリスム)などを研究しちる大学教授で、彼自身の娘を4歳でなくした経験からこの小説は書かれている。

したがってこれも小説というよりは体験記と呼ぶべきか?腕の骨に骨肉腫ができ、それが転移していく闘病記でもあるが、腕の骨肉腫ががん細胞の増殖によってボールだまのようになって熱を帯びているなんてところまで読むと、それ以上はとてもつらくて読み続けることができない。いたいけない子どもの不当な苦しみほど、見るものをつらくするものはない。

本来自分よりも先に死ぬべきではない子どもを亡くした親に多少とも文学的素養があった場合に、当然のことながらそれを乗り越えるための道には二つある。それを文学的に「昇華」させてしまうか、まったく文学として仮想のものを作り上げることを拒否するかのどちらかである。

私の知り合いは、ちょっとした風邪をこじらせて5歳くらいの娘を亡くした。妻が自分の詩作に熱中しすぎてきちんと看病しなかったからだとこの人は思っており、それを「晴らす」かのように小説に書いたが、友人からいさめられて、没にしてしまった。自分が守ってやれなかったことへの自責の念を文学的に「昇華」させることができるのかどうか、私には分からない。

この小説の作者フォレストも似たような自責の念から娘の死を文学的に「昇華」させようとしてこの小説を書いたように思える。たしかにそうすることで「昇華」させることができたかどうかは問題ではないだろうし、読者もそこに気を配る必要はない。

だが、何の罪もないポーリーヌがその激痛に、そしてそれを消すモルヒネの作用によって、苦しむのを見るのは、耐えられない。現実の親としては、本当にそういう子どもをただただ抱きしめて一緒に苦痛に耐えるしかない。

いったいなぜそんな苦痛をこんな子どもが味わわなければならないのかと問うたところで答えはないだろう。私は生まないでくれと言ったではないかと詰問したところで、生まれてきた子どもには罪はないし、生まれてきた以上は愛着が湧いてくるものなのだ。

キリスト教の世界なら、こんなことが神の定めなのかと嘆くこともできるだろうが、神の存在しない世界に住んでいる者にとっては、そんなごまかしの嘆きは発するわけにはいかない。ただそれを受け入れるしかない。そしてその悲しみは決して癒えることはない。

フィリップ・フォレストの小説の翻訳はこれ以外に、『さりながら』が2008年に白水社から出版されている。

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「アンテクリスタ」

2007年10月24日 | 現代フランス小説
Amelie Nothomb, Antechrista, Albin Michel, 2003, LP, no.30327.
アメリー・ノトン『アンテクリスタ』(アルバン・ミシェル、2003年)

アメリー・ノトンの小説はフランス語のなかでも読みやすいほうだと思う。それにいろいろためになる表現も出てくる。たとえば、「理想が高い」なんてよく使う表現だが、placer la barre hautといって、飛び越えるべき線を高くするというような言い方になるし、「馬鹿にも程がある」というのもle ridicule a ses limitesで、limitesが「程度」「ほど」を表すわけで、ほとんど日本語的発想と同じだということが分かる。面白いね。

さて、この小説は16歳で大学生(これって私の読み違いかとずっと思っていたのだが、何回か16歳が出てくるし、話の内容は高校生ではなく、大学生となっているので、ベルギーでは16歳で大学生ということがありうるのだろうか?よく分からない)のブランシュ(白いという意味)が主人公である。彼女は本ばかり読んでいて、内気で、ずっと友達がいなくて、陰気な感じの女の子。大学の近くに、教師をしている両親と住んでいる。

あるとき、前々から気になっていたクリスタという女の子がブランシュに声を掛けてきた。クリスタは彼女とは正反対で、活発で、学生たちの中のリーダー的存在で目立っている。自分は電車で2時間もかかるマルムディという町から通っていて、それにバスに乗る時間もあって、9時に授業が始まる火曜日は朝の4時に起きなければならないと話す。それを聞いたブランシュは思わず、月曜日の夜はうちに泊まっていけばと誘う。

クリスタはブランシュの両親の前でも優等生的でがんばり屋の仮面をかぶり、あっという間にブランシュよりも優位に立つ。そしてブランシュは自分の家でさえも、女主人に対する召使のような立場になってしまう。しばらくして完全に両親のお気に入りになったクリスタは月曜日だけでなく、ブランシュの部屋に同居することになる。自分に意地悪をする本当のクリスタこそアンテクリスタ(偽クリスタ)だとブランシュは思う。

休暇になってブランシュはひそかにマルムディに出かけ、クリスタの恋人でデヴィット・ボウイに似ているというデトレフを探す。ついに見つけたデトレフは肥満の醜い男であることが分かり、また貧しいと言っていたのにクリスタの家は大工場主であることも分かる。

ブランシュは家に帰るとそのことを話し、嘘を言われていたことで両親は激怒し、ついに休暇から帰ってきたクリスタを詰問して、追い出してしまう。こうしてもとの生活が始まったが、大学ではクリスタがブランシュのことをあれこれ言いまわり、みんなから冷たい目で見られるようになる。あるとき、意を決したブランシュがクリスタの顔を両手でもってディープキスを浴びせる。呆然とするクリスタ。それから彼女は大学に姿を見せなくなる。

ブランシュはクリスタがなぜあんな嘘をついていたのかと考えるが、けっしてクリスタの気持ちには思い至ることがない。そこのところがこの小説に深みのないものにしているのが残念だ。すごい金持ちの娘なのに、ブリュッセルに下宿させてもらえず、毎日片道2時間以上かけて通学しているとか、すてきな恋人だってすぐできるだろうに、よりによって肥満の醜い男を恋人だと偽っていたクリスタの心の奥に潜む闇にまで光が当てられたら、もっとスリルもサスペンスもある、それでいて深みのある小説になったのではないだろうかと、注文をつけたくなる作品だった。

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いいものは美味しい?

2007年10月21日 | 日々の雑感
いいものは美味しい?

昨日、知り合いのKさんが難波にある韓国料理店に案内してくれた。立派な韓国料理店ではなく、庶民的な店である。土曜日の夜ということのためか、最近オープンしたばかりであまり知られていないせいか、客もほとんどいなかった。一人だったら、ぜったいに入らないような雰囲気の店である。店員さんは韓国から来た人みたいで、Kさんと韓国語でやり取りしている。彼はユッケジャンという真っ赤になるほど唐辛子の入ったスープにご飯を混ぜて食べている。私は辛いのがだめなので石焼ビビンバにコチジャンをいれずに食べた。

それよりも突き出しとして出されたなすびの炒め煮が見た目は日本風と同じなのだが、微妙に味が違って美味しかった。油が違うらしい。しょうゆを使っていないせいもあるだろう。ユッケジャンのような辛い韓国料理が食べられたらいいのだが、唐辛子が喉にあたると、喘息のようになって、息が出来なくなるので、自重している。

さて、Kさんが夏に外国旅行をしたおりに免税店でスコッチウイスキーを買ってきたから飲みましょうという。ずいぶん高いものらしいけど、美味しいのだという。私はあまりウイスキーは好きではない。だから遠慮していたのだけれど、ちょっと味見だけというので、いただいた。うまい。じつにマイルドな舌触り。人からもらったウイスキーがうちにあるが、それは喉を通るときにきゅーとなる。それがない。

Kさんが言うには、自分は普段はぜいたくはしないけれど、たまに飛びきり高いけれど上等なものを買って人を呼んで味わうのがすきなんだとのこと。飛びきり上等のものは本当に美味しい。たまにはそういうものを味わわないと人生の楽しみがないでしょというのだが、まぁたしかにそうだ。

ピンからキリまでというけれど、ピンばかりでなくキリも知っているほうが、人生に幅が出る。人間に幅が出来るというものだ。まぁ高価なものばかり食べたり飲んだりすることは当然ながら出来ないが、そういうものの味わいを知らずに死ぬのも、なんだかさびしいではないか。

私もKさんを見習って、ちょっとお金の使い方を方向転換しよう。

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「管の思想」

2007年10月20日 | 現代フランス小説
Amelie Nothomb, Metaphysique des tubes, Albin Michel, 2000, LP.no.15284.
アメリー・ノトン『管の思想』(アルバン・ミシェル、2000年)

1968年8月に神戸の夙川で生まれたアメリーの2歳半(1970年2月)から3歳と数日のあいだに起こった出来事とそれをめぐる2歳半のアメリーの思想を描いた、生と死をめぐるじつに深遠な思想と抱腹絶倒の面白さが同居した、なんとも言えず面白い小説。(左の写真はこの年齢のアメリー、右は二十数歳くらいのアメリー)

アメリーは生まれてからずっと赤ちゃんのベッドに寝たきりで、うんともすんとも言わずに2歳半になった。ずっと天井ばかり見て過ごしてきたアメリーを「病的無関心」と診断した。それでアメリーは「植物人間」と呼ばれていたが、やっと意味のない声を出すようになると、両親は大喜びで、さっそくベルギーにいる父方の祖母を日本に呼んだのだった。その祖母がベルギーからもってきた白いチョコレートをアメリーの目の前に見せると、アメリーはかぶりつき、それからというもの突然動き出し言葉を発するようになった。

「神[アメリーは自分のことをそれまで神と呼んでいる]の上には天井と、そらでその形を覚えている縞柄がある。それが彼の唯一の話し相手で、だから軽蔑の言葉をそれらに向かって吐き出したのだ。明らかに天井はそんなことは相手にせず、神は不愉快になった。
 突然、視界をだれだか分からぬ顔が覆った。これはなに?どうも母親と同じ性の大人の人間のようだ。最初の驚きがおさまると、神は長いあえぎ声で不快感を表した。
 その顔が微笑んだ。神はそれは知っている。神の機嫌を取ろうとしているのだ。うまく行くかい。神は歯をむき出す。その顔は口から言葉をかけてくる。(...)
 一方の手が彼の視界に現れ――これは驚きだ!――指のあいだに白い棒がある。神はいままで見たことがなく、思わず叫んでしまう。
 ―ベルギーの白いチョコよ、とこの祖母は子どもに言う。
 この言葉のうちの「白い」しか神には理解できない。「白い」は知っているし、ミルクや壁の上のそれを見たことがある。他の語彙は不明だ。「チョコレート」と特に「ベルギー」が分からない。そうこうするうちに棒は神の口のすぐ近くにある。
 ―これは食べ物よ、と声が言った。
 食べる、これなら知っている。神がよくやっていることだ。(...)
 食べることはいい匂いがすることだ。この白い棒は神が知らない香りがする。石鹸やポマードよりもいい香りがする。神は怖くなると同時に欲しくなった。嫌悪に顔をゆがめ、欲しくて唾が出る。
 勇気をだして彼は歯でこの新しいものに齧り付き、咀嚼しようとするが、そんな必要はない。舌の上で解けてしまい、口蓋にまとわりついた。口いっぱいになった―そして奇跡が起きた。
 欲望が頭に上ってきて、大脳を引き裂き、聞いたこともない声を響かせた。
 ―私だ!私が生きているんだ!私が喋っているんだ!私は「彼」ではなく、私なんだ!お前はお前のことを話すのに「彼」という必要はない。そして私はお前の最良の友なんだ。私がお前に喜びを与えるのだ。
 このとき私は生まれた。1970年2月で2歳半で、夙川という関西地方の山間の町で。父方の祖母の目の前で、白いチョコレートのおかげだった。」(p.28-31)

 アメリーが発した最初の単語は「ママ」「パパ」そして第三の語が「掃除機」で四番目に姉の名前の「ジュリエット」だった。五番目は当然兄の名前とくるところだが、兄にはいじめられていたので西尾さんというアメリーにやさしくしてくれた世話係というか女中さんの名前になった。

「西尾さん」も面白い人物として描かれている。何度も自分が7歳のときに体験した空襲の話や姉が汽車に轢かれてバラバラになった話しなどをしてくれる。フランス語も喋れないアメリーが日本語で話す西尾さんのこの話をしっかり理解するというのだから不思議だ。

しばらくしてベルギーに帰っていた祖母が亡くなる。アメリーの母親が彼女に死ということはまだ分からないだろうけれどと言った瞬間に、アメリーは自分がいかに死というものをよく知っているか説明する。まさにこの小説がMetaphysiqueであるゆえんだ。

神戸にあるベルギーの総領事館で外交官として働いている父親、母親、兄と姉、優しい西尾さんと暮らすアメリーのこの物語を面白くしてくれるのが、新しく雇われた「鹿島さん」という50歳くらいの女性である。彼女は元貴族で戦争で欧米が日本の古きよきものをすべて破壊したと憎んでおり、アメリーたち白人を軽蔑と憎悪のまなざしで見るような人である。したがって雇われていても仕事はすべて西尾さん(30歳くらい)にやらせて、自分は何もしない。

8月にアメリーの三歳の誕生日に両親が鯉を三尾買ってくれ、庭の池に放していた。それに毎日餌をやるのがアメリーの日課なのだが、彼女は口を大きく開けて餌を食べる鯉を憎んでいた。鯉が口を大きく開けると中まで見えるようで、「人生はすべてを飲み込み、あとには何も残らない管のようなものだ」(p.146)と考えるようになる。タイトルのdes tubesというのはここからきている。

ある日鯉に餌をやっているとき「人生――すべてを飲み込む鯉の口――と、死――ゆっくりと腐敗していく植物――のあいだで、お前はどちらを選ぶ?どちらが吐き気を催すことが少ない?」(p.146)というめくるめくような問いにわなわなと震えだして池に落ちてしまう。水の中でこのまま死ねるのを幸せと感じていると人影が見えた。鹿島さんだった。アメリーは彼女は自分を憎んでいるからこのまま死なせてくれるだろうと思う。そのとおり、鹿島さんは手を出さず、水の中のアメリーに微笑みさえしたのだ。

このあたりはアメリーの哲学的考察と水中に浮かんでいるという事実の滑稽さのギャップが面白い。最後には西尾さんによって助けられるのだが、鹿島さんというなんとも興味深い人物がこの小説に深い影を与えていることは否定できないだろう。

本当にこの小説の面白さは、私の下手な要約や翻訳では伝えられそうにない。

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稲刈り

2007年10月19日 | 日々の雑感
稲刈り

稲の穂がたわわに頭をたれはじめたのを見て、いつになったら稲刈りをするのだろうと思っていたところ、今朝になって稲刈りが済んでいた。このあたりでは珍しく、天日干ししているところもある。稲を束にして、家の屋根のように乾してあるのだ。私の田舎のほうでは、それが5段くらいにしてあったのを思い出す。たぶん山間の村だったから日照時間が短いので、それに対応するための方法だったのだろう。高校生の頃、米子から遊びに来た友人が「空が狭い」と驚いていたくらいだから、山と山に挟まれて日照時間が短かったのだろうと思う。(右の写真はロッキー石村さんのものを拝借しました。)

稲といえば、脱穀をした残りの稲、つまり藁は、昔は捨てるものではなく、それをいろんなものに活用していた。いい例が、草履である。それの巨大なやつは朝牛のえさになる草を刈りに行ったり薪を取りに行ったりして背負うのにちょうどいい。また雪深い東北なんかでは藁で長靴もつくっただろうし、家のほうでは縄を編んだりもしていた。そして大量に使用するといえば畳床である。最近は発泡スチロールのようなものが畳床に使われているが、やはり藁の畳床が吸湿性通気性から考えてベストだろう。また燃やして灰にしたら畑の肥料にもなるし、そのまま放置しておいても腐れて腐葉土のようになる。そして牛や馬を飼っているならその餌にもなる。だからなにも捨てるところなどない。

最近は遠ざかっているが、石川英輔さんの「大江戸エコロジー事情」なんかでも強調されていたように、あらゆるものが捨てるところなどない、そういう使い方をしてやれば、ごみなんか出ようがないのだ。本来はそういう生活がいいはずなのだが、資本主義社会は大量消費大量廃棄しなければ、大量生産をまかいないきれないから、そういう生活スタイルとは相容れない。そこのところをどうしていくのか。このままでは地球はゴミ捨て場のようになってしまうだろう。

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「サウスバウンド」

2007年10月18日 | 映画
『サウスバウンド』(森田芳光監督、2007年)

映画が始まって、森田芳光監督というタイトルを見て、しまったと私は思った。彼の作品は古くは「家族ゲーム」や「それから」以降ずいぶんと遠ざかって、最近「模倣犯」を見たことがあるが、この監督は映画作りが下手だなと思っているからだ。話の山を作ることができない監督というのが私の印象。「家族ゲーム」や「それから」は物語りそのものがひっそりと暮らす夫婦(「それから」)とか心の中に鬱屈を秘めて成長していく少年(「家族ゲーム」)というものだったから、それでも良かったけれども、「模倣犯」はさっぱり。だいたい主役に中居くんを使うのが間違っている。

それでやっぱり盛り上がりも山場もない映画になっている。救いはトヨカワが期待に反して上手かったこと。桃子ちゃん役の女の子がかわいかったからいいか。

原作は上原一郎の型破りだけども純粋なな生き方を子どもの視線で見ることからくる面白さにある。本来子どものほうが純粋な視線をもっている。でも父親があまりに純粋すぎて、子どもの二郎君のほうが世間ずれしているのだ。でも前半を盛り上げる一番は二郎君と彼のグループが中学生のグループからカツ上げをくってにっちもさっちも行かなくなった状況を一気に打ち破るところにある。原作はそこを丹念に描いて、この子たちどうなるんだろうと読者に心配させるくらいの筆力があるのだが、映画では中途半端に終わっている。

後半は業者による上原家の家屋解体がメインになってしまった。それは仕方がないとして、なぜ一郎がそこまで反抗するのか、まるでツッパリの中学生みたいに、社会権力にたいして頑なに抵抗するのか、そこに行くまでの登場人物の心の動きを丁寧に追って欲しかったのだが、映画では無理なのだろうか?

それにしても沖縄の映像が良かった。でも現地の人たちの登場が少なかったのは残念だ。上原一郎も沖縄の言葉を使って欲しかったね。

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怖ろしい真実

2007年10月17日 | 日々の雑感
怖ろしい真実

月曜日の夜8時からやる「世界まる見え」という番組で恐ろしいものを見た。アメリカのどっかの(CNNみたいなメジャーなところではなかったと思う)テレビ局が作った911ビル爆破テロの新事実に関するものである。

911のWTCビルがハイジャックされた旅客機の衝突によって崩壊したという事件は、当時の多くの「知識人」といわれる人たちが「世界を一変させた」などと口々にして驚きのコメントを出したくらいに、衝撃的な出来事だった。

私もちょうどその日は家にいて、いつものように昼ご飯を食べながら4チャンや6チャンのワイドショーを見ていた。そこへあの衝撃的な映像が飛び込んできたのでテレビに釘付けになったことを今でもはっきりと覚えている。そしてビルが一気に崩落していくあの映像だ。

ビルで働いていた人はもちろんのこと、消火作業や救出作業に当たっていた消防隊員たちの多くが犠牲になった。そしてこれはアメリカにこれまでになかったショックを与え、ブッシュはこれを利用してイラクに戦争を仕掛け、フセインは倒されたが、今のイラクは泥沼状態になっている。

ところが「世界まる見え」で紹介していたそのテレビによると、果たしてテロによるものなのかどうか、またビルの崩壊が飛行機が突っ込んだことによる衝撃とか燃料火災によるものなのかどうか、大いに疑問があるというのだ。しかもそれがじつに説得力がある。

まず、鉄骨が溶けなければ普通はあのような一気に崩れ落ちるということはないが、鉄骨が溶けるのは1700度以上なのに、火災の温度は1000度くらいだという。もちろん飛行機の燃料であるケロシンも家庭で使う軽油と同じだからそんな温度になることはない。

ビルの崩壊のときに通常の火災ではありえないような、鉄骨が溶けて滝のように流れ落ちる映像がある。米軍が使っている火薬には1700度以上になって鉄も溶かすものがあるらしい。そういう火薬でも使わない限りこんな映像は生じないはずだという。

第二にビルが崩壊し始めると、崩壊よりもずっと下のほうに爆発の映像が映っている。そして火災によるビル崩壊の場合はこんなに急速に崩落することはないし、たいてい鉄骨だけは残る。ところがまるでビルの解体現場のように、こなごなになって崩落してしまっている。そう爆発物を使ったビルの解体と同じなのだ。

第三に、このビルのオーナーは911の4・5週間前にこのビルに巨額の保険をかけていること、同じ頃にビル内のあちこちでドリルを使った工事がおこなわれていたこと。

こういうことを考え合わせると、ビルのオーナーがアラブ系の人間を買収して旅客機のハイジャックをさせ、それをWTCビルやペンタゴン(こちらは偽装のため)に突っ込ませた。それを合図にビルに仕掛けられていた爆発物にスイッチが入れられ、解体させられた。そして人々はそれをイスラム教原理主義者によるテロと断じた、というオソロシイ仮説である。

もしこれが事実だとしたら、本当に全世界をだましアメリカをイラク戦争に駆り立て、一方では巨額の保険金(80億円だったかな)を手に入れたこのオーナーに国家が好きなように振り回されているということだ。アメリカというのは怖ろしい国だ。

ちょっと調べただけでも、けっこうこの問題についてのサイトがあるようだ。ここでは二つだけ紹介しておこう。
911の真実
911ボーイングを探せ

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