読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「橋本治が大辞林を使う」

2006年07月31日 | 作家ハ行
橋本治『橋本治が大辞林を使う』(三省堂、2001年)

『桃尻娘』の作家ということくらいしか、私は知らなかったが、「ことば」について書かれたものに最近関心があるので、ぱらぱらとめくってみたら面白そうなことを書いているので、借りてみたのだが、案の定面白かった。何が面白かったかといって、この人が自分というものを若い頃からよく分かっていて、かつそのような自分をすごく好きだった人だということ。だからこの人は劣等感というものがないというわけ。自分のしたいことだけをしてきたし、自分がしたくてしなければならないことには一生懸命になって、到達目標達成のために集中するが、したくないことは他人ができようができまいがどうでもいいと考えるような人だから。

この人が漢字を覚えるようになった経験を書いているところがあるのだけど、それもすごく面白い。ラジオ全盛の時代で、いつも耳から入ってくるので覚えてしまった番組の決り文句(たとえば連続放送劇『笛吹童子』のオープニング)の音が、何気なく見ていた新聞の番組表にある笛吹童子という四文字漢字がそれではないかと思ったり、そのラジオドラマが映画化されて街中に張り出されたポスターにいつも耳にして覚えた作者の名前とか音楽家の名前らしきものを見つけてこの漢字があれというふうにして漢字を理解し、覚えていったというのですからね。相当に理屈っぽい子だったのだろうね。

この本はなぜ橋本治という作家が大辞林を使うのかということをテーマの一つにしているのだけれども、そんなことよりも、じつに面白い、ためになる話が満載といって言い。

モノローグとダイアローグもそうだ。独り言としてのモノローグの言葉と、外との関係を作るダイアローグの言葉があるなんてのは、当たり前じゃと思うのだが、現実のなかでは、その区別がきちんとついているのかと問われると、確信がない。分かっているようで分かっていないのではないか。それを教えてくれたのが、ある雑誌の企画で30人くらいの若者たちを集めたセミナーのフリートークで、一人の男の意見が周囲の反感を買ってしまい、彼一人が孤立したという話です。橋本によれば、そういうことになったのはこの若者の言葉が自覚のないモノローグだったからで、橋本がそのことを教えてやらなければ、彼はそのことがずっと分からないままであっただろうし、なぜ自分の言ったことが人の反感を買うのかも分からずにいただろうということで、しかも「そうなんだ」というモノローグの言葉から「そうなんですね」というダイアローグの言葉に置き換えることは、頭の問題ではなく、そのような音を口に出すという身体の問題であると、橋本が指摘しているのも、目からウロコのようにびっくり。

彼はそこからさらに敬語とは、尊敬語ではなく、現代においては、他者との距離あらわすものだと指摘している。身分の上下とか社会的地位だというものは、ある意味、現代においては意味をなさないものであるけれども、それでも人との距離は必要で、それを表すのが敬語だという橋本の説明は、なるほどと思わせる説得力をもっている。

『桃尻娘』とか『窯変源氏物語』とか読んでみようと思っている。

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「超」文章法

2006年07月30日 | 人文科学系
野口悠紀雄『「超」文章法』(中公新書、2002年)

文章を書くときにすぐ使えるマニュアルとしての文章作法論である。ここでの文章というのは、論文、解説文、報告文、企画書、評論、批評、エッセイ、紀行文などを指しており、いわゆるフィクションなどの文学作品ではないが、大きな意味ではそういうものにも通じる普遍的な文章作法となっている。

いわゆる日本語に固有の文章の作り方―主語述語の明確化、修飾関係の明確化など―についてもこの本では第5章で触れられていて、これについては私はだいぶ前に本多勝一の「日本語の作文技術」に感心したことを思い出す。だが、この本は、そうした作文技術以前の、メッセージを明確にすることが重要だということ、内容面の骨組みつくり、形式面の構成つくりというような、それ以前の発想の問題にまで論じているところに、私は感心した。以前『「超」整理法』を読んで感心したことを思い出すが、どちらの場合にも自分の経験をきちんと整理して、吟味しなおし、それを先人の文章読本などで補強するという、まさに筆者がこの本で主張していることを実践しているのが面白い。

昔から正しいことを書いていれば入れ物はどうでもいいのだ的な考え方が、大学の教員の書く論文にはある。本当に、高校生並みのものを書いて論文と称しているのを読んでびっくり仰天した経験がある。優れた読書感想文などにあるような、感想を書くことに対する情熱というようなものが、こうした論文には見られない分、もっと価値の低いものだと思う。かと思いきや、筆者の主観的な情熱・思いのたけのようなものだけが延々と書かれた「論文」なるものさえある。理系の場合は事情が違うだろうが、文系の、しかも文学系の論文には、本当にひどいものがある。そういうものを紀要などに毎回連載のようにして掲載して、業績と称している専任教員もいるのだから、文系の論文など価値がないと理系から言われても仕方がないだろう。そういうのがボス的な位置にいたりするともうチェック機能も働かない。研究もいい加減、教育もいい加減、もういい加減、退職したらどうだと言いたくなる。

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「妖櫻忌」

2006年07月29日 | 作家サ行
篠田節子『妖櫻忌』(角川書店、2001年)

篠田節子さんの、『カノン』とか『ハルモニア』に見られるような、芸術家あるいは芸術というものの神秘的な力を描いた一連の作品の一つと言っていいだろう。今回は作家、しかも日本の中世から近世の歌人を描く小説家であり歌人でもあった大原鳳月という女性の情念が、彼女の秘書をしていた若桑律子にのり移って、優れた短歌論や批評を書かせてきたというような、オカルト的な芸術家像を作り上げている。大原鳳月は律子のもっていた「論理的思考、広く深い教養、地道な情熱、根気、卓越した記憶力」を利用し、逆に若桑律子も大原鳳月がもっていた卓越したリズム感をもって五行から六行にもおよぶ流麗な調文を自在に駆使していく文体を利用した。そうして出来上がったのが、大原鳳月の文章だった。だから若桑律子はたんに大原鳳月のゴーストライターだったわけではなく、たんに大原鳳月が若桑律子にのり移って好きなことを書かせたわけでもなかった。両者の合作のようなものだったのだというのが、この物語の真相ということになる。

58歳になる女流文豪の大原鳳月が、二回りも若い演出家と、彼女の東屋風の茶室で、火事のために死んだというところから物語は始まる。彼女が「花伝書異聞」を連載をしていた出版社のアテナ書房の担当者の堀口のところに、大原鳳月の秘書の若桑律子が最終回の原稿をもって来る。その直後、彼女が大原鳳月の伝記だという原稿を持ち込んできたが、それは律子が以前にも書いたことがある下手な文章だったので、それを書き直してもらったところ、大原鳳月の書いたものとみまちがうような出来栄えのものを律子が持ち込んだところから、じょじょに堀口は律子が衰弱していき精神に狂乱の度を増すのを見て、大原鳳月が律子にのり移って、死後まで自分の文章を書かせようとしているのではないかと思うようになる。大原鳳月の自伝が完成し、新たな作品に取り掛かるというときに、律子は大原鳳月の霊を拒否し、その挙句に悶死してしまう。そしてやっと大原鳳月の霊が起した不可解な事件は終わるというのが、この小説のあらすじである。

音楽家なら、モーツァルトのように、ふだんは下ネタばかり口にして人を笑わせる、ちょっと下品な人間でありながら、作られた音楽は天上界の世界のような崇高な世界を描いているというような例もあるので、天才と狂気は紙一重的な芸術家像も成り立ち得るのだが、文学の世界だとどうなんでしょう。ドストエフスキーとかカフカのような例もあるから一概には言えないけれど、こういうオカルト的な発想はちょっと無理があるじゃないでしょうかね。もちろん作り物ですから、オカルトだめということではなくて、リアリティーに欠けるということです。そんなことあるかもしれないなと読者が思えないというか、楽しめないというか。ちょっと私も疲れ気味かな。

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流行歌

2006年07月28日 | 日々の雑感
流行歌

歌というものはほんとうに不思議だ。何十年たってからでも、ある流行歌を聞くと、その歌をよく聞いていた頃の自分の精神状態とか出来事とかが、一瞬にして思い出されるからだ。こういうイメージ喚起の力というのは香りにもあるようだ(このことは以前『匂いのエロチシズム』という本について書いたときにも触れた)。音楽のこうしたイメージ喚起力については、クラシック音楽ではあまり聞いたことがないが、流行歌ははやり一時的な流行ということがついてまわるので、ある特定の時期の自分の精神状態と結びついているのだろう。それとその歌が流行っているときには、やたらとあちこちで耳にすることが多いことも関係しているのだろう。

なぜこんなことを思うのかというと、最近、たまたまカーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モア」を耳にしたところ、突然大学一年生のころの下宿にいる自分、先が見えず不安な自分の精神状態をありありと思い出したからだ。下宿の夜、親元から遠く離れて暮らす自分、なんだか解放感もあるが、なにかに打ち込んでいるわけでもなく、わけの分からない寂しさに包まれている自分を思い出した。とくに印象に残っていた曲ではない。どちらかといえばカーペンターズは好きなグループではなかった。だから意図的にこの曲を聞いたわけではないし、こんな思いが甦ってくるとは思いもしなかったし、まるで大学一年生の自分に戻ったような気がしたので、すごく驚いたわけだ。

私の思い出の歌といえば、千賀かほるの「真夜中のギター」だ。中学の1年の時、同級生でクリスマス・パーティーをした。当時の田舎の子どもにとってはすごいことである。10人くらいの男女が集まって(そのなかの一人の子の家を貸しきりにしたようなものだった)、ゲームをしたり一緒に「シャボン玉ホリデー」を見たりした。帰る頃には真っ暗で、雪がしんしんと降っていた。まさにクリスマスの夜の雰囲気にぴったり。私はみんなと方角が違うので、一人で帰った。しんしんとふる雪の中を歩き、町並みがとぎれると真っ暗。でも雪が積もっているので、ほんのりと明るい。雪がまわりの音を吸収してくれるので、ほんわかと静か。そのころはまだ車もあまりなかったから、誰一人、車一台通っていない白い道を一人で帰った。その頃に流行っていたのが「真夜中のギター」で、なぜかこの二つは私の中ではセットになっている。

もう一つはガロの「学生街の喫茶店」。これは私が高校生の頃に流行った歌で、「あのころは」で始まるこの歌は、高校生の頃の私の自分の中に閉じこもり、勉強も手がつかず、何もやる気がしないで、ただもんもんと日々を過ごしていた自分と重なる。もちろん好きな子ができてもまともに告白もできず、自分を卑下したり嘆いてみたりした精神状態も思い出される。「私の青春譜」というCD10枚くらいに収められた60年代から70年代のフォークソングにこの歌を見つけて久しぶりに聞いたときには、感動した。

きりがないので最後にすると、イルカの「なごり雪」。これはテレビでもときどき演奏されたりするので、思い出をもっている人がたくさんいるのだろうと思う。私の場合は、学園闘争のころ、大学がロックアウトになり、試験がなくなってレポートに切り替えられ、それを出し終わった後、大学の近くの知り合いの下宿から出かける雪道が、なぜか思い出される。あの頃のなぜか高揚していた精神状態とイルカのちょっと鼻にかかった歌声が懐かしい。

こうやって思い出してみると、他にもユーミンの「あの日に帰りたい」だとか太田裕美の「木綿のハンカチーフ」だとか、なんか感傷的な歌ばかりだけど、そういうのが甦ってくる。

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「ガセネッタ&シモネッタ」

2006年07月27日 | 作家ヤ行
米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文芸春秋、2000年)

ロシア語通訳で有名な米原万里のエッセー集。通訳という仕事にまつわる言葉、外国語、通訳たちについてのエッセー。面白いなと思ったことを二・三。

先進国八カ国会議、いわゆるサミットで欧米諸国以外の国として日本が入っているが、その同時通訳は日本語以外はすべてダイレクトに通訳されるのに、日本語だけは英語からの通訳しかされないらしい。それを日本が受け入れてきたということ。このことは政府高官・官僚たちのあいだに、日本語がいかに卑下されているかということを示している。国語はまさにその国の文化の中でももっとも高度なもの。それを政府高官・官僚が通訳してもらわなくてもいいです、英語から通訳してもらいますからと自分で自分の国語を馬鹿にしているとは、なんとも情けない。英語圏(とくにアメリカ)にはグローバリゼーション(自分のものを世界に広めよう、世界標準にしよう)はあっても、インターナショナリゼーション(世界標準を自国標準にしよう)はない。日本の国際化はかくも愚かな所業であるということを教えてくれた。

柳瀬というジョイス研究者と永井愛という劇作家との対談はどちらも興味深かった。日本語の変容、しかも日本語がだめになっていくといわれるけど、日本語の変容は日本語の柔軟性を示すことであって、決して嘆くことばかりではないと米原万里は主張する。だから日本という国への愛国心を育てるには日本の文学をしっかり読ませることが大事なのだ。男言葉・女言葉が日本語にはあるからだめだと言われる。でも言葉を使うことで性差を行き来できるということは素晴らしいことではないかと、米原は完全に永井をくっている。

私も少しだけ通訳の真似事をしたことがある。ある家庭に二泊したフランス人夫婦の通訳をした。もちろん初めての経験で、言葉が出てこないのにはまいったが、家庭での通訳なので、同時に喋らなくてもいいし、分からない所は適当にはしょったりして通訳したから、できのいい通訳ではなかったが、いけばなの師匠さんの家だったので、いけばなの説明だとか子どもさんの学校の話をして、けっこう盛り上がったりした。本当にどっと疲れがでたが、とてもいい経験をした。私はいつも思う。もっと若いときにこういう経験をしとくべきだったな、と。

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「政策秘書という仕事」

2006年07月26日 | 人文科学系
石本伸晃『政策秘書という仕事』(平凡社新書、2004年)

「政策秘書」なんて素敵な響きだろうね。これが秘書だけだったら、それほど魅力を感じないけど、政策という冠がつくと、なにやら有能な秘書という感じがする。実際、有能でなければ政策秘書は務まらないだろう。秘書の仕事は、まず第一に、議員の要望にあわせて資料を整え、まとめ、抜粋して、議員が作ろうとする国会質問のための文書や質問主旨書の下書きを作り、それを資料によって補強しなければならない。つまり大枠は国会議員が示すことになるが、その下書きや細部は政策秘書が整えることになる。これは並大抵の能力では務まらないことはおよそ予想がつく。資料集めは国立国会図書館がそうとうの力を発揮してくれるらしいが、それを読み込み、重要なところを抜粋する能力、文章を書く能力、それ以前に、行政、立法、司法などの法律・政治の知識がなければならないだろう。とくに議員が法制上どのような権利・義務があるのかということを実践的に知っていなければならない。その上に、電話で相談を受けたり、陳情を受けて、きちんと議員に報告する仕事もある。さらにもっと細かいことでは、議員の出張の段取りをしたり、時間のマネージメントもするのだから、そりゃ、並みの能力では無理でしょう。

でも、国会議員の秘書であるときは国家公務員ということなので、いいだろうけど、国会議員が衆議院なら4年の任期だけども、実際には3年くらいで解散があって、うまく当選してくれたら、引き続き秘書として仕事ができるが、落選でもしようものなら、失業ということになってしまうという実情などは、それだけの能力のある人が、やすやすと現在の高給をけって、無所属の国会議員の秘書になるのは、難しいということなのだ。だからたいていは政党に所属していることが多い。逆にいうと、無所属の人が有能な政策秘書を見つけるのは難しいということだ。それに有能な秘書が一人いればOKというわけにはいかない。そこで公設秘書3人分の給与で7人8人の秘書の給与に振り分けるという辻元議員のようなケースが起こる。

これを書いた人は、90年代を外資系の銀行のディーラーとして活躍しつつ、司法試験の勉強をして、2000年に司法試験に合格し、司法修習時代に、薬害エイズ問題で有名になった無所属の川田議員と知り合って、修習が終了後、彼女の政策秘書となった。だから、もし川田議員が落選しても(実際、そうなったのだが)、生活に困ることはないわけだ。彼にとってはいずれ弁護士になるつもりで、その活動分野を広げる、見聞を広めるための一つとして政策秘書をやったということなのだ。世の中、この人のように、どんどん成長しつづける人って、いるもんなんですね。

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「アカシア香る」

2006年07月25日 | 作家ハ行
藤堂志津子『アカシア香る』(新潮社、2001年)

40歳台になると、それまでがむしゃらにやって来たのに、突然自分がなにをしたいのか、してきたのかわけが分からなくなって惰性のように日々を過ごしてしまうようになるときがある。私は数年前からそういう状態に陥っていて、けっしてうつ病とかそういうのではないが、それまでのエネルギーが嘘だったように、なにもする気がしない、まとまった仕事をイメージできないという状態が続いている。自分ながら「抜け殻」のようになっているのが分かる。

そういう状態になるのはいろいろな契機があるのだろうが、数年にわたる母親の看病と死の後に、そういう状態に陥ってしまった45歳の未婚女性を描いたのがこの小説である。この小説の主人公の加治美波の場合は、母親の看病をはじめる前に東京でそれなりの恋愛経験もあり、会社でのブレーンとしての仕事もあったのだが、それをすてて札幌の母親のところに帰ってきたのだった。そして母親の死後ぼんやりとしていたところを、K高校で同期だった桐山の紹介でK高校の同窓会館の管理人を住み込みですることになったというところから物語が始まる。

仕事の単調さ・肉体労働的な性格が、ぼんやりしている状態の美波にはちょうどよかったことや、同期生たちがたまに話に来たり、かつての会社の社長で、一度は不倫関係にあった墨岡との関係の回想とか、同期生の集まりでたまたまであった音村とのあらたな関係になったりすることが描かれる。小説そのものとしては文章も読みやすいし、人物の造形にも破綻がなく、まぁまぁの読み物だと思う。

親の介護というのは、本当に厄介な問題だと思う。多くの場合は、ちょうど介護する側が働き盛り、会社などでも重要な役割をになっているということがあって、介護のために頻繁に休んだり、ましてや休職するなどもってのほかというような状態にあることが多いだろう。つまり、介護をとるか仕事をとるかの二者択一しかない。そういうところが日本社会のおくれを象徴していると思うのだが、明日からでもどちらかを選ばなければならないというようなところに追い詰められた人にとっては、そんなことは言っていられない。私の場合、父親は大学生の頃に亡くなっている。母親が一人暮らしをしているのだが(近くに弟の家族が住んでいる)、去年の春から腰を痛め、それまで働いていたパートの仕事を辞め、この春には今度は膝の関節を痛めて、正座ができなくなったらしい。だんだんと身動きできなくなって寝たきりのようになるのではないかと不安でしかたがないの。今のうちにこちらと同居するようにしたほうがいいのだろうか、だが母親にも田舎でいろいろ付き合いがあるから、こちらに来たらまったくそういう付き合いもなくなってしまうと、ボケてしまうのではないか、などなどいろいろな思いが錯綜して、考えがまとまらなくなる。いますぐ結論を出さなくてもいいだけに、あれこれ考えるだけで、なにも進まない。ほんとにいやだいやだ。

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「査問」

2006年07月24日 | 評論
川上徹『査問』(筑摩書房、1997年)

1940年生まれで、60年に東京大学に入学すると同時に共産党に入党し、64年に全学連を再建し、その委員長になり、その後民青同盟の中央常任委員をしていた72年に「新日和見主義」事件に連座して、一年間の党員権利剥奪の後、91年に共産党を離党したというのが、この作者の略歴で、この「新日和見主義」事件において作者が党中央から受けた査問を詳しく描写し、その後の自身の生き方を含め、それがこの事件に連座して査問を受けた人たちにどのような人生行路を与えたのかを描いている。

60年に入党したときから、三井三池炭坑での闘いもセツルメントとして垣間見た「私」は社会正義への純粋な気持ちから、共産党の専従として一生をかける決意をし、60年代後半から70年代の倍倍ゲームと言われるほど共産党が躍進した時期に、共産党の指導を受けると規約に明記する団体であった民青同盟の幹部として充実した日々を送っていたが、70年代初頭に、全員が党員でもある民青同盟の中央委員会に共産党の指導が上位下達式に下りていかないことに危機感を抱いた宮本・不破によって民青同盟に巣くう反動分子を摘発すべく大規模な査問が行なわれた。「私」以下、民青同盟の中央委員のほとんどが代々木に呼び出されて1週間あるいは2週間、場合によっては3週間もの拘束状態の中で、だれとどこでどんなことを話したという調査が徹底して行なわれ、最後には自己批判書を書かされて、そのあとも民青同盟の会議室で学習のやり直しをさせられたり、この「事件」の首謀者たちは長期の自宅監禁状態に置かれた。まさに国家権力並みの拷問にちかいことが行なわれた。まさに日共版「収容所群島」である。だが、この事件ではすべての党員が自己批判書を書くことで「決着」がついた。そもそもだれも自分たちが分派活動をしているとは思っていかなかったからだろう。だが、なかには気骨者もいて、ぜったいに自己批判書も書かない、なにひとつ査問に答えないと、黙秘を貫いていたら、その党員はどうなっていたのだろう。ずっと解放されないままだったのだろうか。恐ろしいことである。

大学を卒業後もいわゆる専従の道を選んできた彼らの多くは、いまさら党の外に放り出されても仕事を見つけることはできず、それぞれが大学に入りなおしたり、弁護士・司法書士をめざしたり、肉体労働についたりと、独自の道を進みつつも、共産党を辞めるものはほとんどいなかったが、それは彼らが反党分派活動をしたという意識がまったくなかったからである。党中央は「分派活動の芽を双葉のうちに摘み取った」と成果を公表していたとのことだが、実際にそんなものがあったのかどうか疑わしい。

これを読んで私が残念に思うのは、この著書を読んでも、この事件を契機に共産党のなにが変わったのかがまったく分からないことである。たしかに著者はこの事件以降共産党は相変わらず組織拡大をしていったが、官僚主義のシステムが完成しつつあったと書いてはいる。だが、その後の共産党の凋落にこの事件がどう関わっているのか関わっていないのか、この事件は共産党の本質を表すものなのかいなか、というような一般の読者が知りたいと思うようなことについて、何ひとつ触れられていないのだ。

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「神保町の怪人」

2006年07月23日 | 作家カ行
紀田順一郎『神保町の怪人』(東京創元社、2000年)

紀田順一郎という人、なんか聞いたことあるけど、誰か分からないので、インターネットで調べたら、1935年生まれだから、今年で71歳になる評論家・作家のようです。おもに推理小説・怪奇小説・幻想小説が専門の人のようです。

東京の古書街として有名な神保町(「じんぼちょう」と読むようだ)に跋扈する古書愛書家の生態をミステリー仕立てに作った小説。第一話の「展覧会の客」はかなり古い時期(昭和40年代)の古書即売会(を展覧会と言っていたらしい)で、『晩鐘と暁鐘』という珍しい本が窃盗にあうという事件をめぐって、主人公が友人とあれこれ推理するというものである。古書の窃盗で有名な、しかしだれもその尻尾を掴んだことがない大沢真男が『晩鐘と暁鐘』という珍しい本を窃盗したのではないかというのが二人の推理なのだが、結局はこの古書を出した古書屋が犯人ではという憶測にいきつく。

第二話の「『憂鬱な愛人』事件」は、夏目漱石の門人であり、漱石の長女と結婚した松岡譲の『憂鬱な愛人』の下巻を巡って、自分は歌人であって古書屋ではないと豪語しつつ、やっていることは古書屋と同じ、と後ろ指をさされている、曲者の高野が主催する古書販売会で、私がほしかった下巻を落札したのに、目の前でなくなってしまうという事件の推理である。これの謎解きは、この販売会に一緒に参加していた中島という男の謎解きの手紙という形でなされる。

第三話は、時代は1999年、インターネット販売の時代である「電脳恢々事件」。国際文化大学の図書館司書の長沢という女性が何者かに殺されコンピュータと古書が持ち逃げされるという事件の推理である。この大学の真鍋という女性講師と長沢のお金のもつれによる殺人と、古書を食い物にして名誉教授にまでなった笠井の論文剽窃に関わるパソコンと古書の持ち逃げが複合した事件だという推理がなされる。

この短編で興味深かったのは、私の田舎の米子の今井書店が主催する「書物の大学」というシンポジウムのことが触れられていたことだ。高校生の頃から日本文学を中心によく読むようになった私は学校の帰りとかに商店街にあった今井書店によくかよったものだ。まだ郊外型の大型書店はなく、この今井書店が米子では一番規模も大きく品揃えもよかった。ちょうど高校と家もしくは艇庫(前も書いたようにボート部に入っていたので、練習は錦公園にある艇庫まで行っていた)のあいだに、この今井書店があって、学校の帰りや、暇なときにはよく行っていた。鳥取大学の医学部が米子にはあり、大学生もよく来ていて、試験が何点だったなどという立ち話を聞いて、当時オチこぼれで勉強が嫌になっていた私は、「大学に行っても、あんなことを気にしなきゃいけないのか」と思ったりしたものである。その今井書店が全国規模の「書物の大学」という催しをしているというのを知ったのは割と最近だ。きっと田舎に行って、郊外にある今井書店に立ち寄ったときのことだろう。この小説にも「五年前」から開かれていたのが「今年が最後」というように書かれているので、いまは開催されていないのだろう。この郊外の今井書店もなくなってしまった。なんとも寂しいかぎりだ。

まぁ小説としては、どうということのない作品だ。

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花の風情

2006年07月22日 | 日々の雑感
花の風情

冬から春にかけて、まだ日ざしが強くない時期には、近くの池の周りがジョギングコースになっているのでそこに走りに行く。その周回コースの手前にくちなしの花があって、春になる前、だんだん暖かくなる頃になると、あのなんともいえない香りをあたりに漂わせる。その白さがあの甘酸っぱいような香りとミスマッチな漢字もするが、花の香りがいろいろあるといえども、あんな強い香りをあたりに漂わせる花もめずらしい。ただ花が終わるとその白さがくすんで汚らしくなるのが残念だ。椿のようにきれいなうちに落ちてしまったほうがいいのに。

ジョギングコースの途中に東側が竹林で西側が畑になっている所がある。そこに家がところどころ建っている。そのなかの一軒のとなりが空き地のようになっていて大きな木の陰になったところ、ちょうど畳一枚分の広さが沼のようになっている。秋から冬にかけては雑草がはえ、ときにはゴミが落ちていたりするので、この広さなら駐車場にでもすればいいのにと思いながら走っていたが、春になるとなにやら生えてきて、5月から6月にかけて花しょうぶの黄色い花が咲いて、それはきれいになる。この時期には花は落ちているけれども、まっすぐ伸びた茎なのか葉っぱなのかがきれいな緑色を輝かせている。きっと地下茎に栄養を蓄えているのだろう。

私が住んでいる大阪の南部にはまだ田園地帯がたくさんある。一つ川を渡ると、向こうは20年くらいはタイムスリップしたような田舎の風情のあるところ。秋になるとそこをジョギングするのだが、目当てはコスモスの群生だ。風に揺られながら、ピンクや赤や白のコスモスが揺れているのを見るのは、なんとも言えず秋の風情がある。ときどきわい性の背丈が伸びないコスモスを買って来てベランダに植えたりするが、やはりコスモスは背丈が高くて群生して、風に揺られていないと風情がない。秋風に揺れ、その後に秋の高い空があるというのが、なんだかいい。

冬になると、まぁ大阪は年に一度か二度ちょっとした雪が降るくらいだからたいしたことはない。雪の多い地方の人たちはジョギングはどうしているのだろうか?私の生まれ育った山陰も雪が多かった(最近は温暖化のせいかそうでもないようだが)ので、雪が降った次の日の朝は、空は真っ青、山は白く、空気はピーンと張りつめて冷たい、というのが好きだった。

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