読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「太陽の塔」

2007年02月28日 | 作家マ行
森見登美彦『太陽の塔』(新潮社、2003年)

第15回ファンタジーノベル大賞を受賞した作品だそうである。

「太陽の塔」というから、どこかの新興宗教のありがたい人生訓かとおもいきや、なんのことはない万博のときに作られた岡本太郎の太陽の塔のことだった。しかもこの小説のなかで太陽の塔がいったいどのような意味を付与されているのかと考えてみれば、これもまたたんに主人公森本がほれた水尾という女性がたいそう気に入ってしまったというだけの話に過ぎない。

しかも作品の肝心かなめの部分は、はっきりいって、世の中をはすに構えてみている高等遊民のお遊びといったところか。ちょうど、漱石の『猫』のように。両者の違いは、漱石の『猫』には社会批判文明批判があったが、こちらはまったくのお遊びにすぎないということだ。むかしは、というか、私たちが若かりしころは高校生のころにこういった遊びにふけっていたものだが、今どきの高校生は受験勉強に忙しくてとてもこんなことをやっている暇がないから、大学に入って一定の時間と恋愛ごっこをするだけの精神的余裕ができてからやるようになったのだろう。

こういった高等遊民のお遊びは、漱石の『猫』に端を発し、その後旧制高校のいわゆるバンカラ精神として受け継がれ、人生のどうでもいいことをことさらに大げさな哲学的大問題ででもあるかのように真摯に考察する態度に表れることになる。もちろんその風貌は「弊衣破帽」である。ぼろぼろの学生帽にぼろぼろの学生服をまとって、虚飾華美を追い求める世間を睥睨して背を向ける精神である。

これがもっとも健全に発露されたのが戦中および戦後直後の旧制高校の最後の世代である。北杜夫が「マンボウ青春記」で描いたような若者群像である。着るものも食べるものもないから、いやがおうでも「弊衣破帽」にせざるをえなかった時代である。そういった時代には武士は食わねど高楊枝で、腹が減っても哲学的考察を捨てるわけにはいかないのが高等遊民たちである。

そうして流れが70年代の安保崩れの世代に広まった。それが私の高校時代である。日本文学に耽溺し、自らも小説などを書き、北杜夫に送ったところ、簡単な書評のようなものがきたのには驚いた。たしかに自分でもどこかに書いていたようにミミズがはったような字であったが、そのときの感動はいまだに忘れられない。そのときの手紙はどこにいったのか思い出せないが。

したがってこの小説もそうした流れを汲む高等遊民のお遊びごとであって、こんなものは私たちのようなかつてのそれが「ほほー、われわれの係累が脈々と根を張っておったか、まだ死に絶えていなかったとはなー」などと昔を懐かしみつつ読むようなものであって、いやしくもファンタジーノベル大賞などと祭り上げられて世人の関心の前にさらされるべきものではない。

だがこの小説のカバー絵はじつにいい。まさにファンタジーノベルにふさわしいイラストだと言ってもいい。このイラストに電車が描かれているのはたぶん叡山電車であろう。叡山電車はとてもファンタジーとは呼べないようなこの小説の中で唯一ファンタジーの要素をもっている。その叡山電車が真夜中の京都のはずれを走っているのを主人公は追いかけるし、それにのって、ちょうど『千と千尋の神隠し』でてくる電車と同じように、主人公を異界に連れ運んだりもする。

というわけで、かつての係累としては複雑な思いで読んだようなしだいである。

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本棚の整理

2007年02月27日 | 日々の雑感
本棚の整理

息子がドラフターという製図の機械をもらってきたので、それをこれまで書斎に私の机と並べておいていた上さんの机をどかして置くことになった。

机はもともと私が大学に入って最初の下宿に入ったときに私の部屋に置いてあったのをずっと持ちまわってきたやつで、まぁ捨ててもいいのだが、引出しのなかに上さんの小物がたくさん入っているので、それを出すと置き場所を提供しなければならない。そこで私の本棚の本を整理して、スペースを作り、そこに置くことになった。

そもそもうちのマンションはほとんど上さんの金で買ったようなものだ。ローンも上さんが払っている。なのに上さんの部屋はないので、自分の書類とか仕事のものはリビングに置いたままになっている。ずいぶんとひどい話なのだが、仕方がなかった。

娘が独り立ちしたときには、これで上さんの部屋ができると喜んだのも束の間。出戻りである。

そこで本棚を眺め、もうこれは絶対に読みそうにないなという本をピックアップして、積み上げる。以前にも、このマンションに引っ越す前に同じように本の整理をした。そのときはダンボール箱に10箱くらい処分用の本があった。友人に頼んで、堺では有名な古本屋の天牛書店に持ち込んだのだが、ほんと紙くずのような値段だったのを鮮明に覚えている。1万円くらだっただろうか。半分は手間賃として車を運転してくれた友人に渡した。

本というのはほんと不用になると紙くずである。とくに固い内容の本にその傾向が著しい。漫画の方が値段が高く買ってもらえる。

だから今回もまた紙くず同然の古本屋行きかなと思っていたのだが、インターネットで希望を募ったところ、引き取り手が現れ、送料を負担してもらって送り届けることができた。やっぱり本は読んでもらってなんぼである。古本屋に売るのもいいが、安く買い叩かれるよりも、欲しいという人に引き取ってもらう方がずっといい。

それと図書館でも寄贈本として引き取ってくれる。こちらはあまり大量というわけにはいかないだろうが、最近の本をもっていった。

問題は、フランス語の本だな。こればかりは捨てるしかないか。

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娘の出戻り

2007年02月25日 | 日々の雑感
娘の出戻り

といっても、離婚して帰ってきたという話ではない。昨年から隣の市で働き始めたので、職場の近くに住みたいということでワンルームマンションを借りていたのだが、どうも一人暮らしは思っていたほど面白くはないのか、帰ってきた。

例のレオパレスというやつで、冷蔵庫、クーラー、テレビ、洗濯機などの大型電化製品は予め備え付けになっているので、本当に楽だ。とくにクーラーなんかは今の都会には必需品で、しかも取り付けや取り外しが素人にはできないから、こういうシステムは本当に助かる。

それでも一人暮らしでなんやかやと小物が増えて、部屋の中が一杯だ。まぁこれからぼちぼち片付けるのだろうけど。

そしておまけに、建築を勉強している息子のほうは、知り合いから、あれなんていうのかな、製図の機械(って機械じゃないね)をもらってきて、それの置き場所がなくて、私の部屋の上さんの机(私が大学生になって下宿に入ったときに部屋にあったのをずっと使っているから、30年近く持ち歩いていることになる)を処分することになったりと、もう大変。

やっと狭いマンションだけどこれからは夫婦二人で広く使えると思っていた矢先なので、やれやれと思いつつも、まぁ娘が帰ってくるのはうれしいものなので、数年先までちょっと我慢しなければならないなと思っている。

私や上さんは大学生になると同時に下宿住まいで。私なんかは最初は鉄筋コンクリートの、あの当時では新しいワンルーム風のところだった。ボート部の先輩がいたというので決めた。でも高かったので、一年後には大学の裏の安い下宿に変わった。当時の家賃で5000円。そのかわり三畳間だし、ドアなんか薄い板張りでちょっと蹴ったらはずれそう。そこに二年間いて、大学から少し離れているが六畳と三畳と、今度はぐっと広い、けど汚い下宿に引っ越して、そこに結婚するまでいた。

この下宿は周辺に食べ物やがあまりなくて、けっこう歩いてあちこち行っていた。やはり住むことを考えるには食べ物やがたくさんあるところがいいと後になって思う。

結婚するまでずっと一人暮らしだったから、一人で暮らすことになんの不便も感じなかった。だから、息子なんかも大学に入った時点で一人暮らしをしてくれればいいと思いつつも、経済的な事情でそうもいかない。息子にしてみれば、大学まで2時間近くかかるので、本当は近くに住みたいのかもしれないが、タダでさえ学費が高いし、とてもうちの経済状態ではアパート代や食費までだしてやれるような余裕はない。

まぁ自分の衣服とか交遊費はバイトして捻出してもらうしかないが。今度この製図版をくれた先輩は大手の建築会社に就職したらしい。

20歳台はとにかく修行時代と私は思っている。大学の勉強だけが勉強ではないから実際に社会に出ていろいろ経験してみなければわからないことも多いし、必要なら世界にも出て修行してきたらいいと思っている。もちろんそれは自分で金を貯めてからにしてくださいよ。

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「ケッヘル」

2007年02月24日 | 作家ナ行
中山可穂『ケッヘル』(文芸春秋、2006年)

やっと読み終えたといっても、読むのに時間がかかったというのではなく、上巻を読み終えてから、下巻がやってくるまでのあいだにタイムラグがあって、時間がかかったということ。中山可穂のレズビアン物は敬遠したいが、これはよかった。感動とまでは行かないが、小説ならではの醍醐味を味わわせてくれた。

私自身はそれほどのモーツァルトファンではないが、知り合いにはモーツァルトだけがあればなにもいらないみたいなファンがいる。

上巻では、フランスの港町カレーでの木村伽椰と遠松鍵人の出会い、そして木村伽椰と辰巳千秋との逃避行、そして遠松鍵人の回想(少年時代から父親との放浪生活)。そしてアマデウス旅行者にはいった伽椰が添乗員をして行ったヨーロッパでの柳井の溺死。

まだこのあたりでは、木村伽椰をめぐる物語と遠松鍵人の回想とがどうつながっているのか分からないのだが、下巻になって、遠松鍵人の回想のなかに藤谷美津子が登場したり、高校生になった二人が栗田宗一郎や辰巳直道たちと一緒にオーケストラをやっていたという話になると、過去と現在が結びついてきて、伽椰が添乗員として付き添っていく栗田や榊原たちと遠松鍵人の関係が見えてくるし、また以外にも妻の千秋を取られて激怒した夫の辰巳が執拗に追いつづけているのが他ならぬ伽椰だったということが分かり、意外と狭い人間関係の中で物語が動いていることが見えてくる。

まぁこのあたりはこの作者にとって初めての大作でもあることを考えれば、いたし方のないことかと思う。それにしてもモーツァルトつながりでよくまぁここまで書いたものだと感心する。

作品の面白さということでいうと、なんと言っても遠松鍵人の父親が面白かった。最初は、なんでもかんでもモーツアルトのケッヘル番号につなげてものを考える馬鹿な奴とか思っていたのだが、長崎の五島列島にまで流れ着いて、そこの天主堂でオルガンを弾きながら、這いつくばってでも己の生涯追及してきたものをやり遂げるために必死になる姿は、崇高とさえいえる。一生涯かけてあれほど打ち込めるものをもてた人間の姿は、そのためにどれほど自分の子どもを好きなように連れまわそうと、周りの人間を引き回そうと、素晴らしいことではないかと思うようになった。

下巻の殺人事件の犯人探しをするサスペンス物のスタイルはそれはそれで楽しく読めたし、何日も順番が来るのを待って読んだだけのことはあった。本気でモーツァルトの作品を勉強しながら音楽を聴いてみたい気になっている。

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「グロテスク」

2007年02月23日 | 作家カ行
桐野夏生『グロテスク』(文芸春秋、2002年)

前回の「OUT」から早く桐野夏生の作品を読みたい、しかも骨のある作品を読みたいと思っていて、やっと図書館でこの作品を見つけ、ヨッシャーというような勢いで読み始めた。最初はよかったのだが、だんだんと読むのが嫌になってきた。

もちろん作品の出来ではない。そうではなくて、人物造形である。あまりにに悲惨すぎる人たちばかり。「OUT」の主人公は、たしかに人の体を切り刻んでポリ袋に入れて捨てるという、とても常識では考えられないようなことをやってしまうのだが、それでもそれにいたるものの考え方、生きてきた道筋を含めて、彼女のしゃんと背筋を伸ばした生き方の結果というのが、はっきりと伝わってくるし、そうした生き方自体にも(こんな行為は別としても)魅力があったし、共感のできるところがあった。

だがここに出てくる人物たちはすべて、嫌悪の対象にしかならない。
ユリコは自分の体を求めてくるかどうかでしか相手に関心を持たないような女として描かれている。生まれつきの娼婦という言葉が使われているが、ほんとうにそんな女がいるのだろうかと私は思ってしまう。

そして和恵は、ある意味、馬鹿だとしかいいようがない。序列化社会というものを絶対視して、その呪縛から一生逃れることができなかった。そもそも親がこうした序列化という幻想を作り上げていたわけで、和恵の家では序列があってその順番ですべてが決まることになっているというのだから、和恵が世の中というものはそういうものだと思い込み、その呪縛から逃れることができなかったのも仕方ないかもしれない。

ある意味、この和恵という人物形象は、作者にとって、現代人への警鐘だと言ってもいいかもしれない。序列化というのは支配者たちが序列化を唯一無二のものと思わせて、自分たちの支配を有効に行うために作り上げたシステムでしかないよ、だから早く幻想から眼を覚ましてドロップアウトするほうが自分のためだよということを、現代人に知らせたいがために作者はこういう作品を書いたのかもしれない。

そのあたりの意図は分からないが、それくらいこの作品の中に出てくる序列化システムの描き方は徹底している。和恵の家庭、Q女子高校、和恵の職場、すべてが恐ろしいほどの序列化社会として造形されている。

私がこの作品に吐き気が催すほどの嫌悪感を抱くのは、もちろんそうした和恵の造形よりも、語り手の造形にあるのかもしれない。人を信じることもできなければ、人間の質を親から受け継ぐはずの顔かたちだけに矮小化して判断するような人間に、私はどうもついていけなかった。

そのきわめつけは和恵との関係だといえる。とくに初めて和恵の家に行ったときの様子はこの人物(名前が思い出せない)の醜さを際立たせている。たとえば普通なら親から嫌がられているなと気づいたら、すぐに帰ってしまうものだろうが、この人物は家族の分しか食事の用意がないときにどんなものをお客に出すのだろうか興味しんしんでわざと居残るのだから。

いわば悪意を糧に生きているといってもいいかもしれない。そういう人物を作品の語り手にしたことで作品に複雑な形象ができて深みが生まれたかもしれないが、大方の読者はこの作品そのものに嫌悪感を抱いてしまうのではないだろうか。そこまで作者が予想していたのかどうか、それはわからない。

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「シャンボンさん」

2007年02月20日 | 現代フランス小説
Eric Holder, Mademoiselle Chambon, Flammarion, 1996, J'ai lu 4876, 2005.
エリック・オルデル『シャンボンさん』(フラマリオン、1996年)

作者のエリック・オルデルは1960年生まれで、幼少を南仏で過ごし、さまざまな職業を転々としたあと、一時期パリに住んだが、現在は、あのチーズで有名なブリのある村に住んで執筆活動をしている。

30歳はじめのアントニオは石工をしていて、皮革の工場で働いているアンヌ=マリーという妻とケビンという小学生の息子がいる(ケビンとかトムのような英語風の名前を付けるのが最近のフランスの流行だという話をどこかで読んだことがある)。

アントニオはポルトガル出身で、自分の名前も碌にかけないほど勉強はしてこなかった。一種の移民二世の底辺の方に属する。

ケビンの先生のシャンボン先生(若い未婚の女性でヴェロニックという名前)と偶然現場で出会ったことから、アントニオはときどきケビンを迎えに行くついでに彼女とちょっと言葉を交わすようになり、アントニオが彼女の家の窓の修理を頼まれたことから、彼女がバルトークのヴァイオリンソナタを弾いてくれたり、そのテープをくれたりしたことから、彼女に恋心を抱いてしまう。

アントニオの同僚にはマラールとかマムーといった柄の悪い連中がいるし、彼らを雇っている土建屋の社長のヴァナムは、悪い奴みたい。

妻のアンヌ=マリーはケビンを迎えに行ったときにシャンボン先生と親しくなり、家が近所だと分かったことから、食事に誘ったりするようになった。ヴェロニックは彼女に教師という仕事ではけっして私的なところを生徒やその親たちに見せてはならず、彼らと対等の関係になってはいけないのだと教えられており、それが辛いのだと告白する。そうしたところにアンヌ=マリーは彼女の優しさを見る。

アントニオとアンヌ=マリーのあいだに二人目の子どもを妊娠していることが分かり、アントニオの心に変化が生じる。彼は勉強がまったくできなかった人間でありながら、詩情豊かなところがあり、ときどき彼らの住んでいるモンミラーユという町が見渡せる丘に登って、自然を感じたり、いろいろな思いにふけることがある。このときにもアントニオはこの丘に登るが、周りの自然が違ったように見えた。このあたりの描写は詩的である。

「反対に、彼のなかに新しい感情、周囲のものにいっそうの注意を向けさせるような感情が根をおろそうとしていた。彼の気持ちが向かっているのは、アンヌ=マリーのことでもなく、彼がしていることでもなくて、近くの世界、空の色、木々のカーテンをとおして届く光、夕暮れを満たしている穏やかさだった。まるで近視になったみたいに、数歩先は見えず、またそこから先は溶解してぼやけていた。塞がれたこの目の中に希望が生まれてきたが、彼にはそれを上手く説明することはできなかっただろう。」(p.91)

6月になってアントニオの父の誕生パーティーにシャンボン先生を招待して、彼女を送っていく途中で、アントニオはヴェロニックをこの丘に連れて行くが、彼女は彼からのおずおずとした愛の告白を拒否する。

しかしヴェロニックもアントニオを憎からず思っており、アントニオにたいする気持ちをもてあましていたのだ。夏休み中のある日、ヴェロニックがアントニオたちの家に行くと、彼らは留守で、代わりに友人のジョルジュがいた。彼はヴェロニックを家に入れ、ケビンや夫婦の寝室をみせ、彼らのアルバムを見せた。暗に、彼らの幸せを壊さないでくれと言っていたのだ。

ヴェロニックは次の日には荷物をまとめて学校を辞め町を出て行った。

パリの通勤圏にはいる(たぶんぎりぎりで)モンミラーユという町の底辺の家族の生活ぶりを描いた小説という意味で興味深かったが、それをあまりセンセーショナルなかたちではなく、詩情豊かに描いているところに、私は好感を持った。ひきつづきこの作家の小説を読んでいく予定。


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「幻の生活」

2007年02月19日 | 現代フランス小説
ダニエル・サルナーヴ『幻の生活』(河出書房新社、1997年)

原作は1986年に出版されている。ダニエル・サルナーヴは1940年にアンジェで生まれ、高等師範学校という文系の超エリートを養成して、大学教授などおもに高等教育の関係者を輩出している学校を卒業した。この訳本が出版された時点では、パリ大学のナンテール校で文学を教えているということだが、いまはもう退職して文筆業に専念しているのではないだろうか。当初はかなり前衛的で、訳のわからないような小説を書いていたらしいが、1980年の『グッビオの橋』から一転して読みやすい文章の作家に変わり、多数の小説や評論を書いているとのこと。

以前このブログでも『レイプ』という小説について書いたが、あれは1997年の出版だった。だから、この小説から10年のあいだに、またまたその作風を変えたということなのだろう。

この作品は、簡単に言えば、37歳の高校教師(国語)のピエールと26歳の市立図書館の司書をしているロールと不倫関係を描いているということになる。

ピエールには、アニーという銀行に勤めている妻と小学生の二人の子どもがいる。ピエールは妻のアニーと子どもたちとの家庭生活・夫婦生活になんの不満ももっていないから、分かれるつもりはないが、ロールとの不倫関係は単純に性的な満足を得るためのものというように思っている。

ロールの方は、ピエールと付き合い始めたころは単純にピエールとの性的関係を楽しむだけでよかったが、やはりバカンスのときの長期の分かれや、ピエールがときどき見せる家庭生活の片鱗にたいする反発から、二人の関係に違和感を覚えることが生じるようになる。
しかし作品の中では、それで解消することにはならない。

一応、三部構成になっているが、とくに大きな区別はない。一部と三部は、表面的な現象をいろんな角度からそのまま描写するような、あえて言えば、現象学的記述とでも言えるような描写の仕方になっている。それにたいして、第二部は、ピエール、アニー、ロールという主要な登場人物の来歴を説明し、なぜここで彼/彼女はこういう行動をするのか、こういう風に考えるのかを説明しつつ描写していくという点で、登場人物の心理分析や行動分析が中心になっていると言ってもいいのではないだろうか。

全体的に、普通の小説なら一言で済ませてしまうような描写にこと細かな心理分析をほどこして何行にもわたって記述していくという特徴がある。

また第一部の現象学的記述のところでは会話文も改行なしで延々と続くので多少読みにくい感じもある。

時代設定は1974年から78年ころとなっている。こうした心理分析によって当時の中流階層の妻子もちの男性のものの考え方というものがどんなものか読み取ることができると言えるかもしれないが、私としては、訳者の堀茂樹が絶賛するほどの作品なのだろうかと、疑問である。


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「さびしい宝石」

2007年02月14日 | 現代フランス小説
パトリック・モディアノ『さびしい宝石』白井成雄訳(作品社、2004年)

作者は1945年生まれで、作家としてのデビューも68年だから、けっして若手の作家ではないが、この作品は2001年に、つまり作者が56歳のときに書かれている。あたかも18才前後の少女というか女性が、夢遊病に陥ったかのようにあてどのない毎日を、ただ母親の亡霊にとりつかれたように送っているのを、書き留めたという感じの作品である。

フランスではずいぶんと高く評価され、小説自体もそうとう売れたらしい。邦訳の解説には「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」の書評の一節も紹介されているが、それによれば作家の現実を思わせるところのない、まったくの想像上の産物である点が、この作品をモディアノのボヴァリー夫人にしているといった調子である。

まったく想像上の人物が形象されていることがそんなにすごいことなのだろうか。最近の日本の若手の作家たちはみんな、そういう意味では、すごい想像力豊かな作品を書いていて、そんなの当たり前じゃないかと思わせる。

どうも私はフランス人の批評の仕方というものがよくわからない。いったいこんな作品のどこがいいのか。前に読んだジャン・エシュノーズもそうだが、人に面白く読んでもらおう、そして読者を夢中にさせることを通して、何かを伝えようというような意志がまったく感じられない。

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「鉄塔 武蔵野線」

2007年02月13日 | 作家カ行
銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』(新潮社、1994年)

第6回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した作品らしい。

高圧電力を送る送電線をささえる鉄塔についている番号をたどって1番まで探険するという、一種の冒険物語。子どもの視点ならではの面白い物語だ。だれも気がつかない、気にもとめないものに心ひかれて、追い求めるというのは、本当の意味での冒険・探険だという気がする。偉そうに言えば、アインシュタインだって、光より速く走ったらどうなるかというだれも考えないようなことに夢中になった結果、相対性理論に達したのだから。

私にもそんな冒険の体験があるだろうか? せいぜい、毎日眺めている裏山を上がっていったらどこに行き着くのだろう、たぶんNの町に出るんじゃないかという気持ちが募って、裏山探険に出かけたくらいか。この裏山には祖母と何度か蕨や蕗とりに登ったことがあった。それを越えて、ずっと歩いていくと、やはり予想した所に出てきた。それはいつも通学路から見える山の斜面で、そのだれもいない山の上からNの町をみるのはなんだか、すごいことに思えた。向こうには、下からは見えない大山の南壁も白く雪が積もっているのが見えた。

だいたいが石橋を叩いて渡るどころか、叩いても渡らないようなタイプの私は、それほど大胆な冒険などできる人間ではない。だから割と出来上がったというか、組織された冒険旅行なんかがいいところだ。そういうものとしては、ボーイスカウトをやっていたころに参加した夜間ハイキングが思い出される。夜に目的地を知らされないで秘密の指示を読み取って真夜中にハイキングするという、けっこう楽しい企画なのだ。秘密の指示といっても、ボーイスカウトなんかでよく使う、たとえば草を矢印のように見せかけたり、石を並べて方向を指示したりするという具合。ちょっと探すとどこそこへ行けという指示が書かれた紙が隠されていたするというわけ。

三回くらい参加したことがあるが、一番怖かったのはNの町から山に入って、山の上にある池(といってもけっこう広い)をぐるっとまわって隣町まで行くというコースだった。というのはまったく民家がない箇所が長く、そのあたりは本当に真っ暗な道を歩かなければならなかった。真っ暗闇というのを経験したのはたぶんそのときがはじめてだろう。曇っていたせいか、月も出ていないし星も見えない。民家が途切れると、山の方に上がっていく道があり、その途中にお寺があることを知っているので、よけい怖かった。三人一組で歩いていくのだが、もちろん一番前は怖い。一番後ろも怖い。真ん中がいいのだけど、年齢的には自分が後に並ばなければならない。前の人が見えなくならないようにできるだけぴったりくっついて歩かないと、すぐ見えなくなるので怖かった。

知らない世界に入っていく、だれもが気にとめないことに夢中になって行動する、こういう探険・冒険の世界というのは、人間に本能的な楽しみを与えてくれるものかもしれない。

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「ア・ルース・ボーイ」

2007年02月12日 | 作家サ行
佐伯一麦『ア・ルース・ボーイ』(新潮社、1991年)

以前に「無事の日」とか「草の輝き」といった最近の小説を読んだ作家のデビュー直後の作品らしい。どうもこれで三島由紀夫賞かなんかを受賞したようだ。少し前に芥川賞の発表があったりしたので、私がよくいく図書館でも文学賞を受賞した作品の企画をやっていて、過去の受賞作が並べてあったので、読んでみることにした。

奥付によると「新しい世代の私小説作家」という触れ込みになっている。ということはこの小説も彼の高校時代の出来事を私小説風に構成しなおして作ったものなのだろうか。

仙台のI高校三年生の斉木鮮は、厳しい生徒指導で知られる英語教師の「ブラック」を殴ったことで退学する。同じころに未婚の母となった幹と一緒に生活するようになる。二人は子どもに梢子と命名するが、もちろん鮮がこの子の父親ではない。

二人はとにかく働かなければならず職安に行ってみるが、いい働き先はない。そうこうするうち鮮を学生と勘違いした電気工事をやっている沢田に気に入られて、助手として働くようになる。どうも沢田もヤンキー上がりのよう。仕事にもなれてある程度の収入もできるようになったころ、幹が梢子の病気を理由に行き先も言わずに出て行ってしまう。あちこちの病院を当たってみるがわからない。ある日突然に幹が梢子を連れて戻ってくるが、一晩だけ一緒に寝て、そしてはじめて性的な関係を結び、そしてまた出て行ってしまう。

物語としては、普通の若者の生き方をドロップアウトした青春の甘酸っぱいというか幼いというか、ままごとのような生活の数ヶ月を描いているだけなのだが、そのあいだに鮮自身の幼少のころからの特異な性的経験――近所の男性に性的虐待を受けた――や自分を毛嫌いする母親からのネグレクトのような経験などが回想というかたちではさまれ、作品に厚みを与えている。

私も高校ではアウトサイダーだった。県下随一の進学校だったのに、勉強にも興味が持てず、一年生のはじめはトップクラスだったのだが、どんどん落ちて、二年生の実力テストかなんかでは後ろから数えたほうが簡単というような成績だった。もちろん教師からは無視される――まったく当てられることさえなくなった――し、三年生の進路指導かなんかで、将来はもの書きになりたいと言ったら馬鹿にされたことを思い出す。まぁボート部に所属していたからその関係でつながっていたと言っていい。

この小説の主人公のように正面きって教師に反抗することはしなかったが、将来への見通しもなにも見えないなかで、勉強だけに邁進するよう押し付けてくる教師もまたそれに一生懸命になる周りの生徒たちにも同じように違和感を覚えていたことは確かだ。

だからそれほど勉強したいという気持ちがあったわけではないが、大学に入ることで両親から離れて一人で気ままに生きていきたいという思いを実現できると考えて進学したのだった。まさにア・ルース・ボーイだったのだな。

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