沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 16

2012年10月31日 21時26分23秒 | 政治論
 アメリカ合衆国という国の「国家安全保障」という名の恐るべき謀略諜報活動を一つの「人間的立場」(そんなものがあるとすれば)において眺望すると、この国は、世界中、CIAの基本的スパイ活動は勿論あらゆる意味での悪の執行ゲリラとして各国の犯罪者を糾合しかつアメリカマフィアを巧みに買収しては暗殺、選挙妨害もしくは政治工作暗躍を可能にしているという、本来なら到底想像もつかないドス黒い手段で殆どの敵対可能国家、民族、集団、個人に対しその抹殺、弱体化、乃至政治的経済的画策による攪乱、を生起せしめているという驚くべき実態に気づかずにはいない。彼らには(つまりアメリカ国籍の大部分の人民には)、この「国家安全保障」という名の絶対的王座に対し完全な「愛国的」隷従精神が備わっていて、己に直に降りかかる危難に直面しない限り大アメリカ帝国への絶対的忠誠心は揺るぎないものとして持続される。つまり己に直に降りかかる危難に直面しない限り(ハワイのオスプレイ拒否は命がかかっているからだ)、「国家安全保障」における如何なる「悪」も必要悪とされ、例えば如何なる「殺人行為」も正当化されるという国家資質になっていると考えられる。この事実を当のアメリカ人に明したとしても彼らは一向に驚かないだろうし当然だというであろう。彼等の「愛国心」は信仰に近い。この明らかな先住者(インデアン)征服民族は弱肉強食優勝劣敗原則において「自由」であり「民主的」なのだが、その酷薄なまでの自己防衛本能の敷衍するところ、諸外国に対して、「自由」は体の良い「囲い込み」(つまり柵の中の自由)に、「民主主義」は傀儡性が極まった権力にのみ仕方なく付与され、「内政干渉」と指弾されない程度で隠密裏にその国家運営に関与し方向づけし最後に恫喝することで頭初の目的を達成する。恐らく初代以来この国を領導した歴代大統領のすべてにおいてこうした国家性格は伝統的に受け継がれてきたのであり、最近ではあのカーターもクリントンでさえ日本で信じられてきた「良識派」の痕跡すら見当たらない真実を知ることになろう。彼らはブッシュ父子があからさまに実行した無差別爆撃を含む戦争と同質の行為を繰り返してきたはずだ。
 日米関係がいかなる仕儀になっているかを沖縄(ここも日本なので!!)についてみると、国家の74%の軍事基地をアメリカに提供している、この、沖縄に関する偏頗性が後付け的に生じたことは歴史が証明している(最初から西太平洋の戦略的拠点だったわけではない、冷戦後の安保こじつけ論から生まれた)、戦後の位置づけは極東の防共最前線としての日本列島だった(沖縄が特殊にそうだったわけではない、つまり地政学はうそである)、従って荷重の異常性は差別的に沖縄に傾いた事実を示しているし、沖縄に戦略的重要性を持たせる論理的欺瞞はとりわけ「沖縄の基地負担軽減」という理念の発生とともに加圧された、つまり沖縄から基地を撤去することは決して日本から基地を撤廃することでないのにかかわらず(日米安保が有効な限り)、日米政府の2+2は「辺野古」という県内の別の土地に普天間を移設拡充することでしか、「戦略的重要性」を担保しないという論理的錯乱を引き起こしている。だがこれはアメリカ合衆国の陰謀にほかならない。何故なら「普天間」は「無条件撤去」すべき基地なのに新たに別の場所に、より充実した基地を設置しようという彼等の明らかな便乗行為を生んだのだった。ここに繰り広げられている「ウソ」はアメリカの独壇場である「国家安全保障」絶対優先思潮が醸し出した問答無用のヤクザ的押し込みにほかならず、当然ながら彼らの言う「国内問題」という逃げ口上はなんの意味もない詭弁である。彼等自身がまさしく望んで、普天間固定化か辺野古新基地建設かどっちだと日本政府に迫ったのは明らかであり、「どっちでもありえない」というのが沖縄県民の正当な主張なのである。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 15

2012年10月29日 22時46分02秒 | 政治論
 NHK沖縄ニュース610で仲井真知事の訪米を扱って記者解説していた中、アメリカのパトリック・クローニン安全保障上級顧問の、相変わらずの「国家安全保障優先」思潮をこの国、日本(とりわけ沖縄)の上に適用することが、さながらアメリカ合衆国独自の際立った特権として確定した事項であるかのように語られているが、これはこの国アメリカ合衆国が、「世界性」における(従って「人間的であろう」とする人間、としての)「倫理的実質」の課題追究という、「(過ちに満ちた)人間の行為」に関して絶えず課される普遍的義務(従って権利に必ず付随する絶対的要件)を果たすことをせず、第二次大戦以来(それ以前にも度々立ち現れた形跡があるが)連綿と持続され深化した、「国家安全保障」という名の、欺瞞に満ちた許しがたい黙過できぬ謀略諜報活動を、あらゆる国、民族、宗教に対して実行してきた、様々な「人道に対する罪」に該当する行為として考えるべき事柄なのであり、彼らアメリカ合衆国が、例えば日米安保に基づき(沖縄の場合)常時駐留してきた米軍戦争準備発進基地にあって、これを日本のなかの一行政単位である沖縄の県民が、民主的方法で言挙げした「普天間問題」の「普天間無条件撤去」又は「県外移設」という要求につき、これ(辺野古移設)は米側が外交上日本国政府と国家間で取り決めた合意事項であり、これに対する反論は必ず「国内問題」に限定され(日本国が沖縄県民を慰撫する方策を如何に取るかにかかっているだけで)決してアメリカ合衆国は(沖縄県民の実情に鑑みてもこの合意を改変するというような)「内政干渉」?はしないしできないと言って、事実上の倫理的理念的責任を回避しているという事態なのであろう。原爆使用を肯定しているし決して謝罪しないこの民族は、16年間進捗しなかった「辺野古移設」の「非現実性」という客観的状況など「知ったことじゃない」のであろう。なんだかんだ言っても結局普天間飛行場は(無条件撤去どころか撤去移設さえ叶わぬまま)いよいよ危険性を増幅(オスプレイ配備)しながら今後何年となく騙し騙し継続して使用していくに違いない(その欺瞞性たるや恐るべき厚顔としかいいようもないではないか)。この事実を踏まえながら考察していくと、こうした不逞の国に対して民衆が執るべき自己保存の手段というものは、例えば高江(オスプレイヘリパッド建設地)で地元住民はじめ有志協力者による「非暴力不服従」工事阻止抗議活動や「座り込み」、あるいは普天間飛行場ゲート前の「座り込み」「抗議目印凧揚げ作戦」など、昨日も今日も明日も明後日も休みなく、老体鞭打って炎天下、台風の中、紫外線に焼き尽くされながら続けられているし、その人員も早朝から夜半まで隙間なく送り込むには絶対数が足りないという感じだが、いずれにしても同盟関係にある他国の人民にこのような苦しい生存を強いているアメリカ合衆国は決して民主主義の国ではなく、それを武器のように騙る、自分自身に対する「大嘘つき」人種だ(中断)。

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 14

2012年10月26日 20時08分04秒 | 政治論
 折衷主義者(その定義は判然しない)石原慎太郎の、「都知事辞職、国政復帰」という大見出しが巷間を席巻しているが、彼が日米安保支持、米国覇権主義否定論者なのは当然としても、尖閣を巡る一連の対中(あるいは対共産主義)言動の功罪は未だ確定しきらないで妙な方向に漂い始めた。つまりは老人特有の「言いっぱなし、やりっぱなし」傾向を彼に見るのは、彼の政治生命の終焉を意味する(かつて美濃部元都知事への面当て発言が今や自身に向けられているってわけだ)のであって、片言隻句のインパクトばかり醸してもらっても後続は禅問答じゃあるまいし、真面目にこの時代のうちに論理的に考察する縁(よすが)とするわけには行かない。彼の出自は自称神奈川湘南らしいが(実際は神戸)、忌憚なく言えば悪い意味での東京人、所謂都会人である。つまりは中央政権近辺に右往左往するデマゴーグの一派に変わりがない。この故に沖縄県にとっては国政に関与する彼のどんな断面をとっても益するところはない。むしろその「言いっぱなし、やりっぱなし」老人の100年河清を待つが如き取り留めなさがこの国のどうしようもない度し難さを象徴するようで遣りきれない。おまけに彼は、どの程度の原子力知識をもっているのか知らないが、言わずと知れた「原発推進主義者」にほかならず、彼のその論調に現在のこの国の「原子力政策」の行方が重なっていて、見るから単純な論理が、さも一切の論難を鮮やかに斥けるがごとき印象さえ醸しつつ、大方は財界受けする結論に終始する。彼の力点はどこにあるのだろう。そして我々はこうした個性が単独に放つ磁力に惹かれて一体何を期待してしまっているのだろう。ヒトラー待望論でもあるまいし。閉塞する現状に辟易しながらどこかに突破口を見出さんとしているのだろうか。朝鮮半島は極右とまで断じているが、例によって彼の軍国主義が安倍晋三辺りの跳ねっ返りと趣を異にして、所詮は敗戦国コンプレクスへの甲斐のない反発に過ぎず例えば三島由紀夫ばりの私家軍編成自衛隊糾合、クーデター的国軍生起といった失敗覚悟の行動に転ずることなど夢にも思わないだろう。だから三島が否定した文人的限界内に留まったまま「大虚」に参じることは金輪際ない。問題はかくして現在も未来も常に日米政府に付け狙われる沖縄の命運に立ち返ることになる。そして本土のわけのわからない政治的掻き回し状況に比すれば、明瞭に「人間」の問題に関わるであろう事案に直面する我々自身のことにおいて、この国の「非人間的」な政治ごっこの憎むべき回転木馬の、いかなる意味においても木馬になってはいけない。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 13

2012年10月25日 21時25分59秒 | 政治論
 アメリカ合衆国の、西太平洋におけるベーシックな軍事展開(内外軍事基地の点在による多角的多面的攻撃布陣)、及び世界警察植民的戦略(抑止力と言われる脅威を基本とする、潜在的攻撃性の持続による近在国に対しての内政干渉)におけるアジア太平洋の重点的戦略展望を、アメリカ合衆国の政治外交経済活動のうちに透視すると、対中包囲網の拡充(但しこれはかなり慎重な進捗状況にある)と米韓、米日、更に米豪提携前線による即時的対応を基調とする臨戦モードの造出、といった軍略傾向の反面、かつてアングロサクソンとゲルマン民族が互いの確執を綯い交ぜながら、その肉食民族性からくる野蛮な征服欲性向に基づき、弱小後進農耕民族国家群を制覇淘汰しつつ、資本主義の究極的植民地主義を推し進め、市場開拓殖産、国富増大を図った時代に比すれば、いかにも「民主的な」仮面をそれなりに身に帯しつつ、実は、その国内国外において偏執的な国家安全保障策としておぞましいほどの諜報、監視、謀略活動を通じて言わば大規模な秘密警察的国策に重心を置き晦渋にして幻惑的な国家像をひた隠しながら「フランクにしてフリー」な「可能性と希望の国」をアピールしつつ世界精神とも称すべき「全体主義」(グローバリズム)の極致を醸し出していると言える。
 彼等は日本人同様に「無神論者」であり彼等にあって流布するカソリズムにはイスラム的熱情は欠片もないが、自己正当化の手段としては、詐欺めいたこじつけを平気でかます独特の傲慢さをもって、その普遍的倫理性を有しない不思議な信仰生活(日本人の無神論的汎神論傾向とはここが違う)を形成している。
 ここに来て俄かに色めき立つ、沖縄米軍基地内外の例の、「米兵による集団婦女暴行致傷事件」揉み消し工作活動(ここで留意すべき活動動機が日本の沖縄のために何かをするという期待は捨てるべきだ)は、沖縄県民から見れば今更な経緯を辿っているとしか言えないが(軍人規則の緊縮-深夜外出禁令-という一種の軍事訓練鍛錬)、日本国の大新聞公共放送等報道機関の論調もいたって低調な理念性のない堕落した体制諂い型に終わっている(発展的発言傾向を有しない)。
 一方オスプレイの方は当初の軍事方針どおりに(と思われる)、なんのためらいもなく「合意事項」の反故に類する危険飛行訓練を継続し(これに関する米側コミットはまったくない)、高江ヘリパッド工事は、反対者抗議座り込みの間隙をぬって、それこそ夜討朝駆け「ぬすっと」根性で営為行われてる。
 いずれにしても彼ら米軍側の言動に今後共一切の「沖縄配慮」はないと思ったほうが状況把握は早い。アメリカ大統領及びその周辺近辺にしか活路はなく、現在仲井真知事がその最前線にいるとみていいのだが、報道から察するにその対米交渉の真の評価は褒謗相半ばすといったところで、残念ながら彼の語気に気迫を感じることができない。結局「日米軍事提携」(安保)を容認する限り、全ては表現を妥協含みの薄らとした曖昧な調子に落としてしまうのが見えてくる。しかしながら、知事の行動含め今沖縄中が心情的な「基地撤去」の傾きを少しでもアメリカに伝えようという空気感は少しづつ本土の方向へも伝播して、これまで右翼無内容軍国主義亜流が煽ってきた中国北朝鮮襲来伝説など、沖縄の安保肩代わりの如何な根拠にも足りえぬことくらいは、彼らにも了解されることだろう。こいつらのことはどうでもいいが、沖縄県民は本土の、日本の、いかなる意味においても犠牲になってはいけない。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 12

2012年10月23日 13時08分55秒 | 政治論
 イタリアの地震学者7人が地震予知の錯誤(2009年、群発地震を観測しながらも大地震の確率は低いという予知を、公表した直後に起きた大地震で多数の犠牲者が出たという)をもって禁固刑に処される判決が出たというが、これをしも異例のことと人は言うけれど決してそうではない。むしろ刑が軽すぎるとさえいえよう。
 京大原子炉実験所助教小出裕章氏は「原発を安全と言って推進してきた原子ムラの人たちがこれだけの事故を目の前にしながら一切お咎めなしというのはまったくもっておかしい」と繰り返し言われるが、さもありなん日本は武士道の国、菊と刀の美的昇華こそ望まれるのだから、彼等の中の主だった者は潔く割腹して果てるのが筋ではないか。自死できない腐れ外道なら刑死をもって贖うべきだ。
 この考えが古い、時代錯誤というなら、君たちの新しい考え方というのは一体何か。民主主義、というが、民の人権をこの国は守っていると一体誰が信じているのか。官僚の政策提言を手つかずでそのまま自家政策として公言するのをはばからない宰相など直ちに放逐されてしかるべきではないか。この徒らに長引いている「嘘つき政権」を何故打倒さえできないでいるのか。尤も政権が変わってもこの国の土性骨が変わらぬ以上確かに日本の政治にはまったく何一つ期待できないのはその通りである。
 現在、沖縄の仲井真知事は訪米してアメリカの政府高官と面談しているが、日米安保を基本的に容認している知事の政治的立場からは議論を根底的に上下して得るような著しい成果は期待できまいし、彼等アメリカ人の軍事優先思潮、西太平洋における日本列島の戦略的重要性強調など、沖縄の過重な負担、地位協定による人権保護上の不如意、なんてものは「大した問題ではない」と捉えられているとしかいいようもない。従って今次も情け容赦もない大国論理がまかり通るのであろう。これをどこまでも許している日本国の、ときの政権の100年変わらない日米安保軍事同盟堅持というものは、どのみち、帝国官僚「官尊民卑」思潮そのままに来たという、戦後の官僚政治の思うがまま、操り木偶人形のごとく牛耳られてきた政治が、簡易に執った幻想的国防論によるのだが、それにしても、虎の威を借る狐のズル賢さよりも、自身の命運さえ虎に左右される愚かさを民衆は呆れ顔で眺めているわけで、逆に言えば、このていたらくは沖縄県民に対する国家犯罪に匹敵する重大な民主国家欺瞞であろうし、この沖縄の望まれない行く末を悲嘆するのはいつまでのことか全然見当もつかないというわけで、国連人種差別撤廃委員会の勧告程度でアメリカ合衆国の犯罪的性格を弾劾駆逐できないというのが、現在世界のありのままの実情ではある。
 但し、こうした一極集権警察国家の強靭な自己正当化については、二十一世紀的歴史的な文脈で捉え返さないと到底現今世界思想実情からは革命的にひっくり返すことがむつかしいということだけは言える。言ってみればパクスアメリカーナの歴史的凋落、という観点で「ローマ帝国衰亡史」のごとくあらゆる断面からこの国を捉え返す試行錯誤的分析総合が必要となる。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 11

2012年10月20日 22時39分16秒 | 政治論
 「人間の国」と小田実が言うとき、彼の実体験に、彼が住した西宮市含め一帯を襲った阪神淡路大震災があり、その時の国(村山連立政権)の被災住民への対処から、直に自身が様々な苦渋を舐めさせられた現実について、この国は「人間の国」ではないという表現でバッサリ斬り捨てなければ、極めて強固に凝固した「非人間的な」戦後日本の、政治的、制度的、管理社会環境によって、多くの「不条理」で「不当な」民衆的苦境に置かれている弱者社会がある、という事実に多くの人がたどり着かない、というふうに使われていたように思われる。
 これはまさに沖縄の現状や東日本大震災被災地にそっくり当てはまるので、恐らくは例えば「復興予算」問題で露呈した「官僚」たちの、倒錯した「非人間的な」機械的管理実態への被災者のこみ上げる怒り、胆汁質こそが、今沖縄、福島、あるいは被災地ひいてはあらゆる弱者被害者にあって封殺してはならない真情としてあり、ここにおいて全てを受け止め峻別し、障害と壁とを突き崩す根拠とする必要があるということになる。
 京大原子炉実験所助教小出裕章氏は「私は政治に全く期待していません」と痛苦を含んだ吐息とともに半ば絶望的に漏らしているが、「政治的絶望」を「無政府主義」と考えるなら、この立ち位置はかつてなくリアリティを持ったものとなっている現状が、確かに目前に広がってきたといえる。
 では「永遠の前に絶望的に手を振る」ような仕儀でギリギリの「限界」を学習することが目的かといえばそうではあるまい。我々自身のうちに掻い込んでいる「鉄格子」は我々自身が作ったのには違いなく、「希望」や「可能性」はむしろどこか我々の知らない所から僥倖のように与えられるのだと思われる。だから原子力研究に理学的論理の粋を究めた「限界見極め」の達人である氏のようには絶望すべきでない。
 とりわけ識者と言われるこの国の知的階層に属する人達においては「自己の限界」を見極めるのは結構だが、民衆の「可能性」に関しては否定的予見を底流に置くものではないように思われる。何故か?民衆は絶望してさえも生きねばならないからだ。
 沖縄県民の前にこの国とアメリカ合衆国がしでかした何十年にも渡る圧制、暴政、犯罪性、を数え上げれば限もなく、目に見えて低劣な仕方で対してきた様々な悪政悪策は本来性を損ないながら、それでもでたらめな内容を彼らは恥ずかしげもなく持続堅持し、空虚で虚しい政治用語の羅列で県民を繰り返し辱め、偽善に満ちた「札びら」振興策で最も下卑た部分において政治を動かしたように欺き通すという、みるから「人間」の所業とは到底合点が行かぬ話になっているのだが、この敵に屈して尻尾を振ったのは民衆に縁もゆかりもないその時々の為政者と決まっていた。しかも民衆は必ずその民意を旗幟鮮明にしてきたのだった。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 10

2012年10月18日 10時30分37秒 | 政治論
 アメリカ海軍軍人による出張先沖縄での「やり得逃げ得」シリーズ婦女暴行致傷事件は、恐らく沖縄という格好のリゾート地が、居心地のよい癒しの島でしかも島人は底抜けに優しい、という刷り込みをされた水兵が、アルコールをしこたま浴びて解き放たれた獣性に従い「基地に逃げ込めばまずは安全」「本国帰還でお咎めなし」というアメリカ植民地主義を地で行く思いに包まれてさほどの恐れもなく無抵抗の婦女を手にかけたという事件である。つまりこの事件は、朝日や毎日がいたって呑気にありきたりな社説に書き立てる感じで(日米安保地位協定の絶対的順守のため)「お手あげな」雰囲気に終わるというような生易しい問題ではなく、とりわけ当事者沖縄にあってはアメリカ人の心底、心性、に関し重大な人間的過誤を前提する米軍基地自体の本質的存在悪性が命題化しているといえる。まさにオスプレイ強行配備という蛮行がまかり通る事自体、アメリカ人が沖縄を特殊化し「沖縄なら何やってもいい」という心性に現にあることをまざまざと見せつけている。こんなことさえ「人間として」激しく憤らず安保破棄を仄めかすこともないこの国は、やはり「人間の国」ではない。実際非人間的な外務防衛官僚のいうがままむしろ進んで「安保堅持」を声高に唱える「人間でない」政治家が、アメリカに「どうぞお好きなように」と進呈したものだから彼らが好き勝手やるのは、当然といえば当然だ。しかし国政を担わせた代議員どもが徒手空拳で沖縄問題にノータッチに済ましている現状では、彼らに一切裁量を委ねることには明らかな形容矛盾、実に効果のない非民主的実態があり今後も継続して改善ならぬアホな政治ごっこを繰り返していくとすれば、彼らに陳情し哀願する奇妙な倒錯的現状を廃棄して、国会の立法権に対置する独立した立法権を法案化させることを、例えば震災地から新たに、あるいは沖縄から単独に運動展開し、具体化する算段をするべきである。とりわけ物理的精神的の両面から苦渋を強いられている沖縄では、「人間でない」国会に己を委ねる愚から「人間らしさ」を奪還する賢へ覚醒奮起することが望まれる。琉球王朝以来連綿と持続された「朝貢外交」精神から足を洗い、朝貢的実質からの「独立」を目掛け、現存する米軍基地の全面撤退(基地依存経済主義への完全な決別)実現島ぐるみ闘争を展開すること。「祖国復帰」島ぐるみ闘争が実質上「祖国」の「祖国足らざる」本質を県民に突きつけた復帰40年の歴史が教えているのは、我々の見ている「城」が既に外国の手によって支配されている現実であり、我々自身の「城」を本土政府から自立させ、「日米安保」対象から外し(3者外交交渉が必要である)、新たに「地方人民会議」統括「全人民合議」制度を施行する。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 9

2012年10月17日 20時10分19秒 | 政治論
 戦後まもなくの沖縄では、女と見たらキチガイのように追い掛け回し、強姦して捨てる米兵の話が数限りなくあったと、様々な関係図書に散見されるが(満州、朝鮮半島あるいは日本本土での日本人に対するソ連兵や米兵の行為にもそれは見られる)、この種の話は日本兵の、大陸や南方戦線での鬼畜行為についてもいえようし、「無法地帯」と化した場所、基本的な倫理的束縛を集団的熱情によって打破し得る時間、あるいは完全に「無抵抗」な人間に対する動物的制覇欲を充足しうる他在(女性、弱者、老人、子供)の放置状態、といった種々の異常な条件さえ整えば、恐らく軍隊にあっては誰にでも生起する可能性があるものとして考えられることなのであり(素直にありのままに見れば)、1995年の米兵による少女暴行致傷事件が戦後も50年(戦後を50年以上引き摺ることの意味を再考しなければならない)を経た時点での事件でなければ、巨大な反基地思潮(米軍基地全面撤退)のうねりというものにはならなかったかもしれないわけであり、より安全性が法的にも実効性においても確保されたとみなしうる(と思われた)戦後67年の沖縄で、短期滞在の本国在米兵がこうした劣悪な獣性による唾棄すべき行為に耽るという、あり得ない「無法性」を露呈した当の日米軍事同盟地位協定の本質的前近代的隷従体質を、つまり沖縄では、「平和」は幻想であり今なお敗戦状態にあり「戦勝国」の恣意に委ねられ、彼等の裁量によって、本質的に「自由」と、「自治」と、「民主主義」を享受すべき人権を抑圧、拘束、囲い込まれている実態にいやでも気づかされる事、本土では到底想像すらできない日常を、生きて行かされているという忌々しい現実が、県民の実感のなかで絶えず起爆装置を刺激している。勿論、これをアメリカに許しているのは日本国政府であり外務防衛官僚たちであり、「対岸の火事」状態の本土の日本人その人たちだ。あるいは基地利権を確保する在沖資本家、基地経済を肯定し基地労働者を倒錯した袋小路に迷わせる右翼系扇動者どもの、その日暮らしな刹那主義、など、沖縄が本来性を取り戻すのに足を引っ張る低劣な人種も一役買っている。既にある意味「目の前で」墜落事故を何度も起こしている欠陥機(彼らはそれを次世代機としているが、その異様な風体は不気味な脅威を与える巨大な玩具としてしか見えてこない)を、何の保障もなく一般住民が住する空間で訓練飛行を繰り返す行為の異状さに、人間として気がつこうとしない彼らは、まさしく軍事に精神を冒された人間の面を付けた悪魔でしかあるまい。そういう人種が下劣な恥ずべき犯罪を巷で起こすという、まさに「思った通り」の、人間の面を被った「人間でない」人間の国、の所業ではある。いずれにしてもかつては日常茶飯だったこうした占領国家の軍隊による横暴は、軍隊特有の組織的平準化による倫理的淘汰がもたらす、「真空地帯」の「非人間的な」異常性から、一般住民の住する空間に出没することで、一種の免罪性を錯覚する精神状態になる、というもので、こうしたことからも、軍隊は住民を守る仕組みになってないことが露呈され、集中する外国軍隊基地を抱える沖縄県はそれだけで決定的に危険なリミテッドゾーンに放置されたことになる。この国はこの事実に目をつむって沖縄県民に過大にして過重な負担と、「人間の国」とは絶対言えない処遇において「差別」状態を継続維持し続けている。彼らは彼等の「腐った口」が吐き出すその「死んだ言葉」の羅列において彼ら自身を蝕む病根に気がつかないでいる。日米政府はこの国家的犯罪行為において彼ら自身の首を絞めることになろうが、我々は彼らが滅びる前に彼らの手によってむざむざ「殺される」わけにはいかないのだ。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 8

2012年10月14日 11時58分25秒 | 政治論
 広島原爆ドームを訪れた米国人の大半、いや全てが「戦争を終わらせるためには仕方がなかった」と言うがその彼らからこの正当化を意味する言以外に謝罪めいた言葉は一切聞かれないというのは実に不思議な気がする。いやむしろ「あれは正しい選択だった」という積極的肯定的必要性への言及さえ往々にして見られるというのだから、彼らが原水爆禁止という理念を純粋培養することは向後絶対にありえないという感想を持たざるを得ないわけで、それは「ことと場合によっちゃいつでもこの大量殺人兵器を自在に駆使しますよ」と言っているのと同じなことになる。つまりオバマが言うように「段階的縮減」のどこかの段階でこれを使う可能性は十分にあるということになる。しかしながら原爆も水爆も中性子爆弾もこれを使う以前に、アメリカは「大量」に、一般人を、巻き添えで戦闘行為により「しかたなく」殺し続けていることは周知の事実だ。アメリカが絡んだ戦争はすべてこの一般人殺傷を含んだ戦争であった。今回のオスプレイ騒動はこうしたアメリカの、アメリカ人の戰爭観、つまり一機や二機墜落して偶々一般国民を殺したとしてもそれはしかたがないことで、最初からそういう想定のもとに実施された(予定殺人実質の)新型輸送機配備計画だと彼らは言うに違いない。しかも「おまえさんがたのお偉いさんがそれでもいいというのだから我々にはおまえさんがたがいかにして死傷してもそれについての責任なんてものはないのだよ」と言い放って平然としているだろう。つまり殺される我々は明らかに死に損であり、地位協定によって免罪されている国の望まざる犠牲者となる。彼らが殺人を犯したその手で家族のために祈りを捧げる図は吐き気を催す光景ではある。このような質の軍事同盟を堅持し人民が死をもて贖う安保とは一体何か。それは我々の何を守るものとして継続されているのか。そして国がこの方針を持続する根拠たる国体乃至その愛国精神というものは一体何人の日本人に支持されているのか、あるいは実感させているのか。恐らく誰ひとり国体の恩恵を受けてはいないし、「愛国心」とは何かを知っているものはない。そういう戦後教育で大概の一般人は生きてきた。戦前同様に今も「国体」は「象徴天皇制」という幻想のもとに祭り上げられ「愛国心」はオリンピックで日の丸の国旗掲揚に踊らされる程度のものでしかない。つまり精神的内実がない。人々が嫌だというオスプレイも安保も軍事同盟も、この国の本質においては意味のないカラクリ時計に過ぎず、はっきり見据えるならすぐにも見えてくる。つまりは「我々は他国の軍隊のやりたい放題を黙認している哀れなヒツジに変わりない」事実に気がつくだろう。ヒツジはヒツジとして生きるしかない。家畜として。アメリカの従属国家として。そこに「誇り」などないし、自力で作り上げた独立国という意識もないし、無論愛する対象たる実体を感じることもできない。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 7

2012年10月12日 21時54分41秒 | 政治論
 民主国家では、民主的方法によって動かない国政等ありえない、と思うのが普通だ。民主国家と息巻いているが、現にこの普天間問題にしろオスプレイにしろ、住民の被害感情や事実上の被害経験が様々な舞台で演じられてきて最早揺るぎなく「公害」(基地公害)其のものと化している状況で、基本的に「ノー」といって妥協なしに突き上げられた辺野古移設反対、オスプレイ配備反対という、民主的方法(各市町村議会、市町村長、県議会、県知事による決議と宣言及び住民集会の決議)で決定的に結論づけられた民意が、余すところなく公然と開示されているというのに、むしろこれらに関しては何もなかったかの如くに扱われ、まさに粛々とあるいは密かにことが進んでいくという有様を見て、この国には「民主主義」を実現し実行する「人間」がいないことを、「人らしい感情と理性を持った」普通の人間がいないのだということを、嫌でも知ることになるが、だからといって「嗚呼」と慨嘆してやけ酒飲みふて寝して翌朝忘れるといったことで済むような気組みには沖縄はなっていない。なりようもない。本土では夢にも考えられないアメリカの傲慢不遜、日本政府の徒手空拳ブリが横行しているため、次の日には新たな問題を付与して「沖縄植民地支配」「沖縄差別」の微動だにしない米軍牙城の広大な敷地が本島20%強の面積の中に延々と奪い取られている状態が続く。軍隊は住民を守らないという沖縄戦の不快な教訓は、現実にこの度のオスプレイ配備強行によっていとも簡単に証明されてしまった。「真空地帯」として「非人間的」実質にある米軍の実際の軍事的空間は、傍目にはなかなか見えてこない危険性をふんだんに抱え込んでいるので、これの運用は「住民の生死」さえ必要悪的に左右するという想定の中にある(米軍高官のなかに公然とこれを認める発言もある)。従って、戦時における非戦闘員の生死のように偶発的に引き起こされる多数の一般人の犠牲は「やむを得ない」傾向として片付けられ、顧みられないというのが軍隊の認識なのである。簡単に言えば米軍基地は、予期されない戦死乃至戦場死を覚悟する必要さえある、本来人間の住むところにあるべきではない危険な施設なのだ。こうした施設の向こう側にいる全ての関係者は、「間違って殺してしまったらごめんなさい」という意識状態で爆撃し一般住民の巻き添え死を組織的に免罪している。だからもしオスプレイによって墜落されたら「犬死」「無駄死に」「報われない死」「諦めるしかない死」「納得できない無念の死」にしかならないと思わなければならない。そして国を挙げてこういう住民の死を黙認するこの国に人間はいない。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 6

2012年10月11日 16時26分12秒 | 政治論
 9.11があって直ちに論評が乱舞した頃、この未曾有の、前代未聞の、恐ろしく「見事な」破壊行動について、「深く」追究した論陣のなかにウイリアム・ブルムというジャーナリストがいたことは記憶に新しい。彼の「アメリカの国家犯罪全書」は益岡賢氏の日本訳で2003年に第一刷をものして作品社から発行された。原本初版は2000年5月であり2001年9.11事件を受け2002年4月に「新版への前書き」を追補して増補改訂版を刊行した。我々の見るところ、とりわけ沖縄在住人という視点で言えるのは、アメリカ合衆国とりわけ米軍が、世界展開して、その、到底「民主的」とはいえない残虐な軍事的方法で介入した中東での種々の行為が、国際司法的犯罪行為に相当する「倫理的な問題性」を多く含有する事実が示す、現今日本における民意に背く軍事展開の、「非民主的実質」や「前近代的植民手法実態」という沖縄からの言挙げがアメリカに関する「世界の真相」からすれば当を得ているということの揺るがぬ根拠というものを、改めて確認することになる。我々に突きつけられているのはほかでもない、こうした言わば殺傷能力の高い「猫」に「鼠」である我々の誰が「鈴」を付けるのか、であるが、このイソップ話は「いざ実行するとなると至難の業であることがある-できない相談」というありのままの答えにしかならず、如何に天敵でも同じ「人間の国」じゃないか、「話せば分かる」といって何一つ解決しない繰り返しが沖縄のとりわけ戦後の食えない経験だった。「話せば分かる」は「民主的方法」のことだ。しかし各市町村議会、市町村長、県議会、知事という、民主的方法で選んだ代議員全てが一致して「反対決議」に集結した、このオスプレイ普天間配備事件において国と米軍は、実体のない「安全宣言」をブチ上げ、守られた試しのない「ルール」に合意し、尊重すべき民意に完全に背を向けた予定通りの配備強行を完遂したのだった。あらゆるテロ行為をすべて正当な主張とは思わないが、少なくともあの9.11事件が「単なる自己顕示テロ」とは到底思えない。そこには中東アジアアフリカで行使するアメリカの覇権的警察行為が齎している「反感」「敵意」「根強い憎悪」による強烈で切実な主張が漲っている。この見えざるインパクトこそこの連続的自爆テロの狙いであり、アメリカ合衆国が本気で内省すべき「倫理的背景」そのものだ。だがブッシュ2世は軍に対し直ちに「テロ」への報復と戦争の準備に入らせた。欧州もこれに右ならえし小泉首相は両手を上げて同調した。つまり「反省」でなく世論を一定の方向に誘導し「ならず者国家」やテロ指定国呼ばわりによって戦争機会を増大するとともに、彼自身の戦争行為を正当化しその支配的権威によって世界を同流体に引きずり込むことに成功した。かくして世界は大アメリカ帝国と化したわけだ。我々は多くの「テロ行為」には同調しないが、その意は十分に同情すべき内容を有すると思っている。「コザ騒動」の例を引き出すまでもなく、「怒りが爆発して」「正当な」自己実現を目指す民衆の「止むにやまれぬ」行為が現実に生起する可能性が見えてきた。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 5

2012年10月10日 18時28分50秒 | 政治論
 周知のように(報道特集ルポなどに散見するところ)、大震災被災者原発被害者という括りにあって、確実に苦難に満ちた生存生活将来性を強いられている数十万に及ぶ一般の人々が、現に遅々たるあゆみの復旧復興支援の只中に放置されて、恐らくは例の「復興予算問題」のように、官僚が作文してでっち上げた自家省庁のためにだけ考慮された「使途不明金」の類がこの1年半ばかりの震災後の時間において空中処理されているあいだに、多くの一般市民は「普通の」「通常の」業務体系でしか機能しない「対被災者支援」官公庁の、「非人間的な」対応において、苦渋を強いられ辛酸を舐めさせられているという実態から、この国の「非人間的な」機構、仕組み、乃至は戦後この国の主流となった資本主義の、優勝劣敗弱肉強食原理から醸された「功利主義」「効率主義」「合目的化された利潤追求のための倫理的デタント」といった実質の弊害が如実に現れた、震災という非常事態において明瞭に国民の前に示されてきたということになる。人間事象における常識的反応の逆転現象が、その事象に関わる処理機構の「非人間性」によっていることは明らかだ。この「非人間性」は彼等の功罪に限定されるのであり、一般市民は彼らに関わることなく自己の「人間らしい」生存生活将来性を追求すればよい。それができないならば法体系の改変という方法しかない。まず現行公職選挙の結果が民衆の切実な生存生活将来性追求要求を必ずしも汲み取らない実態において(それが公約破りの民主政権に限らず政治的主導性を確保できないあらゆる現実的政治的実情について言えるということは了解されよう)、我々が自己保存と幸福追求権行使により自己に有利な状況保証を確保するには、立法権の並置という権利を立ち上げることであろう。住民投票が必ずしも成果を得ない実情にあってはこうした権利の確保以外に道はない。パワーバランスから言えば代議制の弱体化と市民権の拡充によって政治的暴走乃至偏頗性を抑制阻止し、真に民主的な実質の横溢こそ望まれる。 
 沖縄にグッサリと食い込んだ日米安保というトゲは、上記本土の状況よりはるかに深刻な、人民に対する蹂躙実質を醸している。それは既に所謂アメリカ合衆国による軍事支配同等の「植民地主義」という、古典的な悪政暴政段階に同じい。この概念が普通に使われるということは、民衆的窮状が証明する演繹的結論と考えても良いわけだ。17年動かない普天間問題とは何か。それは特殊に限定される「沖縄問題」そのものにほかならない。「沖縄差別」という、日本におけるこれも古典的な、「人間の業」に属する極めて露骨な悪意というものが、とりわけ政府官僚の心底に恐らく常識では了解不能な経緯によって醸成され来った(誰がなんと言おうとそれは、島津侵寇以来のこの国の、対沖縄における差別意識の歴史的培養にほかならない)。彼ら自身自己のこの醜い正体をまともに眺めたことはあるまい。近代以降意識の外に培われた民族的阻害感覚は、近世日本史のあらゆる局面においてその実像を余すところなく露呈する。何故ひとっ飛びにオスプレイは沖縄にためらいもなく飛来するに至ったのか?本土で生じたら例外なく対米交渉のうちにアメリカの譲歩を引き出す外務官僚が、沖縄についてはむしろ日本の譲歩を強要するという、役割の転倒を平気でやっつけてしまう。官僚の作文通りに動く野田がこれを言うがまま忠実に「首相らしい表現を交えながら」沖縄に対し「理解」を求めるという言い方で「ゴリ押し」するのだ。「差別」待遇そのものである。しかも彼等の言い訳は地位協定という屈辱外交の絶対的不動性以外はない。勿論何度も言うようにこの日米軍事同盟はなんらのレーゾンデートルもこれを有しない。事実上「張子の虎」に過ぎない。頭のいい官僚にはこの実情は明確に了解されているだろう。彼らが米軍撤退安保破棄を通告すべく進言しないのはただ単に「面倒くさい」からだ。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 4

2012年10月09日 22時48分53秒 | 政治論
 仲井眞知事(佐喜真宜野湾市長同行)が米軍オスプレイ沖縄配備後初めて、この国の首相等に直面したという知事のアリバイ(この無力な行為に関して県はどれだけの展望を有していたのか我々にはわからない)において、首相は「従来通り」という決まりきった回答を臆面もなく繰り返すに終わったが、一国の首相が、少なくとも温情を見せて、同情的に対応するなら久しくお目にかかれない「人間」の一面を国民は垣間見ることになるというのに、残念ながら既に「人間の国」でないこの国でそれを望むのは、余程のご人徳を期待するしか方途はないという、実に情けない状況になったものだわい。それにしても「復興予算」のことにしろ、官僚たちが立ち上げる「非人間的」手法に対して、野田はじめ閣僚代議員たちには、これを「人間」として裁量するホンの少しの政治主導もないのかと、がっかりすると同時にどうしたら我々の手で、この「人間らしさ」を取り戻すか思案せざるを得ない。まずは明日からまた再開される訓練飛行に対しては、どうか洋上乃至人里離れた山中に真っ先に墜落してくれと祈らざるを得ない。つまりその事実だけでこの危険な代物を人間の住む街から追放できる。人が住む、しかもかなりの人口が集中している沖縄本島に、他国の裁量にある軍事基地というものが展開することは、あってならない鬼畜の所業であるが、「人間の国」でないこの国はこれを易易とかつ進んで許している。しかるべき有事には真っ先にここ沖縄が標的となるのは目に見えているが、「自己保存」の原則に従えば、当然ながら持続する抵抗の最初の理由付けとなり、しかも彼ら本土がのたまう「一国の安全保障」が沖縄を除外して考えられた確実な証拠性を示しているということになる。しかもこうした流れが戦後67年を通じて後付けで生み出されてきたことを我々はすぐにも気づいてしまうのだ。つまり沖縄の政治的軍事的軍略的人間的環境は、明瞭に運命的に「沖縄だから」創成されてきたのであり、その本質は偶成に近い「差別精神」という現代人病癖によることは明白である。しかしながらこれに関わってその実体を構成したのがほかならぬ官僚的非人間的事務的管理社会的知的部分であり、彼らの有する機械的非人間的情報性の正確な病理的分析こそ望まれる。沖縄の絶望は深い。その文化は、「人間とはかくなるものか」と、うならせるなにかを滲ませている。この落差は沖縄のどこかに潜む「信仰」のようにも思えるが、わからない。その対極に本土の一切が反映する現象をなんと言えばいいのか。この日本という国は、他国の軍隊を集中的に沖縄に押し付けることによって、戦後自身の運命を極めて病的に、異常な本質において回転させてしまったのであり、「沖縄問題」という戦後的矛盾の象徴化を促進したことになるが、現今普天間各ゲート前やヘリパッド建設地高江ほか辺野古等反オスプレイ示威行動に連日体を張って従事する人々にとっては何よりも10月の沖縄の紫外線は殺人的に強烈だろうし、本土の日本人の「対岸の火事」心理状態を少しでもより実感に引き戻し共通する感覚へ集結することを願望するのだ。さて自分には何ができるのか。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 3

2012年10月08日 23時34分44秒 | 政治論
 人間とは何か。人間と動物を分けるのは何か。こういうファンダメンタルな設問に導かれることは、純粋に哲学的命題としてならば、取立てて格別なことでない。だからさながら「君がその愛する人を何故愛するか」という問いに答えるように、多少答えを探す間を持ちながら、ややあって確信を得たかのように滔々と、恐らくは「人間らしい」事や物に仮託しながら、「人間らしさ」を述べ立てるものなのであろう。そこで100人に聞いて100人が100様に答えたとしても、そこに自ずとある傾向、ある共通性を見出すのにそう時間はかからない。これを我々は「常識」乃至コモンセンスと振り分ける。人間数千年の文化的歴史的時間のなかで徐々に確からしく醸成したコモンセンスには何らかの抗し難い説得力があるものだが、例のトマスペインがものしたパンフレット「コモンセンス」によれば「英国(本国)の圧制に対し、自分らが(アメリカ移住者)これに抗し独立を得ようとすることは我々共通のセンス=常識であり、独立によって生じる問題性というのが経済逼迫に限るならむしろ自由貿易の発展性に賭けてさらなる伸張こそ約束される」といった意味になろうか。この考え方は「沖縄の独立」の視点からは度々論議される論点の一部だがこの両者の共通性には実に驚かされる。そして我々沖縄県民はこの国において「孤立無援」なのはその通りだが、実はプロパガンダが少量少数力量不足なだけで、このとおり「沖縄がこの国の圧制に抗して独立性を勝ち取るべく何らかの方途に訴えることには十二分な理由がある、それは県民総意というコモンセンスが証明している」ということになる。従って、知恵を絞り知見識見知識感情を統括して日本国暴政を駆逐する総合力こそ求められなければならない。普天間米軍ゲート攻防戦を垣間見る限りこれは沖縄の戦争、独立戦争の発端だ。沖縄の常識は「日本国政府は、アメリカ軍事戦略だけを優先し、一般住民の安全、安心、基本的人権、幸福追求権、最低生活保障を蔑ろにし、沖縄県民の精神的肉体的苦渋を更に上塗りする暴挙に出ている。」という実情に対し確定的に所有されている。そしてこの先だが、普天間無条件返還要求、という「コモンセンス」がどうして彼ら日本政府を打ち崩さないかといえば、あくまでも日米軍事同盟堅持により国家施策を専管する有名無実!!の「国体論」(意味のない象徴天皇性)が全てを牛耳っている戦後日本人の体制精神性そのものにあるということになる。つまり民主主義本質がこの非論理性によって妨げられているとみることができる。県民総意といったが、この意味の持つ深さは計り知れない。他府県ではどこにも見られない明確なコモンセンスなのだ。それは弾道ミサイルよりはるかに強力な武器である。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 2

2012年10月07日 08時31分56秒 | 政治論
 岸信介の日米安保強行採決は、半世紀以上前の古典的国家圧制の象徴かと思っていたのかもしれないが、10万人を動員した県民大集会とそのオスプレイ配備反対決議に拘らず、これに一顧だに与えず強行された米軍オスプレイ普天間配備は、あの安保闘争(多分に戦後民主主義の幼弱な稚気めいたものに支配されていたというべきか)とは内容も質も全く異なる、沖縄県民総意の切実にして祈るがごとき願望を、ことごとく踏みにじって、およそ「民主主義」とは似ても似つかぬ殺人的圧制を断行した、歴史的蛮行そのものであった。
 つまりあれは半世紀前の遺物でなく現実に現在の沖縄で実践された稀に見る前近代的行為だったわけだ。あくまであるがままに見ればだが、このような野蛮な行為が現代社会で堂々とまかり通る最大の理由は?
 ソ連の崩壊、東側陣営の解体消滅によってもたらされた「パクスアメリカーナ」と言われるアメリカ一極集中世界性を基準に、強大国にして世界一の軍事力を保有し、世界に覇する一国が当然に弱肉強食・自然淘汰を原則に弱小国家群を制覇し、似非「民主化」(実際は傀儡政府のでっち上げ)の結果脆弱な国体の、これら後進的民族間になくもがなの絶え間無い戦乱を巻き起こし、無辜の民の塗炭の苦しみと生存の危機、乃至生活の不如意を常態化し、結果自身は軍需肥大化と戦争経済主義の稀に見る露骨なエゴイズムの徹底的な成果主義を誇るに至る。
 つまり誰も客観的に裁かない「倫理的問題」を不問に付し人道的見地を蔑ろにし、己の国家的欲得をのみ最優先する国家体質に陥っているというのが今の「病める」アメリカの実態ではあるが、同様に日本の実質的支配知能たる帝国官僚の残党の子孫が、本来総体的に進歩発展するべくコントロールすべき「政治主導」議会制民主主義を完全に凌駕し、常に効率主義と合目的化を基準とする国家管理主体の業務的国策に強固にして決定的な威力を付与する、官僚ならではの「管理社会主義」体制を作り上げた結果、「人間がいない」国として資本主義のエゴと、弱肉強食・優勝劣敗原則最優先国家に化けたのだった。この日米「人間喪失」国家が結託して今回このような暴挙をいとも易易と成し遂げたわけだ。(中断)