沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その5

2021年08月27日 17時50分57秒 | 政治論

 アルファ株(英国)、デルタ株(インド)、ラムダ株、など、変異株の種類はこれ以外にもいくつかある。この3種の際立って感染力の強い変異株は現在ワクチン対応で捕捉される感がある(ワクチン頼みの菅はこれを絶対視するが異論はあるようだ)が、いずれも完全とは言えず、特にこれから最も危険視されているのがラムダ株と言われる、ぺルー発のそれだ。変異とは進化かと言われれば感染力や重症化リスクからすると如何にもウイルス的進化過程というしかないのだろう。つまりより強力な感染力と抗体破壊の威力が増進する形質だ。彼らも生き残るためには様々な変貌を遂げねばならないわけで。

 ワクチンの有効性は現時点では種類によって6~8割程度の重症化(感染予防ではない)防御率を示しているが、変異株の進化は当然に確率に過ぎないこうした有効性の間隙を縫って出来するわけで、現在進行形にあるワクチンと変異株の相克状態には先の見えない現実が歴然としてあると言える(つまりワクチン万能じゃない)。しかし、近来エビデンスができつつあるこのワクチンの接種は取り敢えず急がれねばならない。しかも3回目の接種を示唆する動きも見られる(2回では心許なくなっている)ので、我々は恐らくは、このコロナ禍が始まった当初に示された3密回避、うがい手洗い励行、ステイホーム、2枚重ねマスク着用、不要不急外出の自粛といった心がけによって、少なくとも個々人が自ら感染はしない努力を今後とも怠れない、つまりは新規の感染者を出さないことが最大限要求される、ということだ。オリパラはGoTo同様やってはならない不要不急の感染拡大要因そのものであり、この国の為政者が如何に判断を誤っているかが問われなければならない。

8月25日現在国内
現在感染者数237,358(前日比 +10,386)
新規感染者数24,319(前週同曜日比 +407)
累計感染者数1,368,338
死亡者数
15,757(前日比 +45)
退院者数
1,115,223(前日比 +13,888)
 
世界の新規感染者数
664,610(前日比 +204,812)
累計感染者数
213,050,725
死亡者数
4,448,352(前日比 +8,023)
回復者数
報告なし
 
G7  新規感染者数(直近1週間)における新規死亡者数(直近1週間)の割合

アメリカ  0.49% イギリス  0.32% フランス 0.33% イタリア 0.55% ドイツ   0.29% カナダ  0.25% 日本  0.12% 

その他 ロシア 3.77%   インド 1.35%   韓国 0.35%   インドネシア 5.41% トルコ 0.72%        

 この、日本におけるコロナ新規感染者数に対する直近一週間の死亡者数の割合が世界でもかなり低い水準で抑えられているのは勿論注目に値するが、菅内閣とその政権、政府の対策が功を奏していると立証することは今のところできてないし、あらゆる局面が成果や評価の段階にないことは現状を見れば誰にでもわかろう。つまり、数度にわたる緊急事態宣言の継続は、何をおいても緊急性を確実に保っているのだし、医療ひっ迫崩壊危機は現実に起きているのであり、国家のコロナ退治事案そのものが医療本体の犠牲を余儀なくし一般人が病院前で頓死するはめになる。

 事程左様に、東京オリパラが感染拡大に関係しないという(担当大臣の断言の)立証も当然できるわけがないし、逆に五輪後の感染爆発が尋常でないことの方がより大きなインパクトを持つ。強調すべきはそっちだ。

 問題なのは、自分にとって都合の良い数値的実例のみを挙げて(オリパラ関係者の新規感染者数割合など)殊更国民の気を緩めるような、非常時の臨機な対応ができてない菅・小池体制の方なのだ。取り分けて、「救える命も救えない」実情にある重大な医療緊急切迫様相は政治の機能不全、国家政府の「あってなきがごとき」実態を如実に示している。まさにオリパラどころではないし、菅や小池らは明らかに「国民を見殺しにして」欧米的強圧に屈する、傀儡性に堕した腰抜けでしかない(いかに格好つけてもオリパラはそういう醜悪な本質を露呈している)。

 しかしこの死亡者数の割合等は菅政権のコロナ禍に対する奇妙な楽観視、乃至事あるごとに後手後手の対応の、取ってつけた言い訳に使われているのは間違いない(心裡的に)。ところが実際は、ひっ迫する医療関係の、現場における極度に重労働化する、必死的な対応に依存することでこの数値が辛うじて成り立っていることにこそ留意すべきであろう。医療関係、医療従事者にあっては、現在通常インフルエンザなど問題にならない、悲劇的様相を帯びている。

 おまけに軽症重症問わず新規の感染者が増えれば増えるほど、この医療関係のひっ迫、崩壊がいよいよ進むことは誰の目にも明らかで、(東京都のように)故意に検査数が抑えられ(濃厚接触者追跡の断念など)、隠れ感染者が無症状のまま知らぬ間に巷に溢れれば(取り分け感染力が強く重症化しやすいデルタ株では)、無警戒無防備な市中感染やら、結果的に時を置かない重症化、急な死亡例なども予測を超えるスピードで襲い掛かると考えるべきだ(それが危機管理だ)。

 こういうことに対する基本的な危機管理、厳密な予測と早急な対応など、菅政権や政府、東京都は到底都民国民側が評価できるような体制にないことは、既にはっきりしている(印象としてでも世論は過半がそう思っているようだ)。菅の発する希望的観測は最早大本営発表並みの、事実に沿わない「嘘」「でまかせ」になり了している。

 勿論小池都政も同断であろう。この政治家は計算高くけち臭い、「何もしてないくせにアリバイ作りのパフォーマンス」だけがこれ見よがしにひけらかされる、ここに至っては中身のない政治で食いつなぐ情けなさばかりが目立っている(オリパラ実行者としてコロナ禍での開催につき知事は完全に説明のつかない論理破綻を地で行っている)。しかし都民は、国民は、こういう程度の低い政治屋と相変わらず堕落しきった国柄そのままにただれた(白紙委任状の)代議関係を継続中だ。どこにも自分を守ろう、人々を守ろうという意思が感じられない。我々は、飼い主に飼殺される奴隷である以外立つ瀬がないのか?

 国民にとって具体的に物事が見えてこない状況が続く。政治の効用も何一つ決定的でないことが見えている。政権担当者のみ有する危機管理手段が発揮されず、即応体制から繰り出す具体的な対策が欠如し、あっちでもこっちでも救済網から洩れた命が失われている。彼ら為政者は真剣でない、何故ならこの期に及んでも彼らが顔を出すのは世界大運動会の馬鹿気たお祭り騒ぎ以外にない。国会は開かれないし与野党含めやってることで、効果的な実現性の高い方策が全く論じられてないし、政策提言さえどこからも聞こえてこない。あいつらは本当に「税金泥棒」そのものだ。

 どうしてこんな国になり下がったか?

 安倍晋三が「戦後レジームの破壊」と言上げしたところから敷衍すると、「戦後民主主義の破壊」という方向へ導かれる。民主主義の破壊、ではない、この国の戦後を主導した「民主主義」が実は民主主義でもなんでもなかった、ということ。民主、というような主義はない、憲法にちゃんと「国民主権」と謳っている以上法定的なアイテムであり、主張すべき主義なんて言うものでないことはわかりきったことだ。だから、全ての国民が「主権在民」を法的に順守すれば事足りる話だ。

 主権者である国民がそれぞれに様々な意見を持つのは当然だが、統治機構としてはそこに一定のルールを設えないと収まりが付かないので、「多数決原理」が採用され、代議員選挙(獲得票数競争)と代議員による多数決決議により立法が行われる、という仕組み。

 現行選挙制度の内容について語るほどのデータは持ち合わせないが、先ずいうべきは投票率が過半を超えることは稀だということ、それは最近の公職選挙では顕著にみられる事象だ。つまり、主権が存する国民の半分は代議員の選出に関わらないという事実。これは端的にいうと選挙自体成立しているのか、という当然の疑問にぶち当たる。法的に、憲法上の大原則である主権が行使されたと言い切れないわけだ。

 しかし、これを主権行使の放棄行為と見做すこともできる。権利を行使しなければ権利を放棄したと言われるが、しかしそれは一方的な解釈で、選挙自体に民意反映の実質を認めない一定の塊があり、それが抗議の意味で行う積極的放棄ともいえる。この塊を一種の権利媒体と見做すなら、選挙制度そのものの見直しが要求されていると考えることもできる。つまり、主権の存する国民の意思が選挙制度に異議申し立てをしている、そういう現象だと。この民意反映否定状態で選ばれた代議員による政治が有効な、憲法上の主権在民を反映しているというなら、一体だれが正確にこれを評価するというのか?結局は「物言わぬ民」のせいで現行立法代議員の「恣意」が横行する形質となる。

 

 

 

 

 


この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その4

2021年08月11日 21時31分18秒 | 政治論
沖縄、過去2番目に多い638人感染 累計3万人超える【8月11日昼】
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/802521

 東京オリパラなど、(どう見ても)政治的に画策された時代的雰囲気や印象操作で如何に糊塗し、どうごまかしても、この21世紀という歴史的時代の中で決定的な時代表徴となっているのは、明らかに新型コロナウイルスの世界的パンデミックという事件なのだが(殊更実情にそぐわないような脅威を煽るわけでなく)、人間の中の様々な「煩悩」(欲望には、資本主義社会の成り立ちそのものに関わる本質がある)は時としてこの現実から抜け出し(科学的根拠を度外視してーーこの政権では特徴的な性格ですらある)、むしろ通常世界でこそ行われ許されるべき案件を敢えて「やってしまおう」という、一種の衝動に近い欲動を抑えられずに(あるいは別物の思惑から)、実際に、大掛かりな仕掛けで具体的に踏み切っていくということが起こる(彼らは多分それなりに尽力したのだろうーー但しオリパラに関しては仕組み仕掛けの杜撰さが露呈されていた)。

 しかしこの場合、それ自体が結果的にこのパンデミックに対する負の効果しか齎さない(当事者がいかに否定しようと負の事実は残る)という、そして予後的にはむしろ生活生存をさえ確実に脅かす危険性に満ちている、という酷薄な事実に関しては、人類は、決してこれを未然に正確に展望し十全な対策をし、明確な方向性を用意するということをしない。

 その卑近な一例に戦争があり、それは通常世界の破壊そのものでもあり、時として当事者である人類自体がその実践を積極的に後押しする傾向に落ちていく。こういう翼賛傾向は取り分け事態が黒白はっきりしないような状況ではありがちなことだ。当然現在進行形にあるようなものならば、一層、事は複層化する。日々、時々刻々変異するようなものに襲われているこのコロナ禍は、人々を最も単純な自己防衛のホームステイにのみ危難を回避する壕を見出させる(ワクチンもどうやら決定的なものではないらしい)が、先に述べた人間の欲動には、抑えきれずにはみ出す一方の塊がほぼ必ずある。

 最早終わってしまった事案についてくだくだいう必要は今のところないが、先のGoToキャンペーンや今回の東京オリパラが上記のような性格のものだという認識については言っておかねばなるまい。

 但し、小池都知事はともかく、菅や安部は予後(オリパラ後)に関する考え方につき確信犯そのものだと指摘しておくべきで、それは「未必の故意」以上に極めて悪質だ。

 令和天皇はこの国家的犯罪(東京オリパラ)?につき「仕方なく」開催宣言し、閉会式の秋篠宮皇嗣は顔見せだけでこれに関わらなかった(と一応いえる)。

 先の大戦で御前会議における昭和天皇の在り様は、喧伝されるところまさしく「仕方なく」重臣の意思に従った、というのだが、帝国憲法上は統帥権を有する「大元帥」であり、部下の意思などに従う必要性は全くなかった(つまり開戦に関与したという責任は明確に問われなければならない立場にあった)。現憲法は天皇から一切の政治的権力行使の権限をはく奪し、まさに時の権力の意思(本当は国民の意思)に従わされる立ち位置だから、令和天皇とその皇嗣には逆らう何らの可能性もないことは明らかだ。尤も彼らなりの無言の抗弁は何となくだが感じられないこともない。

 アベスガイズムはその害毒的浸潤性が顕著で、それは主にその主体が持つ性格的人格的傾向に裏打ちされている。

 人類はある一定の期間、極めて抑制の効いた倫理性の高い、教条的でさえある「神との対話」時代を経過するが、それらが持つ協調性よりもっと強烈な競争性、淘汰性に段階的に移行、ついには抜きがたいヒーラルキーを構築して精神の階層なるものを築いてしまう。

 これがきっかけで人間の負の部分が、次第に反発的に一つの暴発的エネルギーを持ち、同時に表面上潜航する形質で悪の土壌を肥やし始める。「神は死んだ」というニーチェの時代表現はヒトラーに悪用されるに十分な根拠を持っていたが、もちろんニーチェの思惑はカソリズムへの絶交宣言に極まるわけで、超人思想における人間の、神への拝跪拒否によるルネサンス(人間復興)的意味合いがあった。

 つまりヒトラー的な発現は哲学的な意味で歴史的必然があったと思える。「神は死んだ」は19世紀的総括での全人類的主張だったらしい。同時にそのあとの20世紀は混濁した価値観の洪水となり、「悪」が極まって古代的古典的な権化として人類の前に惨たらしい光景を展開するに至った。プロテスタンティズムの倫理は今や精神界に対する皮肉に満ちた在り様を晒している。

 我々は21世紀にあって、この悪の為す残虐、無残を目の当たりにしてさえ、未だその現実性に見合った全面的な拒否反応を体現するに至ってない。従って「悪」の相貌は勧善懲悪の一義的象徴足りえず、むしろ正当な主張そのものの顔つきを示すこともある。

 しかし周知のように、20世紀前半に露出したナチスヒトラー・ムッソリーニ・フランコ・ビシー的な悪の表徴(ファシズム)は悲惨な末路を迎え、当然の結果としてその壮大な優生思想的計画は適わぬ夢のように当人たちの死で一瞬消えたかに思われた。

 ところが21世紀の現代、各国の国内的格差化、貧富の差拡大は、いよ増しに増して、現代のヒーラルキーは実に巧みに頭でっかちの様相で地球上至る所でアドバルーンのようにゆらめき始めた。世界は彼らの思惑通りに金権的に牛耳られ、各国政府の在り様を根底から把捉し方向づけ、全ての国策を支配するに至って、資本主義は経済マフィア並みの強権主義に落ちていった。

 ここから彼ら大富豪富裕層、ブルジョア、上昇志向組らは一種の集団的威勢を醸し出し、例のpost truth風潮を蔓延らせ、民衆の上に反知性、非論理、倫理否定、反科学といった反価値を我が物顔に流布せしめ、悪の開き直りを示し始め、排外主義、淘汰主義、優越的遺伝子の永久保存、つまりは20世紀前半に頓挫したあの悪名高き優生思想を密かに潜航させている。

 しかし、驚いたことにIOCやバッハ会長のような組織的実践団体とその長が、かくも利権にまみれたものだったとは、この東京オリパラ強行開催がなかったら、あれほど衆目にさらされることはなかったのであろう。人々は何となくではあるが、漸く世界が何をもって成り立っているかについて、様々な方面に疑いの目を向け始めた。菅が、小池が何故あれだけ国民が反対しても、杜撰な管理体制のまま、たかが世界大運動会の強行開催に踏み切って前のめりに突き進んだか。今にして世界の大勢がある階層の力学的基軸によって動かされる仕組みになっていることを、思い知らされたのは、ほかならない日本人一般ではなかったか。そしてこの国の命運さえそうした外力によって否応なく決せられていくことを。

 

 

 

 

 

 

 

  


この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その3

2021年08月01日 19時05分28秒 | 政治論

 急激な感染拡大に至ったコロナ禍は、いよいよ東京オリパラなど津波の猛襲並みに根こそぎ粉砕し、それどころでない様相をはっきりと呈し始めた(7月31日感染状況、東京4058人、神奈川1518人、埼玉1036人、千葉県792人、大阪1040人、福岡502人など)。

 しかし、この菅政権は木を見て森を見ない発言や根拠のない楽観論に終始し、現実の森のすさまじい在り様を全く顧みないでいる。この宰相はその物事に対する認識力が決定的に欠けている(馬鹿なのか頭が悪いのか)か、あるいは自己保身に汲々としていて国家の代表のような自身の立場を全然閑却してしまっているとしか言えない(つまりは宰相の器でない)。

 そういう宰相の言動から出てくる極めて不適切で有効でない、むしろ事実に対する真逆のメッセージを、国民の一定の階層はほぼそのまま、コロナ禍などたいしたことがないと受け止めているかこれまで続けていた自粛モードもタガが外れ、東京都新規感染者数4000人越えも当たり前のように起こったわけだ。この事実はまさにこの菅政権自体が、その危機的メッセージ性の欠如という、感染拡大の明らかな原因の第一となっている証左だ。このことを認めたくないがために、あるいは認めたら終わりだと思っているから、菅の記者会見というのは単なる言い訳と言い逃れと言い抜けの場となって、益々我々の反感を買うのだが、しかし元々世論の正当な局面を無視する政権だから、我々の強度の反感は概してこの政権の何らの障害にもなってないことは残念ながら確かだ。(メデア・マスコミ・ジャーナリズムの特にオリパラに対する翼賛的あり方に対する国民の無力感は尋常ではない)

7月31日沖縄県発表コロナウイルス感染症陽性者の状況

入院中509人 国基準重症者64人中等症267人、入院療養等調整中776人、宿泊施設療養中276人、自宅療養中940人、療養中患者計2513人、死亡236人 累計感染者数24761人

名護市895人(解除776人)、北部保健所管内260人(解除238人)

那覇市7117人(解除6453人)

ちなみに28日の新規感染者数347人、29日は392人で2人死亡、30日382人、1人死亡、31日439人(人口比全国1位)

沖縄の感染者数は「1日1000人に増える可能性も」と医師 感染のピークは見えず

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/794702

 一般的に言って、国家や公機関が発する国民向け言動は当然に国家規模等で拡散伝搬され、多くの国民の獲得情報の基礎になるわけで、そういう意味で、現行東京オリパラの見るからに強行開催(世論無視、日本のIOC傾斜、IOCの横暴強圧)継続進行形勢は、コロナ禍の折から、どうしても自粛続きの閉塞状況にある国民に、明らかにコロナ軽視、無視のメッセージを与えたと解釈されるような傾向にあると言わざるを得ないようだ。既に3000人越えを想定外とした上層部の感懐は、東京オリパラ強行開催が国策的失政だと白状したも同然であろう(彼らは決して認めないだろうが)。4000人越えの数値を突き付けられてもオリパラ有観客を言い募る都知事の、橋本、丸川の狂気を国民はどう見るのか。

 しかしこの期に及んで菅は(人流は抑制されている、高齢者のワクチン接種が進みその重症者数が減ってきているーー実際は人流の減衰は緩慢で、むしろ接種前の世代には中等症重症者が増えてきている)と、恰も事態は政権の思惑通りに進んでいるかのように装い、この状況を事も無げに扱って(東京オリパラの)「中止はない」と断言した。しかし無邪気に断言できるほど、現状は何らか有効な指標をどこにも全く示していないことは誰でも知っている。つまり菅が楽観的に断言すればするほどそれが実情から乖離し、国民の反感を買い、信用を失っていることを、この裸の王様は知る由もない。あるいは諌止する側近さえ一人としていないらしい。

 但し、よくよく考えれば菅は明らかに確信犯と思われる。「諸外国に比べ数値的に抑え込んでいる」というのだが、失政の言い訳に過ぎない。GoToキャンペーンもこの東京オリパラも、両是論両立論(両方を立てて両方を良くするーー現状はその逆だ)でさえなく、感染拡大重症者増大など織り込み済みの確信犯的、「未必の故意」的殺人計画、不作為の淘汰主義(自分は何もせずに成り行きに任せるーーその結果はじかれるものははじかれ、生き残るものは....)の最たるものだ。何故なら感染拡大や医療ひっ迫の有効な抑制対策を一切やらずにその逆流施策を強引に進めたわけで、「何もしないなど言い過ぎではないでしょうか?」などとおのれの無能無策悪策を一切顧みることなく自己保身だけを言い募るその情けなさは、この危機状態の日本にある我々国民には到底許しがたいものがある。

 この安部菅路線の驚くべき悪質さを目の当たりにしながら、国民は何らの手立てもなくて過ごしている。むしろ、菅の吹いた笛の音に合わせて、我を忘れ踊りだしたではないか。メデアマスコミジャーナリズムはそのお先棒を担ぎ、愚劣にもこうした「ええじゃないか」風潮を自ら煽っている。見よ!TVの中はオリパラ一色、ヤフーニュースは連日そっち(五輪)の方でより多くの行数を割いている。つまり一億総筋肉バカになっているようだ。ヤフコメにも、感染爆発で悲鳴を上げているコメをあざ笑うかのように、体制礼賛、オリパラ万歳の大合唱を恥も外聞もなくがなるネトウヨがひしめいている。

すれ違っただけで感染!? デルタ株、驚愕の感染力が詳細分析で明らかに...?(World Voice)

https://www.newsweekjapan.jp/worldvoice/hirano/2021/06/post-21.php

 人流を止める以外に、人心の警戒感の引き締めが益々求められるようだ。見たところコロナ禍は、いかなる視点からも決して油断ならない感染リスクを抱えており、重症化、感染後遺症、死亡リスク、どこから見ても完全に感染を防ぐ以外脅威や恐怖からは逃れようもない。したがって、特殊集合的一大イベントである東京オリパラは全くのリスク喚起媒体以外ではなく、これを強引に開催するイベント主催者は、明らかに感染リスク増大責任を最後まで持っていると言わなければならない。その責任は人命にかかわることであり、一種の戦犯容疑として見る必要があろう。開催に加担した者は勿論A級(指導的役割)、B級(実行者)戦犯として裁かれる。これは冗談でもなんでもなく、ましてやパロデイではない。我々の人生一般にかかわることだ、黙って見過ごすことなど決してできはしない。

 馴化、同化、あるいは雰囲気への委譲、なるようにしかならない、諦め、....こんなところが個人的にはソフトラゥンデングしそうな形勢ではある。国民の怒りは(沖縄ではふつふつと煮えたぎるマグマと呼称する)いつ爆発するのだろうか?沖縄は琉球国復活という方向が見えている。日本人は、西側陣営組み込み、対米従属、安保体制というくびき、によってアジア的東洋的アイデンティティから自ら疎外され、戦後70年以上を閲してもなおこの不動の対米傀儡実質から脱しようとしない。

 「日本をダメにした」のは、この上記のような戦後日本の体制には違いないが、当然その明らかな因源は「敗戦」であり、「敗戦」に至った近代日本の歩み方であり、総じてこうした歩みをどこかで食い止めるべきシビリアンコントロールの脆弱さで、それは官も民も立ち位置の違いや差異はあったとしてもそれでも、同じ意味で不甲斐ないと言えそうだ。