沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩564 琉球沖縄はこの国の手によって何をされているか 4

2014年09月26日 07時08分23秒 | 政治論

 海行かば水漬く(みずく)屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ

 この歌は古代天平の世に、大伴家持が物した短歌の一節ということだが、今更昔日の祖らが奏でる天皇尊崇の大合唱合奏を我らに聞かしてみたところでその真意にはとんと見当もつかず、今上聖武天皇の、仏教に深く帰依し諸国国分寺建立やら東大寺大仏造営に腐心する貴い「大御心(おおみこころ)」に感服し、一勅撰歌人が称揚しようとした心根に自身の出自たる大伴家繁栄の元を確立しようという私心も見えて、下っては先の大戦に大挙赴かんとする学徒たちに向かって「悠久の大義」を説く時の首相東条英機が念頭に、「生きて虜囚の辱め」を避けその死を大君の辺に報じることにこそ義があるとして、一切を天皇ただ一人に集約集中させてはこの戦(いくさ)が暗黙の玉砕戦であることを予定していたということだ。

 悠久の大義とは、私的にしてささやかな幸福追求の夢を永遠に放擲し、本来その一身をその恩愛の対象に捧げるべき自然性から分離(引き裂かれて)して、国家古来の歴史の大海原に(従って歴史科学的には全く確実な根拠を持たない幻想的な信仰もどきの歴史的伝承伝説世界に)、全体主義があらゆる外的な力学によって大衆心理を翼賛化させた結果可能となった、作られた厳粛という雰囲気だけの自殺行為にほかならない。沖縄の海に散華した彼らは初めから死ぬことをもって国に報いるものとされた。その国、とは即ち大君たる天皇国体であり、全体主義者たちが最大限利用しようとした夢幻の象徴であり、その意味では戦後憲法の第1章は明らかに戦前回帰乃至戦前価値の復活にほかならない。というよりこの国においては、この天皇を神輿に担ぐ「国体」という夢幻なしには「民主主義」さえあり得ようもないものなのだった。象徴制天皇も現人神も何ら変わりはない。その政治利用される性格においては「民主制」の明らかな敵である。

 この安倍政権の神髄もここにあり、これを背景にした民意虐殺の「粛々」たる国家主義が横行する。今まさに沖縄においてそれは殺人的な人民軽視、民意無視の官憲的暴力において実行され続けている。