沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 30

2012年11月29日 13時13分57秒 | 政治論
 現代において「愛国心」が皆無の日本国では、それが基本である戦前のナショナリズムに対する忌避の念が日本国憲法と相まって、国民性にまで深化したということを67年の戦後史は微妙に語っている、と一応言えるかもしれない。そこには当然ながら戦争が齎した過酷で悲惨な現実に関する実体験があり、これに対する悔恨に満ちた哀情があって、殆ど意識せずに、どこまでも平常な安寧を冀う真情を植え付けたものと理解する。「国家と人民」の触れなば落ちん関係性において如何に国策を遂行するか、ということに悩まない政治は、どこか「人間の国」でない国の話になるだろうことは、大震災原発事故、沖縄基地問題などを通して如実に露わになった。この国ではかつて「愛国心」が、「皇民化教育」によって尽忠報国に取って代わるという内容の「天皇崇拝」に導かれたとき、「現人神」一極収斂の集団心理へ束ねられることが起きた。この時人は、集団的幻覚に対する多少の疑問は踏み越えて、国家総動員状況に自ら進んで自身を埋没させ加速度的に軍国精神を高揚させる心理的狂熱状態を醸成した。「国家と人民」の触れなば落ちん関係から人民的狂気が底上げ的に国家的発狂を促進しない保証はない。諸共に狂っていく歯止めのきかない国家滅亡の一本径がそこに広がる。中国東北部や朝鮮半島での大陸掻き回し軍事行動が、ロシア、欧米自身の領土的アジア覇権意識に火を点け、ドイツの気違いヒトラーの勝利を目算した統帥部が欧州戦線に対する稀に見る大誤算を犯してしまった結果、初っ端の奇襲で電撃的成功を納めたまでで進軍は終わり、国家的戦意高揚と臨戦的軍事的立て直しを終えた米国の盛り返しにより勝敗的決着は、ミッドウェー以後敗退に敗退を重ね玉砕に終始し糧秣補給すらままならず、南方、北方戦線の戦況は地獄絵そのものの様相を呈し、この戦争の自滅的性格を決定づけた。真珠湾、南方戦線の頭初の戦功は短期決戦により敵英米の戦意喪失を誘い早期の和平交渉へ持ち込もうと、予めこの戦争の無謀さを承知していた海軍の皮算用であったが、所詮頼みのヒトラードイツが対ソ戦に敗退し、以降最初の電撃的勝利の行軍はどこへやらその後忽ち全面降伏へ追い込まれていったというわけで、恐らくは、このような状況下でこそ停戦休戦交渉の緒に付く流れを作るべきではあったのだろうし、実際水面下でその流れはあったのだが、統帥部の脳髄には日清日露以来の「神国日本」、「神風」といった非合理的な愚にもつかぬ幻想的妄信すら幅を利かせ、不敗神話の虜となって、「やってみなきゃわからない」程度の戦略的土台の上で、現実に対する認識力も情報収集の徹底も情報漏えいの危惧すら欠けていたために筒抜けの米国情報網の手の内に、思い通りに乗せられ操られていった。我々はそこに敗戦の事実よりも敗戦が人民に齎らす未曾有の危難困苦を予め想像しない国家最高指導者というものが、現実にそのとき日本にはいたしそれは今後もいるだろうと思わずにはいられない。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 29

2012年11月27日 12時52分25秒 | 政治論
 沖縄県北部、東村高江では、オスプレイパッド建設阻止活動座り込みが、誇張なしに、昼となく夜となく雨、台風、熱暑、強烈な紫外線を浴びながらも続けられ、日米、県、村が(オスプレイ配備には反対しているのに)挙って強行容認している建設工事への抗議、工事諌止行動に駆り立てられているし、普天間基地ゲート前でも連日座り込み、抗議、諌止行動が続けられ、その他の沖縄全県的にこうした抗議活動は休みなく行われている。にもかかわらず決して沖縄県の訴えと要求に応えることがない国政の代議士改選が、相も変わらぬ無意味で無駄なから騒ぎをしている日本国のなかで、ある意味ここは、「民主主義」を実現し、これを確保し、未来へより良いものとして残さんがために人民としての地道な努力を怠ることがないという、日本国憲法にうたわれた人民的義務を不断に果たそうとしている、唯一の行政単位であろう。勿論、脱原発活動デモを繰り広げる本土の人々には同調するし、こうした活動が目に見える形で全国民に向け報道伝播されることこそ望ましいということなのだが、脂下がった本土の大新聞はじめメデアマスコミは、本質論は後回しにして、どう見てもくだらない、票取り合戦に興ずる有象無象の多党乱立衆議院選挙報道に、貴重な時間と労力を費消して止まない。こうした傾向が政治の劣化を招きあらぬ方向へ輿論を誘導し、民意から遠ざかった奇妙なデマゴーグを垂れ流す因源となる。自民党が多数党になり民主公明が続き維新が第三極を成すとして、当然総裁安倍晋三を首班指名し安倍内閣が発足し彼の「憲法改悪自衛隊国軍化」路線が緒につく。数年前頓挫した擬似「軍国主義」が復活するのだが、この情勢は対中国を軸とする米国西太平洋アジア戦略路線への合流であり、日米同盟への軍事協力体制を確立し名実ともに合法的再軍備を完遂させんとすることにほかならない。しかも安倍晋三は(かつて皇国教育によって天皇崇拝尽忠報国精神の収斂というマインドコントロールを強迫的に実践した大日本帝国の)事実上の国家総動員体制(国民総背番号制という監視体制)すら目論んでいる。当然行き着く先は志願兵、緊急募集兵、ときて徴兵制導入だ。これらが平時に何食わぬ顔で法的整備を完成させると、国際社会は多かれ少なかれ緊張関係を余儀なくされ警戒感を強めることになる。米中冷戦、でなく熱戦さえありえないことでなくなる。勿論、国内の右傾化推進傾向が、正確な情報網による安全保障機能の徹底したデータとリアルタイムな情報把握に基づくなら交戦状態を招来しても戦略的勝利という目的に邁進しようものなのだが、残念ながら日本という国は、あらゆる意味で貧乏国であり他国(とりわけ中国)との友好的交流なしに立ちいかない国情にあるわけで、如何に元寇並みの幸運に見舞われたとしても国民を再び戦禍に落とし込む結果しか想像できないのだ。だからむしろ完全無防備平和外交一辺倒、自衛隊の災害救助隊編成替え、日米軍事同盟を破棄し平和友好条約へ移行するという、現憲法の忠実な実践の方が安上がりで有効な国際関係を築けるといえるわけだ。少なくとも情報戦略に疎かった大日本帝国の轍を二度と踏むことのない、リアルで有効な戦略に立脚した安全保障思想こそ培養しなければならない。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 28

2012年11月25日 18時59分02秒 | 政治論
 インマヌェル・カント「永遠平和のために」は戦争における暫定的な戦後講和の決定的な不備に対し批判的に論じられ、かつ彼が在命した18世紀末時点での基本的平和実現の手だてを綴った有名な著書であり、ここに列挙された平和のための具体的方法が国際連合に結実したとされているが、残念ながらカントの平和理念自体はこんにち少しも有効な非戦、反戦確定国際法規に至っていないということが言える。それはどこまでも単なる理想かといえば、オバマのように、ある大国の主導者がそうだといえば現実が優先し(戦勝国構成の安保理など何の意味があるか)、理念からどこまでも遠ざかるという別の現実を生む。つまり現実は現実であり理念は理念なのだ。それは別の次元であり本来理念を有しない政治的現実などありえない。このレトリックじみた関係をいくら論じてみたところで何一つ明らかにはならないが(同じことは間接民主主義手法についてもいえることで、今次の総選挙が民意を代議する実質がないのなら、単純に政治家はいらないし官僚丸なげで一向構わないのである。つまり業務的専任に預かる各省庁統括責任者-意思決定機関-を置いて管理型政治に徹することだ。お祭り騒ぎといっても良いこの国の選挙実態は-実質的業務をこなさない党派囲い込み議員を選挙するという-税金の無駄使いそのものである)、理念は言葉でもないし、到達目標でもない、いつでもそこに立ち返りそこからまた出発すべき原点にほかならない。カント批判におけるヘーゲル哲学を御用学と呼ぶマルクスにあってはじめてカントの真意が伝わってくる。誰でも「永遠」という絶対性を目の前にして逡巡する、当然ながらここに人性に逆らう自然があるのだが、次の段階で、これを超克しようという「人間」の自然、理念が立ち現れる。これをしも「性善説」並みに(皮肉に)扱うなら恐らくはあらゆる議論は不毛というしかない。カントは予言しているのであって、同時に予言が必ずしも当たらないということにまで言及している。つまり戦争は永久に絶滅しないし、戦争はむしろ常態であり休戦が希なのだ。人が議論すべきは、この、常態であるものを絶滅させようという試みの持つ、「人間」の自然性以外にはない。そして法規的確定性を有しない国際連合などまったく意味がないし、(沖縄にあって明白に見えてくる世界人種差別撤廃委員会勧告の無意味さ)これがカントの理念体現機構などというのはまことにおこがましい。先述のように人性に逆らうという自然もあり、これを超克しようという自然もある以上、その理念的担保は国際法規の確定性にほかならず、これを実現しないあらゆる「理想」こそは「夢物語」だといえる。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 27

2012年11月22日 14時13分10秒 | 政治論
 石原慎太郎の核武装発言が持つひどく歪んだコンプレクスは彼に特有なものではなく、この国の恐らく大部分な「再軍備核武装憲法改悪」主義者に共通の複合心理であり、彼にある対中反応が個人的になんらかの見聞に基づくものにしろ「木を見て森を見ず」状態にあることは見え見えで、概してこうした右傾化した知識人の中にある、児戯めいた「秀才根性」が齎らす野心というのは、明治維新以来この国を常に誤誘導する結果を予定しているため(富国強兵殖産興業から大東亜共栄圏構想まで)、「瓢箪からこま」まがいの偶発的政治事故を予防するべく言論はおおきに過剰なほどの全否定的論難に急迫するべきだ。但し石原慎太郎が問題なのではなく、その周辺に群がる軍国主義亜流の跳ねっ返りが思わぬエネルギーを添加して、この国の再軍備の流れをより現実のものにしていく立法的意思に(従って隠れ軍国主義者も含め憲法改悪、集団的自衛権肯定論者等々代議員連中全て)火をつけることを避けることだ。今次の衆議院選挙がごった煮のつまらない政治状況を作り出すのは明白だが、望むべくは無党派、無所属系が大勢(たいせい)に便乗して愚昧な野合的変節を繰り返さないことなのだろう。現在沖縄は超党派的な反米反基地思潮に染まっており(但し4区の候補者談を見る限り基地問題に対する根本的な差違-安保に関する是々非々-は凝視しなければならない)、国政選挙の争点は本土情勢と大差ない感じがある。従って投票率低下の可能性が高いが、それとは別に、大衆運動のアウフヘーベンがここにきて俄然注視すべき質に至ったと、思わせる時期に差し掛かったのではないか。問題は「辺野古」環境アセス政府対応と県知事処理の葛藤及びその後の「公有水面埋め立て」許可を巡る攻防だが、最悪、辺野古に展開する住民有志の抵抗運動を力で排除して新基地を建設するという事態は、如何にして醸成され現実化するのか、ということへの透徹した見通しなしにはいかなる作戦戦略も立てようがない。オスプレイの強行配備は、条約的措置にあっては通常の軍事的判断によるというのが日米合意の骨子であり、これについては配備反対への意思表示を連綿と続ける以外になくその強度、数をたのみアピール度を強化する方向であろう。しかし辺野古に関しては本来移設でなく新設行為であり、明らかにハーグ陸戦条約(戦争に関する国際的な基本法)に違反し、また過剰な一県負担にあっては国際人権思潮は勿論広い意味の「人種差別」(世界人種差別撤廃委員会規定)状態を作っていることが明白であり、世界に訴えてでも阻止する全県的運動を目指す必要がある。戦勝国と敗戦国関係が沖縄を通して理念的怠慢のつけとして持続されている現状では、当然沖縄から発信する「戦争責任追究」「天皇制再考」の論陣定立、更に、沖縄偏在化にある安保の不動産的担保を分散解消方向へ導くことで、逆に本土の安保忌避糾合を可能にする(本土の基地反対闘争を喚起する)といった考え方も取り入れることであろう。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 26

2012年11月19日 17時20分19秒 | 政治論
 自衛隊は、GHQの指令でできた警察予備隊から「国軍」化した、国際法上のれっきとした「軍隊」であり、交戦の可能性は、相手が宣戦布告すれば自動的に生じるはずの所謂「暴力装置」にほかならない。従って必ず実体的には、9条の2項に違背する方向へ進展する、流動的「解釈媒体」としての道具であり、「戦力不保持」「戦争放棄」「交戦権否認」いずれについてもこれに抵触する事実上の違憲機関と看做される。戦後史はこの原理を渋々承認し自衛隊合法化工作に明け暮れたが、結論は憲法改悪以外には何事も進まないというところに落ち着いた。つまり現在この国は憲法違反の「軍隊」を保持し続ける不思議な国家体制にあるのだが、自衛隊が米軍の補完部隊として機能し、合同訓練で戦力の充実を諮り、海外派遣すら可能にした結果、当然ながら向後これを戦力として保持強化するためにも、米軍と一体となって米軍の方針どおりに行動していく必要性から、憲法を改悪し、再軍備宣言し、ついでに核武装を達成する事実上の軍国化(軍事を中心に据える対外政策)をこの国は策動している。従ってアジア西太平洋にシフトした米軍の世界展開構想に則って、日米軍事同盟に忠実に従い、米軍と共同の戦略展開を実行しているのが現在の尖閣騒動を核とした、沖縄近海におけるこの国の軍事的施策にほかならない。アメリカが日本国の再軍備(事実上自衛隊がそれだ)になんらの警戒感も示さないのは当然だが、一方核武装については恐らく静観しているだろうし、望んでもいないし(日米安保の「核の傘」論が消滅する)、またその莫大な核兵器製造費用からみても、国内輿論の趨勢からしても、それは日本にとってきわめて困難な企てだと見ているだろう。しかしながら、現在国内にある50数基の原発が齎らす核物質には核兵器のための資源という狙い目があるはずで、原発事故後実際原発行政に対する米国の圧力がかかって、再稼働はもちろん原発新設までしようとした形跡がある。このように日米の軍事的提携は、日本の自衛隊を従えて米軍が物量と人員規模に物言わせて、対中橋頭堡の確保という使命に忠実なることでは些かの躊躇いもない。安保条約にさえ違背している(その発動は夫々の国の法秩序に基づくことを前提しているのにも関わらず憲法違背の軍略的行為に勤しんでいる)自衛隊の軍事的作戦訓練行動は、その行為の犯罪性と米国植民地政策とにより諸共に問答無用で行使される性質を持たされている。オスプレイは日本列島の上空乃至低空を我が物顔に飛び交い、墜落の危険性と重低音乃至耳障りな爆音を轟かせてこの国の民を翻弄してやまない。とりわけ国内74%の米軍基地を押し付けられオスプレイの展開基地に設定された普天間を抱える沖縄本島は、既に有名無実化したオスプレイ飛行経路時間等に関する日米合意(この合意というやつがかつて厳正に守られたことはない)逸脱飛行乃至訓練の横行によりいよいよ危険極まりない状況に押し込まれ、「世界一危険な基地」の故に「普天間返還」する手はずが逆に辺野古に新基地建設するという便乗的条件で外交課題を16年間無作為に中座させて一向に進捗せしめないばかりでなく、対中戦雲いよいよ暗く尖閣近辺に漂い始めたと触れ回り、戦時的様相を醸し出そうと画策しつつ一層の軍拡行為に余念がない日米戦争大好き連中のいいように掻き回されている。先の大戦で未曾有の危難を被った沖縄県民とは何の関係もなく戦後を過ごした平成天皇が「海つくり大会ご臨席!!」の間際に、またぞろ米兵不祥事を連発しては沖縄県民の怒髪天を突くという、この国のふざけ切ったありようをこの天皇はどう思ったものか。彼もまた「人間の国」でない国に住する、一人の「間」として何事もなかったかのように振る舞い死ぬのだろう。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 25

2012年11月17日 08時13分48秒 | 政治論
 沖縄では、天皇あるいは天皇制には、かつて他府県には類のない際立った「恨み」がある、といえようか。これが天皇あるいは天皇制に関する本土との決定的な差違かもしれない。しかもこの「恨み」には相当の理由がある。先の大戦では日本中の民が祖国に裏切られた(大本営発表)のだろうが、沖縄は地上戦の最たる被害者、犠牲者(沖縄戦)として考えられるし、又この国の、沖縄琉球に対する根深い「差別」「軽視」の心理が、旧日本軍、為政者、昭和天皇にあって代表的に露骨に顕現していた形跡を我々は見る。死せるミカドに再登場願うわけにもいかないが(死者に鞭打っても仕方がない)、この国の言論にあっては、現在も、益々複雑に被害者であり犠牲者である境遇に貶められている沖縄を凝視し、明確に明瞭に確信を持って、天皇以下この国とその民が沖縄に対してしてきた、している、していくだろうことについて、正確な言葉において断罪しなければならない。例えば「フクシマ」においても、原子力ムラに対する重大な責任の飽くなき追及を怠ってはならないが、ここで国と民が相争うような、沖縄基地関連訴訟(普天間、嘉手納爆音訴訟等)と同じ構図の愚昧な本末転倒の、理念なき泥沼にはまるなら、醜悪を通り越して、まさしく当事者である国家の、国家犯罪と言い切る必要がある事態、といえる。本土で黙認的に許容されている天皇皇室が、まさしく昭和天皇の意志と言葉によって、あからさまに現在の沖縄の窮状を作り出した事実に対する沖縄の真情において、黒く暗い疑惑に覆われていることを、「開かれた皇室」という立ち位置が彼ら自身によって肯われるものなら、現皇太子辺が率直に認証し彼の爺様の功罪を自ら正確に語ろうとするがものではないか。しかし彼等にはその気配すらない。彼らは一体その教育と学習において何を知り識別したのだろうか。同じ日本人の中に、どういうわけか格別に待遇されている民がいる、という事実に突き当たることがなかったのだろうか。尤も、筆者自身本土に生きていた頃には頭の片隅の方に「基地の街」というイメージが意味もなくあっただけで、それが意味する多くの不当性不遇性、被害性、について深刻に捉える何の機会もなかったことを告白する。つまり本土の教育は、子供に、つい半世紀ほど前から連綿と継続する人権侵害の実例(基地公害)について、実質的に問題提起する方法を採るようなことはなかったのだった。現在、アメリカと日本政府は、中国の脅威という警戒感の中、尖閣周辺に棚引く戦雲めいた空気を醸し出そうとしている。つまり対中対北敵国視において沖縄島嶼を再び防共の前線基地とし(そこに住する民など眼中にないがごとく)その戦争準備抑止デモ訓練を一段と大規模に繰り返すことになろう。オスプレイ反対、地位協定抜本改訂要求、辺野古移設反対、といった全県的抗議行動の完全無視姿勢は、勿論今に始まったことではない。島津侵攻を遠因とし数百年にわたり日本国が沖縄琉球に対し執って来た(朝鮮半島同様の)併合意識による施策が未だに根強く基本的な「差別精神」として継続しているということだ。昭和天皇メッセージというのはこうしたこの国の改変しようもない体質の表れであり、その功罪は自身に還る。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 24

2012年11月15日 10時45分08秒 | 政治論
 米国政府の意向で免罪免訴された昭和天皇の罪はこの米国という国柄からくる特異な司法理念又は国家安全保障に基づく徹底した合理主義(天皇への日本人の跪拝性に、訴追逮捕時の民衆右翼暴動叛乱を想定した)によって闇雲に消された格好になっているが、このからくりのために実際上隠蔽された戦争犯罪の、検証すべき事実関係が未来永劫消滅するわけでないことは誰にでもわかる。最高責任者であり統帥権保持者である大元帥昭和天皇において、避け得べき避けえた戦争をいかなる理由(従って全ては言い訳にしかならない)があっても回避して、人民の安寧を保持する大任に間違いなくあづかっていたのだから。もし敗戦と同時にこの国の国体が消滅していたら、つまり天皇が自決し皇室が断絶させられたら、日本人はいかなる自己自身を選び取ることになったのか。この設問こそこの国ではまず断じてありえない想定だということになろう。「敗戦」という事実と戦勝国の無条件受け入れとが現実である限り、そして国体護持が前もって敵国に容認されている(ポツダム宣言受諾以前に)事実を天皇が知っていた紛れもない証拠がある限り、こうした原初的な問の虚しさが浮き彫りになる。昭和天皇は、自己保身が成った直後、この国を「共産主義脅威」の防波堤たるべくアメリカの傀儡国家に仕立て上げようとした、あるいはそうなるべきことを進んで米国に委託した(沖縄島嶼を生贄に供して本土日本を安泰させた)。彼のその後の精力的とも言える巡幸は沖縄を除く全県に及んだが、贖罪、禊の質を出まい。沖縄への悔恨、そんなものはない。ありえない。恐らくはこの国の民は、戦争がこの天皇の手ずから行われ、敗戦にあって国体を護持する(自己保身する)ことに一心となり、彼自身の罪責につき不当な隠蔽が行われた事実を目の前にしても、人権理念に纒わるようなことについては多くを語ることはない。つまり人々のうちには何もない、あったのは集団化したとき心理的に傾斜する狂熱的な「愛国心」だけだ。しかもその実体はない。ヒトラーの空虚な意味のない演説のように、嵐が去ってみれば、廃墟と瓦礫と死屍累々の有様を前にしてその陰惨な(ホロコーストの)実態に今更ながら震え上がるというわけだが、この国の民は宮城方向を拝して「男泣きに泣く」ことになる。だが所詮空威張りの「男社会」が作り出した「益荒男」ブリ(振り?)の「見栄」に過ぎず、そこに真の「剛毅さ」はない。「敗戦」は間違いなく民衆の敗北とは何の関係もなく、「敗北して辞す」べきやからが戦後も生き残ったからこそ価値観の錯綜を生んだ(戦後民主主義の所為ではない)。筋から言えばこの亡国の徒の末裔たる「再軍備、核武装、憲法改悪」論者の言は全て「時代錯誤」にすぎない。歴史の潮流は欧米の没落を基本として一切の軍拡外交路線を忌避する方向へ向き始めた(オバマの言うのを信じるなら)。中国の軍事的増強傾向は財政的な翳りから早晩一定の規模にソフトランディングするはずだ。均衡バランスが第一とされ、協調外交が主流となり、お互いに相手を刺激しない程度に国威を保持しようとするだろう。対中対北脅威を煽っている連中は過去の亡霊(ゾンビ)に過ぎない。惑わされてはいけない。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 23

2012年11月13日 20時30分36秒 | 政治論
 天皇とは何か、天皇制とは如何なるものか、沖縄とどう関わっているのか、といった天皇に纒わる話題というのは、いつもいかにも仰々しく扱われる雰囲気があるが、実は「愛国心」とは何かという問いに非常によく似ていて原理的に考えるならそれは心情(心持ち)の問題にほかならない。しかしながら、近代以降現代に差し掛かる迄、こうした心の持ち様を、当然の如く各人の自然な趣きに任されるということでなく、どうかすると国の方針や法律、憲法、あるいは解釈学の領分で扱われるうちにおかしな方向へ全体主義的に導いていく(皇民化教育)ということが起こった。明治憲法は天皇に統帥権を与え陸海軍の大元帥の地位を付与したが、この国の体幹(という考え方つまり国体)は天皇自身に絶対的にあったしそれ以外になかったことは間違いない。国の民は天皇の「赤子」と言われ、軍隊は「天皇の」軍隊であり、一切が天皇の所有物と見倣される方向へ、徐々に緊縮していったのが昭和時代の15年戦争への道だった。さて心持ちの問題ということは多分これは事実に関する解釈でなく情緒に関わる文学に近いのかと思われる。日本で言うところの「雪月花」に仮託して、如何に語るかということじゃないか。そしてそれはその表現法によってどのようにも表される性質を持つ、極めてフレキシブルな存在乃至言葉かと思われる。自然神崇拝から徐々に精神的になり、無神論や汎神論が生じる頃、天皇氏族の圧倒的勢力が西日本を中心に日本列島を縦断的に支配していく、そういう過程で所謂朝廷文化が歴史的風情を醸しながらも、この国の貴族文化的な成長を遂げる。これは民衆において、ひとつの特権的であるが独立した価値たりえた。しかも貴族文化は古代日本文化の粋であり、階級的特権的制約を取り払えばこの国の無類の文化的成果になる。万葉集と古今和歌集を比較して其の美学的差異をコミュニズムから論じることは余り意味がない。現代では誰しも今昔物語と平家物語は共に独立した美を持つものと考えるだろう。「天皇とは」という問いには必ず制度的法的解釈への傾斜がつきまとうが、純粋にこれを眺めるとただ単に「天皇愛」とは、ということになる。愛せない存在を日の丸の小旗で迎えることはあるまい(日の丸でさえ意味のない代物だが)。恐らく現在天皇はこの国の民が、その汎神論的無神論から心情的に趣向した、既定の、異質にして特殊な、無害な外在にすぎない。天皇は人間的には一人間としてあっても構わないがしかし制度的に必要かというと、どう考えても不要というしかない。沖縄県が先の大戦で、国内では格段に特殊な悲劇的地上戦を経験したことは、この日本という国にあっては最大限の表現で取り上げるべき事実であり、これに引き続いて暫時外国軍隊に支配占領されたこととその後の「基地公害」現実において無類の悪条件に置かれていることは、大戦に導かれた結果でしかなく、従って事実上あの戦争こそ現在の沖縄の不遇状態を作っているし、作り出したと言える。そしてその帰するところ原因は制度的にあってしかも民の「汎神論」傾向に便乗して国がこれを教育し馴化し絶対化することにより現人神に祭り上げ、これを利して無辜之民を戦場に駆り立て、「生きて虜囚の辱しめを受けず」という玉砕精神こそ「天皇」に報恩する道とばかり「死に急がせた」、そのことに為政者の傲慢を見るのである。「集団強制死」が恐らく沖縄人でしか起こりえないと思わせるのは、こうした所謂皇民化教育の神髄である「死して奉公する」精神の純粋培養が沖縄人において奇跡的に可能だった事実である。(こう書きながら矛盾も感じる。実際日本兵のいないところでは集団の自死行為はなかったということだ)いずれにしろ「天皇制」は現憲法「象徴天皇」制にしろ無用なものとしてしか沖縄では考えられないのではないか。この件の論考はこれからも続く。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 22

2012年11月11日 08時29分18秒 | 政治論
 2009年9月から今日まで現民主政権の転落崩壊の、見るも無残な「民主化」(一応この評価は最初の民主党マニフェストだけを見た場合である)の失敗という実質は、逆V字失墜(落差の増大化)によるこちら側の体感温度の差異から、近いうちの解散総選挙後、恐らく、いつかどこかで見たゾンビやモンスター(再軍備、核武装、憲法改悪)が現代という時代に突如巨大化して出現し、急速に現実のものとして人民の身辺に蔓延り、凌駕し全面支配するように感得されるということが起こるのだろう(急速な右傾化)。ゾンビやモンスターは、死せる「価値観」や滅亡した倫理である。その正体は直ちには見破れないが、ひたひたと迫ってきていることは確かだ。敗北したのは民主党ではない、日本国そのものであり、勝利したのは相変わらずアメリカ合衆国だ。この国(アメリカ)にとって都合の良い、御し易い政権を傀儡化するのに様々な画策をしたこの3年間は(未だ残党がしがみついているが)、日本にとって不幸な悔恨に満ちた時間の連続だったし、人民にとっては悲惨で過酷な経験の絶頂だった。だが、この国日本にあってはこの間その上部構造になんらの際立った改変も見当たらないのはどうしてか。この疑問はさりげない会話のうちの端言に終わるというのが通例だが、答えは問いの周辺にあるの意味で、例えば、あの東日本大震災と原発事故勃発のとき常識的には「戒厳令」に近い非常事態宣言を発し、あらゆる公的業務や事務手続きに被災者救援活動関連業務を優先させる処置を執るところ、むしろ事実関係の隠蔽による突発的パニックを防ぐという発想に基づく国策優先で対処しようとした。その結果、現実には到底実情に沿わない愚策を選択することが被害を拡大敷衍し、助かるものの危機を助長したと多くのリポートは伝えている。かかる尋常ならざる異変時に目に見えて顕著に露呈されるこの国の体質、というものによって、最も長いあいだ、最も数多く、果もなく繰り返された「国家安全保障優先思想」の犠牲になっているのが沖縄県である。しかもこの思想はこの国のオリジナルでなくアメリカが言わしめた付け焼刃にすぎない。アメリカが持っているのは、世界一の軍事力と物資人的資源を背景にした不沈空母艦上をいつでも駆け巡る、狂熱的でさえある「愛国心」そのものにほかならない。それはその他の世界中の国にとって、脅威的な「無法性」を断行してやまない、ナチスのゲシュタポ以上に恐怖めいた、厖大な細密な情報力に裏打ちされた秘密警察となって襲いかかる「ジョーズ」だ。集団的発狂状態にある強大国の「愛国心」に敵する国はない。かの本国たる大英帝国さえこの国に迎合し諂い、過去の栄光を台無しにしている。しかしながら、明らかな気違いでありならず者であり、多数の反米意見があるのにかかわらず、どこもこれを断罪し世界から放逐しようとする者はない。今や世界は、誰がネコに鈴をつけるかという「不可能な相談」さえ諦めている。「アメリカの国家犯罪全書」の訳者益岡賢氏のブルムに関する後書きにガンジーのこういう言葉を紹介している。「あなたがすることのほとんどは無意味だが、それでもしなくてはならない。......そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 21

2012年11月08日 16時13分24秒 | 政治論
 バラクオバマがロムニーを降してアメリカ合衆国大統領に再選され、今後4年間も引き続きその絶大な権力を振るうことになった。彼の勝利宣言演説はさして重要ではない。彼は、意外に激戦となった選挙戦に最終むしろ大差で勝利したとは言えそれほど興奮してもいないし美辞麗句で何事かを誇張して語ることもない。だがこの愛国者は同時に、世界史の主導的立場にある自国のありようを、いくつかの断面において、彼の軍隊が果たす役割に仮託して語っているし、そこには明らかにブッシュ親父が始めた利権がらみの「対テロ戦争」を「仕方なく始めた」(大量破壊兵器もないし本来テロとは関連性もない国だ)戦争とみなし、まずは(散々破壊した)イラクから撤退し次に(金ばかりかかって効率の悪い)アフガンにおいて徐々に終わらせ引き上げさせる方向へ導くことで、「理念的な」意味での責務を果たしたと言えると自身に納得させようとしている。これはこれまでこの国があらゆる戦争において絶えず繰り返してきた言い訳と何ら変わらないのであり、そこには各国各民族各人に対し行った殺戮行為に関するいかなる謝罪の言葉もないし、むしろ今後ますますその覇権行為の拡充拡大方針を、西太平洋アジア地区の対中防共シフトへ振り向ける軍事行為に、巨額の国防費をつぎ込み周辺弱小国を戦乱の危機に巻き込みながら、アメリカ合衆国産軍複合体を肥大化深化させていくというわけだ。今や対中国戦略に無我夢中の米軍に「沖縄問題」は無いに等しい。従って沖縄は彼らの軍事行為の妨害遅延抑止活動へこれから益々力を注いでいかねばならない。リンカーンもケネデイもクリントンもカーターもそしてこのオバマも、アングロサクソン征服民族の伝統的精神になんの変更もない。それは明らかに国際司法的な意味の犯罪行為を助長し、あらゆる無差別の殺戮を黙認し肯定する意味で、完全な、他国にとっての「民衆の敵」だ。勿論彼らの「狂った」安全保障行為は個人に例えれば極端な自己愛というもので、個人なら許容する限度がこの場合暴力的殺人的落着を図る国家の、巨大な、横溢し奔流化し呑み込んでしまう防御不能な大洪水である以上、あらゆる手段で自己保存を企てる民衆側に明らかな「理」がある。どんなに誇張してもしきれない大国アメリカの国家犯罪、乃至犯罪性は到底独立した他国の民衆に無条件に許容される謂れはない。にもかかわらず彼らの策動謀略欺瞞篭絡戦術に嵌らずに通過する国も民族もない。それゆえパクスアメリカーナなのであり、恐るべき蟻地獄なのだ。日本の外務防衛官僚は戦後吉田ドクトリンを継承し「漁夫の利」「虎の威」「軽負担経済復興優先主義」の路線をひた走ってきた。しかし戦後も67年になる昨今はとりわけ沖縄において発露する国策の破綻傾向を覆うべくもない。吉田ドクトリンの欠陥は暫定性にある臨時国策を常時国策化した(敗戦総括も戦争批判も実質検証せずに)ことにある。これを「米国追随国家」と非難するのが桟敷席だ。事実上国を挙げての翼賛体制で事に当たらなければ絶対的に敵う相手ではない米国に、この定見もない宙ぶらりん国家が物申すことすらできないのは当然だ。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 20

2012年11月07日 09時54分41秒 | 政治論
 自民民主に対する第三極の模索は、与党に対する野党の一極化という構図により官僚主導から政治主導に大転換する足がかりとする肚だろうが、その(転換の)段階的到達手段としては評価するとして、さて、そこに現出する超党派の政治というのは概してその思惑通りに行くまいというのが歴史に見る実情ではある。というより権力意志が関わる限りこうした試みは人性的に破綻するのが目に見えているということだ。諸国が連合する壮大な理想としての戦後国際連合という無意味な企てが、戦勝国論理の専権から更にはアメリカの横暴(国連決議案の反故化、無視)という現今情勢を生んだ事実は、所詮こうした行き詰まった政治的荒廃状況にあっては益々横断的連携の無力さを醸し出しているということになる。しかしながら、統治的理念でなく「千年革命」的方法論としては、あくまで多数決原理に基づく現民主制のうちにあっては「数」を頼むしか手立てはないので、石原軍団の危うい出発点は現状肯定、突破口探索という立ち位置しかないわけだ。彼の政治的ライフワークという見方をすれば、ただ彼が作り出そうとする、「政治主導」が可能な確かな城砦だけは、一応「より良い」評価に至る可能性を残しているかも知らない。無論彼には事実上政治家としての能力はない(尖閣で実証済だ)。さて国内政治地図がどうなろうと、この国の唯一の評価は「戦争紛争動乱」が起こらないできたことにしかない。それを日米軍事同盟のおかげとするのが日本とアメリカの大きな意図された「嘘」であることは言うまでもないのであり、簡単に言えば戦後67年というのはアメリカはじめヨーロッパ以外の全ての民族、国家乃至国家群にあっては、独立とそれに伴う「建国」的努力と正常化、平常化という事情のなかにあり、他国のことなどかまっている暇はなかったのだ。しかもその動きに対し、専ら社会主義共産主義あるいは一般に民主主義運動乃至民族主義運動と言われる民衆活動を謀略と力で暴力的に弾圧、抑圧、封殺、抹殺、傀儡化してきたのが欧米資本主義勢力であった。結果お山の大将は確かに圧倒的に力の強いアメリカ合衆国が悠々とその位置に収まったのであり、そこには欺瞞と暴力と策謀しか見当たらない、まさに理念なき絶対君主的世界制覇意志を感得する。この理念なき国家アメリカは、それでも彼らの言う「自由」と「民主主義」が生み出した大規模な「混沌とした価値の海」を有するが、民衆、人民が賢明にもそこから「智慧」と「勇気」により「人間的な」価値を取捨選択していく一方、これに専権的絶対的に君臨する「国家安全保障」という鬼っ子を巨大化し本質化したときこの国は言わば彼ら自身の言う「ならず者国家」に成り下がったのである。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 19

2012年11月05日 12時13分52秒 | 政治論
 過剰な自己防衛本能の現実的顕現が、より倍加して執行される他者攻撃姿勢(それもしばしば隠密裏に企画実行される)に転ずることは、アメリカ合衆国のとりわけ戦後冷戦時期から今日までの様々な事跡に容易に見て取れようが、事ほど左様にこの強大にして厖大な物量的人的資産に恵まれた世界一にして唯一の覇権国においては、CIAはじめその他の国家安全保障関連機関はもちろんアメリカマフィア、各国の反共集団、政権、人物、果ては凶暴な犯罪者グループさえ己の陣地に引きずり込んで、国内はもとより世界中の共産主義勢力、社会主義、乃至社会改良「民主化運動」の抑圧、弾圧、抹殺、弱体化を企てているという、非常に徹底した「秘密警察」的方法手段と、所謂「民主主義」保護、促進、浸透のためと称してのあからさまな軍事介入によって、戦後の世界現代史に「パクスアメリカーナ」大アメリカ帝国版図を構築したということになる。これを現代の神話のように感じるとしても事実は言うも酷たらしい殺戮と虐待、弾圧の話にほかならないことは既に多くの被害証言、虐殺リポート、が暴き出している(ベトナム、イラク、アフガン、ブラジル、ボリビア、ガイアナ、ユーゴ、パナマ、ラオス、インドネシア、等々)。現日本政府、政権交代した民主政権が僅かな期間で自民政権(これが戦後すぐ米国エージェント暗躍により造出された傀儡政権だったことは了解されよう)以上にアメリカ追随方向へ転落した現象は、マニフェスト政治を投げ出して官僚主導型政治に堕したというよりは、世界中に張り巡らした米国情報網謀略威嚇活動による抑圧弾圧に屈し早々にしっぽを巻いて逃げ出したというのが真相であろう。当然国内米軍基地に駐留する軍隊の存在がむしろ日本国自体の興国的抑止になっていることは皮肉な話ではある。かかる実情にある日本国の一地方自治体たる沖縄県が今抱えている米軍基地の問題は、自ずからこうした力学関係に左右されているのは当然であり、その民衆的闘争形態内容が、本土政府人民に向けてその無関心、無視、差別性においてアピールするということと二段構えで、米国に正面から対峙する、琉球民族的自律精神を養う必要があることに究極するといえる。アメリカとの戦争は、熱かろうが冷たかろうが自己防衛本能に基づく受動的運命におけるやむを得ない実力行使にほかならず、その戦闘内容が「非暴力」「不服従」を基本とするにしても「無抵抗無作為の被害者悲鳴」を前提するわけにはいかない。「いやだ、いらない」と言っている人々の声を無視して国家行為を断行したオスプレイに対しては、これが「頭上に落ちてくる前に」取り除くあらゆる行動に訴える必要がある。国もアメリカも到底信用ならぬ体質であることは明々白々なのだから。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 18

2012年11月04日 10時02分46秒 | 政治論
 沖縄近海久米島近在の入砂島で日米共同統合軍事演習をするはずだったが、度重なる米軍不祥事の沖縄県民に及ぼす悪影響、地元民の反対、及び中国の反発を考慮して中止になったことに来日中のキャンベル米国務次官補が激怒し、「対中尖閣対策としての威嚇的演習なのに何故中止するのか」といったとか。だがこれには多少の尾ひれがついて、米国務省辺の対中脅威も尋常ではなかったらしく、今やアメリカ合衆国は日米安保体制において対中的には完全に及び腰、あるいは退散傾向へ移行し始めたというニュアンスにある。つまり軍事演習ごときで「抑止力」効果を演出しようというペンタゴンの半可通は最早現今中国の威勢には通用しないことが暴露されたわけだ。数年前の対北朝鮮画策事件も徒労に終わったし、西太平洋の覇権はハワイまで押し切られる形勢にある。一方現政権の半可通もいずれ無駄に終わる「中道」路線へのシフトは、彼らにあって現憲法維持平和外交理念というのが本物ならば遅きに失したとはいえ政権維持期間の唯一の成果といってもいいのである。だが、これには公明党との相違点を見いだせず、党としては事実上有名無実の存在になり了したことを意味するし、野田政権において次期選挙対策としてマニフェスト化する事実は、決して二匹目の泥鰌は望めない厳しい民衆裁断にさらされることになる。いずれにしても国内74%の米軍基地を抱える沖縄島嶼は、常時戦時体制にある環境自体に劇的な変更があるわけでもなく、米中の覇権争いは周辺地域にとって多大の精神的痛苦を伴う尋常ならざる状況であり、違憲的に持つハメになった自衛隊という軍隊を武装解除させ災害に限定した救助隊に編成替えし、国内外に平和憲法遵守平和外交優先理念をアピール宣言して同時に日米安保条約破棄、平和友好条約に変更するという、この状況を早々に現出させないと、沖縄はリアルに戦火に巻き込まれ沖縄戦の轍を踏むことになるのは目に見えている。アメリカの深慮遠謀に乗せられてはならない。彼らは現在の普天間固定化状況にほくそ笑み、オスプレイ配備増強の産軍複合体実益を確保することに成功し、防衛省の馬鹿どもは自衛隊にもオスプレイ導入を図ろうという計画さえアメリカに押し付けられている。「民主化」しようとした民主政権潰しにあらかた成功し、小沢一郎を政治的に減退させ、安倍晋三軍国主義者亜流(安倍ならほぼ思い通りに牛耳ることができる、と踏んだ)を次期首相に就けようという魂胆であろう。安保容認の石原慎太郎も恐らくは御し易いタイプに違いない。つまり現状では国政への期待感はゼロに等しく、地方の一県知事がアメリカに直訴しなければならないというこのていたらくは、沖縄県民にとって自己保存と幸福追求の意志において(つまりは憲法に言う基本的人権の確保)何らかの抜本的対策を講じなければならない実態を示唆している。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 17

2012年11月03日 08時17分58秒 | 政治論
 沖縄問題に関する毎日新聞の社説は、沖縄県民には読むに耐えぬ内容で、所謂大新聞の偏向、体制寄り、批判精神欠如(根本的な)傾向は日に日に揺るぎなくなっていって(朝日などはオスプレイにつき数回取り上げただけで以降一切見向きもしない)、これじゃあ沖縄は、国挙げての集団イジメ(防共防波堤確定)の真っ只中に叩き込まれた状態が、いよいよ本格化していくと思わないわけには行くまい。今沖縄は、日米の軍事的提携そのものに対し忌避の意思へ集結し、筆者の住する今帰仁村でさえ(基地はないしオスプレイも飛ばないはずだが)村を挙げてオスプレイ配備撤回要求、集団暴行致傷事件糾弾の叫びにつつまれている。当然渦中の普天間ゲート前には配備以降時間と人員の許す限り絶えず抗議、反対シュプレヒコールが声高にあげられ、その他の基地にも同じような光景が連日絶える事なく見られ、高江(オスプレイパッド建設地)では住民有志協力者により、早朝から夜更けまで連日連夜工事阻止の抗議活動がリアルに展開されている。米軍が、この住民意思の結集した「オスプレイ配備反対」状況を完全に無視して強行配備したうえに、過酷な軍事訓練で、狂った野獣のような米兵の犯罪的行動傾向は如何に指導部が押さえ込んでも歯止めが効かない実情を露呈しているという、まさに日米の軍事同盟自体が住民の生命財産幸福を脅かしかつ破壊している実態が明らかになっているというのに、この国は国民はじめマスコミが「惻隠の情」を喚起する、ということもなくおのれの安泰と「他人の犠牲」のうえの幸福に満足しきっている。しかもこれは今に始まったことでもなく、恐らくは遠く島津侵寇、琉球処分以来の、この国の沖縄琉球に対する根本的な差別感情意志思潮が生き続けていることを意味し、かつアメリカにあっては自国の国家エゴに基づき占領地沖縄に関しては(昭和天皇はじめ為政者どもがお墨付きを与えていたし)何事も意のままであるという植民地支配思想に凝り固まり、21世紀的理念的省察を度外視した前近代的野蛮な軍政を強行しているってわけだ。どうみても、この日米両国は「人間の国」でない。キチガイじみた愛国心など沖縄と何の関係があろうか(あめりかの蛮行はあめりか合衆国国民のこの狂熱的な愛国心によって、いかなる犯罪的行為も国家安全保障優先思想において許される)。沖縄はオスプレイの重低音に毎日悩まされ、墜落危機感に苛まれ、基地自体の威圧性にストレスを募らせ、米兵の襲撃に慄いている。これを無作為に放置しているこの国は「人間の国」ではない。鬼畜の跋扈するケダモノの国だ。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 16-2

2012年11月01日 10時58分46秒 | 政治論
 15年戦争の敗戦後、日本という国体は崩壊した。三島由紀夫はこの国体の復古(王政復古)、つまり昭和維新をしようと楯の会を創設し自衛隊にクーデタを促し聞き入れられず自裁して果てた。これが戦後25年後の日本の最も国家主義的な出来事ではあった。三島が憂えた日本の戦後25年というのはその中心に日米関係(とりわけ安保)があり、戦後民主主義というものがあり民主教育があった。なかったのはやがて実質を損ねる方向へ傾斜した日本国憲法のコンプライアンスであり、その実際的動機は米国が齎した戦勝国恣意にほかならない。その基本は共産主義忌避と撲滅であり、その異常なまでの安全保障国防政策はやがて世界覇権と警察機能の流布という世界帝国樹立意思となって、石油利権が絡む中東への様々な画策、戦争、産軍複合体による弱小国家民族への徹底した防共内政干渉と戦乱惹起行為、アジアアフリカへの防共戦争行為、内政干渉、など世界中にCIAをグラディエータとして繰り込み謀略暗殺諜報活動と軍事行為を展開してきたもので、このアメリカの国家性格は当然現在進行形にある。共産国家中国の台頭はあらゆる意味でアメリカの脅威、警戒すべき相手、戦略を必要とする事案なのは当然だが、軍事的戦略においては個別に産軍複合体としての性格を付与した、軍略外の性格さえ帯びた難解な南西アジア太平洋構想にあり、日本が単に同盟状態にあるゆえに重要な戦略パートナーと持ち上げているのか、軍需的意味で基地存続を諮っているのかわからない。つまりアメリカは今、日本に関しては、旧来の戦後日米関係保存に押さえ込もうとしているようだ。こうしたアメリカの思惑?とは別に、日本が国家的体幹を探すという「自分探し」に至って、皇室尊崇又は天皇崇拝という与件を持ち出した三島は、これが俄かに、戦後教育で育った世代から受け入れられるなどとは考えるはずもなかっただろうが、しかしながら第一級戦争犯罪人たる昭和天皇の戦争責任が彼の自然死に近い病死で幕を閉じたとき、恐らくこの国の真の国家的倫理的救済は潰えたのだと感じないわけには行かない。三島の大義は悲しいまでに大虚であったし、彼の死は日本の国家的滅亡の精神的象徴にさえ思われる。現憲法改悪、核武装、再軍備に積極的な軍国主義亜流たちの中に「大義」は見当たらない。小虚だけがある。彼らの中に「精神」は感じられない。だから三島由紀夫という「三島事件」の主人公がこの世におさらばしたときにこの国のナショナリズムの正当性は永遠に失われたのだと考えるしかないのであり、残された道は諸外国がいみじくも評価する「世界一影響力のある国」としての平和憲法遵守、平和外交、軍事的軍拡的行為への忌避という、一般国民が普通に希求しているありふれた精神の復旧以外にはないのである。(中断)