沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩 38

2007年09月27日 11時36分48秒 | 手記
 50メートルアームクレーン回転角90度搭載のクレーン作業船に8トン消波ブロック30基まで積み込む時間は約4時間、なにしろ15トン運搬トラック1台にブロック1基を積んでは運び、クレーンがこれを船に積み込む、ロープを外す、これを延々と繰り返すこと30回、クレーンの運転者、トラックの運転者、ロープ係、10人に満たない作業員がやっている、このクレーン船が勝手に流れないように4トン程度の小型船が側面に張り付いている、この間クレーン船の乗組員は陸に上がる、1人か2人万一に備え残る、船はそこから100メートルほどの沖堤の作業箇所へブロックを設置する、この一ヶ月ほどをこの船が波止場を占拠するので釣り人は場所探しが難しい、対面の水揚げ場は午前の数時間活況を呈するがあとは静まり返っている、製氷塔が浮かび上がる、 

詩 36

2007年09月08日 17時32分59秒 | 手記
 すでに充分尽くしたようにも思える、いつも何かに見られているという意識は同時に無能なるものにはプレッシャーそのものであった、しかも自ら省みて更に言い足りない何かは必ずあった、「鉱脈」はついに見出せなかったが坑道はいくつか手ごたえがある、これは詩ではない、計算である、ブログが試作を許容したかどうかは知らないが、想定のなかには見知らぬ読者がいたのであって、その空間で自由であることはかけがえない収穫だ、いずれにしても手遊びのうちに球体の自由をば感得しここに参入できると思えば成功の部類に違いない、

 作者は何も知らないが、何もかも知っている、にもかかわらず、更に研究を進めねばならない、むしろ途轍もなく遠くに感じるのは作者だけではあるまい、

詩 35

2007年09月06日 23時54分15秒 | 手記
 彼は彼の友が生きているのか死んだのかも知らない、友と言い状彼にその友情が消えてないかと問えば、確かに情というものは失せている、しかし彼の気がかりの中には何十年となく続いている思いがあり、ただただ無力をかこつ自分がいるということだ、尤も誰彼にその責めを問われているのでもなく、薄情を非難されたこともない、また自ら省みてなんらやましいことはないが、ただただ己の無力を嘆いている、こんなことを言っても埒外者にはなんのことかわかりゃあしない、だからといって誰にもわかるように説明する方法もない、殊更問題を難解にしたいわけじゃない、彼の中に、ある名状しがたい想念があって、そのために長年苦しんでいるのだ、

詩 33

2007年09月05日 23時33分16秒 | 手記
 「おまえはボウフラのような人生を生きたいのか」
 「おれはボウフラのような人生をいきたくない」
 しかし父の苦言に関わらず彼はボウフラのような自分を思った、この期に及んでもう一度再起を期すのか、そうだ再起を期すのです、全てを捨てて、まあ聞こえはいいがそんなことができるのか、
 生き恥さらしたといって死ぬのはも一度あの増長高慢の愚昧な時代に戻るようなものだ、死に遅れてるのに、
 渋面作って少年の青さを死ぬまで続けるものかは、堕落して堕落してぬかるんで転んで、ヘロヘロな自分に目を向けたとき、例えば泥水飲んで地べたにくたばる男を演じてもかまわぬがそれよりも、泥水の味わいを仔細に謳うか、
 どうもサドマゾ的だ、
 といったことを繰言のように書き綴った夜、彼は文学や文芸的な環境には程遠い地面に立っている自分にいやでも気づいたが、 

詩 32

2007年09月04日 10時20分34秒 | 手記
 漱石鴎外以降この縦糸は龍之介に至って突然死するが、思えば維新以来富国強兵を謳い欧化し脱アジア路線をひた走り、軍部独走を赦したシビリアンコントロールという実情からすれば、国民的文学の系譜が途絶えるのは時間の問題だった、今後日本文学をどう評価できるか戦後文学なぞは何者なのか、目に見えて絶望的な今戦争と敗戦と戦犯をもって文学命題に据える不幸、原爆と憲法を常識問題に据えるべき必要性を言ったのは...

詩 31

2007年09月03日 21時56分18秒 | 手記
 蒼き夏の夜や 麦の香に酔い野草を踏みて小道を行かば 心は夢見 我が脚爽や かに 我があらわなる額吹く風に湯浴みすべし、
 我語らず 我思わず 我ただ限りなき愛 魂の底より沸き出づるを覚ゆべし
 宿なきひとの如くいや遠く我は歩まん
 恋人と行く如く心うれしく 「自然」と共に我は歩まん

             永井荷風訳詩アルチュールランボウの「そぞろ歩き」

 小林秀雄の評伝から始まって「地獄の季節」まで恐らく何もわからずに読み諳んじた時期は丁度ランボウの年齢に重なったのだった、なにもわからない、というのはつまり詩人として白鳥の歌を歌ったランボウが突然文学を捨て、ヨーロッパからアジアアラビアアフリカと世俗の荒々しい現実に身を投じたと言う話が本来彼の詩に何の関係があるかという素朴な疑問に、答えを見なかったせいだった、今となっては答えはないようであるあるようでないとしかいえないが、やがて妹イザベルに看取られながら死にいくランボウを思うとき両足をもぎ取られながら歩き尽くした世界を顧みて、すでに全身癌で意識は酩酊状態だっただろうし、つまりいずれにしても「死」はランボウの愛し殉じた自然そのものだっただろうと、彼は思った、
  

詩 30

2007年09月02日 01時32分53秒 | 手記
 彼の父は彼の通う小学校の校長だった、彼の家は、小学校の校門の中にあったので雨が降ろうが雪が降ろうが傘を必要としなかった、小走りに10歩ほど行けば校舎に入っていたのだ、彼は父が校長であるために得した記憶を持たない、むしろそのために負う何がしかの心理的負担を他の子供らの些細な言動に見つけていた、しかし彼の性格は彼らに対し差別的な気持ちを持つほど専制的でもなくましてそのために世俗的優越感をもつこともない、どちらかと言えばできの悪い子にさえ好かれるタイプの少年だった、当時はまた用務員の居室とされた一隅に校長の浴室が置かれ、この風呂焚きを用務員がこなしていたのだが、焚きあがるとその子供が「お風呂沸きました」と教えに来る慣わしだった、子供だった彼は勿論そこになんらの疑問ももたなかったし、反対の立場の子供はどうだったかとはまさか考えもしなかった、だがあるとき彼の同学年となる子供のいる用務員が新任したころ、この慣わしは持続されたのだが、図らずも会合の場で鉢合わせたとき、目と目があった瞬間「いけ好かない」と小声でささやかれた、