沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩350 沖縄の「出エジプト記」 12

2012年02月28日 10時14分56秒 | 政治論
 仲井真君よ、あなたのいう「辺野古はむずかしい、時間がかかる、県外を探したほうが早い」という野田への返答は、県民目線からすれば「ふざけるな!!」となるものなのだ。まず9条に照らせば、憲法違反である日米同盟にかかる基地新設行為は、県民ないし国民の「理解」を得ることなど到底できない性質のものであり(国家的違法行為に進んで加担しろということになる)、「県内はむずかしい」、のでなく「拒絶」「「諫止」という意味合いになり、また同時に「県外」は、これに言及すること自体、違法行為の是認になり到底勧奨する道理にない。一歩引いて安保を必要悪と呑んだなら、絶対的環境破壊と住民危機管理不能という二つの要件により、沖縄本島ないし住民所在の明らかな土地周辺への基地誘致は、当然ながら絶対的回避の政治判断しかありえないことなのだ(アメリカ本国で考慮される基地設置基準がどうして沖縄では度外視されるのか?)。従って、すでに返還密約やら官僚公務員の時間内選挙干渉、暴露された防衛省担当の不逞な沖縄侮蔑発言等(勿論こんなものじゃ済まない無数の事例は枚挙に暇がない)、この国家の上部構造から末端組織にいたるまで覆いつくしている沖縄差別の現状に照らして、沖縄県は、その政治姿勢にあいまいな含みを持たせる気配だけで実効勢力の術中にはまることになる、ということだ。稲嶺元知事が「最早苦渋の選択はしなくともいい」といっているように、殆どの県民が基地に対し返還要求と新設拒否の意思に集結してきているのだから、県の首長は「辺野古移設」に対し、昂然と、「ノー」、といえばいいのだよ。「毎日」の記者が政府寄りの報道記事を書いているが、実際大手メデアさえ沖縄口説きの有効性を喧伝する報道姿勢をみせているのだ。メデアジャーナリズムは、沖縄県内の趨勢に鑑み、当然ながら沖縄懐柔が事実上不可能なことをこそ政府官僚に建言する方向性を持たねばならない。社説も大方は懐柔困難というニュアンスであり、本質論に到ってない。多数決の原理からすれば「対岸の火事」状態の本土輿論をハンデなしの100とすれば沖縄のそれは1にも満たない。つまり格差を是正し正当な加重を沖縄に実施してはじめて国民投票の効験が示せるわけで、恐らくはどう見積もっても人民視点からすれば現行日米合意案は破棄すべきものになる。何度でも言うが「辺野古」は絶対だめだ!!!(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 11

2012年02月27日 23時12分47秒 | 政治論
 9条が、ファシズム国家日本帝国の再軍備抑制のため、連合国保険として無理強いに制定された基本法だとして、朝鮮戦争を契機に米国主導で無実化され、警察予備隊から自衛隊成立を余儀なくされた経緯は、現実政治の蠢動として然程奇異な景観ではないのかも知れず、戦後沖縄占領米軍基地も、日本再軍備監視機能を兼備する意味合いがあったのだし、一国の法体系が他国の主導の下、むしろ一国の思念を度外視した戦勝国報復処置的形成内容にあって、当事国の人民が参加することもなかったトップダウン決裁と考えるなら、新憲法草案を日本国内の人民会議的くくりでまとめあげ、最も民主的な方法で、「満場一致」で採択する実質を保証する、標準的規範作りからはじめるべきであろう。当然これが制定発足施行するまでは、現憲法の忠実な理念的実践を規範とする現行国会決議を前提しなければならないが果たしてそれができるかどうか、まずもって不可能であろう。従って現実的には、新憲法の民主的制定はありえないと思ったほうが、百年河清を待つジレンマに比してむしろ国家的ストレスを回避するものと判断される。そこで「護憲」という字面からその大時代的風貌を取り払えば、9条を実体法と措定し、他を理念的基本法と仮定し、9条の現実的取り扱いを解釈学から切り離して、文言どおり「非武装中立」を国是とする付記注釈により、新たに「戦争放棄」を宣言することが、最も日本的な過不足ない国体実質を内外に知らしめる方法となる。誰が言い出したか中国の戦争脅威は全く以ってナンセンスだが、事ほど左様に暇人から戦争は始まるので、こういう扇情的右翼的街宣的傾向に対しては、真っ向から全否定する気概がなければならない。しかも現状、大半のインテリジェンスにおいて再軍備ナショナリズムが常識化している折から、より政治的精密さを要求する「護憲」の確定的前提につき統一的見解に達しておく必要があり、その意味では「戦争放棄宣言」として、沖縄から、具体的に発信する「大津波」を引き起こすことだ。大戦の悲惨、不幸、残虐性の発露を経験し敗戦の憂き目に遭遇したこの国の未来は、恐らくこの百年程度は太平洋戦争への多面的アプローチを通じてより緊密な総合的な「非戦意志」の追認という精神運動に費やされる。残念ながら日本の戦後はむしろ「天皇不訴追」を象徴的契機として、アメリカ主導「民主化」の失敗、という実質において精神的凋落の一途を辿った。(驚異的経済復興と高度な国家的成長という真逆な現象を生じながら)つまりは9条が有名無実となる転落人生を、自ら選んだということであり、決してアメリカのせいでもなく純然たる「国内問題」に極まるのであり、この意味では、終わりのない政局に転変する現今政界そのものを断ち切り、人民会議を地方分権的に発足させ、有効性に依拠する民意の汲み上げを旨とする会則に則り、....。果てもない。我々の前の壁は、自己喪失という絶望を直視しない限りその打破を成し遂げることができない仕儀になっている。敗戦時に立ち還り「焼け跡」を追体験し、....それはあの大震災でまさしく否応なく実体験してしまったではないか。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 10

2012年02月26日 08時14分31秒 | 政治論
 何度も言うように、最近喧しいヘナチョコ歴史捏造集団には論理的思考習慣も理論構築の手立てもないので、彼らのたわごとにいちいちつきあってあれこれ議論するのは刀の穢れだ。ところで、首里城の第32軍司令部壕跡に立てる説明文(半ば半永久的保存性を持つ)の文言(検討委員会案)から、「日本軍による住民虐殺」と「慰安婦」のくだりを削除するよう、仲井真知事が指示した事件が、格別驚きに価しない脈絡にあることは、賢明な識者ならすぐにも合点がいくことと推察する。この老獪な知事が日米同盟容認の立場にあり、同時に恐らく憲法改悪核武装自衛隊国軍化を脳内に形成しているだろうことは想像に難くない。この意味では政治判断にすぎない「県外移設」公約などは全くの偽善的非理念的内容に黒々と染まっているので、何度も言うがこの知事が裏切ったら直ちに公約違反でリコールすべきである。しかしながら仲井真などどうでもよい。偽善的自民、公明。民主他有象無象が寄ってたかっても沖縄県民の意思に変更はない。民主選挙が民主的でない沖縄では、日米同盟が温存される限り県民意思に合一しない種々の結果的不正がまかり通り、其のたびに国家主義エピゴーネンが引きもきらず押し寄せては愚にもつかぬ「政治ごっこ」に明け暮れ、こうして相変わらず「負担軽減」なる大嘘のコンコンチキを盾まがいに振りかざしては「分捕った」琉球弧をしっかり放すまいという、アメリカ御大様のご機嫌伺いに勤しむこの国の腐りきった秀才どもがお役人であり為政者なので、こりゃどこまでいってもウチナンチューは救われないや。但し、ウチナンチューが「彼ら」によって救われると思っているならどちらにしろ大間違いだ。基地返還で生活の資を喪う沖縄人は県政において経済支援する枠組みをこしらえなければならないが、現今基地依存経済体制が放射能並みに県民経済活力を浸潤し自律的方向性を阻害する事実には、明確な理念倫理観により直面していかねばやがて害毒は琉球自体を精神的堕落へ引きずり込むに違いない。従って「普天間」にしろ辺野古、高江、嘉手納にしろ、一切の米軍基地関係施設の全面返還を基本として人民闘争する方向性はあらゆる機会に声高に貫徹する姿勢を変えてはならない。沖縄の主導者のうち権力構造に座ったものはほぼ大半が県民意思を裏切る結果を示し、かつ途轍もない弾圧が真の「民主主義」を襲撃してきたことは、この土地の歴史を垣間見るなら直ちに了解されるだろう。河村某が「南京虐殺」を事実無根と言い放った事件が都知事の賛同を得たようだがこいつらの脳裏にある「核武装国軍再編軍事大国化」構想に対しては我々人民が身をとしても拒絶する断固たる「非戦」宣言に集結しなければならない。繰返せば我々人民は非力で無力であり国家も軍事も知ったことじゃないのであり、我々の生存の権利を自己保障する明確な意思においてのみ生存の実効性を確保する道があるのであり、この、中国脅威に自ら溺れ海兵隊を避難させようと拡散を始めたアメリカの国家的利己主義などは精神力で蹴散らすことだ。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 9

2012年02月22日 10時39分52秒 | 政治論
 彼らの憲法解釈手法はまさしく論理性のないこじつけに過ぎず、爾来まともな意見として良識ある思潮を生み出したためしはない。従って本来論難に価しない対象だが、いっかな、かかる右翼的没論理没理論の野蛮な勢力が、人民を誤誘導する危険は多々あり、警戒して然るべき事案ではあるのだ。沖縄返還密約は、既に衆目に晒されてその実態を暴きだしているが、当時は国家権力に愚民政治の強力な剛腕が発揮されていたので、「官尊民卑」は隠密裏に断行され、(ノーベル賞選考委員すら騙しきった)佐藤栄作の、傲岸不遜な選良政治は「沖縄返還なくして日本の戦後はない」といった美辞麗句をひけらかしながら、この国の欺瞞政治体質を形成する端緒となった。彼の兄貴岸信介は、第一次安保改正を強引に強行採決した元A級戦犯だが、こうした旧大日本帝国を牛耳った官僚政治家が戦後間もない日本国を誘導したという事実から、彼らが、この国の「民主主義」をいかに胡散臭くしたかわかろうというものだ。ところで、わが国の最優秀部族(東大法卒等超エリート政治官僚)は、国の中枢にさながら百年死滅しない下等原虫のごとく蔓延り、情報隠蔽、金権政治、アメリカ、政治テロスパイ暗躍(CIA)といった基本的背景を持って、この国を牛耳ってきた。そこに、日本の経済ヤクザやアメリカマフィアがどす黒く関わって、(金と暴力恐喝で)「多数決原理」という単純きわまりない「民主的ルール」に則って、数を集積して驚くべき茶番を繰り返し、少なくとも、戦後の堕落した政治環境を醸成する、最大勢力たる日本保守主義の牙城を構築した。我々の見るところ、あらゆる国政関与者は、こうした日本政治の裏事情を、倫理的に打破しようとする前に追放される。旧社会党、も例外ではなかった(村山首相が安保を容認したあの目のくらむ変節を我々は忘れてならないし、福島党首が危うく辺野古移設容認に裏切る局面をみせたのもつい最近のことだし)。沖縄県民は、こうしたこの国の総体と対等以上に敵対しなければならない。何故敵対か。こうした病原菌どもは、実は最新最高レベルの情報網と情報操作技術、及びその高等な頭脳回路から割り出す戦略的緻密さを有し、一筋縄ではいかぬ粘菌的執念深さを武器とするのだ。現に普天間問題のうんざりするほどのていたらくこそ、こうした無作為のボデイブロー的攻撃を示している。彼らはどんな民主的結果(選挙)も住民投票も世論も横目に見ながら、じっと息を潜めて待っている。沖縄県民が間違ってでもいいから「辺野古移設容認」の多数化に落ちることを(多分無理だろう)。沖縄県民は「間違っても」手元を狂わせてはならない。少なくとも札びらで靡く数は少数でむしろ(ヒトラーまがいの)扇情的口説きにひっかかるケースが多いようだ。最後に「代執行」「特措法」が姿を現したら「命がけ」と覚悟するしかない。しかしながらこの「命がけ」は、戦前戦後を通じ、「愚民扱い」の挙句戦場に県民を放置した沖縄戦やはたまた戦後の米軍犯罪による無残な犠牲からすれば、不断に「いのち」が賭けられていた県民の意識に(本来これだけでも許しがたい事実だが)さしたる激変を必要とはしないことになろう。残念ながら現在「普天間問題」にあっては、こうした国の人民として法治下に置かれ、これを遵守すべく市民生活を続ける非力で無力な一般人として「不可知」的に闘う立場に置かれ、「軍事のことは知りえないし知りたくもないが戦争は必ず我々を犠牲に苦痛を強い、沖縄は、必ず弾道ミサイルで破壊されることだけは、よーくわかっているので、基地も金もいらない」と言い続けるしかないのだ。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 8

2012年02月20日 23時29分29秒 | 政治論
 「出エジプト」は「出日本」だが、沖縄から琉球が集団移住を企てるわけはない。まして、労苦の多い流浪の運命を自ら背負う道理もない。出て行くべきは、占領意識の抜けない国際司法違反国家アメリカと、安保現実負担を肩代わりさせてなんら恥じることのない、日本国政府官僚の戦後不変な沖縄イジメだ。と同時に、戦後なし崩しに右傾化して、ズルズルと国家翼賛傾向に加担するマスコミマスメデアのお粗末なジャーナリズム精神には殆ど唾棄すべきものがある。一方、こうした、おのれの国の醜悪な本性を目の当たりにしながらもなお、日米安保を容認し沖縄に尋常ならざる継続的痛苦を強いている日本本土の「常民」は、同朋に対する隣人愛を喪失し惻隠の情さえ置き去りにしたまことに冷酷非情な集団利己主義に陥っている(彼らのうちに発生している孤独死、無縁死、派遣切り、子供の陰湿なイジメ、尊属殺人、乳児遺棄、幼児虐待などの惨たらしい事件の多くがこうした傾向に拠っている事は明らかだ)。さて奇妙な牽強付会を続行する趣味はない。仲井真君は予定通り「環境影響評価書」に対し「辺野古移設不可能」の烙印を押した。これに対し、いかなる修正評価を並べても公有水面埋め立ての許可は下りまい、と政府官僚は踏んでいるだろう。だが彼らの執念深い「辺野古固執」は一向に改まる気配がない。殆ど信仰だ。いかにして彼らは信者になったか。ここに彼らの不敗神話がある。ここに大日本帝国が未曾有の敗戦を経ながらも天皇仮託永続的国体を護持し貫徹した揺ぎ無い自信がある。彼らは決して亡霊ではない。極東裁判でキーナンが東條とともに成功させた天皇守護の至上使命こそ戦後の日米関係を実質的に支えたのであり、この瞬間に日本国はアメリカ覇権主義とともに近代日本の歴史的錯誤についての国民的コンセンサスを封じきったといえる。我々は「象徴天皇」を積極的には肯定していない。目を凝らして戦前の日本史を読み解けばまさしく天皇は第一級戦犯であり、人民を塗炭の苦痛に落とした張本人に違いはない。何故日本人は天皇を許したのだろう。許したように見せかけられたことに抗議しなかったのだろう。この問いには解けない知恵の輪が重なりやるせない。天皇は沖縄戦を避けようと思えば避けられた。しかし彼は「本土決戦」の時間稼ぎに沖縄を利用した。近衛の進言を聞き捨ててこれを断行した。彼が戦後沖縄に来ようとして来れなかった運命は、実に象徴的である。この事実もまた本土の沖縄差別を助長したのだ。むしろ真っ先に巡幸すべき地であったろうに。いずれにしろ天皇制奴隷国家の一員沖縄は「出エジプト」を目指して日夜研鑽に励むのだが、そこには臥薪嘗胆はないし復讐もない、我が物顔で飛び交う戦闘機を頭上に感じながらどんな場合でも軍事基地「ノー」、辺野古移設「ノー」と言い続けるばかりだ。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 7

2012年02月18日 15時34分12秒 | 政治論
 米軍の抑止により戦後67年間と今後何年間かは然したる動乱もなく経過するだろうという不思議な盲目的平和幻想にどっぷりひたり、自律的精神的アクテビテイを本質的に省察せずにきた戦後日本の晩年は、今後も引き続き日米軍事同盟を堅持し、抑止幻想に盲従し、真の精神的覚醒は一切望むべくもなく本能的獣的生活のうちに動物的にたたみの上でくたばるのだろう。このことを何気に承認しあるいは自嘲しても「最後に土くれが少しばかり頭の上にばら撒かれて全ては永遠に過ぎ去る」わけだ。人間の営為が那辺にあろうと全ては「無」であり「虚」であり死して屍拾うものはない。「死んで花みが咲くものか」という、末期の悔恨を今更繰返しても仕方がない。方丈記は随筆ではない。悟達せんとする意思の確認と道程を自認する記録だが、誤解を恐れずに言えば「精神的向上心」のない人間は生きる価値がない、といっているのだ。これを政治の世界に応用するなら己の栄達栄華安定のみを保存しようという政治家にこの国の未来を託すことはできないということになるが、どういうことかというと、例えば「沖縄問題」というきわめて精神的な核心的問題に対するアプローチを逡巡する保守政治は結局愚民政治でしかなく、木っ端役人にすぎない官僚どもに牛耳られ政治理念の実現に命を賭すこともできない薄弱な連中の「政治ごっこ」にお付き合いするほど人民は暇ではないのだ。日米軍事同盟を堅持するといいながら、普天間の不如意をかこつ事もなく、辺野古停滞をいいことに既存の基地を固定化し、「負担軽減」とは名ばかりの基地返還はされたとして、跡地再生計画も十分に検討されたわけでなく(土壌汚染環境劣化枯葉剤)、結局財政的負担を国税(人民の血税)に押し付け(日米地位協定思いやり予算)その場しのぎの政争政局に明け暮れてなんら現状を改善しようという兆しすら見えない。こういうのを俗物根性という。残念ながら日本には未来はない、救いもない、安静な生活を送るなら隠棲するしかない。しかも、罪深い悔いの多い生涯を地団駄踏んで口惜しがっても、到底安価に浄化し得まい。世界に欠けた「天」からのメッセージを聴こうとするなら、宗教もそうだがいずれにしろ目の前の現実をとくと眺め、「方丈の宇宙」に人間回帰の企てを展開するがいい。環境アセスの知事意見は「辺野古不可能」と決した。面白いことに「沖縄の決心」は「岩国の拒否の」ようには野田の政治判断を動かさないが、これに対する彼らの「説明」が沖縄は勿論誰をも説得したためしはない。だから彼らはこれにふざけた「修正」を加えて公有水面埋め立て申請に踏み切るらしい(6月県議選以降無期限予定先送り、にかわった)。知事はこれを拒否する(筋書き上は)。さてそこからどうなるか。余り面白い見ものではない。どうみても、日米安保体制が、政治家を本質的に殺している。で、彼らの「非決断」は彼らの「非責任」とともに「象徴天皇制」から拠ってきている。変な話だがほんとうだ。沖縄からはそうとしか見えない。この間の政治心理学は熟知しないが、人間天皇になった途端、カリスマ性は喪われ、代わって「一律平民」の無信仰からくる「自由」と「放縦」、「民主主義」と「無作為」「最終的無責任」がさも最善な平衡状態を保つかのように観念された戦後平俗コモンセンスとして生き残ったのだった。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 6

2012年02月15日 08時57分50秒 | 政治論
 これまでの、この国の政治に関わる為政者と、沖縄の県知事、地元市長、県議会、市議会乃至その他の市町村議会議員、各首長たちが、大方は条件付普天間返還(無条件返還が基本である)に同意した薄汚い歴史に垣間見えるのは、こうした流れの中でさえ地元辺野古、高江の住民の「座り込み抗議行動群」によってこの問題が15年以上少しも進展しなかった事実と「市民投票による移設反対意思表示(名護市)」、世論調査に表現される過半数の反対意見(80%の反対)などにおいて、文民統制的にくみ上げなければならない民意の正確な評価に思いを致せば、主権在民の憲法精神が実現されるべく不断に努力することでこれを可能にするという、我々人民の義務感に基づく権利行使行為には決して絶やしてならないものがあろう。
 恐らくは議会制民主主義を万能とするような識者はいないのだろうが、かといって「独裁者」を盲目に担ぐ傾向には殊更警戒しなければならない。いずれにしてもGHQ主導で立ち上がりアメリカ意向で修正加筆理念化されたにしろ日本国憲法は、象徴天皇などを除けば、恐らく優れて開明的未来志向的理念性に富んだ条文を連ねたとみてよいものだ。
 だが、憲法9条は、理念でなく具体的な宣言であり、これがなければこの憲法の大前提が崩れてしまうほどの重大にして決定的な意味合いの最終決断にほかならない。沖縄の民意の大前提は、ほかならぬ「沖縄戦」が齎した痛切で深刻な意味というものに帰着する。これがこの国の憲法と沖縄県民の「非戦」「戦争放棄」「自衛権放棄」が同時的に自立し合う所以である。つまり日本国憲法においてのみ、沖縄県民が日本人として共感しうる唯一の真正な根拠が生じる。
 但し、「第一章 天皇」の項目は必ずしも県民において積極的肯定の対象足りえないし、むしろ真逆の反応さえしばしば見られることは、戦後の「天皇メッセージ」は勿論沖縄戦の悲惨な運命を生んだ張本人として当然の質にあるといえる。
 この国の政治権力的実力勢力は、是非を問わずアメリカ流ネオコン、本質ではドイツ的ネオナチ、あるいは正確には軍国主義復活憲法改悪主義者、といっていい。彼らが目指すアジアの覇権はアメリカの傭兵的同盟関係における独立部隊編成による軍事的主導権の行使からしか生じないという考えだ。つまり、アメリカ軍の存在性(潜在的抑止力ってやつ)に「虎の威」を借りる従来の日米同盟を維持しつつ自衛軍的軍事行動の自律性を確保し、対領土問題に優位な条件を整えようということだ。
 大震災の記憶も原発危機感とともに逆にいよいよ鮮明になろうという昨今、こうした怪しい動きには当然国民投票制、共通番号制、憲法改悪準備、防衛予算拡充という国家的翼賛傾向がつきもので、それが如何に状況的齟齬を醸しているか、気づくものは気づくだろうが、大方は国民の知らぬ間に法制化しているといえる。「知らぬ間に」という人民不在の国家プロジェクトがまかり通るなら「議会制民主主義」はその根幹からして崩れ去ろう。民意を代表しない議会などいらないしそれこそ憲法精神に違背する。
 旧帝国官僚はGHQの指示に従って新憲法草案を示したが、彼らの頭が明治憲法の焼き直し以外働かなかったその驚くべき役人根性「官尊民卑思想」は、現今官僚たちにおいても益々意気盛んである。こいつらの言うがままに焼きなおしたこの国の国政は明らかに間違った方向性を掴み取る。こいつらにそれを許さない断固たる民力を示しているのが辺野古、高江の「座り込み」だ。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 5

2012年02月13日 10時32分00秒 | 政治論
 「普天間問題」に関係する一方の地元である宜野湾市長選の結果は薄気味の悪い逆行現象のようにもみえるが、例の沖縄防衛局長講話事件が醸した900票差がもろに出ていて相変わらず不正な裏取引を連想させ(大田知事追い落としの官房機密費ばらまき事件やら返還密約やら)、沖縄と日本の対立軸がここにも露骨に表されるかと暗然とする思いを拭えないのだが、いずれにしろこれがそのまま政府に「沖縄懐柔」の弾みをつけさせるとも思えず、本土の右翼・保守主義・反動政治家どもを狂喜させる道理はないのだ。
 むしろこの結果だけを偏頗に評価しようというマスコミマスメデアの論調は警戒しなければならないし、一方「辺野古移設困難は変わらず」というマスコミ文言には朝日新聞他の右傾化状態を確認しておく必要がある。この文言には民主党への親心しか見えず数日前の社説の論調とも若干齟齬する実質になっている(辺野古移設は白紙に戻すべきだといっている)。
 彼らが本質的日米同盟病根に関する一貫した展望を有しないことはそこにも見えるが、なし崩しにアメリカ一辺倒右傾化が進展すると、どうやら「軍拡・軍国・核武装・国軍保持」の憲法違背状況が徐々に現実味を帯びてくるのは明らかだ。これは震災後1年を迎えようとする、この国を根本から揺さぶっている原発核爆発事件の害毒の蔓延を放置しつつ、むしろ「原発推進」機運が露骨に出てきている現在の恐怖すべき状況とも連動する。
 馬鹿に付ける薬はない、とは、未曾有の困苦を甘受した太平洋戦争の体験経験を「非戦」「厭戦」的に自然消化したはずの戦後日本において(だから戦争手段の放棄を宣言する9条ができたのだよ)、あたら中国・北朝鮮脅威を煽ってアメリカ誘導アジア戦略計画に追従し進行させる「軍事的再起」意思一般現象を言う。
 彼らの捲土重来、臥薪嘗胆、汚名返上、名誉挽回、の心根は実にいじましいが所詮劣等感の裏返し、戦前的富国強兵討ちてし止まんの野蛮な、知性を欠いた叡智に乏しい愚昧な繰り返しにすぎない。しかしながら「一億総白痴化」が喧伝されて久しいと思ったら確実にそれに近づいているということは、小出氏の言われた「我々の敗北です」(原発事故を未然に防げなかったという事態について)といった感想では済まないことを、我々自身が危機感をもって自覚しなければならないのだ。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 4

2012年02月12日 08時39分04秒 | 政治論
 法解釈(乃至こじつけ)という小手先の遣り繰りで、憲法、なかでも9条を改悪しようという、この国の国家主義者・右翼歴史捏造集団は、所詮、GHQが放任した旧日本帝国官僚の残党が、戦後67年を通じて醸し出した日本の戦後政治の功罪を、そのままおうむ返しに体現しているものにすぎないのだが、彼らの傾向が別のナショナリズムを生んで恐らく70年安保終焉あたりから徐々にいわゆるネオコン的潮流となり、マスコミ・マスメデアの論調も呑み込みつつ一億総右傾化する現在に到った。
 当然ここには、戦後政治を無傷で貫く日米の軍事同盟が陰に陽に影響していて、多数決原理に基づく絶対多数を維持し続けた日本の保守政治がもたらしたいわく言いがたいジレンマに、多くのインテリ識者エリートたちが苛立ちを募らせ、「革新的保守」という、まがいものの理念らしき風情をでっち上げた挙句は元の木阿弥に墜落して、結局戦後政治の核心的原理と化した日米同盟温存以外のなんらの収穫もないままにこの国を路頭に迷わせる結果となった。
 こういう見方もある、人間の半分近くは癌(あるいはその治療法の錯誤)で死ぬ、放射性物質による影響で発癌し苦痛のうちに生涯を短期に終えるにしても、死は等しく誰にも訪れるので、死苦という予感に生じる煩悩が抗し難い不変な事実に依拠する限り、恐らく何事にしろ、子孫繁栄の手立てを打つのも「手遊び」の域を出ない。
 小学校の児童の頭上すれすれを巨大な爆撃機が日に何度も滑空する一こまはなるほど異常な恐ろしい光景だが、「そのうち馴れればなんとかなる」。
 否、これを放置しているこの国は明らかに人権無視状態を犯罪的に持続しているし、滑空する爆撃機パイロットは「俺はなんて危険な飛行をしているんだろう」と思っているに違いなく、日米マスコミメデアの論調はさながら、普天間問題の問題派生の原因が自らの業務的不手際(沖縄懐柔策の不如意)に帰するかのようだが実際はそうではない。沖縄の県民がじかに危機感を持ち又激しく怒り又死にもので己の生活空間を守護しているから、おいそれと自身の蛮行を衆人環視のなか強行できないという、つまり為政者の敗色濃厚形勢が現実の有り様なのだと。
 沖縄県民ははじめから君たちアメリカ、日本、日本人、に言い切っている、「辺野古」に新たに軍事基地を造らないといえばそのほかの大概のことは理解してやるし、「普天間固定化」を論う以前に、「辺野古」はやめた!!、といわなければ、沖縄では何事も進捗しないということだ、わかりきったことじゃないか。頭悪いやつらだ。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 3

2012年02月10日 11時10分06秒 | 政治論
 この、何気にくそ気味の悪い状況を作り出しているのがマスコミマスメデア及び憶測に過ぎないあれこれを喧伝する思い上がったジャーナリズム、ネットメデアなので、沖縄は、今回の日米政府が醸している戦争準備計画らしきものには踊らされない実質を有しているということになる。
 目に見える内容での「負担軽減」が一切ない目くらましが、彼らの軍拡ないし再編計画において丸見えで粉飾されている印象だが、所詮、日米安保の実体が、双務的軍事同盟関係でなく一方的「核の傘」幻想による「抑止力詐欺」に基づいて、「アメリカが日本を軍事的に保護しているのだから費用負担は当然日本が肩代わりしなければならない」、というふざけた軍事同盟にほかならず、従来どおり辺野古新軍事基地建設計画の実施に向けて、「普天間固定化」という恫喝強迫含みの長期にわたる対沖縄懐柔ないし対沖縄陥落ののろしを上げた、という、まことに理念性のない堕落した、シビリアンコントロール意思を喪失した世界戦略である。
 オバマのプラハ演説がいかに大嘘であったかをまざまざと見せ付けている。しかも普天間飛行場は当面継続して使用することになるのでその修繕費は日本が負担するという、外交的には三等国威圧と厚かましさを同居させた、やくざな「ハッタリ」をかましてきたわけだ。
 日本政府の女々しい臆病さは残念乍ら人民のそれと等価ではない。「国体」幻想のもと「天皇仮託」の責任所在空白現象がこの国の政治家の特に政権与党には病根として発生するので、「政治ごっこ」の繰り返しを演出する国政のグータラぶりは絶望的だ。従って、人民が自ら(一人ひとりが)自己の厚生福利を企図し「無政府」的に草の根運動を展開しこの国を誘導していかなければ、永久に、憲法における「人権」の確保には至らないと、覚悟することだ。
 既に原発再稼動さえ推進的に実行する気配であり、人民が死に物狂いで阻止する行動に出なければ、アメリカ主導の「原発推進」機運は恐らくただちにこの国の為政者どものあたまを人民生殺し方向へ導くことになる。現に、正確には放射能汚染管理区域として隔離しなければならない地域に、住民帰還を許可する傾向がとりわけ地方自治体にはでてきている。国体などないのにあるかのごとく錯覚し国体護持のためのみに財政負担となる住民避難居住空間確保予算を計上しない政府などないほうがよい。
 普天間に戻ると、辺野古の海を壊滅的に環境破壊し、沖縄県民の頭上に墜落危険性とおそるべき爆音を響かせるオスプレイ(垂直離着陸高速飛行可能特殊航空機)を、昼夜を問わず訓練と称して繰り返し飛ばそうという飛行場建設である、このアメリカの非人道的「植民地支配」的暴虐行為の軍事計画を、どうだまくらかしごまかせば沖縄県民が「理解する」というのか。知事が沖縄振興予算を分捕ったからといって「県内移設拒否」の姿勢を一向に変えない現実を、彼らは何故無視するのか。彼らの再編計画に何故「環境影響評価書」の覆い難い不備、でたらめ、内容希薄の審査結果は議題に上らないのか不思議千万だ。つまりここには、理念性を喪った人類の、アメリカ一極支配世界暗黒時代が広がり続ける事態という、深刻な、抜き差しならぬ様相を呈している現実がある。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 2

2012年02月08日 09時28分03秒 | 政治論
 国威を笠に着たアメリカと日本政府官僚の、地元住民県民の平和希求の意思と祈念を無視した行為は、「国家対人民」という古典的な対立軸をこそより鮮明にするものであり、両者が決して妥協しないのは鼻からわかりきっているし、最後はあからさまに「さあ殺せ殺せ」という開き直りの「座り込み」を、彼ら体制が強制的に(軍隊動員してまで)排除しようという血腥い修羅場を演出することになろうか。 
 言わばかつて起こった「コザ騒動」の全県規模での再現だ。アフリカ中東の民主革命がここ沖縄でも起こるかもしれない。ポット出の移住者である筆者に沖縄のポテンシャルは推し量れないが、この5、6年の感触では想像を絶するマグマ噴出が現実になる予感さえされる。少なくともあの東日本大震災は、人間の営みなど、自然界における果敢なき刹那性と罰当たりな阻害性を目の当たりに証明したのであり、ここから学ばずにどこから学ぶのかということになる。
 自然災害の襲来にあっては、殺戮のための軍隊など元々何の得にもならぬ物でしかなく、まさか米軍が沖縄を守ったとでもいうのかい、「トモダチ作戦」?放射能襲撃で一目散に逃亡したじゃないか、尖閣を中国が乗っ取ろうとしているってか、米軍はこれをけん制して威嚇射撃でもしたのかい、きゃつらが沖縄を中国北朝鮮のミサイル攻撃から守護することなんぞ金輪際できやしない(考えるまでもない事実だ)。分散移転ってか、こわくなって逃げ出し始めたってことさ。
 核の傘幻想は、日本人が敗戦で魂を抜かれた結果としていわば自己暗示による欺瞞性に埋没したということだ。いや、国家がその民を愚弄し愚民扱いし「軽負担経済復興」という馬の前のニンジンさながら、これを与えてここまで突っ走らせたのが真相だ。敗戦国と戦勝国の関係が持続された実質として外交防衛政策が進められているのが、現在の沖縄「普天間問題」が本質的に抱えている問題性である。だからアメリカ覇権主義による世界戦略構想の一環である辺野古新基地建設計画に対し、日本人であって、沖縄県民であり地元住民の人民が自分の土地を自分で守ろうと「座り込み」による「非暴力不服従」行動などを通し、国家がだらしなくいうがままにアメリカ追従政治を繰返す現状から脱却し、現代世界が価値化した「環境保全」「地方自治権」、憲法精神である「人民政治実現」のための不断な努力の一例を示しているのだ。
 アメリカ自身が言っているではないか、これは日本国内問題だと。2006年日米合意は頓挫しアメリカは西太平洋プレゼンスの見直しにより、沖縄海兵隊駐留の根拠が「植民地沖縄」確保にしかないことを認めたのだ。そして日本が日米安保を堅持する限り、アメリカの駐留軍事費負担の肩代わりを続け、アメリカが棚ボタの「軽負担」なリゾート沖縄を手放さない限り、「辺野古移設」なる詐欺行為を持続し、国民の血税消費による「寄生用心棒」状態がまかり通る。
 沖縄県民が日本人である限り、「祖国日本」の憂うべき屈辱的恥辱的な敗戦国状態を打破し、憲法に基づく正当な権利行使可能な状況に、正常に立ち至るべく、こうして日夜、「おじいおばあ」は鼻水すすりながら手をもみしだいて闘っている。昨日今日の日米審議官級の愚昧な協議から日米政府官僚がはじき出した情けない声明に対しては、沖縄県民は怒り心頭に発している。ふざけやがって。野田の馬鹿野郎が「普天間固定化は避けたい」といって結局辺野古しか頭にないことはわかりきっているが、残念ながら現実は「国家対人民」闘争においてのみ事態はようやくあきらかになるのだ。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」

2012年02月06日 00時00分22秒 | 政治論
 言うまでもなく沖縄琉球が本土ヤマトウになど引け目を感じる道理は全くない、むしろ沖縄琉球からこの日本を変えるという発想こそ求められる理念的本質である。そういう意味の歴史的実例こそ、西欧からの浸潤への抵抗を通じて、おのれの近代への脱皮に必然的な道筋をつけた、孫文以来の中国を貫く矜持というものだ。
 明治維新により生じた「琉球処分」が、沖縄において、日本の近代化と同じ陥穽(欧化策=同化策)に落ちたことは沖縄琉球の重大な錯誤だった。その悲劇的な具体例は、沖縄戦で起こった民間人の、集団での自爆行為であったろう。
 沖縄琉球は本土日本によってだまし討ちにされたのであり、死ぬべきでなかった事態において死に急ぐ闇に迷い込んだ。その証拠に、沖縄戦で思うような戦果を挙げ得なかった天皇国家は、「本土決戦」としてはただの一戦も米軍と交えることなく、無様に無条件降伏したではないか。
 沖縄戦、二つの原爆、アメリカ軍の無差別爆撃、どれひとつとってもその復讐戦は、この日本帝国軍人どもにおいて決行されることはなかった。つまり「一億玉砕」は彼らの思い上がった根も葉もない精神論に過ぎず、自らはなし遂げ得ないそれを多くの無辜の民に強いた、まことに醜悪な見苦しい戦争が太平洋戦争の実態である。そして今は今で、征服者アメリカの使い走り、丁稚奉公に勤しんでいる。
 本土政府の「沖縄差別」政策は結果的に沖縄の独自性を永久保存することとなった。つまり戦後のどさくさが、アメリカ軍政府、民政府によって「アメリカー世」なる独自の休息状態に据え置かれ、一時的にせよ平常性を回復した。(その後のアメリカ統治の偏頗性がコザ騒動、復帰運動を生んだことは沖米関係において最悪のシナリオとなったが。)沖縄返還において、日本政府が隠密裏に行使した沖縄「植民地政策」は、つまり表面「祖国復帰」「沖縄日本同一地平強調」を論いながら、実はアメリカとの密約により沖縄を日本の「植民地」として貸与し、永久軍事施設要塞化の資として不動産提供することにほかならなかった。
 これは、沖縄県民のなかに「沖縄と日本」「ウチナー対ヤマトゥ」という、明白な対立軸を自覚させた出来事だったはずだ。現今、「普天間固定化」という、アメリカの姑息な非理念的環境捏造事態は、このアメリカの、客体的世界性からの醜い陥落と覇権国家としての権威失墜という評価に晒さねばならない。「自由」と「民主主義」は恐らく、自然淘汰された本能的回帰性に基づく多数派原理に依拠する、最も一般的な状態を表現した平板な価値でありながら、人為的には、批判的人間性という透視ガラスを必要とする、弁証法的発展のうちにしか本来希求されるべき価値とはならないものだ。
 運動媒体にすぎないそれらが究極の価値とされたとき、一切は「放縦」と「無作為」の真空地帯に放り込まれる。国家がこの重大なゾーンに立ち至ったとき、戦争手段は、実に手っ取り早い奇妙な「緊張感」による人心収攬の機会獲得状況を達成し、国家はおのずと容易に翼賛化する契機を得る。
 (あの大阪の独裁者は数年後に無類の軍国主義者に変貌するだろうが)我々の見るところ、日米関係をじかに具象的に体現し、不断な継続的危険性を予定する沖縄においてのみ、この国が明治維新以来背負ってしまった近代化の功罪を、本質的に贖える決定的な機会と契機を有することができるのだと。勿論「非暴力不服従」という「抵抗」を通じてのことだ。沖縄の脱皮はどこにあるか(中断)

詩349 沖縄と日本 35(環境影響評価書に対する意見の下書き 6)

2012年02月05日 07時58分38秒 | 政治論
 2月3日で、県に対する環境影響評価書への一般人意見は締め切られたが、辺野古新基地建設という暴挙に関してシュプレヒコールを挙げるのは、彼ら日米政府外務防衛官僚どもが、スゴスゴと彼の地から撤退するまで途絶えることはない。否、米軍基地が、沖縄から完全撤去されるまでは、一切の抗議行動が中断することはない。さて、沖縄防衛局の重要選挙がらみの国家施策翼賛操作は、この国とアメリカが沖縄を「植民地」にしている事実の例証にすぎず、今更先の、太田昌秀知事追い落とし時にあった「官房機密費」バラマキ事件を思い出すまでもなく、どす黒い官僚根性が滲み出ている反吐の出る話だ。この汚物まみれの対沖縄におけるこの国の無様な茶番は行くところまで行くだろうが、大国アメリカはそろそろ普天間を巡る愚劣な迷走にピリオドを打ちたいに違いない。思えば、延々続いたこの、「沖縄負担軽減」の名を借りたあからさまな詐欺行為である、辺野古新基地建設という対アジア戦略におけるアメリカの野望は、沖縄県民の不断な「平和追求」の努力によって打ち砕かれ、日本政府官僚どもの「対米追従外交」の醜悪さを余すところなく暴露することとなった。(この功は沖縄県民にありその罪はマスコミマスメデアにある。)米軍駐留、アメリカ介在性の唯一の効能は日本国家指導選良階級における突出した、国威に関わる多方面の野望的先鋭化を骨抜きにしたことにしかない。歪んだ大東亜戦争肯定論が、恐らく泡沫的あがきを繰返す「チンピラ的発想」によって偶々再生しようという動きがあるが、所詮ドイツにおけるネオナチ的戯画とでも称するがものだ。右翼的非論理的雄叫びなんざ屁でもないが、いずれにしろ血税の浪費を助長する働きがないわけでもなく今後一層油断なく、徹底的に理論武装した人民闘争が繰り広げられる。大方の予想は日本政府がアメリカに沖縄「人質」性を盲目に継続させていると見ているが、実は無駄な出費を避けたいアメリカ政府の台所事情が微妙に絡んで、結果的には「普天間固定化」を空中浮遊させるのが当面の目的と化している、というのが実情らしい。(中断)

詩349 沖縄と日本 35(環境影響評価書に対する意見の下書き 5)

2012年02月01日 11時26分01秒 | 政治論
 環境影響評価書に対する審査会の結論は、事実上、辺野古における日本とアメリカの軍事基地新設の野望が、沖縄県民と有識者の審査によって明瞭に拒否されたことを示している。
 これは当然、防衛省、外務省官僚、日本政府が当初から予想したことあろうし、事前に公有水面埋め立て許可申請時期を県議選以降としたことにも表れている(確信犯である)が、その県議選の結果についてもさほど興味はないに違いなく、恐らく筋書き上はアセスのやり直しに追い込まれるということになる。
 但し、野田政権が旧政権の「鸚鵡返し内閣」に堕した現在、「脱官僚」どころか「官僚そのまま」の政治姿勢に徹し始めた状況から、恐らくこのまま「知事意見」も強行突破し知事の「埋立て不許可」決定と同時に「代執行」の準備にはいる。
 野田はいわずと知れた「集団的自衛権」容認主義者(そこまではいかないか)であり彼の脳髄に「憲法改悪」はインプット済みであり、こいつに一番近いのは安部晋三あたりであろう。
 野田が、A級戦犯を戦犯視しないのはもとより、大東亜戦争を東條の所謂「自衛のための戦争」としてむしろ肯定し、自己の国家方針に組み込んで「自衛隊合憲」を論っているのは親父(元自衛官)のせいか?いずれにしろ野田は沖縄に関しての政策決定方法からして日米安保堅持、自衛隊の軍拡・国軍化、(原発容認姿勢から)恐らく核武装主義者とみて間違いない。
 始末に負えないのは、旧政権より旧政権的だということで、民主党あるいはこの野田政権は、最早鳩山元総理の「イカルス墜落事件」によって完全な反動政治に転じたのである。従って人民はあげてこの政権に「不信任」を突きつけ「マニフェスト詐欺」を糾弾し彼らの隠蔽主義を打ち砕くと同時に彼らが掲げたマニフェスト(のなかの脱官僚、行政改革、消費増税不言及)の忠実な実行者を選択する国民議会を(震災からの復興現地において)立ち上げることだ。希望はそこにしかない(敢えてこの国に希望があるというのなら)。(中断)