1959年6月30日、沖縄(このとき米国占領下にあり日本国での行政単位が存在しないので県ではなかった)の石川市(現うるま市)にあった宮森小学校に、操縦不能となった米空軍機F100Dジェット戦闘機が民家35棟をなぎ倒した後激突炎上、死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。
沖縄宮森小学校への米軍機墜落大惨事(1959年)と沖縄の心 (youtube動画)
https://www.youtube.com/watch?v=NoVCCKRGdfc
この同型戦闘機が事故前年に起こしたクラスAの重大事故件数は実に168件に上ると言われる。事故原因とされた「操縦ミス」は大嘘で1999年になって「整備不良」が原因だったことがわかった。つまり使用してはならない機種だったのだ。しかも墜落直前に50kg爆弾を海上投棄していたのだった。そのまま激突していたら被害はもっと大規模になっただろうと言われる。
筆者はその頃小学生でこの事件の報道にはメデア等一切接してない。同年9月には確か、紀伊半島から東海地方を中心としてほぼ全国規模で甚大な被害を受けた伊勢湾台風があった。こちらは学校の児童委員会で、義援金とか救援物資とかが議題に上ったという記憶がある。その2年前1957年に那覇市長瀬長亀次郎氏が米国民政府、高等弁務官ジェームズ・ムーア中将布令によって追放され被選挙権を剥奪(1967年回復)された。これは瀬長氏の一連の、反骨精神に満ちた不屈の闘いが、いかに米国政府をして恐懼させたかを象徴する事件だった。(つづく)