沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩407 日本の生き死に 3 日本文明

2013年05月29日 14時36分45秒 | 政治論

 15年戦争、大東亜戦争、日中戦争、太平洋戦争、これらの呼称は「先の大戦」という総称で屡々一括される。この「戦争時代」に向けて19世紀末、封建社会あるいは幕藩体制の崩壊、開国、王政復古、明治維新、欧化、文明開化、近代化(富国強兵、殖産興業)という流れの中で、日本国は世界のなかのアジア東洋圏に属する島国として先ず「産声」を上げた。

 それは鎖国と限定的通商によって極端に閉鎖され、武士階級による階級支配の固定化された社会性に人民を囲い込んだ、ひとつの特異な性格の封建時代が、支配階級に属する下級武士たちの倒幕運動を通して「近代社会」に脱皮するというエポック、「革命」(フランス革命とかイギリス無血革命、ロシア革命)でなく「維新」という質の改革活動(大政奉還)によって「近代化」を成就したことを意味する。

 日本の「近代化」は同時に国際社会の一員になるという「空間の拡大」化でもある。あるいは国際関係においていかに生きるかという問題の回答を用意する必要が生じること、でもある。

 この「近代化」と「国際社会参画」ということが、「文明の開化」と名付けられるひとつの歴史的意味をこの国に生じさせた。ところでこの文明の新たな出発が別の文明にとって終末を意味することは容易に了解されよう。文明を定義するならそれは「国家体裁を持つ文化形態」とでも言うべきところであろう。その具体化された内容については既に多くの文明論に詳しいものと思うのだが、今重要なことは例えば近代以前の「江戸文化」についてあるいは一般に古代以来の種々の文化的展開についてこれを文明とは言わないものかというと、必ずしも明確に分明された質にないことを気づかずにいない、ということだ。

 これを伝統文化と称するなら日本の所謂世界史上の近代化は、言葉の正確な意味で「文明開化」と価値付けることはできないということに想到する。むしろ生産手段の技術的向上を含んだ物質的増産体制が確立する過程を開化というべきで、本来的な意味での日本文化乃至日本文明は古代以来連綿と続いている文化遺産の中に脈々と息づいていた、と評価しなければならない。

 我々は極めて象徴的に例えば商品を包む紙に北斎広重等浮世絵の包装紙を発見する欧米人を通して、自身の自己認識が痛切に陥っていた自己喪失の最たるものに気づかされたのではなかったか。(つづく)


詩407 日本の生き死に 2 封建制鎖国状態

2013年05月28日 10時55分33秒 | 政治論

 オスプレイ飛行違反の事実は確認されなかったと、防衛省は沖縄県に通達するというのだが、確認されなかった、のでなく、彼らの認識力では確認できないことにしたのだ(誰が見ても合意違反飛行をこれでもかと繰り返しているんだよ)。

 つまり米軍に対する政府筋の抗議申し入れは不可能だということであり、そのことを沖縄県は額面通り受け取らねばならない。この国はアメリカ合衆国50何番目の属州にすぎずしかも限りなく非連邦制の実情に甘んじる自律性のない国なのだ。

 アメリカ軍は日本国において自由な制海制空権を行使し、民間における危険騒音環境破壊回避の施策には全く配慮しないことになっている。橋下というウスラトンカチがいみじくも示したように、沖縄県の県民の人権乃至憲法上の基本的人権というのはあくまでも米軍展開の自在性を前提して「二の次」に置かれるのであり、さながらこいつが自ら墓穴を掘った「従軍慰安婦」への自由な?口軽な思考意見開陳が、世界中の顰蹙を買ったことに呼応して、日本国政府とその体制べったりどもの「反世界性」が如実に証明されてしまったってえ寸法だ。

 日本の実情は極めて通俗な意味での鎖国状態に落ち込み始めた。幕藩体制が百姓は生かさず殺さず(沖縄は生かさず殺さず)で、諸法度は体制確保のためには無為徒食の特権階級からさえその自由を強奪し、人民を身分制度に縛り付けて行動の自由を奪ったし、全てのヒェラルキーは江戸の将軍に極まった。同様に今や日本国はアメリカという将軍に忠実なる君臣と化し民がそのためにくたばろうと知ったことじゃない、地位協定という身分制度で民の生き死には米兵の犯罪が「公務」にある限り「犬死」に堕し、中韓打ち払い令に則り攘夷か否かとすったもんだしている。与那国に砲台築こうと地元ともめているが落ち目の好戦家共は所詮民のしたたかさに辟易するがオチだ。辺野古に埋め立てはできない。一揆でもなんでもしてやれ。(つづく)


詩407 日本の生き死に 1 世界の中で

2013年05月28日 09時15分17秒 | 政治論

 日本国が今後どう生きていくかという問いには、果たしてこの国は本当に生きているのかということと、生きているとすればどこにどう生きているのか、という二つの前提となる疑問に答える必要がある。

 そしてこの二つの問いに対する思考検証はそのまま、この先どう生きるかという問いの周辺におのずから回答らしきものを散らすに違いない。シュペングラーは、ある超絶した繁栄を成し遂げた文明が、凋落滅亡の運命を辿る歴史的必然性を法則的に捉えようとして「西洋の没落」他を著したのだが、ナチスドイツはこの法則を、言わば西洋的傾向(西洋中心主義)に対立するドイツ「蘇生」の劇的契機とするための反証とし、アーリア人の優越性を絶対価値としてその第三帝国建立の根拠としたという、シュペングラー自身が望むと望まざるとに関わらず当時のドイツの全体主義者たちに利用されたわけだ。

 思うに「第三帝国」という発想は、既存の地上権威の絶滅という認知があって初めて生じる、言わば絶望からの起死回生を意味するものと考える。逆に言えば自己自身の滅亡を自覚したからこそこの「理想国家」は夢のようにたち現れたということだ。だがこの「理想国家」が現実に企図したのは、異種他種別種の人類の根絶と劣等人種の確置及びその排除だった。

 当然そこでは文化遺産の振り分けとして「焚書坑儒」や「退廃芸術」指定といった孤絶する古代的企てが平気で実行された。その、ある意味壮大なワグネル的展開を今日眺望すると、その功罪はどうあれドイツ観念論の系譜のここまで人を引きずっていく力があることに今更瞠目せずにいない。

 既に没落する文明としての西洋に見切りを付け、アーリア人優越主義の赴くがまま第三帝国を構想したヒトラーナチスにあっては自身の中の「西洋」という内省は限りなくゼロであった。

 これが日本では、東洋アジア蔑視のなかの自身の東洋アジア性への透視の欠如を準備した。日本にとって、というより日本のエリートにとって、現今朝鮮中国への愚劣な反動的対応は明治維新以来欧化し富国強兵し、日清日露戦をまぐれ当たりに勝利し、不平等条約で欧米に貶められた自身の20世紀的屈辱の「腹いせ」にすぎないことを、大東亜戦の決定的敗北においてさえ未だに悟らない「餓鬼っぽさ」の証明として世界の「常識」には捉えられている。世界の常識は世界史にほかならない。それは現代史だ。既に現代の歴史的概観において世界は先の大戦の評価が根本において決定していることを承知している。もしその歴史的評価を覆すならそれは直ちに反動と看做される。(つづく)


詩406 米軍は去れ

2013年05月26日 19時02分59秒 | 政治論

 そうだ、ここには、これまでもこれからも、人殺しを正当化する戦争論理に誰も異を唱えないはずの軍隊、米軍のなかの海兵隊という、殺人訓練に人格を変質された暴力集団がいつでも隣り合わせに蠢いている。

 攻撃用ミサイルは、いつでも弾薬庫やら兵器貯蔵庫あるいは戦闘機爆撃機が犇めいている米軍基地にこそロックオンされるだろうことなどバカでもわかる。「南西島嶼」の防衛という言辞は、つまりこの島嶼を確保するがそこの住人の安否は保障しないということなのだが、このような殺人的矛盾に出会うのはここでは日常茶飯事なのだ。

 「普天間返還」に条件を付け結局同じ島に新基地を拵えるという、この「辺野古移設」の逆転発想は、日本外交がまさしく45歳の大人に12歳の小生意気な小僧が丸め込まれた図にしか見えない。このような性格の日米同盟にあるものだから、安倍晋三内閣は「負担軽減」などといって「嘉手納より南6施設返還」合意を満面の笑みを浮かべて得意げに吹聴したのだが、蓋を開けてみれば何十年も先の話だというので仲井真知事は「それじゃ固定化と差違がない」と怒ったが、こんなことも県民の半ば呆れ返った心情に今更微風ほどの揺らぎも起こさない始末だ。

 この島々の決して解決しない問題を「ネタ」に糊口を潤す議員報酬泥棒どもの、この何十年もの悪政は日本国の歴史に汚点としてしか記述されまいが、誰も100年後の世界を見てきてないので彼自身はおろか我々人民でさえ精神的路頭に迷うことがザラにある。

 辺野古崎大浦湾における環境影響評価(環境アセス)の内容は数十件に及ぶ知事意見が示すとおりほぼ評価の質に到底達しない拙劣極まるものだったが、その環境影響の度外視された軍事施設がもしここにぶち上げられたとしたら、暴虐の植民地主義を代表するバラクオバマは自身の現実的戦争肯定論がついに人間業では考えられない地球環境の人為的回避可能な破壊行為を実践するに至った事態にどう向き合うのだろうか。

 この大統領になんの実績もないうちに賞賛の美酒を振舞った大馬鹿野郎の選考委員どもは、かつて日本国総理大臣佐藤栄作に同じ過ちをしたことなど少しも憶えてないだろう。亜熱帯樹林の保護こそすべき「世界自然遺産」候補南西諸島に殺人飛行物体オスプレイを配備する神経とは、かつてベトナムで「枯葉剤」をぶちまけたあの気違いじみた覇権国家の狂熱を思い起こさせる。その「枯葉剤」もまたこの島を汚染しているし、彼らがビキニ環礁他でやった核実験の放射能は確実にここを襲っていると言われる。(つづく)


詩405 権力の策謀に「善」はない

2013年05月25日 23時54分36秒 | 政治論

 朝鮮と沖縄は近代史において似たような運命を辿るが、それが、必ずしも「迫害」と「陵辱」の中に自己を喪失するという、文明史観の機械的な「被抑圧民族」分類に転落する意味合いで捉えられないものを保全するという、現代世界観にあってはマイノリテイの真骨頂を表現している、と解釈するのが最も正しい見方と言える。

 韓国と北朝鮮を「ダメにしている」のはアメリカであり、同時に沖縄においてもそれが言える。しかし何が「ダメ」なのかというと判然しない。むしろアメリカが「ダメ」なのだが、このお山の大将、ガキ大将はおのれが「世界」だという意識を捨てない限り、永遠に同じ過ちを繰り返すに違いない。

 一方「世界」が、20世紀にそのインテリジェンスにおいて確実に手にしたのは「民主主義」という最終価値だが、誤解を恐れずに言えばそれは「全体主義」に対置される意味でのものでなく、従って戦後世界のヒェラルキーにおいて実現されるというものでもなく、一人の「個人」がその場で「自由」な感受、思考、行為を保障されるものとしてあること、そのことだ。

 だから「君が代」を歌いたくない考え方を権力的に禁止することは、その瞬間その権力が自身を「反世界」に置くことになる。彼の感じ方、考え方が個人において自由にたち現れることを権力が保障すること、である。「民主主義政治」とはこうした個人の自由な有りようを保障し、かつその行為に道筋を付ける政治にほかならない、とジャン・リュック・ナンシーは言う。

 現在日本のとりわけ右翼、国家主義系論陣に際立って顕著に見られる「第三国」という侮蔑的対外姿勢には復古調の空威張りしか見えないが、この、論理も倫理も理念もへったくれもない連中のデマゴーグが、異常にマスコミマスメデアを賑わせている劣悪な政治環境のなかで、不思議にひとつの方向へ流れていく奇妙な惰性を人々に見ることは、そう困難なことではない。

 ひとつは、ある望まれた状況の失墜とともにまたしても望まれなかった別の勢力が徐々に回復し、またしても望まれない方へこれらのものが引きずっていく如何ともしがたい惰性として。別の惰性は、これらを熟知しながらまた、それらのことを弁えていながらしかもそのスパイラルに巻き込まれていく自分を眺める「冷めたエゴイスト」の、ありきたりで質量を持たないニヒリズムが、一切の「言い訳」を用意するだけの無力な「理性的」小市民を演じさせる。

 ここに見られる外力は、この社会が作っている故知らぬ「縛り」、つまりは我々の自由を損ねる「統制する」暴力、あの震災の瓦礫を、放射能を、津波の映像を「済んだこと」にしようとする流れ、だ。彼ら権力者のしていることは、重大な天与の教訓を我知らずにドブに捨てよということにほかならない。(つづく)


詩404 朝鮮と「にあんちゃん」

2013年05月24日 09時37分06秒 | 政治論

 「にあんちゃん」の作者安本末子という人は茨城県に現存されている。三村姓で現在70歳だが、早稲田を出てのち二児の母になったとか、昭和30年代「にあんちゃん」は、NHKの午後6時頃の児童向けドラマの時間に、独特の哀調を帯びた主題歌とともに放送されていたのを今でもはっきり覚えている。

 先頃偶然図書館で単行本「にあんちゃん」を発見し、思ったとおり「美少女」だった彼女の小学高校時代の写真なども初見した。父の焼酎を買いに夜道を歩く「末子(すえこ)」のうつむき加減の印象が子供ながらの記憶に残っていた。

 在日、ということを忘れてしまうほどに、この少女の日記は不思議な明澄さで当時の日本人に受け入れられた。古くは朝鮮でいう特権階級両班(ヤンバン)が出自らしく、食い詰めて来日した口で、高度成長前の日本国自体が貧窮と欠乏に覆われていた時代だった。

 彼女の日記には、当然ながら反日的なものもあるいは反政府的なものさえ皆無である。「ストになると困る」と書くときには、佐賀にある炭鉱の臨時雇いの兄の無給化を心配しているのみだ。勿論無給は家計を直撃する。二十になったばかりの長兄の稼ぎで食っていかねばならない安本家にとっては日々「食うこと」さえ屡々危機に直面することだった。

 母は3歳のときに父は9歳時に死亡し、残された遺児たち一家4人の生活となる。その父の49日がこの日記の冒頭部分だ。彼女はこれを公にしようなど露程も思ってなかったが、後に長兄が偶々発見して出版社に送ったのがきっかけで、これも偶々手にした編集者が一読して出版を決めたという、作為のかけらもない運命をたどった。

 「にあんちゃん」と呼ばれる次兄高一は「末子」自慢の「頭が良く皆に尊敬される」生徒会長も務めた家族の希望のほしであり、彼女自身「文句のつけようのない真面目な生活態度」と言われた中学時代があったが、そんなことはおくびにも出さず、生き生きとした感性の赴くがまま純粋「記録」的日記文学の逸品をものした。

 筆者にとっても、幼少時の懐かしい「思い出」の感興をそこはかとなくそそられる、不思議に甘美でもある愛おしい対象だ。(つづく)


詩403 安倍政権のしようとする危険な国家運営

2013年05月22日 07時22分20秒 | 政治論

 現行安倍政権において、「アベノミクス」なる財界資本家金持ち垂涎の施策が着々と成果を示しつつ、結局埋まらない「格差」社会を黙認しながら、彼らの所謂憲法改悪、再軍備・核武装(共通番号制度による)秘密警察管理、国民一元監視体制を実現し、「戦争のできる憲法の下、徴兵制で若者を国家の歯車に使い捨てる美しい国」へ向かい未来を切り開こうというものであるが、この「戦後レジームからの脱却」という、みるからにパラドクスじみた時代錯誤を、「決める政治」なる馬鹿の一つ覚えで猪突に猛進する、劣等政治で「やっつけてしまう」玉砕事件こそ、戦前の参謀本部体制が実際に敢行した「やってはならない」国家的自殺行為だということを、早く人民側で気づかねばならない。

 かつて吉田ドクトリンに基づいて、池田政権での「所得倍増」「高度経済成長政策」が経済的にのみ、この国と国民の「エコノミクスアニマル」化を推進し、田中角栄においてついに列島改造を断行、日本国はドイツとともに類を見ない敗戦からの劇的な回復成長に成功した。

 一億総中流化には到達したものの、所詮総合的人間活動の視点からはいかにも偏頗な物質的豊穣と物余り現象が、当然に帰結するバブル的繁栄とその凋落としてのバブル崩壊、既得の権益死守とばかり「保守停滞」主義に走った政権傾向からは、こうした落ち気味の国勢を救う何らの手立てもないことは、自公「数の論理」体制にあっては一切の「政治倫理」も喪失した末期的症状において実証してしまった。

 我々は派遣切りやら構造改革による「格差社会」の被害者やらが戦後焼け跡でみられた緊急な炊き出しに今更に群がる光景に、この国の行く末の一端を垣間見た上に、大震災と原発暴走によって一挙に戦後成果を灰燼に帰したあの天与の教訓に多くを学習しなければならない。

 にもかかわらず2年も経過すれば「ほとぼりも覚めた」とばかり原発再稼働が堂々と公言され、原発技術セールスを国の宰相自ら諸外国に展開し、剰え戦後レジームのまさに真骨頂たる「靖国」「従軍慰安婦」「侵略」問題の愚劣な再燃に血道を上げるという、「保守停滞」「右傾化」「折衷主義的国家主義」の大同団結行為がまかり通っている。

 彼らがバブル崩壊並みにそのうち姿を消すことを期待するが、放っておけば何をしでかすかわからないというのが戦後保守政権のしてきたことに現れている。こいつらを野放しにしてきた戦後民主主義の茶番劇を二度と繰り返してはならない。(つづく)


詩402 「普天間飛行場返還」問題の意味するところ

2013年05月21日 10時07分56秒 | 政治論

 所謂日本国内の日本国憲法に則った議会(代議)制民主主義の筋に沿って、一行政単位である沖縄県が「総意」として示した各市町村議会とその首長、並びに県議会と県知事による「普天間飛行場返還」問題に対する県内への代替施設設置を拒否する決議がこのように明確に存在している状況につきこの国の返答として投げつけられたのは、あいも変わらず繰り返す「引き続き沖縄県民に基地負担をお願いするしかない」という、国がその民に対し言うべき言葉ではないものであった。

 一行政単位の、制度的ルールに則った方法での「主権在民」の権利部分に依拠する「基地負担」の拒否行為を、しかも20年近く全く進展しない事実にさえ目をつむって受け入れようとしない国とは一体いかなる存在か。

 既に常識的には人間業とは到底評言できない事態だと言わなければならない。この問題を「諸国民の提携」たる国際連合が世界的人種差別問題として正式に取り上げないことも、常識的には世界理念の堕落と捉えるのが正確な時代批判と思料される。

 9.11同時多発テロが米国中枢を震撼させたあの恐怖に満ちた瞬間は、ある世界傾向への対極的情念がこの世に確実に存在することをまざまざと見せつけたが、同様な「非暴力」の蓄積された情念が、沖縄県においては「座り込み」「抗議行動」「デモ行進」「シュプレヒコール」という形で実地に表現されているし、そのインパクトと実効性は既に「辺野古」において明確に証明されている。

 オスプレイが強行配備されたのは、こうした大衆運動の無力を意味しないで却ってアメリカ合衆国による、日本国の沖縄県に対する侵略的性格に成る覇権主義的植民地主義を如実に示した蛮行と捉えるのが正確だ。

 アメリカ合衆国の犯罪は「パクスアメリカーナ」という、一種の極言された「単独安定」つまりは一国人権実質集中化、一極化現象による「世界的格差」の不当な利用と放置乃至武力制圧弾圧行為にかかって、国際司法的に断罪されるべき国家体質というべきところだ。

 いずれにしろ「普天間飛行場返還」は、代替施設の設置を条件とする何らの理由もないし、即時閉鎖原状回復全面返還ということが沖縄県の県民の人権保護上当然に要求される内容である。米国政府がもしどうしても代替施設がほしいというのなら沖縄県以外の46都道府県で平等に負担するべく国内協議するべきだ。

 しかし最近の米国国内財政事情やらシンクタンクあるいは有力紙、上院議会の提言発信には在外米軍基地の全面撤退を論う方向性すらでてきているわけで、時代の趨勢は「正当な人権」行使の当然な実現を達成しようという、まともな動きを示しつつある。但し、アメリカの産軍複合体戦争経済主義がそうやすやすと白はた上げるとも思えず、原発再稼働同様に泥仕合は避けられそうにない。故に人民闘争は一層熾烈になっていくと心しなければならない。(つづく)


詩401 沖縄米兵犯罪の性格

2013年05月20日 19時36分16秒 | 政治論

 取り分け沖縄における米兵犯罪は、彼らの根こぎの性欲がどこかに飛散拡散しない限り、生物学的に根絶も減少もしない仕組みになっているのはある意味当然である。

 即ち彼らの存在しているところでは、日米地位協定やら何やらが相乗していよいよ強姦天国と化していると見たほうが実情を言い得ているであろう。有り余った、(訓練等による)極度に抑制された性欲の暴発横溢突進が、沖縄では屡々日本人の一般家庭すら脅かすほどに野放しになっている。

 彼らの常態化した野営野宿感覚が、酔いから覚めたとき見知らぬ日本人の家や部屋に自分を発見しているということは(そのように彼らは証言している)、大方の米兵は沖縄県という外国を、さながら結構な、雨露をしのぐための無賃の宿泊場とでも勘違いしているのであろう。

 彼らの見る朝日の中の日本人は、一匹のひ弱い子犬程度にしか見えないはずだ。これは、戦後のアメリカー世に繰り返された無数の米兵による虞犯凶悪犯罪の延長線上にあるとしか言い様もない。

 つまりは返還だのなんのというのは沖縄にとって愚にもつかぬおためごかし、ふざけ切った日米政府による人民愚弄の前近代的代官政治であり、本来なら極度に暴力的破壊的な組織テロが頻発してもおかしくない状態といえるのである。

 それが「非暴力」の地道な抗議活動において統制されているのは、どう考えてみても琉球島嶼の人々が高度なレベルで「文民の分」を弁えている結果としか言えない。(この視点で今更に侵略論争をしている石原や安倍、橋下らを眺め返すと、彼らがいかにレベルの低い所謂「高等文化人」かがわかる。)

 恐らく沖縄戦以来、言ってみれば読谷村に上陸した米軍が「ニミッツ布告」を奉じて以来、戦後一貫してアメリカ政府と日本の傀儡政権は沖縄の人たちを人間扱いしなかったし、現在もそれは毒々しい色合いでこの地を覆い尽くしている。

 このように書くと大げさに聞こえようが、実は「人間扱いしない」という意味では大震災被災地被災民、原発事故難民に対するこの国の有りようはまさしくこれが人間の国のする対人民施策なのかと怪しむほどに、何ら実情に沿わない亡国的政治に終始している。機能しない政治は最早政体を持たない国としてしか考えようもない。従って「琉球の独立」がいやましに現実味を帯びていくのは、本土の呑気な父さん連中が鼻で笑う以上に実質的な稼働エネルギーを蓄え始めたという意味になる。(つづく)


詩400 石原と橋下と沖縄

2013年05月20日 00時16分34秒 | 政治論

 マスコミマスメデアに突出して取り扱われる割には「従軍慰安婦」に関する石原、橋下両名の言おうとしていることには余り内容がないことに誰も気がつかない。このどうでもよい連中のジタバタ劇の彼方で雨に降り篭められ霞んでいるのが沖縄県における5.15平和行進(17日宮古島を皮切りに始まった)と今日その行進団が合流した県民大会ではあった。つまりこの二人の拙劣なパフォーマンスにつきあわされた日本人は一般に相変わらずどうでも良い歴史的事実に関する暇つぶしな詮索に何か重大な意味でもあるかのように思い込まされ、言ってみれば、戦前の皇国史観の焼き直しを今になって陳列する時代センスのなさに我々が辟易する具合なわけだ。この二人に決定的に欠けているのは一種の倫理観であり、時代とともに変貌する規範基準定法への確かな同時代感覚である。その故に彼らの言動からは切実なものは一切認められず、例えば大震災時の石原のコメントなどは聴くに耐えぬ不協和音に過ぎなかった。彼らは必ずしも再軍備核武装日米安保堅持論者ではないかもしれないが、その論調には危険な全体主義、もしくは折衷的なナショナリズムの臭いがする。それなどはとりわけ沖縄から眺めると「非戦」「反戦」「嫌戦」意識に重大な挑戦の空気を感じさせる。橋下の含意は軍隊容認でありしかもスポーツ感覚で兵隊を扱っている。沖縄戦での米兵に見られる戦場神経症、あるいはベトナム、イラクに展開した米兵のPTSDや自殺の多発などは、現代戦争事情の、人間における限度を超えたストレスを証明しているのであり、もし彼らが米海兵隊による地上殴り込みを想定しているのなら、明らかに現在沖縄県に集中的に凝り集まった米軍の全面的な容認、つまりは対米追随の本性を露呈したことになる。「そうぞう」の下地あたりと組んでいるところを見るとこいつの二枚舌に惑わされるわけには行かない。(つづく)


詩399 「オキナワ」からの沖縄移住者のメッセージ 3

2013年05月17日 18時27分48秒 | 政治論

 身体的に比較的健常者に近いボケ老人に対する、介護保険適用「要支援」認定を見直す動きが厚労省にあるが、実はこの認定の審査項目には介護する側、あるいは保護する側の「要支援要素」が含まれていて、老人の欝、妄想、物忘れ、ボケなどから生じる「モノ取られ妄想」「被害妄想」「被害者意識」によって保護者介護者に対し攻撃的態度(泥棒呼ばわり)を取るなどして徐々に同居の生活に耐え難いストレスを加えるにいたり、「要支援」介護保険が必要なデイサービス等の支援を求める、ということになるわけで、これはおよそ介護というものが、される方もする方も共に何らかのストレスによって極度に抜き難い窮地に陥る傾向を持つことから、「介護保険」の制度理念に沿う現実的要請があるものとして当然に公的に「要支援」認証しなければならないものと解釈されるのである。厚労省の見直しは介護保険資金の節約を目途とするらしいが、もし「要支援」認定が外されて肉体的要介護者のみに保険を適用するとなると、精神的介護こそ必要な比較的健康な老人とその家族は、急迫的状況に陥ってもたかだか地域のボランテア等の素人的判断対処に委ねられるか多額の費用をつぎ込んで支援を受けるなど十分に使い勝手な具体的緩和策を講じることができなくなる。介護保険が質的に手厚い方向に使われるのが本来こうした福祉にあって望まれるものを、逆に手薄にして節約しようというのだからこの国の官僚が如何にその公僕たる業務に忠実でないかわかろうというものだ。話は変わるが沖縄に関する「官僚主導政治」による偏頗な施策というのも当然こうした合目的的思考法による機械的な効率主義一辺倒によることは言うを待たない。彼らが「沖縄問題」を解決に導こうとしないのはまさに彼らの業務上怠慢からくる思考停止が因源であり、勿論同時に所謂「常民」たる「ヤマトゥ」の無知無関心無情がこれを助勢しているわけだ。(つづく)


詩399 「オキナワ」からの沖縄移住者のメッセージ 2

2013年05月17日 07時36分21秒 | 政治論

 琉球独立学会は、琉球に民族的ルーツを持つ琉球人を学会の会員要件としたが、日琉同祖論からすれば沖縄島嶼に住する日本人は誰でもその資格を有するものと解釈できる。

 しかしながら、琉球沖縄の独立は、本土人の息のかからぬ人々によって具体化されなければ意味がないことは自明の理だ。独立とは、民族的に望まれた民の意が一つの総意として確定しなければ抑も成り立ち得ない人民行動であろう。

 一方本土日本が沖縄に希求しているのは、本土の日本国民が先ず忌避していた米軍基地を、ここならなんとなくすったもんだしながらも押し付けきっている現状から、相変わらず差別的に「日米安保体制」の負の部分を肩代わりさせることにしかないのか。

 「領土、領土」とのたまうが、彼らの沽券にかかって守護する沖縄は実態として人間扱いされてないということに一体いつ気がつくのであろうか。

 敦賀原発の廃炉が騒がれているが、騒いでいるのは当然原発マフィアであり実質原発で食っている人々の声は「背に腹が変えられぬ」実情を伝えているが、これとは別に沖縄経済の6%弱程度を担っている基地経済の経済効果は、返還後の各所の成功例に比すれば完全にマイナス効果しかみせてないことがここでは常識化しているという事実だ。

 つまりは基地経済で沖縄経済が潤うという神話は既に崩壊し、むしろ基地がない方が沖縄の経済活動を活発化するという情勢になってきている。勿論基地関連国家補助の県の公共事業にしても、雇用やあるいは事業者受益に関してはむしろ本土企業に吸い取られる傾向を如何ともしがたく、沖縄振興策などというものは結果的に沖縄を本土のゼネコンによる搾取の対象にしただけの話だ。

 仲井真知事はインフラ整備の恩恵を言い募るが間違っている。むしろ辺地対策として当然の国策であり、同国人の生活基盤を整備改良するのは「基本的人権」「幸福追求」「最低生活保障」という憲法理念の基本的遵守に過ぎない。この故にこそ本土政府に感謝することなどあり得ない話なのだ。この故にこそ米軍基地負担の偏頗性こそ激しく糾弾しなければならない。施しを受ける態度では琉球の名がすたる。(つづく)


詩399 「オキナワ」からの沖縄移住者のメッセージ 

2013年05月16日 15時04分09秒 | 政治論

 この「沖縄からのメッセージ」が意味するところは勿論「オキナワ」としての沖縄からのメッセージ、ということにほかならず、しかも更には沖縄移住者(本土からの)としてのメッセージの意味を含んでいる。

 「メッセージ」が意味するところはこの場合概して「沖縄問題」に関係し、それは大方「本土対沖縄」という括りで捉えられた問題性において考えられる、ある差別性に絡んで派生する現代日本の特異な事象、現象、と其の辺から繰り出される暴言暴挙あるいは偏頗な考え方の表出に対し、移住者がその角度からあるいは全面的に沖縄シンパシーの元本土人の視点から、または全く埒外の第三者的な考察を加える形で伝えようとする、時に偶然に、また屡々必然に包まれる感興乃至怒り、憤慨に類するものを主軸としている。

 筆者は既に還暦を超えた「畢った人間」、自身の将来を死とともに処理する内容でのみ生に関わる、震災以前での元「フクシマ」の住人で、放射能問題もいつしか己に引き比べて無際涯の彼方に放擲した無役にして無益のやからにほかならない。

 手遊び(てすさび)とは言ったもので、徒然草ではないが「あやしうこそものぐるおしけれ」な思いもないではないし、「世に捨てられ人」にあっては「言いたい放題」も面目躍如、浮かんでは消える「よしなしごと」を何げに書きつくるのがこのブログに付された情けない性格だ。

 本土の人に伝えたいのは「沖縄戦」に関するいくつかの図書に触れたとたん、自身が驚く程に衝撃に満ちた時間に包囲されていった体験から、「沖縄問題」に付き纏う本土人特有の「対岸の火事」意識から抜け出る唯一の手段は、実に唯沖縄史に関する知識をひたすら増殖することにしかない、ということだ。

 ところで政治乃至政府が醸し出す沖縄に関する絶望的な姿勢態度、あるいは日米同盟至上主義、あるいは完全な対米追随の本質によって沖縄が置かれている中世的「囲い込み」状況に対し、「琉球の独立」という立論は決して奇異な試みではない。

 この場合残れるものなら筆者は琉球独立国に加担したいが、一体に県民の中に日本国嫌忌の気分がどれほどあるものか、日本国への忌避感でなく、専ら日本政府への反発という内容のようにも見受けられる。

 一方オスプレイ強行配備や爆音騒音・墜落危険性、米兵犯罪などが県民に作用している嫌米感はいかばかりか。抑も反米的なモノの中には、基地の存在による間接的な戦争行為加担意識があり、それが反戦非戦に昇華し全体として米帝国主義的植民地主義的覇権主義への反発という力学に集結するわけで、こうした理念的な大衆運動にあってどこまでも抽象的な論理展開は、むしろ大いに要件足りうるものと見なければならない。

 だから琉球独立論は真っ先に俎上に載せるべき必然の論題のはずだ。そのモチーフは現状改変不能国家という経験則にすぎないが、この事実はしかし「絶望」という名の現実が「希望」という名の独立理念に変化する意味合いの反対命題であり、不服従座り込みが析出したこの国の、どうやら百年変わらぬリアリテイだ。(つづく)


詩398 沖縄からのメッセージ 35の22

2013年05月15日 20時48分30秒 | 政治論

 5.15事件は81年前、1932年(昭和7年)の今日起こったのだが、所謂政党政治(憲政の常道)の終焉、軍部の擡頭という歴史的変化の兆しと言われる割には実質的軍部のクーデタだった2.26事件ほど一致して国内右翼の耳目を惹くものにはならなかった。

 この海軍将校たちによる首相暗殺テロは、同年の血盟団事件同様、護憲主義者、軍縮派(ロンドン海軍軍縮会議の)である犬養総理の排除によって、その後の政治的文民統制力を徐々に減退させたことは間違いないし(但し犬養は前年の満州事変を黙認していたことも事実だ)、昭和のこの早い時期に既に超国家主義者の実力行使が流血を厭わなくなった有様を示している。

 この日はまた、それから40年後沖縄返還がされた日でもあり、今年で41年目となるわけだが、その返還式典でもまた、祖国復帰運動を展開し来った中心人物である当時の屋良主席は、ついに本土式典に赴くことはなかった。

 この日を祝賀したのは安倍政権の先輩筋で、大叔父でもある佐藤栄作首相以下本土の人間に限られた(沖縄でも同様な式典があったわけだが)。この沖縄返還における「核抜き本土並み」はただの掛け声に過ぎず、事実上核兵器は三原則を蹴散らして当然のように持ち込まれていたし(2009年判明)、「本土並み」は米軍基地継続使用によって直ちに有名無実と化していた。おまけに近年その真相が暴露された返還時「密約」による所謂西山事件があり、対米従属の実質的方向づけが暗暗裏に進行する契機となったことが判明している。

 恐らくは「思いやり予算」などもこうした従米根性の臆面もない表出であった。本土政府による、沖縄に対する詐術に等しい言行不一致政治はこの返還時に既に秘密裏にやられてた事になる。

 こうした本土政府による沖縄差別の政治姿勢は、驚嘆すべき頑健さで持続され現状なお改変不可能な病状を呈している。勿論「学べば学ぶほど」この現状に対する怒髪天をつく激情がいよいよ加熱し、何時爆発してもおかしくない自律的精神作用が醸成され、本土人の想像を絶する気組となって普天間、辺野古、高江、他各米軍基地周辺に燃え盛っているものと推察する。

 島津侵寇以来絶えず武断的に襲いかかってきた「ヤマトゥ」の攻撃的沖縄施策は、琉球マブイ(魂)の息のかかった「座り込み」非暴力不服従精神によって無際限に跳ね除けられる状況へと差し掛かっているにはいるが、彼ら本土人の醜悪な執拗さは時限を弁えずに性懲りもなくへばりつく。一定程度その存在性を保持し得ている自民政権に沖縄施策に関する自律的機能は皆無だが、対米奴隷根性には抜き難い値踏みと百年投資定着が不変に存するらしく、この闘いはいかにも時間のかかる消耗的な持続的惰性に陥っている。(つづく)


詩398 沖縄からのメッセージ 35の21

2013年05月14日 10時45分15秒 | 政治論

 結局日本は現在、主権在民でなく主権在政治家の様相を呈しているというわけで、この事態は間違いなく、代議制議会民主主義の本質である「代議制」の本末転倒が因源になっている。

 代議員の特権は概ね議員行為一般について保障されるべきだが、一方この特権の故にあるいはそれ以上に代議員の責任は、彼自身の能力・素養・知識・見識・総合力において「民意」を「代議」していることにかかって果たされなければならない、というところに制度的絶対価値が存している。

 彼らは文民(軍事的統制下にある命令下達の職業軍人でなく)にほかならず、当然に職業的軍人乃至自衛隊員ではないし、戦争を起こすための政治機能でなくむしろその動きを厳密に統制する役割を担っているはずの立法機能である。

 ここに憲法とりわけ9条をめぐる本質論があり、一方でこれをまともに言及するものは日本の国会議員の中には誰ひとりない。それは、この国は、一体あの戦争の惨禍をもう二度と繰り返したくないのか、あの戦争はこの国にとって単なる不運、災難、不可抗力なものだったのか、人民をその避けようもなく襲いかかる悲惨と不幸と絶望の坩堝に叩き込んでしまったのがあの戦争ではなかったのか。だから二度としませんと言ったのが日本国憲法ではなかったのか。そうでなかったなら、つまり日本人はあの戦争からなにひとつ反省も教訓もあるいは経験化した認識も得なかった、ただのドマグレ、チンピラなみの認知能力しかないということであろう。

 戦後生まれの我々にとって「あの戦争」と言われても即座にピンとくるものでないことは当然だが、見聞されるいくつかの話やら写真映像、文物、作品等々おのが知見能力にかかって眺めるだけでもむしろ容易に疑似体験しうるものと思われる。これをバーチャルとは言うまい。実態は体験者にしかわかるまいがその故にこそ聞き取りは絶えず行われなければならず、要はそうした現実に近いものにできるだけ肉薄しようということこそ試みなければならない戦後派の一種の責任と言える。

 我々はそこから一つの「認識」を得る。結論を急ぐことはない。靖国=戦犯合祀=要人参拝=諸外国の反発という図式が示すのは、「自衛のための戦争」という「言い訳」が国際的には通用しないものになっていること、あの戦争を巡る負の遺産(侵略行為、従軍慰安婦)に関して「復権」させる言動は必ず「軍国復権」に繋がるように見做されること、勝者対敗者の確執、でなく戦争一般に関し放棄宣言をしたというところに憲法的価値が存する。これに対しオバマがかつてプラハでの演説で言い放った、戦争と核に関する「現実論」は、我が国の有する憲法理念には真っ向から敵対する考え方なのであって、いかなる場合にも交戦権を認めないと言っているのであり、これをいつも論争の種にすべきなのが日本国の国際的立ち位置のわけだ。(つづく)