沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 9

2012年12月29日 12時15分25秒 | 政治論
 民主政権が前回の政権交代時に掲げていたマニフェスト、所謂政権公約というものが、基本的には、その前政権(自民政権)の矛盾・錯綜・過誤を析出した結果として考えられたものとすれば、この現在の自民復活政権において政治批判の対象となるのは、当然明白に、客観的な(コモンセンスとして)、旧体制(前自民政権)下のこうした矛盾・錯綜・過誤を意味するものと取っていいはずだ。
 そして、大震災と原発事故は多面的な視点で言えば、別の、旧体制(前自民政権)下の矛盾・錯綜・過誤を巨大な問題そのものとして更に追加して示したものと言える。
 つまり民主政権が、その幼弱さのゆえに果たさずにむしろ逆戻りした案件(マニフェスト、政権公約のなかの)についての正確な評価判定と、新たに重大問題化した原発事故検証に基づいて、復活政権(現自民政権)を批判する立ち位置を我々が確保しなければ、この国の国政は永続的な茶番劇(悲劇への一歩)を繰り返すことになろう。
 この自公政権は公然と、危険極まりない時代錯誤な主張を繰り返す。今次倒壊した民主政権の国政への唯一の貢献は(若干不徹底だが)一定の高い政治理念を示唆したことにあり、一方彼らの大きな罪は、現実政治においてこの理念を死守しなかったことだ。
 政治技術の幼弱さも然ることながら(しかしそれは当然の内実でもあった)、こうした実質的な意味の「転向」や「反動」を「人民への裏切り」行為として自ら糾弾する政治的自決こそ必要な「人間的行為」だったはずである。
 にもかかわらず一切の重大事故責任追求に関しては何一つ目に見えて厳しい判定を下さなかったし、言うならば一切を次の政権に進んで丸投げしたということになる(しかも原発推進を実践したのはその丸投げ相手自身ではないか)。
 丸山真男の言う「無責任」体質に究極する日本の為政者根性がここでもみるからあからさまに露呈された。これの意味するところは維新以後の日本資本主義発展の過程で「天皇絶対主義」という、本来虚妄の責任仮託媒体をでっち上げ、実体「虚」において政治現実を造作し、虚構の国家主義(超国家主義)において、外国との見るも無残な自滅的戦端を開いた、あの戦争と同じ人民悲劇へ導くということにほかならない。
 実際、現自民公明連立政権では、本来なら問題発生時点で直ちに国策として示さなければならない「原発全面廃炉」方針などどこへやら、むしろ新増設すら論うていたらくである。これが自公政権の無責任反動政治の正体でなくしてなんというのか。
 同じことだが、先の大戦で人民を途端の痛苦に突き落としたことに関する真摯な反省もないままに、再び「再軍備、憲法改悪、核武装」を画策する安倍政権の悪魔的本性を、一体誰が批判し実効的に食い止めようというのか。
 沖縄にあっては普天間問題も同断であろう。鳩山墜落は力学的(重力の)意味しかないのだが、かといって何年も動かないこれを「辺野古回帰」に固定する無能無策な政治停滞は到底評価できない無様さである。
 しかしながらここまで来て言えることは、結局はこの国がアメリカ合衆国の意のままにしか作動しない三等国家に成り下がった愚劣蒙昧さ、歴史的精神的暗黒である。それを論じないで自衛隊の米軍直属国軍化などというのは、安倍晋三の不労所得(既得権)精神の現れ、政治に汗をかかない地頭政治そのものだ。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 8

2012年12月28日 16時05分04秒 | 政治論
 民主政権が政権交代する以前、つまり麻生解散まで、日本はどういう国だったかということについて、この民主政権の興亡史自体に既に基本的なことは反映されていたというふうに思われる。
 大震災と原発事故が、遡れば阪神震災から引き続き、この国が持つ仕組み、組織図、構造、に関して多くの問題点を析出していたことに気がつく。
 原発に関しては、腐敗体質の「原子力ムラ」という存在が立ち現れ、所謂政財官学一体になって「原発推進」母体となり、この国の「原子力行政」を担って来た事、そこには当然既得された権益も含め、あらゆる利権が交錯し複相して関連し合い、もつれ合って稼働した歴史的蓄積があり、事故の責任を東電一社に肩代わりさせながら巧みにこれを国策的に掬い上げ、結局事実上の「万死に値する」「ムラの住人」を訴追不能な闇に覆い隠した。
 彼らの中には様々な職種の「無責任な」体質の責任者が蠢いているが、彼等にまともな反省など望むべくもない。むしろ「再稼働」はおろか「新増設」さえ声高に言い募る日本の知識階層がいる。
 彼等が「核」にこだわるのは、決して電事連並みのあるいは財界並みの日本経済への展望や視点が主要な素因になっているわけではない。既に学術的に原発の経済効果の嘘は暴露されている。まして地震列島活断層直近の施設が設計上許容される道理はない。にもかかわらず推進され強行されてきたのは、アメリカ合衆国国家安全保障至上主義に基づく「防共最前線」たる日本列島を、重要な核燃料資源貯蔵庫たらしめようという画策による。
 大震災は、この国の行政組織が実に馬鹿げた機能不全な危機管理に置かれていることを如実に示した。緊急避難的な思考回路をさえ持たない行政機関とは一体何か。社会弱者、被害者らが震災後生活再稼働する一助にさえなってない、なろうともしない体質とは、義援金救援物資の有効にして迅速な配給体制すらまともに取れない「公僕」とは一体どういうあきれた形容矛盾の成果なのか。
 小田実の「人間の国でない」という表現は誇張ではなかった。そして鳩山氏がぶち上げた「普天間移設最低でも県外」事件!!が示しているのは、この国がアメリカ合衆国の傀儡国家であり、いかなる改革的提言も確実にもみ消される運命に有る、CIAを中心に暗躍する諜報謀略活動の空恐ろしい内政干渉実態であり、選挙干渉、買収工作、恫喝篭絡運動、による反動勢力集積、といった、戦後日本の政治的環境作りに寄与する一連の「不正」がまかり通る敗戦国実情を示している。
 彼鳩山氏は首相を辞めるとき「抑止力は方便」といい、またつい先ごろ退任の森本防衛大臣は「地政学的軍事的要件でなく政治的な簡便性」により沖縄を、とまで暴露した。ふざけ切った話なのである。だから今こそ言いたいのだが、この国の自律しない政治家にいくら「県外国外」を叫んでも政治は一歩も動かないので、アメリカ合衆国にボデイブローのように頻繁に攻撃を加える運動方法を採るべきなのだ。毎日(か東京)のある記事によれば、ある米国下院議員曰く「沖縄ってどういうとこ?2千人くらいなの?飛行場でもつくってやれば喜ぶんじゃない?」といったとか。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 7

2012年12月26日 09時25分18秒 | 政治論
 冬の沖縄は相対的には(体感的には)寒いと言える。本土に比すれば亜熱帯の春や秋の気温(13~18度)には違いないが、住んでいる人間にとっては長い暑い夏(6月~10月)から徐々にジックリと下がっていく体感温度が、身体的に防寒体制の確立しないままさらされる、夏の記憶に取り残された肉体には、倍以上の低温として感じられるものだ。底冷えしない、という程度の寒さとしてある。まして60代以降の老人には、時々の北風などは偶に手足先を脅かし、虫酸のような悪寒を走らせる。風邪でも引きそうだと思い鼻水を啜る。手桶の起こし火で束の間の暖をとり背中を炙り、出てくる工事関係者を「君らのやっていることは君らの父や母にとって痛い責め苦の始まりだぜ」といって説き伏せようとするが、背負っている家族を養うため働く彼らの意識を変えることは明らかにむつかしい。それでも執拗に説得工作はつづく、というようなことを想像するのは、東村高江のオスプレイパッド建設阻止「座り込み」の人々についてである。
 いずれ工事も御用納めの頃は止むのだろう。辺野古のアセスも補正検証には1年かかると言うし、どうやら埋め立て申請は年内になさそうだ。仲井真氏は政権変わっても「県外移設」姿勢に変わりないという。那覇市長はじめ県内行政首長の意見にも「県外へ」は貫かれている。地元名護市長に関しては、勿論強力なバックアップによって孤立感を深めさせてならない。
 やんばるの森、ヤンバルクイナ、ノグチゲラはじめ生態系保存、ちゅら海と言われるエメラルドグリーンの水域と生息する生物生態系保存、やんばるの森周辺住民の生活圏確保、安定生存権の確保、墜落危険、騒音、軍民共存からくる不如意などの恒常的ストレス除去、これだけでもオスプレイパッド工事中止訴えの妥当性を示しているが、更には日米安保の憲法9条違背実態、米軍日本国内展開の明らかな不当性、あわせ自衛隊展開の違法性は勿論、地位協定の奴隷的不平等性、「思いやり予算」の馬鹿馬鹿しい血税浪費、米国従属官僚支配の国防理念、沖縄に集中的に配された戦略的不要論になる米海兵隊の明らかに馬鹿げた温存、「辺野古」に凝り固まった政治家の政治的アルツハイマー、などなど、構造的差別状態におかれている沖縄に対する永続的な、倍加する国家的犯罪と言える日本国政府の憎むべき「保守停滞主義」、はこの自民政権復活によって沖縄にとってはこの上なく不毛な時間の始まりのようにしか思えない。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 6

2012年12月23日 08時57分12秒 | 政治論
 本土から沖縄に移住した一人間が徐々に醸成した、本土に対し抱く情念に関するメッセ-ジは、とりわけ太平洋戦争前と後、沖縄が被った国家による犯罪的試練の全てが、沖縄人に対するまさにホロコースト的仕打ちであり、まるで「何事もなかった」かのように過ぎ去った事柄とでも言いたげに、更に更にその犯罪性を倍加して、加速度的に加える戦後日米政府による弾圧的所業の数々を、沖縄人は一切水に流すような仕儀で通過しようなどと金輪際思ってもいないし、惨たらしい何百万の塊のような、死屍累々たるユダヤの、受動的忍苦的甘受と、内面性への無抵抗な逃避に傾向として明け暮れた、あってはならない犯罪者目送態度を肯んじない気組にあるということなのだ。
 おまえさんがた(日米政府国民)は未必の故意的犯罪者だ。鳩山元首相の「最低でも県外」と言挙げした「普天間飛行場代替施設」移設先問題の根本は、アメリカ合衆国の、沖縄に対する特別の思惑即ち激戦を制して分捕った占領地であり、実質自由裁量下にある領土だと野蛮に無邪気に思うことと、渋々返還してからは日本政府昭和天皇お墨付きの、ていのいい植民地視状態にあるということであり、これだけでも戦争に関する国際基準に完全に齟齬し、「永続的に」その野蛮な「征服欲」充足行為に浸りきっている犯罪性は、現代に生きる人間として許容してならないものなのであり、こうした原則非人間的状況を醸す沖縄米軍基地に関わる全ての要件における、日本政府の「思いやり予算」というトンチンカン外交実質やら地位協定の完全不平等性やら、一地方行政単位単独に突出して顕現する人権阻害傾向が、日本国憲法理念から著しく外れるものとして考えられている。
 憲法違反は日米軍事同盟そのものが犯していることであり、「傀儡政府」が自衛隊という、これまた違憲組織をアメリカに半ば強制された結果、現在無類の国軍として実効的に存在性を内外に示している。彼らは、到底「アセス」の実質を有しない移設先名護市辺野古大浦湾「環境影響評価」書類を、昨年末姑息にして夜盗的方法で沖縄県にねじ込み、先頃その補正書を死に体政権が、年末に来て再び突然に押し込み、今度は「代執行」含みで「公有水面」埋め立て申請を投げつけようとしている。
 ここにはあきれた問答無用の封建的圧政がまかり通っている。君たちはその(沖縄に対する)鈍感な優越感のせいでわかろうとしないのだが、君たちがやっていることは沖縄に住む人達にとって最初から許しがたいことなのだよ。
 やりかたといい、考え方、そして基本的にアメリカ合衆国従属依存夢枕状態にあるその情けないていたらくが、なにをやっても最早糠に釘、暖簾に腕押し、の国政、選挙、として現象し人民の不満を増幅させている。
 日米安保拒否、辺野古移設反対、オスプレイ撤去、米軍基地の完全撤廃、これらは沖縄県民、議会、行政首長、挙って願い思っていることであり、多数決的に決定的に大多数の意見集約事項だ。沖縄の民主主義は「コモンセンス」によって戦闘的にその本来の独立性を勝ち取ろうとしている。「経済問題」「雇用問題」「地域活性化」はむしろ自治性の問題であり、国が銃剣のように振興策をかざして襲いかかろうとしても所詮地域振興は地域の問題に究極し、「バラマキ」程度のはした金ではなにひとつ解決しないのだ(現に振興予算は国内他県との比較においても格段に多額の実数など示していない)。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 5

2012年12月22日 13時25分58秒 | 政治論
 自民党石破の、橋下と同じ言い方、「まず辺野古に移設ししかる後県外へ」、という愚劣極まりない意見は、逆に言うと県外言及がほかならぬ自民党から出てくるほどに行き詰まった普天間問題、という見方もできるし、地元辺野古、県民総意が保守党連中をして県外言及に追い込んだという結果論として評価する見方もある。
 但し、安倍政権では石破の防衛大臣再任(26日結局小野寺防衛相になったが)という筋が読めるので沖縄地元にとってここ1,2年は強烈に辺野古移設反対体制を貫徹する結束すべき闘いが待っていると思わなければなるまい。
 更に2014年には名護市長選が控えており、この時点まで引きずっていこうという自民政権の思惑も見え隠れする。一方米国議会筋では辺野古案の非現実性指摘が一定の良識ある見解となってきたし、ニューヨークタイムスあたりの社説にもそういう見識が示されてきている。
 勿論沖縄県では超党派で「辺野古移設反対」「オスプレイ撤去」が叫ばれ、米軍基地を巡っては様々な場所で抗議集会、座り込み、デモが実施される一方、沖縄の声が本土でも徐々に具現化し、反原発運動とともに大きな盛り上がりを見せているらしいのだが、好材料ばかり並べても事態はさほど変わらない。
 辺野古容認は、即沖縄の非戦意思の現実的敗北になる。「代執行」はこの国の、アメリカ合衆国に対する戦わざる全面敗北と従属意志の新たな表明にほかならない。安倍政権のファシズムがどこへ如何にして流れていくかを、先の大戦を教訓にしながら批判的に凝視していく必要がある。
 この政権が命懸けで取り組まなければならないのは、尖閣でも竹島でもTPPでもなく消費税増税でもない。資本主義国家体制が自由主義経済を標榜し実質景気底上げ雇用促進購買力増大を錦旗とするなら、基本安定財政に至る総合的な見地が必要であり、戦後突っ走ってきた「高度経済成長路線」やその惰性流であるバブル崩壊後の、右肩下がりの保守停滞主義では、到底荒廃した日本経済力を立て直すことはできない。
 民主党が公約違反マニフェスト破りで人民を裏切った時命運尽きていたのに、その後3年以上グータラを繰り返したおかげで、これにかかずらって日本国の総体的人民力が低減したことは間違いない(旧体制逆戻り現象がこれを語っている)。
 だが、これはプチブル的上昇志向が見せる極めて単純な現象に過ぎず、実際は大震災以来そこかしこに見え始めた所謂「焼け跡」からの起死回生的民力こそ、この国の本来の基礎力にほかならないのだ。
 ここを見誤ると政治は今後もアメリカ合衆国傀儡自民政権による亡国政治がまかり通り、無際限に絶望的な状況を醸し出すことになろう。民意が意思的に示されなかった今次の国政選挙は、せいぜい2,3割程度の支持で辛うじて運営される政権という、愚にもつかないテイタラクを露呈してはいるが、前民主政権の、「可能性への投資」という希望とこれを捩じ切っていく「帝国官僚」の存在、更に寄ってたかって弾圧恫喝謀略活動で「民主主義」運動流を拡散しようとする、アメリカ国家安全保障至上主義の恐るべき実態が人民の目の前に晒されたことは、一種の進歩ではあった。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 4

2012年12月20日 23時36分38秒 | 政治論
 昨年年末に夜盗のごとく、未だ明けやらぬ師走の沖縄県庁に、普天間飛行場代替施設の移設先、辺野古大浦湾に関する環境影響評価書をねじ込んだあの手口と同じやり方で、一昨日評価書補正書をこの死んだ民主政権采配のもと再びギリギリのタイミングで押し込んだ沖縄防衛局の低劣な役人根性は、それだけでも唾棄すべき反人民行為だが、琉球新報の社説によればこうした行政行為はこの政権の所謂政治的正当性に欠ける「やっつけ仕事」としか言えないというわけだ。
 この辺野古移設事業に関する行政上の手続き行為は、沖縄にとって大変微妙な作用をするものとして受け止められている。一方は法的遵守に則って、過不足なくかつ機械的事務的に処理していきたい通常業務にすぎないが、片方は機械的事務的に進められたのでは最終的に何の問題もなく来たかのように、公有水面埋め立て許可申請という関所において重大な判断を迫られるわけで、当然政府防衛省側としては、「代執行」を念頭にその県の判断を如何に蹴散らすかという立ち位置になる。
 ここで米両院軍事委員会においてグアム移転費復活計上の合意がなされたのだが、元々「辺野古案」の現実性に疑義を呈していたマケイン上院議員らは、「普天間移設」の実現を早めるために合意したのだとして、今後政府国防総省にあらためて辺野古移設案の再考を求めていく考えを示したという(琉球新報)。
 「国家安全保障」上の重大案件の国家専管事案化に法的根拠などはないし、「代執行」に至る県側の瑕疵などどこにもない。強行採決というやり方がこの国の政治において屡々見られる最大の理由は、憲法9条における違憲状態の放置という自衛隊、日米安保の存在が醸して、政治家たちの内面に、知らずに巣食う罪障感にある。
 彼等がどれほどこれ(9条)に嫌気がさしているかは、これまで一向に煮詰まらない「憲法改悪」論議に現れているが、抑も「アメリカ押し付け」、という考え方の実質的過ちや、「理想論」の法定化という見方の幼稚な浅はかさについては誰も言わない。
 アメリカ合衆国大統領バラクオバマの演説で、一国の首班として現実に執る政策には、戦争という手段もあるといったが、彼は論理的矛盾を犯している。例のエマヌエル・カントが示した「永遠平和のために」において、カントは人類史上戦争こそが常態なのだと言っている。戦争は決して究極の手段足りえない。それは必ずひとつふたつのエゴイステックな理由を含んでいるために、「正義」として堂々と胸を張る訳にいかない仕儀になっている。
 戦後行われる講和会議がどれほど不公平に満ちていたか、それは講和ではなく一方への不平等の押し付けにほかならず、戦後に「平和」はなくただ休戦しているだけなのだ。
 別の理由をつけて次の戦争が始まるまでの間、一時的に戦争が停止しているに過ぎない。つまりもし平和主義を唱えるのなら、「戦争放棄」以外には全て方便、場合によって偽善となる。「核廃絶」を唱えるなら全面的「核放棄」以外には論理的に辻褄が合わない。政治上の「現実主義」という立ち位置はない。政治技術としての「現実」自体は当然あり、現実に即していかにより良い政治を実現するかという方法論はある。いずれにしろ時間経過や衆議院選、政局、政権交代が普天間問題をわけのわからないものにしている。ドサクサ紛れに突破する気かもしれない。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 3

2012年12月18日 18時48分30秒 | 政治論
 京大原子炉実験所助教小出裕章氏の言われるところは、あらゆる意味で原子力発電所は、地震列島上活断層直上にあって、限りなく絶対的な、目前のいつとも知れぬ不気味なリスクを負っているのであり、かつ、既に現存する施設において生じた、高レベル放射性廃棄物の厖大な未処置分が仮置きされている状態にありながら、多くの問題性を先送りする形での再稼働や新設増設行為を企図するのは、人類滅亡を予定する未来への自殺行為だという指摘である。
 結論は「廃炉が当然」であり、しかも今後こうした核廃棄物処理問題では、多くの不毛な税金投入、不毛な議論、政局がらみの政治、原発立地地元の確執を伴いながら、嫌でも人類は永久的にこれに関わらなければならないという、世界的な「シジフォスの神話」状態にあることになる。
 これを人類が負った「負の遺産」と称さないで何をかいわんや、しかも野田政権で行った「収束宣言」が、論理的にも現場的にも到底あり得ない愚行だったことが、現在益々過酷な条件に晒されている福島第一の、現場作業に従事する人々の話から見えてくる(東電の発表と現場の言い分の食い違いは、東電が充足すると称している人員では、現場が下請けの更に下にいくほど、到底被曝リスクをカバー?する賃金を供給できない事実を示唆する、つまり完全に不当労働状態でしか雇用できないわけで、これ故に、今福島第一の廃炉作業は深刻な人員不足に陥っているという)。
 電事連の「原発ゼロ」再考要請というのは、臆面もない財界エゴイズム披瀝に過ぎず、彼らにあって端緒から欠けている社会理念というものの問題は、この国の資本主義がバブル崩壊後醸し出した見るも無残な動物的利潤追求のなれの果て現象として、耐震偽装、産地偽装、等犯罪的詐欺的経済行為に見るとおり、明らかな「倫理」的荒廃状態を意味している(通常、発達した資本主義では品質向上こそ最大の要件で、それが劣化するということは体制自体が退歩しているということを意味する)。
 高度な経済成長で一億総中流を謳歌した頃は、ある程度正常に機能した倫理的人間的方面が、不況、景気低迷、に見舞われると途端に機能不全に陥るということは、その国の人間性の問題そのものにさえなる由々しき事態なのだが、この国の財界の懲りない面々は、あくまでも自己利益追求一途という偏頗な思考回路に拘泥している。
 「堕ちるところまで堕ちよ」という坂口安吾の堕落論だが、もしかすると今がこの国の「堕落」の真っ最中でこれ以上に目も当てられぬ状況が来るのかもしれない。
 辺野古大浦湾埋め立て強行「代執行」なんて、いともやすやすと実行する手合いが国を牛耳ることになって、沖縄の反基地闘争は戦々恐々という感じだが、むしろ自民政権で動かなかった移設問題を野田政権の、地元の反対に抗して「決める」政治に移行しようという矢先に、自ら政権放棄したおかげで、元の「決めてはならない」案件に戻ったという形勢ではある。
 尤も事態はそれほど変わらない。オスプレイはこいつの自爆を待つしかないのかもしれないが、今日もあすも明後日も「座り込み」は冬場を迎えて休みなく継続されている。沖縄の当選議員は全て一致して「辺野古移設」を否定し、オスプレイ撤去を訴えている。県民総意は揺るぎない。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 2

2012年12月18日 08時14分15秒 | 政治論
 この国は狂っている。殿のご乱心とはわけが違う。狂気は既に病的であり快癒の見込みはない。しかも首の据えかえで済む話でもない。安倍晋三ごときがジタバタしても状況は好転しない。「数の論理」に忠実な石原軍団がかき回す「言いっぱなし、やりっぱなし」政治にこの国の土性骨を叩き直す何らの効力もないが、この「呑気な父さん」は日中戦争の再現を待望しているとみえ、尖閣のきな臭さは徐々に導火線にその火影がちらついている。この政権での憲法改悪は無理であろう。寡頭政治という、人民の気配が希薄な政治のうまくいった試しはないし、そもそも時代遅れの反動でしかない。どうやら前回同様行き詰まりの挙句に仮病を決め込んで退散するのがオチだ。アメリカ合衆国「国家安全保障」のための揺るぎない覇権的弾圧外交に則って、如何にアジア西太平洋産軍複合実質を蔓延らせるかが当面の基本的「傀儡政府」取り扱い説明書の内容である。従って我々はこのアメリカ合衆国の対外政策軍事的動向に目を光らせ、彼らのとりわけ沖縄で顕著に見られる「植民地政策」に対する断固たる共闘戦線を、県民総ぐるみで徹底的戦略的に張らねばならない。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ

2012年12月17日 19時23分34秒 | 政治論
 政府意思決定機能としての有効議席数を上回ったので、今後「強行採決」を最後手段に旧体制(55年体制)踏襲の強権政治がその緒につく(岸信介の再来それ以上)、と考えておかねばならない。直ちに、違憲状態の「一票の格差」を保留した今選挙自体の無効を訴因として、広島の弁護士数人を皮切りに全国各地の弁護士らが一斉に提訴するという。分析によると、投票率は史上最低であり支持率も自民は2割程度、民意との実質的な乖離状態は覆うべくもない。かかる実態にあって、前回の政権交代が既成政権(自公)批判の意味を含蓄しながら支持率と投票実質の合致、従って民意の新政権(民主)待望具現が成就した事実からすれば(無様な結果に終始したが)、獲得議席数の「圧勝」モードの割にはこの度の政権が実際は先の政権交代前の状態に逆戻りしただけで、まったく人民に待望されたものでないことは火を見るより明らかだ(選挙マフィアの暗躍、米国エージェントの陰謀画策)。つまりこの自公連立政権は、この国の「民主主義」が制度的に採用している「多数決原理」の、疾風怒濤的適用絶対主義政権(反議会制民主主義)ということが言える。「決めてはならない」政策が目白押しの安倍自民党が繰り出す多くの重大案件法案化を阻止し、数の論理を振りかざしてこの国を軍国主義一色にしようという安倍晋三政権に対し再度打倒闘争の狼煙を上げよう。(中断)

詩396 本土人 (本土の土人) 

2012年12月15日 10時00分11秒 | 政治論
 もし「沖縄と私」などという表題で書き出したら、その時点でこのブログは閉鎖することになろう。「オキナワ」という呼称はあるがそれに深く関連した「私」などというものは金輪際ない。その意味では「私」筆者は「本土人」そのものということになる。「オキナワ人と本土人」という表題ならこのブログも辛うじて、アタマに「詩」と銘打った意味を失わずに済む。この12月でまる6年の移住生活が「やんばる」と呼ばれる沖縄北部の村落において、あっという間に時間的経過をした。今筆者は「沖縄に移住した本土人」と言えるが、もしかするとそれは単に「沖縄に移り住んだ一人間」ということに過ぎないかもしれない。「沖縄」が「埼玉」でも一向に変わらないことの意味とは一体何か。それはこの一人間がそれ以前に、この地に移り住むことに何らかの特別な意思を加味していたというような歴史は一切なかったという意味だ。従って実を言えば、最初に降り立って歩いたこの地の空気は意外に下水臭いという密かな不快感で始まったし、その後も意識するしないにかかわらず生まれてからずっと何気なく染み込んだ「本土」の空気感と比較して顔をしかめる場面が何度となくあった。これが何か重大な意味を持つとは思わない。ここに居るのは「沖縄と私」に直結する「私」である。この「私」が恣意に縁どられ臆面もなく「感想」「感触」「心持ち」をツラツラ述べ立てるような「本土人」の傾向を、あるいは筆者だけに限定する「ありのままのエゴイズム」を正当化する勝手を、そしてこうした場所で、何もかも無反省に貫こうという本土人の思い上がった心根を、むしろ嫌悪する「本土人」がひとりでもいるべきだという、脆弱な覚束無い「意識改革」という名の「詩」に生きる。されど現場だ。こうしてる間に高江のオスプレイヘリパッドは問答無用で着々と完成に近づきつつある。だけどどうしようもない。彼らの「植民地主義」が「非暴力不服従」で無作為に折れるということは果たしてありうることだろうか。辺野古の民衆行動は、新基地建設のうちの「公有水面」埋め立て行為を頓挫させているとはいえ、いつか「代執行」が強行されるんじゃないのか(県はその可能性に言及している)。こういう「本土人」である沖縄移住者の恣意的な絶望感というのはリアルにあり堪え難く現実的であり、同時に自らの「本土人」への憤怒に似た吐き気、高ぶりをどうにかして有効な行動へ転化したいと、思っているのかもしれない。いずれにしろ本土人たる「私」を語ることはこれだけにする。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 39 この国の民は「バカ」ではないが奴隷だ

2012年12月13日 20時31分13秒 | 政治論
 国民がバカだ、国民がバカだといって、またぞろ元の「田沼恋し」的自公民、維新連立政権を招来する日本の有権者をこき下ろすのは簡単だが、それでは一体どこの党の誰に投票すれば、画然と改革的な政治の実現が図れるのかと問われて、ここのこの人と断言するものはいるのか。いやしない。似たりよったり、ドングリばかり、目を凝らし、耳を澄ましてよくよく吟味して投票するのはいいが、所詮数の論理、選挙マフィアの暗躍でかき集められた、同流体の塊に抗して正当に戦える者など、今の日本国には一人たりとも存在しない。世界史はついこの間、ゲルマン至上主義によって一国の人民を、破滅の道へ引きずった独裁者を演出し、現人神を祭り上げて人を盲目に戦争と死へ駆り立てた東洋の異端国家を描出したばかりであり、政治的絶望と生活苦、乃至生存の不如意が凝集すれば容易に同流化する「大衆心理」の繰り返しが、いとも易易と行われる可能性を示している。従って、「国家対人民」の対立軸は決定的な理論武装なしにはいつでも「奴隷国家」へ堕する危険性を孕み、同時に国家として他国の植民地化する可能性に付きまとわれる。残念ながら日本がまさに現在「奴隷国家」となりアメリカ合衆国の植民地となっている事実は覆うべくもない。人民は、もともと実体のない「国家」の奴隷となり、日本国は地位協定によって植民地となっている。国の象徴という天皇乃至皇室が日本の「国体」を成すという宣言はされてないし、「主権在民」は国際基調理念にほかならず、従ってGHQが当時畏れた統治上の混乱のもとである旧「国体」は今や事実上も憲法上も存在しない。当然「国民」も「国家」もない。「愛国心」などありえようもない。「文化」としての文民統制上の国というのは、政治家によって代議的に運営されるとしてもその権限はあくまで「代理」であり「参議」に過ぎない。例えば、沖縄県が、その全ての民意において拒否した欠陥機オスプレイを強行配備することを認証した日本政府というのは、アメリカ合衆国の代理であって日本人の選挙した「代議」が形成する政府ではない。この乖離現象の根幹は「国家安全保障」という名の専管事項認知ではあるが、この考え方は日本独自のものではなくあくまでアメリカ合衆国のオリジナルにほかならないし、それは法律上の根拠を持たず国の仕事に二面性が有りかつこれを統合したところに国策があるため、もし民意に反し地域の害毒となるのなら当然に国策を拒否する論理的な、法的な権限を地方が持っていると言える。国の安全は同時に住人の福利に還元され、これを保障しなければ成り立たないことは、「代理人」の集合たる政府の当然に認知すべき事柄ではないか。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 38 アメリカ合衆国第52番目?の州

2012年12月13日 08時38分47秒 | 政治論
 鳩山元首相が初っ端にぶちあげた「普天間基地」最低でも県外移設の狼煙は「イカルスの墜落」のように恥も外聞もなく真逆の結果を曝したのだが、あの「臆面もない」国民への裏切りこそこの国の正体である「アメリカ合衆国傀儡政権」乃至「第52番目の州」実態を意味していることと認識しなければならない(鳩山はオバマに文字通り肘鉄くらったと報道されたじゃないか)。今次の衆議院選挙の結果はアメリカCIAあるいは所謂選挙マフィアによる諜報謀略活動による数合わせとみなすべきところであり、自民圧勝、維新大成功、等アメリカ追随日米同盟礼賛のクズどもが復活しこの国の三等国ぶりをいよいよ大挙してアピールするって寸法さ。橋下御大が沖縄に遊説して「とりあえず辺野古に移設してしかる後軽減策を講じましょう」といったというが、このバカ野郎の唐変木は何一つわかってないくせに言いブリだけは攻撃的で、一度環境破壊したらまず半永久的に元には戻らない事実を無視して何をかいわんや、他党も多かれ少なかれ沖縄認知がアルツハイマー的でありお話にならない。つまり地元以外は何一つ沖縄の悲劇的実態についてわかろうともしないというのが、この国の政治の真相にほかならない。これはどういうことかというと、この国の真の姿を見ようとせずに、問題意識さえ過去を踏襲しもう一度原点から検証しなおすことをせず、宙ぶらりんの国政を中学生の「学級委員会」並みのレベルで(アメリカ合衆国庇護のもとに)表面的な手直し程度で済まそうという魂胆だ。もしこの「精神年齢12歳」状態から脱却したいなら何よりもまずこの沖縄に押し付けた米軍基地問題を国の独立性に直結する問題として捉え直し、沖縄から追い出すべき米軍基地をこの国のどこからも拒絶されるなら「日米軍事同盟」自体がこの国の民から忌避されていると認識し(まさにその通りじゃないか-俺らの住するところに火の粉を飛び火させるつもりかといったじゃないかい、おまえさんがた)、アメリカ合衆国に対し、「戦争は終わったのだから、もういい加減におたくの軍隊はこの国から出て行ってくれないか」と素直に言い、もしなんなら友好条約に変えたいのだが、と付け加えることだ。ともあれこの国の政治家は共産党含め社民党までどこもお話にならない。根本から論じることをやめた国政には全てアメリカ合衆国様さまの帝国官僚管理事務的非人間的機械的執行実質以外に何らの人間的起死回生の「鼓腹撃壌」国柄は望むべくもない。(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 37 沖縄北部、高江の死闘へ

2012年12月13日 07時14分27秒 | 政治論
 既に高江のヘリパッドは工事完了を目指し最終段階まで到達したと危惧する。目取真俊氏の「高江の様子」から推して、もしかすると工事関係者は工事車両含め敷地内に野営しているのではないか。時々防衛局等が姿を見せるとすれば野営する彼らの日用品を配達してるのか。いずれにしろ沖縄県民、有志、協力者の高江結集を!!

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 36 沖縄北部、高江の死闘へ

2012年12月12日 08時10分58秒 | 政治論
 目取真俊氏のリポート乃至切実な訴え「高江の様子」を拝見する限り、事態は深刻さを極め、一刻を争う状況にまで悪化しているらしい。筆者は近在今帰仁に住する一小市民だが、目と鼻の先にある高江に行くのに若干躊躇している。理由はない。筆者自身移住者で言わば外部の人間に過ぎずオキナワの闘いの極端な地域性について行けないだけだ。しかし、かかる個人的な心理的雰囲気など問題ではないのかもしれず一度は行ってみなければならないと思っている。応援などおこがましい。自身の問題であり様々な意味で憤懣やるかたない。オバマ大統領はテロで暗殺されるかもしれない。ケネデイと同質の権力者(ベトナム戦争遂行者であるケネデイに日本人は正確な敵意を持たねばならない)、それも時代的思潮を代弁するかのような指導的牽引力を持ち、世界に冠たる覇権国家の無類の愛国者然としてその手法には揺るぎない鉄腕が加味されている。しかしながらその鋼鉄の愛国心こそ沖縄の敵であり、高江の人民ミサイルの標的そのものだということをこの強大な権力的独裁者にはまず見えてきはしないだろう。だから彼の言動すべてが人民の心情を逆なでする。それはこの国の傀儡政府のそれとは比較にならない影響の大きさと深さを持っている。オキナワの戦いはこういう権力と心理の崖ふちに立って行われているということか。あらゆる可能な行動形態を持つ人間の糾合を!!高江にとりわけ早朝5時くらいを目処に集合すべし!!(中断)

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 35 今さら超国家主義?

2012年12月10日 09時20分10秒 | 政治論
 天皇も皇国教育も国体論も既に有名無実化していることには誰も異存あるまい。今日本国に息巻いているのは「国家安全保障」という名の、「非人間的な」、「頭越しの」、「民意に乖離する」現象を絶えず伴う国民国家主義だが、国民という言辞も国家というものもそれ自体反人民主義に基づくことをよくよく凝視する必要がある。それは単に抽象概念ではない。「一つの思潮」に裏打ちされた単純化、極めて事務的非人間的括りにほかならない。この「一つの思潮」が「再軍備、憲法改悪、核武装」を目論む自虐史観打破、捲土重来、国威発揚、といった「心理傾向」に基づく右翼的論理になるナショナリズムである。右翼的論理とはもともと非論理的なものであり、論理的に人を説得する根拠はない。従ってアドルフ・ヒトラーにおいてものの見事に現象した、「熱狂」を煽情する性質の、エロスに近いところで結託する風俗的傾向を統帥しようとする、計画された総動員ファシズムにほかならない。先の大戦でこの国の多くの部分において同流化した現象は、多くは国家的恫喝特高恐怖政治乃至この総動員ファシズムの魔力による。ジャーナリズム、多くの有名作家、知識人、あらゆる階層の人々がここに流れ込んだ、途轍もなくマグネタイズされた抗し難い吸引力がここにはある。天皇の神格化、尽忠報国、神州不敗信仰、大東亜共栄構想、いずれをとっても根拠無き逆上にすぎないのだが、これが「国家安全保障」の名辞を付すると途端に、さながら天下不抜の一大正義に変貌するというのは、まことに人間の心理的危うさを証明して余りある。「愛国心」というのは戦前のこの国においては「言わずもがな」の共通共有心理であったが、ほぼ偶然の僥倖的勝利に過ぎなかった日清日露戦役から果ては元寇まで、人々を凌駕する形で覆い尽くした「神国日本」レジェンドに伴う思い上がった非現実的な空虚な背景のもとに形成された空虚な心理にすぎなかった。もしそれを同情的に言うなら、「国家安全保障」という国策的方針に科学的な豊富な情報に基づいた計算され尽くした戦略があったなら、無類の士気となって国を救う方向へ導いた原動力になったはずなのだが、残念ながら「貧国」日本に、戦争で、大国はおろかいかなる小国にも決して勝利と呼べる凱歌をあげるだけの、物理的背景は一切なかったしこれからもいよいよない。丁度「朝貢外交」で中国とある種の平和的関係にあって栄えた琉球王国のように、この日本国自体そうした武断的なものを排した協調外交によってのみ自国の安全を確保しうる質にある。前近代的封建的時代の非対称な国際関係は最早ありえない方向へ世界が動いてきているのであり、ただ一国アメリカ合衆国のみが防共、対テロにおける戦争準備実行指針を国家安全保障絶対主義に付与し、世界に臨戦的雰囲気を醸成しているわけだ。しかも彼らの愛国心にも今や根拠はない。彼等が日本の一般市民の頭上に炸裂させたあの原爆に関し、一切謝罪の弁もない以上空虚な倫理性のない心理状態に過ぎないと言える。(中断)