民主政権が前回の政権交代時に掲げていたマニフェスト、所謂政権公約というものが、基本的には、その前政権(自民政権)の矛盾・錯綜・過誤を析出した結果として考えられたものとすれば、この現在の自民復活政権において政治批判の対象となるのは、当然明白に、客観的な(コモンセンスとして)、旧体制(前自民政権)下のこうした矛盾・錯綜・過誤を意味するものと取っていいはずだ。
そして、大震災と原発事故は多面的な視点で言えば、別の、旧体制(前自民政権)下の矛盾・錯綜・過誤を巨大な問題そのものとして更に追加して示したものと言える。
つまり民主政権が、その幼弱さのゆえに果たさずにむしろ逆戻りした案件(マニフェスト、政権公約のなかの)についての正確な評価判定と、新たに重大問題化した原発事故検証に基づいて、復活政権(現自民政権)を批判する立ち位置を我々が確保しなければ、この国の国政は永続的な茶番劇(悲劇への一歩)を繰り返すことになろう。
この自公政権は公然と、危険極まりない時代錯誤な主張を繰り返す。今次倒壊した民主政権の国政への唯一の貢献は(若干不徹底だが)一定の高い政治理念を示唆したことにあり、一方彼らの大きな罪は、現実政治においてこの理念を死守しなかったことだ。
政治技術の幼弱さも然ることながら(しかしそれは当然の内実でもあった)、こうした実質的な意味の「転向」や「反動」を「人民への裏切り」行為として自ら糾弾する政治的自決こそ必要な「人間的行為」だったはずである。
にもかかわらず一切の重大事故責任追求に関しては何一つ目に見えて厳しい判定を下さなかったし、言うならば一切を次の政権に進んで丸投げしたということになる(しかも原発推進を実践したのはその丸投げ相手自身ではないか)。
丸山真男の言う「無責任」体質に究極する日本の為政者根性がここでもみるからあからさまに露呈された。これの意味するところは維新以後の日本資本主義発展の過程で「天皇絶対主義」という、本来虚妄の責任仮託媒体をでっち上げ、実体「虚」において政治現実を造作し、虚構の国家主義(超国家主義)において、外国との見るも無残な自滅的戦端を開いた、あの戦争と同じ人民悲劇へ導くということにほかならない。
実際、現自民公明連立政権では、本来なら問題発生時点で直ちに国策として示さなければならない「原発全面廃炉」方針などどこへやら、むしろ新増設すら論うていたらくである。これが自公政権の無責任反動政治の正体でなくしてなんというのか。
同じことだが、先の大戦で人民を途端の痛苦に突き落としたことに関する真摯な反省もないままに、再び「再軍備、憲法改悪、核武装」を画策する安倍政権の悪魔的本性を、一体誰が批判し実効的に食い止めようというのか。
沖縄にあっては普天間問題も同断であろう。鳩山墜落は力学的(重力の)意味しかないのだが、かといって何年も動かないこれを「辺野古回帰」に固定する無能無策な政治停滞は到底評価できない無様さである。
しかしながらここまで来て言えることは、結局はこの国がアメリカ合衆国の意のままにしか作動しない三等国家に成り下がった愚劣蒙昧さ、歴史的精神的暗黒である。それを論じないで自衛隊の米軍直属国軍化などというのは、安倍晋三の不労所得(既得権)精神の現れ、政治に汗をかかない地頭政治そのものだ。(中断)