抵抗戦線

ブログを使用しての種々の論考

詩451 傀儡国家 6

2013年08月31日 21時16分12秒 | 政治論

 国際関係における、現代最大の、奇怪な軍事的片務関係の安全保障条約が日米のそれである。奇怪な、ということは、現代外交常識にそぐわない奇妙なもの、という意味になる。その事実上の歴史的経緯は今どうでもよい。日本の政治家はじめ各界のお歴々、学者、有識者たちは挙って安保体制の堅持と、より強固な同盟関係、と言い募り、金科玉条の如くこれを拝み奉っている。あるいは、それが最善最高の国家安全保障を保つ唯一の手段であるかのように論っている。この意見の多くは、極論するなら日米外交関係の担保としてこそ条約を堅持すべきと断じていることになる。つまり簡単に言えば、必ずしも、極めて有効な軍事的安全性を担保することはないが(軍事的戦略的な最上の手段ではないが)、アメリカ合衆国という大樹の陰にいれば大概は安全性を保障しうるという観点から、米国に己の一身を預託したという意味である。この本質は戦後日本の運命決定に加担した吉田ドクトリンの無作為な承継に過ぎない。何故この、時代環境の変動にも不動の地位を占める同盟は永続的に更新されてきたか。しかも輿論に見る圧倒的な支持がこれに無反省な後押しをしている現状があるのだ(ただ一箇所の地方自治体を除いて)。彼らは何故日米安保を支持しているか。恐らく理由はあるまい。理由、つまり日米安保が必要なものだという理由である。何故なら彼らは、多くの場合軍事専門家でもないし、たとえこれを学術的に修学していたとしても、実際上の軍事的展望を自家薬籠中のものにすることは容易なことではない。従って、現実的には彼らはなにも知らずにこれを支持している。日米安全保障条約の条文すら読んだことはあるまい。一方、ただ一箇所の地方自治体にあっては、こうした他府県の事情と大差ない輿論実態にありながら90%の反対意見を示しているのだが、これはいったいどういうことか。そこに全国展開の74%の米軍基地があり、しかもその基地公害を如実に体験しており、あらゆる議会制民主主義の手段を駆使して抗議反対しているオスプレイの強行配備を目の前に見、かつは、この県の戦後の米兵犯罪、米軍機事故とその直接的被害、を目の当たりにし、更にはおよそ戦争に絡んだ一切の国家的行為が必ず襲い掛かってきた避けがたい悲劇に関する人々の体験を見聞し、今や自然遺産にも登録されようという亜熱帯樹林を環境アセスもなく切り拓き、破壊しオスプレイパッドにしようとする米国政府の蛮行と闘っている人々がいる。ここが即ち、日米安保の、住民をその騒音爆音で不快にし耐え難い環境にしている現場である。だから、ここの現場の生の声こそこの国の正銘の輿論にほかならない。アメリカの傀儡国家になにがわかる。(つづく)

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詩450 傀儡国家 5

2013年08月31日 07時06分53秒 | 政治論

 アメリカ本土ネバダ州でMV22オスプレイ(普天間配備同型機)が墜落したが不思議にも死傷者は皆無だった。で、マスコミはこれを「着陸失敗」と報じたがここに極めて狡猾な作為を見なければならないということだ。墜落と着陸失敗とでは受け取る方に異なる印象を与え、墜落には機体の欠陥着陸失敗には操縦ミスが連想されるのである。この事故原因の差異は当然に意味が180度異なる。しかし操縦ミスにしろ、多くの事故報告(モロッコ等)がそうであるならこの種の機体はまさしくミスを誘う「欠陥」機の意味になるわけで、見かけを装っても事実上危険極まりない欠陥機そのものであることは隠し切れない事実だ。「民主的」な仮面に守られているオバマという化け物は今、中東情勢に戦々恐々としているが、「アラブのことはアラブに」「アジアのことはアジアに」の格言通り、本来世界警察たる所以のない自国の立ち位置に引き戻して、既にレゾンデトルを喪失した世界性に準じた新たな世界史的視点を獲得することに全力を傾注するべきなのだ。イラクでの自身の大恥を誰が許したというのか。オバマよ、おまえさんのしていることは、おまえさんが明確に批判したであろう前任者と大差ないことを思い出すがいい。少なくとも日本の不当に領土侵犯されている一地方島嶼にあっては、「老大国」じみてきたオマエさんの国がしている図々しい植民行為を決して許しはしない。腐りきったジャパンがいかに尻尾振って媚びようが、おまえさんのしている戦争経済主義の非人道性を永久に告発して止まないことは、此処にきてあのおじいおばあたちが炎天下「座り込んでいる」現場を見れば直ちにわかろうというものさ。ここで欠陥機を墜落させ住民を殺し亜熱帯樹林を焼き焦がすようなことがあったなら、おまえたちの人間でない行為のことは百年忘れはしない、必ず相応の報いを受けるだろう。(つづく)

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詩449 傀儡国家 4

2013年08月30日 08時39分07秒 | 政治論

 明治維新を全面否定する必要はないのだが、昭和の戦争時代と敗戦、延いては甚だ偏頗な戦後民主主義がどこから来たのかと問えば、明らかに、明治政府が強力に推し進めた富国強兵殖産興業欧化策という、急激な資本主義の欧米風帝国主義的成長がその因源であることは言うを俟たない。何故この頭でっかちな進歩主義が文民統制を伴わずに(あるいは極めて脆弱なものとして)突進することになったのかと言えば、しかも軍部の「天皇奉戴神格化」という猛然とした欺瞞性を全国民レベルででっち上げ、「尽忠報国」を旗印に私事を一切顧みない「献身的犠牲」を強い、凡そ「近代化」に相応しくない前時代的封建的遺制に大衆を縛りつけ、抗えない全体主義に狂熱的に巻き込んだあの忌まわしい戦時体制を生み出すことになったのかと言えば、英国風立憲君主制を押し立てたといえば聞こえはいいが、世界史上の「近代化」といったところであの明治維新は所詮支配階級の下層部分(従ってその生活的不如意は精神をすら圧迫していたであろう)が凋落気味の出身階級に大政奉還させ「古代天皇制の復活」をして新たな支配構造を構築し直したということに過ぎないわけで、その後の「近代化」の歩みが一部の選良たちの「効率主義」や「愚民策(この最たるものが大震災時の隠蔽工作や戦時中の大本営発表だ)」を基本に超国家的抽象的大東亜主義へ独善的にのめり込んだ結果ということになる。この見方は竹内好の「近代化とは何か(中国と日本の場合)」に拠るが、更に言うなら、この国の敗戦、敗北は彼ら支配階級において根本的に生じた彼ら自身の限定的な敗北であり、言ってみれば恐らくこの絶望的な状況に関わらず「民衆」という、根にしろ胚珠にしろ必ずそれはどこかに息づいていると言うことなのであろう。(つづく)

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詩448 傀儡国家 3

2013年08月28日 14時16分32秒 | 政治論

 国連事務総長潘基文(バンキムン)氏の発言というのは、訪韓中の記者インタビューに答える形でされたコメントなのだが、日本政府の改憲の動きに対する、周辺国の憂慮状況における国連の立場を問うのに答えて、「日本政府の政治指導者は深い省察と国際的な未来ビジョンが必要だ」と述べた。更に日中韓の歴史認識や領土を巡る一連の対立に対する見解を問われ、「政治指導者は正しい歴史認識を持ち決断することが必要。それでこそその他の国から尊敬と信頼を克ち得る。」と答えた(毎日新聞8月27日記事)。国連事務総長が自国を訪問し自国が絡む問題に対し発言することが国際関係のバランス上注目されるのは当然ではある。しかし氏の発言にあらを探すよりも氏が敢えて名指しでひとつの国の動向に釘を刺す発言をしたことは、現今国際世論の形勢が対日批判に傾いていることを示す代表例と考えたほうがこの場合適切なのだ。特に始めのほうのコメントは、この国が敗戦の検証と総合的な見極めを回避してきた戦後の行く末を凝視するなら、戦後日本の抱えるべき根本の問題性を指摘していると評価できる。従って菅官房長官のこれに対する反応はまことに拙劣で、卑しくも国際機関のチェアマンがほぼ直言したところを「不快感」や「甚だ疑問」などという上から目線で応じるがものではない。そこに対中、対韓、対朝、ひいては対アジア優越主義を垣間見るにつけ、戦前体質の再現であると言われても仕方がないし、実際石原なぞはこれらの国々に対し三等国呼ばわりを今でも平気でするのである。これは人種差別やコンプレクスの裏返しとみるよりも改善根治が不可能な、一種の頑迷な封建体質というもので、日米安保の殆ど不動の盲信やら沖縄特化した基地依存やら、その実例をあげるのはいかにもたやすいことである。(つづく)

 

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詩447 傀儡国家 2

2013年08月27日 22時39分29秒 | 政治論

 北一輝の、当時は斬新な論陣の行く末は、彼が本来明治人だということから一歩も出なかったことを証明していた。明治大帝への無条件な崇拝と親愛。明治維新をフランス革命になぞらえ、明治天皇をナポレオンに凝らす(江戸幕府がブルボン王朝というわけだ)という、現代人には到底思いも及ばぬ発想を齎しているのが、彼の天皇親愛(天皇機関説的な言及を可能にするほどの親愛)であった。彼は明治16年(1883年)、志賀直哉と同年に生まれた。漱石は慶応3年(1867年)の生まれ。「こころ」の「先生」が自死を遂げたとき残した「私」への手紙で「明治」という時代に言及している。そしてそこで乃木将軍の殉死(学習院の生徒だった志賀直哉はこの報に触れ、馬鹿なやつだと思ったそうだが)に触れ、「時勢」のことをいい、明治天皇の崩御とともにひとつの時代が終わったと言う感じを持ち、この先、生き延びることは「時勢」に遅れることという思いに至った。「先生」は「私」にこうした感懐が理解不能であろうことを言うが、あえて説明すれば、といって確かに納得のいくものでない弁明を書き下す。「国体論及び純正社会主義」「支那革命外史」「日本改造法案大綱」を読み進めると不可解な雰囲気に取り付かれてしまうのだが、恐らくは「大時代」という呼称を冠する「明治」時代が故知らず醸し出すものなのであろう。勿論これは理解とかいう段階にない想像に過ぎない。彼の思想は明らかに大東亜共栄論へ至るものだったが、現実には彼の思惑とは似ても似就かぬ軍人論理の理不尽で暴力的な実力行使として、昭和戦争時代を駆け抜け撃沈する。勿論北の思想は2.26事件で途絶えたと考えたほうが実情に合っているのであって、大東亜共栄圏は満州事変不拡大方針をかなぐり捨て中国侵略を強行していった関東軍の、見え透いた欺瞞そのものであった。大東亜戦争肯定論の骨子は、この観察眼の鋭い論者が捉えた北一輝直伝の東亜理念が、大正ロマン爛熟と昭和の堕落によって理念的に「捩じ曲げられた」運命を、「歴史の悲劇」と断じることだった。但し、ここに林房雄の限界がある。彼もまた「明治」の時代を克服し得ない、「ヤマト民族」の感傷にひたっている文人の一人であったか。(つづく)

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詩446 傀儡国家

2013年08月26日 19時53分42秒 | 政治論

 この国の最大の汚点、恥ずべき欠点、本質的な錯誤は、オリバー・ストーン氏の言うように、ある意味最もありふれた、理念的政治思想に忠実な政治家を生かさない、不思議な政治的土壌を臆面もなく持続していることだ。発言としてあった小沢一郎の政治的表明(一政治家としての見解)において、あるいは鳩山由紀夫の政権奪取時における基本姿勢(自身の個人的公約)において、この国の民衆は間違いなく「望むべき有り様」を政治に期待していた瞬間に立ち会った(それは2009年の下半期に集中する)はずだが、主に米国謀略活動に則ってこの国の司法機関(我々は、判事も検察も法を曲げる行為に躊躇いなく手を染めていた実例に直ちに気づくであろう)を巻き込みながら、様々なデマゴーグとともに彼らの動きに犯罪的濡れ衣を着せ闇から闇へ葬った(と見える)。福島県知事時代東電の隠蔽体質に憤激し、プルサーマル計画に強固に反対した佐藤栄佐久氏を、あり得ない罪名でその座から追放したのは紛れもない米国CIAの陰謀である。満州国皇帝溥儀のように実質権限が皆無な立場なら直ちにその傀儡性が暴かれようが、日米関係のような巧みに仕組まれた、極めて隠密性の高い管理諜報システムに覆われている外交関係にあっては、灰色のグラデーションが決して黒や白にならない状態で推移し、いつのまにか、「望まざる有り様」に転落した国にいる自身に驚くわけだ。この国は戦後同盟国ドイツとは質において異なった道を歩んだ。この国の戦争は取り立てて国際的に犯罪性の高い戦争行為(ナチスに比較すれば)とは決して言えないし、侵略の一事だけ取り出せば19世紀末から20世紀初頭にかけての欧米のそれと大差ない。ただ一点敗戦の憂き目が決定的なのである。しかも敗戦の責任は国内問題にほかならず、戦勝国による極東裁判結果だけがこれに回答した形で、国内問題という括りでは一切なされた形跡はない。しかし又戦争が相手国なしに起こりえない以上、国内問題としての対諸外国問題が当然追究される必要がある。これも勿論論議を尽くした形跡はない。総じて「東京裁判史観」と嘯く彼らと同様に歴史家は、正当にして総合的検証がされなかった敗戦問題への肉薄を、この国が自身の手で行うべきことと承知している。敗戦とは何か、敗北感をどう捕らえるか。戦後68年という時間は、敗戦を誰が遺産として引継ぎこれをいかに扱うのかを問うところまで、問題が完熟すべきであろう長さではないのか(事実はここまで煮詰まってない)。「戦後」を終わりにするのは戦後世代であり、事実として、体験として、戦争を知らない世代である。しかし史書をちょっと紐解くだけで、かの満州事変も上海事変も驚くべき関東軍の陰謀だったことは一目瞭然ではないか。(つづく)

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詩445 片手落ち

2013年08月25日 15時05分07秒 | 政治論

 原発事故、所謂東京電力福島第一原子力発電所の破壊的爆発事故とこれによる放射能汚染(作業員、近在住民、福島県民の被曝、乃至海洋環境汚染、不可測に近い地球環境汚染、更に継続して汚染し続ける収束しない事故本体、避難生活の人権被害、風評被害等)の刑事罰被告を特定し、責任の全体像を明らかにし、もって今後のこの国のエネルギー政策から原子核エネルギー利用コンセプトを除外する流れを導出することが、最重要な課題である。しかしながらこの国は、先の大戦同様にその国策の重大な過ちに関する分析総合という理念的機能を稼動することなく、徒に原発再稼動論議に論点をすり替え、あまつさえ何らの省察も加えずに原発セールスに手を染めるという、あきれ返った愚策に走った。つまり、本来的な無責任体質からくる無責任連鎖現象が現今為政者の実態として認められるわけだ。菅元首相以下東電関係者の事故に対する責任を追及する検察サイドで不起訴方針が明らかにされたが、審査会の検討はこれで済むものでもあるまい。強制起訴は間違いないだろうが、果たしてこんな回りくどいやりかたで何が明示されるというのか。業務上過失致死傷などという生易しいありきたりな罪名を冠して数名のスケープゴートを血祭りに上げても、所詮は同様な傾向に流れていくのがおちだ。(つづく)

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詩444 見解

2013年08月25日 07時34分26秒 | 政治論

 普天間飛行場は無条件で閉鎖すること。

辺野古新基地建設は到底あり得ないこと。

現行展開在沖米軍基地の全面閉鎖。

 上記事案は日米安全保障条約の廃棄により自動的に成立する。この時3番目は他県のそれについて論わない。つまり3件は県が発信するものであり、それとは別に独自に県が安保条約の廃棄を論じることはないから。つまり、不可知論的に県が国の専権事案を度外視して自己を開陳する、という意味にほかならない。何が問題か、というと、基本的に県は「非戦」をモットーとし(統計的民意の抽象化...安保否定90%)、あらゆる軍事的な公私の行為を承認しない(沖縄戦の経験則と「非武の邦」意思)のである。勿論それが憲法9条の条文通りの受け取り方(戦争放棄)と信じるからだ。従って県とその民は、明らかに戦争に加担し準備し発進する米軍という異国の軍隊が、県土の広大な敷地(本島の20%)を占拠し、訓練し、生活する(戦時野営ほか一般日常生活行為...占領行為)事実について、自国日本の憲法その他国際司法に違背していると断じるに過ぎない。「オマエさんがたの、野蛮な戦争行為に加担するのはいやだ」ということだ。日常的な騒音爆音被害、墜落危険ストレス、異国人治外法権状態の一方的容認、軍隊軍人論理の絶対的行使、生活生存権への恒常的な脅威加圧、民意を踏みにじる行為が齎す人間的尊厳の毀損、客観的危険物を無理やり導入すること(オスプレイ)、決してこの地を臨戦の危機から守護しない基地存在、即戦実質を有しない軍事同盟(臨戦時直ちに発動しない同盟関係)、異国の特殊な優遇措置によって居座る軍産複合国家としてのアメリカ、こうした性格に彩られた基地というものに対し、「よき隣人」などというふざけた押し付け偽善を誰がまともに承知するのか。当然、74%もの偏頗なしわ寄せを顧みない本土一般傾向の「平和幻想(核の傘)」にはあきれ返っている。多くの実例において、沖縄の地が軍事的使用により汚染され蝕まれ、破壊されつつある。とりわけ現在進行中の高江ヘリパッド建設にあっては、見るから希少な亜熱帯自然遺産をバリバリと切り拓き、住民の生活空間に侵入しようとしている。これら理不尽な日米合作行為に対し、間断のない大衆行動を日々続ける、主として老人が中心の痛々しい現状を本土の人間は自国の同胞の悲劇として熟知しなければならない。(つづく)

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詩443 軍国主義

2013年08月23日 19時14分15秒 | 政治論

  あり得る事、起こり得る事、あった事、を語り描き表出することはリアリズム手法であり、史実や体験であれば事実に即したノンフィクションと言える。中沢啓二氏の「はだしのゲン」は氏自身の被爆体験に基づくフィクションだが、見聞きしたことは事実であり、内容における衝撃的な場面のうち人の論う残酷なシーンと言われるものがノンフィクションであることは説明を要しない。大方の史家も異論なかろう。松江市教委による小中学校図書室での閉架措置は、一人の市民からの、これに関するある傾向に通じる「陳情」に加担する私見が主体であり、一種の公権力濫用に属する質の失態にすぎない。この前教育長(の独断と言われる)に政治的な主張があるわけでなくあくまで一市民の陳情に易々と応諾した不手際以上の意味はない。さてそこでこの一市民の陳情の内容だが勿論今更取り上げるまでもなく、現在この国に蔓延り始めた、又は顕在化し始めているナショナリズム、史実隠蔽捏造工作、といった傾向の集団を髣髴させるものがある。従って我々の耳目を惹くのは少数意見(だと思われる...校長の9割は閉架措置に反対している)をさも多数意見のように採用し公権力行使に踏み切る監督官庁の見識不足なのだが、しかもいかに贔屓目に見ても単なる主観に過ぎない意見の敷衍という内容で下した措置だった。鳥取の場合は問題になった時点で既に閉架措置を撤回している。こうした「行き過ぎ」の公的処決は、当然ここ数年に顕著となった、政治家たちの国家主義的言動傾向が影響していることは間違いない。むしろ全体主義傾向といってもいい。これは「流れ」で筋ができ、結節点での左右分岐で顕著な「傾向」となり、為政者が公言することで「雰囲気」になる。全体主義はもう一歩だ。彼らの憲法改悪、集団的自衛権行使容認、日米合作軍拡行為、沖縄における戦争準備発進行為といった一連の「軍国復活」の狼煙は早急に消し去らねばならない。(つづく)

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詩442 対馬丸遭難

2013年08月22日 14時57分26秒 | 政治論

 「対馬丸」遭難事件は1944年8月22日とされる。つまり今日がその69周年目となるが、折から沖縄は旧盆を8月19日ウンケー(お迎え)、20日ナカヌヒー(中の日)、21日ウークイ(お送り)と終えたばかりで所によりこの22日は「エイサー」や「盆踊り」が行われるのであろう。筆者の地域でも今日は「何々祭り」といった感じの催しがあるそうだ。台風12号が先島を暴風圏に巻き込んで数日沖縄に吹き荒れたがそれもいつしか大陸に去って今日はやや強い風が吹いたり雨がぱらついたりしているものの、概ね曇り空の時折晴れ間の見える回復傾向の気象条件にある。従って宵の口から夜半にかけてはまずまず天候に祟られることはなさそうだ。本土への学童疎開の児童引率者教師らを乗せて奄美近海に差し掛かった夜半、対馬丸は米国海軍潜水艦ボーフィンの魚雷攻撃を受けあえなく沈没、1661乃至1788名の乗員乗客中1476名の犠牲者を出した。児童の内生き残ったとされるのは59名という。歴史というものはその事件事故を詳しく掘り起こさない限り、多くはその悲惨さや規模などに応じて類型化され統計化され最後には数値においてしか語ろうとしない。恐らくは学童疎開にまつわる極めて稀有で悲劇的なこの事件は突出して歴史的な場面を後世に展開して見せるのだろうが、沖縄戦や戦後の米軍関係事件(宮森小学校米軍機墜落事故や少女暴行事件)に絡めて年少者、弱者が謂われなく犠牲になる理不尽さを人がわが事のように思い起こすことなど望むべくもないのだろうか。こんなこともある。その年所謂十・十空襲(10月10日)は那覇を灰燼に帰しその後の本土疎開者が急速に増えた。そして3月末以降未曾有の惨劇が沖縄本島地方を蹂躙する。戦争がそこにある限りは生死は全く予測不能の運命に委ねられる。現在謂わば何時と知れぬ墜落危険地帯に人為的に放り込まれている沖縄本島は、まさしく戦争状態に変わりはない。(つづく)

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詩441 沖縄ですることか!

2013年08月21日 18時40分10秒 | 政治論

 菅官房長官と山本一太沖縄担当相が相次いで「辺野古埋め立て承認」勧奨を仲井真知事に伝えに訪沖するのだが(ありきたりな、500億程度の沖縄振興予算増額アピールをして、だ)、この見え透いたお百度参りの度にやつらの行く先々で「怒」の字が目立つ旗印の辺野古反対シュプレヒコールが沸き起こる図は、江戸百姓一揆さながらに封建的な悪臭をふんだんに放出している(勿論放出しているのは権力者の方だ)。この事はかかる形容表現に留まらず、実際にこの国が沖縄に対して執っている国家方針そのものである。そもそもこの国に方針などは存在しない。あるのは対米的に「御説ごもっとも」を繰り返し決して沖縄大衆に目を向けない(向けられない)この国の前近代的姿勢だけだ。この頑丈な、一枚岩のような壁にしかみえない日本国は沖縄にとって実に不可解な代物である。例えば既に十二分に混淆したであろう、「琉球と日本」が生み出し育み成心を得た現今140万県民に対し、「人種差別」としか捉えられない国家施策で応じている安全保障体制は、恐らく敗戦で掴まされた日米の従属関係そのままに一度として見直されず延々と持続されているが、この事態を無作為に踏襲して止まない、驚くべき保守停滞性を温存する、その死滅した土性骨だ。これの大元は残念ながら帝国官僚となる。帝国官僚の延長としての官僚機構というもの。従って、病根追及は明治維新に遡らざるを得ない。その基本は万機公論に決しはするがその公論が決して民意に沿わない「公」の論議であり、従ってこの「公」がいかに人民乖離しているかだ。これを官尊民卑というのだが、この前時代的な体質をこの国の官が現代において有しているという由々しき事実である。その悪弊を見るも鮮やかに露呈しているのが沖縄県のわけで普天間の無様な推移をみよ、これがこの国の真姿であり、しかも沖縄においてのみそれを平然と晒して恥じ入ることもない。(つづく)

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詩440 自業自得

2013年08月21日 09時33分01秒 | 政治論

 イスラエルの政府高官が自身のFBで、広島長崎の原爆を「侵略者の自業自得」と言ったというが、地元と中央政府の対応の相違がない交ぜになって結局するに全体として低調な非核反核運動に対する痛烈な当てこすりと取ったほうが適当していると一応思われる。原発セールスする宰相の国が何言ってんだ、ということさ。だがその一方で強固な軍事的援助を得ている米国に対する阿りという見方もできるし、いずれにしてもこのような赤裸なネット言論が反映する世相というのに着目すると、現状においてこの国がいかにも情けないほどに理念的普遍的向上志向と無縁な、精神年齢12歳のくだらなさを呈していることを痛感するわけだ。世界はあの大震災原発事故の強烈で悲惨な印象をずっと持続的に有している。にも拘らずこの国の為政者が自ら軍国主義を標榜し世界戦争に加担しようとし、原発を使い続けようとしている。堕落した国家を連想しないはずはない。自ら火をつけて領土紛争の導火線を引いたこの国が、接続水域を航行する中国海警の動きから対中脅威を煽る馬鹿げた画策に血道をあげる愚劣極まりない外交姿勢は、どう考えても低レベルな浅はかな突出と誰でも思うであろう。おまけに「沖縄を守る」と言って与那国に軍事派遣する自己矛盾を平気でやってのけようと言うやつらのどこにも沖縄への配慮など微塵もないことは県民も今や百も承知だ。(つづく)

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詩439 アメリカの犠牲になってたまるか

2013年08月20日 09時47分02秒 | 政治論

 沖縄では、先日、辺野古移設推進県民の会設立を画策する一派が、およそ300名宜野湾市に集って会合を開いている。名護、宜野湾市議会議員などのほか国会議員もこれに同調していて、西銘恒三郎(自民)、島尻安伊子(参)、中山恭子(維新)や島袋前名護市長らが名を連ねている。この糾合は今後全県キャラバンを組んで数万人署名を集め10月に地方議員、国会議員の会設立、11月24日には総決起大会を開催するらしい。この極めて政治的な動きというのは例えば西銘や島尻などは選挙対策で以前は県外移設を唱えていた張本人でありどうしても信用ならぬ胡散臭いものを発しているわけで、普天間飛行場危険性除去のためには辺野古の犠牲は仕方がないという論調から、事態の推移を十二分に観察しないインスタントな空騒ぎを想像する。差し迫っている仲井真知事の「公有水面埋め立て承認」決裁を睨んでのことだが、今や普天間閉鎖の現実性はなきに等しく、あっても恐らく10年、20年はあっというまに過ぎ去るであろう。つまりアメリカは普天間固定化を既に決定しているのだ。これに対し県民総意は辺野古移設反対で決しており殆ど何の意味もない移設推進という政治活動は愚にもつかぬ政府ベッタリの恥も外聞もない、「政治屋」たちの暇つぶしとしか言い様もないことになる。大衆運動の流れは事に即して非暴力不服従を貫く以外手立てはないのであり、その対象が日本政府であったり米政府であったり沖縄防衛局であったり、あるいは工事屋、測量隊、警官隊であるわけで、日米の強権主義が行使する反人民行為を食い止めるための体を張ったものになっている。現状、言ってみればこの決裁がどちらに転んでも実際の普天間閉鎖、辺野古埋め立てはむしろ宙に浮いた形になるに決まっている。というより、県知事が承認したなら直ちに県知事リコール請求となり、全県的反対運動がより過激な局面を迎えるに違いない。いずれにしても沖縄の自然破壊と住民ストレスを倍加する軍事基地の増設など人間の仕業ではない。あの戦争と原爆、原発事故といった、米国の犯罪性を帯びた行為の犠牲になるのはもう御免だ。(つづく)

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詩438 危うい日本

2013年08月20日 06時45分40秒 | 政治論

 何故安倍晋三は敗戦の日に、これまでになかった「アジアへの配慮」を欠く式辞をわざわざ述べたか、答えは一目瞭然なのだが、実を言えばこのことはその肝心のアジアが騒ぐほど意味深いものはないし、彼がその日靖国参拝を避けたことも取ってつけたつまらない理由に拠っていることは誰でも知っている。我々はそこに、この国の保守の牙城が戦前の体質そのままに、敗戦の痛手も一過性の災難に受け止められ何らの悔いもない戦後をどうにか生き延びてきた政治的鵺(ぬえ)たちの「小手先」民主主義を垣間見るわけだ。彼らの度し難い根本的な歴史的誤謬はここに披瀝するまでもないが、彼らが鎮座する舞台には我々もともすれば安易に相乗りしているわけで、彼らが自ら安全弁を彼ら自身のためにのみ用意し、適当な所で籠絡されている大衆は、己の拠って来る安全保障を喪失した状態で天災人災に見舞われ国に捨てられ、路頭に迷い、又適当な所で籠絡されもとの木阿弥に舞い戻る繰り返しを戦後ずっとしてきたのだった。見よ、あの大震災あの原発事故こそこの国を根本的に見直す絶好の機会と目論んだのは全くの空手形であった。これもまたあの敗戦同様に実に一過性そのものの、あと数百年はまずないだろうと踏んだ彼らの「何事もなかったかのように」済ますべき一事件にすぎなかった。ここに彼らの、彼ら自身見落としている重大な歴史的誤謬がある。彼らが現状を維持し同時に復古的戦前回帰をするということは、「リセット」という意味では有り得ないことでもないが、たまさか単純すぎる国家基準の執行(それが戦後の日本が寄りかかった柱である)ということならば結局同じことの繰り返し、同じ過ちの再現にしかならないだろう。そこに大衆のいない国家第一主義が、すんなり通用するには官民打ち揃って発狂でもするしかない。(つづく)

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詩437 邪心かそれとも衒学

2013年08月18日 16時32分10秒 | 政治論

 不可知論でいくと「及びがたく知りえないもの」としての軍事問題がある。人間の歴史は戦争の歴史だったと言っていいくらい、軍事の問題は常に我々に付きまとってきた腐れ縁であり避けて通れないものがある。それだけにその関係し関連する分野は多岐にわたる。従ってまた多くの関係者が不可分に近い内容でこれに携わっているといっていいのだろう。軍産複合体というがこの表現は歴史学的には形容矛盾に相違ない。あらゆる戦争がほぼ確実にその原因過程結果において経済活動に関与しないことなどあり得なかったはずだ。戦争特需は勿論事実上の利権確保保全が目的の戦争も当然ある。しかも自国内の事に限定するならいざ知らず他国に特派して軍事行動を展開する侵略的な戦争も数知れずある。大日本帝国の場合対中、対アジア戦線はまさにこの侵略的な戦争行為に当たるのだが、現今政権以下その追随者たちはこの「侵略性」について目を背けるか疑義をはさむか否定するかしているらしい。最初に言ったように我々は「及びがたく知りえないもの」と軍事問題を認知しているが、史実に関しては必ずしも「知りえないもの」とは思っていない。但し、この史実が疑いなく事実かどうかはどこまでいっても確信することは決してできない。何故なら我々は当事者ではないのだから。勿論ある史実に疑義をはさみ否定し目を背けるものも決して当事者ではなかったはずだ。我々は誰かにその話を聞き誰かに伝えそのまた誰かが誰かに伝えるというふうに歴史を知った、のだった。史料を読むにしろこの伝聞形式に違いはない。クリストの伝聞は当事者から始まったにしても史料的にはいつか4種類の異なる内容の伝記を後世に残している。にも拘らずいくつかの事柄については共通する「事実らしきもの」を明らかにしている。しかし「復活」を俄かに事実と信じられるものはそういないだろう。あるいは多くの奇跡を行った、という話にも少しく疑問符を禁じ得まい(たとえそれが医学上の真理にマッチするというものだとしても)。架上に無残な刑死を遂げた掛け値なしの救済者、という驚きの印象が信仰を促した。つまり重要なのは個々の事実の事実性ではなくそれが我々の中の人間性に達するとき「認識」する「意味」なのである。(つづく)

 

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