沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩394 血も涙もない日本の国防思想

2012年10月05日 23時33分28秒 | 政治論
 まずこの、アメリカ政府と日本政府の、日米軍事同盟における軍事展開の一部内容変更である、新型垂直離着陸輸送機オスプレイの、軍事基地沖縄県宜野湾市在普天間飛行場配備実施行為は、丁度半世紀前にアメリカが失敗した「ベトナムの民族解放戦争」と同じように、概して日本の(当時は世界の)世論の「オスプレイ配備」否定反対論調(ベトナム反戦論調)に囲い込まれる流れとなっているが、(当時とは違い)これらの論調を覆っているのは丁度「国連人種差別撤廃委員会」同様に効力のない、「意見」「勧告」めいた全くの「偽善」であることを認識しておく必要がある(彼らの論拠に安保持続の意識がある限り)。
 「沖縄」は恐らく日本国土において決定的に孤立無援である(その理由は、勿論本土内地ヤマトゥの日本人にある、暗黙の民族的差別的感性が、ほぼ有名無実の不動の地位を占めてやまないことによる)。
 この状況にあっては、一般にこれまで美名としての偽善的「民主化」の名を騙った米帝国主義が、イスラムアラブ世界に行った軍事的無差別殺戮としての戦争行為に対する「テロ」を、「正当防衛」とする理屈などは、実に明快な論理性を我々に示している(論理的には、である。倫理的とはいわない)。
 あれは(ブッシュの戦争は)「対テロ戦争」ではなく、大国に不相応な単なるいじましい「復讐戦」であり、際限のない泥沼化戦争であり、丁度かつて日本の帝国陸軍がハマリ込んだあの日中戦争と同様の、最後に全ての倫理性を喪失した暴力とカーニバリズムそのものであった(オバマがビンラデンを血祭りに上げて喜ぶ姿のどこに、普遍的な「人間」の高貴さをみることができるか)。
 丁度飛来する弾道ミサイルを迎撃するように沖縄県民は今、あらゆる知恵を振り絞り老いた肉体を無慚にも盾に、恐らく確実に襲いかかるオスプレイの必然的被害を、事前に食い止めるべく人力ミサイルの開発に余念がない。
 オスプレイを外洋に撃ち落とせと声を上げ、搭乗員の兵士に「祖国を裏切れ」と声かける。警備警官には「一緒にたたかおうじゃないか」と(最後にクルリと振り向いて、王侯貴族に銃を向けたフランス革命の近衛兵のように)。
 当然沖縄県民は当座しのぎのお為ごかしの、現状維持グータラ保守停滞輩には真っ向から拒否拒絶の意思に集結している。仲井真知事は、野田三度笠(兇状旅)に命乞いするのだろうが、あんな野郎にオバマへの回心を迫る勇気などあるわけがない。帝国官僚の残党の子孫に誑かされて、何一つ自由意思を開陳できない今の似非代議員どもに、真の「民主的政治」などできるはずがないので、少なくとも現政権下では目覚しい政治成果を望む謂れもないだろう。というより、見回したところ現行政治地図からは、真に有効な権力的勢力は全く期待できないというしかない。
 それが本土の今の実情であり、それは今後劇的に改変される可能性すら見えてこない。従って沖縄県は今決定的に、孤立無援である。しかも石原老人の時代錯誤が引き起こした尖閣騒動の御蔭で、今や観光資源たる中国富裕層の来県も激減して景気を圧迫しつつあり、又、先の17号台風以下、今期の連続台風も生産農家に甚大な被害を及ぼす有様で、あまり本土のマスコミが伝えない中、かつてないほどに追い討ちをかける天災人災(オスプレイ配備強行)に血を吐くような現実的悲鳴をあげているのだ。
 いずれにしても野田凶状持ち「急ぎ働き」の「決める政治」は、かつてなく沖縄を圧迫し、17年動かなかった、ある意味良識派のジレンマ状態にあった「辺野古」を占拠しようと、森本必殺仕事人を駆使して「血も涙もない」沖縄封殺に邁進し始めた。(中断)