沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩353 沖縄から見た日本という国 7

2012年05月31日 15時09分47秒 | 政治論
 退くも地獄進むも地獄の原発再稼動を閣議決定し、首相がしかく宣言すれば直ちに再稼動するものなのか。
 野田は再軍備・憲法改悪・核武装論者であることは間違いなく、もしかすると戦後日本の最大の戦犯予定候補といえるかもしれない。
 東条英機以下戦犯指名されたA級戦犯たちにあって、キーナン以下検事連がでっち上げようとした「共同謀議」は、事実上立件不可能な事案だったことは周知のとおりだが、個々に有している、「黙認による肯定」という政治姿勢が結果的に文民統制力の消失という悲劇へ誘導したことは否定しようのない事実であり、まるで人身御供のように廣田弘毅一人を文官から処刑場に送ったのだが、恐らくは誤判の謗りを免れないものであろう。
 開戦するしかないといわれた太平洋戦争と「再稼動」するしかないという原発はどこか似たような経緯を辿っている。「再稼動」が発信する「原発事故」の免罪化を誰かが画策している。
 予測される大事故は、現状頻発する震度3以上の地震と、事実上活断層上の施設といわざるを得ない既存の原発、という条件から容易に現実性を帯びるのであり、当然ながら稼働中の事故は稼動停止状態の場合より危険性が高いといわれている(それはすでにフクシマで立証済みであろう)。
 開戦から3年余りで未曾有の大敗に窮まったあの戦争の罪過は、単純に過去の事跡で終わるものではない。「フクシマ」を見る限りその浸潤する放射能影響の甚大さは世界規模で考察されなければならないのであり、あの戦争と同断の、あるいはそれ以上の惨禍を齎すものと想定すべきことだ。この国は同じような「過ち」(多くの日本人が過ちと認めたはずだ)を繰り返すのに違いない。(中断)

詩353 沖縄から見た日本という国 6

2012年05月29日 08時31分13秒 | 政治論
 国歌「君が代」の「君」は、現代的解釈をするなら普通に「あなた」でいいのだろう。つまりは我々一般人民のことだ。「代」は寿命を意味し、肉体的なものより精神的な「いのち」を指し、喩えるなら「小さな石礫」が「大きな岩石」に成長し、苔が蔓延るほどに永い間、「願わくは」持続されることを.....といった祈願の歌になるわけだが、この「君」を「天皇」とするとがらりと変わって「忠君愛国」の「君」となり、「天皇の御為」死して仕える封建的隷属人民の、「権力」によって強制的に従わされた実質を浮き上がらせる。
 ここに介在する政治的な勢力を監視するために、憲法は何をおいても「主権在民」をこそ謳い、本来性を有さざる後発的「国民」に一定の理念的制限を付与した。公務員が絶対服従しなければならないのは従って「民意」ただひとりである。
 但し「君が代」を歌わない公務員は実質的に、「民意」に従ってないとはいいきれない。しかもこの国歌に関する理念的検証などただの一度も実施されたことはない。それを一行政府の長辺りが、結果的に「強制的に」、公務員は必ず国歌を歌わなければならないなどとは決して言い切れないのだ。
 多くの儀式的場面で、むしろ形式的に決行されているこうした事柄に関して、ある意味強調的に何らかの権力的意思表示をすることは、逆に言えば望むと望まざるとにかかわらず、彼自身のある思想的背景を顕わにすることでもある。
 彼が、いかなる経緯を辿って戦前並みの、皇民化教育まがいの全体主義に至ったかは知る由もないが、現行時流の右寄りの不穏な傾向からすれば、われわれ人民は、こうした些細な事柄に関してもうやむやに軽視することはできないのだ。
 これを沖縄で検証すればおのずとこの間の事情が判明する。
 「君が代」は戦前において主流の実質的内容において、「天皇礼賛」以外に意味するところはなく、敷衍して「一億玉砕」の根拠そのものとなり、「集団強制死」の機械的な実践を促したいくつかの要素のうちの最も重大な原因であることは間違いない。
 「永遠的ないのち」を永らえることは生物学的に不可能であり、「神格化」の幻想的暗示と錯覚を人心に付与する。しかも戦後「人間」になったはずの昭和天皇は、同じ人間の沖縄県民が住する島嶼を外国の宰領に全権的に委ねた。
 沖縄県民は生まれながらにして昭和天皇の「赤子」であったことなどない。従って勝手にその運命を決してしまったこの行為は、彼の裁かれなかった戦犯的実質はもとより、明かな人道的な罪過として裁かれなければならない。たかが「君が代」ながら、その周辺に跋扈する軍国主義者、右翼、そして多くの堕落した知識人たちを考慮すると、そこには到底看過し得ないものがあろう。(中断)

詩353 沖縄から見た日本という国 5

2012年05月25日 10時18分19秒 | 政治論
 米軍基地・日米安保同盟に関する限り、沖縄から見た日本という国は、堪え難いほどに醜悪で、嫌悪をもってしか語れないものになり了したが、それは結局沖縄自身の自己嫌悪にほかならないということも、自家中毒に近いことも十分納得済みで言えることらしい。
 かつては、半ば被害妄想的に受け止めていた「日本人に対する沖縄人の感情」が、これに纏わる本土的事実を知るにつれ益々不愉快になるほど現実味を帯びて、と同時に、自身のなかで燻っていた不満憤懣などの感情が同質の被害感情となって迸出し、「本土」では気がつかなかった、この国に対する現実的な絶望感を目の当たりにすることとなった。
 これは具体的には、民主政権交代劇から始まって鳩山陥落に極まった国政における対沖縄失政が原因だが、実はそれより以前、6年前に遡る移住生活端緒の頃に、不勉強ながら遅ればせに触れた沖縄問題に関わる資料図書から何気に準備はされていた。
 簡単に言うと、こうした後発の沖縄認知は、多くの知識人を含め、恐らく一般的な市民レベルで、「本土」の日本人に現実的に捕捉されてはいないはずだ。
 そこで当然ながら、”彼ら”の論議の焦点は、この国がその明かな歴史的誤謬に基づいて採用した、西側世界の防共同盟思想に基づく日米安保体制の運用において展開する、対中・対北朝鮮軍事戦略の実効性というものに究極する。
 しかしながら、「沖縄問題」をもって論議されてきたこの国の防衛問題は、”彼ら”により真摯にかつまともに扱われたことはかつてなかったということも事実なのだ。
 日米安保運用のためにのみ、沖縄にこうした問題の本質をいかにして押し付けきるかが論じられてきた。「朝生」の、ほぼ愚劣極まりない"彼ら"の談論を垣間見る限り、この事態は沖縄にとっては絶望的な、本土識者における理念喪失実態として認知しておかねばならない。否、もしかすると「本土」自体が、何気に"彼ら"の戦後的病弊にはまってしまったということかもしれない。
 沖縄にあっては現在、モロッコで墜落事故を起しながら、その原因究明さえされてない危険な軍用機オスプレイを、ほかならぬ普天間に配備しようというアメリカのいうがままに、これを受け入れようという政府の方針に触れ、全県あげて反対している。
 ここにも、自国のオリジナルな防衛思想を有しないこの国の、本末転倒な国意なるものを見るが、多くの「沖縄問題」は実は、この国が本気で自国を防衛しようとしない怠慢とていたらくにこそ原因があるということになろう。
 その堕落の基軸たる日米安保が、所詮幻想的軍事同盟という実態にあり、外交上敗戦国と戦勝国の関係性によってのみ機能する、対米追随国家に成り下がったこの国の、いわばマザーコンプレクス状態を造り出しているといえる。
 そして日米安保堅持を金科玉条に、下手なその場しのぎの学級委員会を楽しんでいるこの国の馬鹿な知識人どもには、万死に値する理念的責任があろう、ということだ。(中断)

詩353 沖縄からみた日本という国 4

2012年05月21日 10時36分23秒 | 政治論
 結論はすでに出ている。
 日米安全保障条約は米国議会議決権に委任してのみ発動の可能性を有し、かつ米国にあって、日本国が他国による被侵略攻撃状況を呈した場合でも、直ちには米軍の戦闘的展開を開始するわけではなく、事実上、即戦的に無条件な軍事的同盟にはなっていないというのが真相だ。
 これを他国が(例えば中国が)知らないわけがなく、日本国をどうにかしようという何らかの意図があるのなら、西太平洋覇権の軍事行動を不作為にも実行して不思議はないが、現今国際外交事情を瞥見するなら到底有り得ない状況となっていることはすぐにも了解されるだろう。
 今や世界経済上第三国にも凋落しようという日本国にあって、日米連合軍の対中軍事的戦略がいかに非現実的か、都知事辺は少しもわかってない(彼は日米安保には与しないはずだが)。
 15年戦争の敗戦国という軍隊軍人士気の欠落要素は健在だ。なぜなら日本は敗戦の全面的検証を真面目にはやらなかったのだから。
 この日米安保が、日本人にとって実質なんの意味もないことさえ知ろうとしてない。一度軍事専門家に聞いてみたいが、現今自衛隊は苛烈な実戦に関し、正規の軍隊としてどれほどの苛烈な戦線に耐えられるのか。
 恐らく、米軍兵士がベトナム、イラク、アフガン等で示しているPTSDは、現代戦争事情を本質的に暴いている。史上最も凄惨な戦争といわれる沖縄戦で米兵に多く見られた戦場神経症が証明している(彼らは戦傷扱いの負傷兵に加わる)。
 つまり核爆弾によって、指揮権の担い手がちょっとボタンを押すだけで、何の痛みも感じずに数十万の敵を抹殺するという方法を取らない限り、現行「海兵隊」的な地上果し合いという、通常現代人心理に堪えない殺戮方法は割に合わないことになる(米軍帰還兵が悲惨な末路を辿った事実は、結局現代における戦争行為により、多くの若い働き手が廃人化する惨たらしい本質を示している)。
 何のための誰のための戦争かと言ったところでしかたがないが、所詮戦争は、愚劣な、しかもありきたりな人間的行為であったし、今後もそうなのだろう。失われた人間性やら倫理性(人道性)やら考慮すると、世界中に蔓延する好戦的人種たちを黙らせるには、彼らを一人残らずキチガイ病院に送るしかない。ただあまりにもこのキチガイが多過ぎるのだ。
 さて鳩山が最後っ屁で言い放った「抑止力」のことだが、これは沖縄に海兵隊を置き続けるための方便だったことはすでにばれている。ことほどさように沖縄から手を引こうとしないあらゆる弁解言い訳こじつけが、現今沖縄過重負担の因源となっていることも明白で、この事実から、ありきたりな人間性や倫理感の欠如という21世紀病からして、まことに残念ながら現在世界は完治可能な病状にはないといえる。日米安保幻想を断ち切ることは同時に、外交的国際感覚の回復と戦勝国論理の打破、自国の敗戦国実質検証を真剣に促すことにつながる。(中断)

詩353 沖縄から見た日本という国 3

2012年05月17日 08時30分55秒 | 政治論
 基地公害の間断ない被害者である沖縄県民(全国米軍専用基地の74%偏在事実)と、原発事故による目に見えない放射能脅威に曝された本土人と、もしかすると国策犠牲者として一種の対等な立場に到った状態なのかもしれない。
 どちらも人為的には回避可能な事案のはずだったが、2個の原爆を人民の頭上に炸裂させたアメリカが、戦後贖罪乃至欺瞞的糊塗の心理的裏打ちをされて「核の平和利用」という名の人類史上最大の偽善、アングロサクソン民族優越根性に基づいた戦勝国論理というしろものの実践に立ち至り、世界中に原発施設をばらまき、その一方では核実験を繰り返し、核兵器製造競争を繰り広げ、世界中に核廃棄物という一触即発の人類滅亡手段用物質を拡散蔓延させ、政治理念を亡失した戦争経済主義(軍産複合)の横行に血道をあげる結果、日本にあっては本土との明白な待遇不公平により、本土を追い出された米軍基地の掃き溜めと化した南西島嶼、という現状と、地震多発地帯であり、活断層の直上に位置する僻地に50基以上の原発を増設する過程で発生した、事実上明確に想定内の大震災により、自業自得の危難を被った原発立地自治体、という有様と、結局は戦後世界の目に見えて偏頗な堕落した人類精神の末路を見るかのようだが、覇権国家一極集中米帝国主義を粉砕しない限り、この状況を脱却するのは困難だとして世界中に組織テロは続発し、国家エゴと人民乖離の不条理政治が最優先された、国家風土の潜在的犯罪性が誘発する個人単独テロまがい無差別殺傷行為の多発という、無情な危険性に満ちた住空間が拡大しつつあり、トータル的には亡国、人類滅亡、の兆しと見る。
 琉球の巷間では復帰40年が我が物顔に息巻いているが屁でもない。むしろ抗議集会シンポジューム・シュプレヒコールのほうが、はるかに現実に生の人間の声を聞かせている、というのが真相だ。
 政治家の無力さは今に始まったことでもなく、米国追随、官僚支配の政治環境は益々根深く浸透し、無味乾燥な長ったらしい式辞を並べた野田ドンの無表情には、官僚政治の醜悪な非情のライセンスが露骨に浮き上がっていた。勿論一顧だに値しない。
 上原康介氏は、あんな風に本土のきゃつらに気を使ってまともすぎる「抗議」などすることはなかったのだが、いかんせんあれが沖縄県人民闘争上部構造の限界なのかもしれない。
 太田昌秀氏は出席しなかったが「復帰40年式典」に対するそれが最も有効な不服従的「抗議」なのだろう。いずれにしろこの後は「オスプレイ」闘争が控えているし、沖縄人民に休息するいとまはない。国家がかくも無情に人民を攻撃する不条理な戦争は、多くのアジアアフリカ植民地にあって展開した「熱い戦争」同等、またはそれ以上に欧米大国の野蛮な理念性のない殺人的植民地主義をあつかましく表現している。(中断)

詩353 沖縄から見た日本という国 2

2012年05月12日 21時40分23秒 | 政治論
 「沖縄から見た日本」における現在の日本国は、残念ながら、近代化以来根本的に決定的な歴史的誤謬を犯しているが、その改善が放射能汚染同様、手の施しようがない状況であることも認知せざるを得ない。この、破滅へのシナリオが始原的に用意されていたとすれば、日本人は本来絶滅危惧種ならぬ、絶滅すべき民族、だったのかもしれない。古代マヤ、インカ、あるいはその他の伝説的文明に類似して、ある日忽然と人類史から消え去るということも考えられないことはない。
 「日本沈没」という地理上の地学的現象のみならず、なんらかの衝撃により国家的に破綻するというシナリオである。あるいはマヤの予言のように人類諸共滅びさるのか。こうした見解に到るのはなにも大震災ばかりが、脅威的に不安と予感を醸しだした結果ということもない。
 「方丈記」の世界ではないが、少なくとも災厄の連続する現象界を目の当たりにする我々が内心思うのは、どうにかして「命を助かりたい」の一事にほかならないのだろう。 
 一方、「無常」を慨嘆して隠遁し、「晴耕雨読」の趣味生活に耽溺するという、言わば「恵まれた余剰生活者」に安住するのも可能なら結構なことだ。
 さて幸運にも災難を免れて生き延びたにしろ、この命の価値というのはどこでいかにして計量されるものだろうか。
 沖縄の地元紙を読む限り、日本政府が、オスプレイ配備に関するアメリカの、7月準備10月実施という計画提案に難色を示したという報道にもかかわらず、嘉手納基地爆音訴訟については、これを「甘受せよ」というお達しだ。
 難色を示したのは「7月準備」についてであり、この行為が普天間配備の実施に当たって風当たりが厳しくなるという部分にすぎない。
 辺野古が情勢的に徐々に問題点が曖昧になって行く一方、普天間固定化・オスプレイ配備という殺人予定行為を、なし崩しに強行していくアメリカ戦争気違いどもには爆弾でも投げつけたいのだ。これをテロへの誘惑とするなら、アメリカに対する世界中のあらゆるテロ行為を渋々是認せざるを得ない。
 お前さんがたは間違っている。少なくとも太平洋戦争勝利の時点で足を踏み外したのだ。ルーズベルトが情報戦を制して大戦勝利を厳格に誘導したことが、ではなく、また、開戦にあたっての密かな陰謀についてでもなく、トルーマンによる2個の原爆投下と、戦後の民主主義理念構築に際しての数限りないアンフェアな倫理的検証においてである。
 日本政府が(敗戦後も存続したのは実に不思議なことだ)軽負担経済復興第一主義という吉田ドクトリンによって、池田勇人の高度経済成長政策を実質成功させたのは、ある意味政治的勝利と言えなくもないが、焼け跡から立ち上がってなりふり構わず邁進したのは人民そのものだったはずで、それを鬼の首でも取ったかのように己の戦後体制に絶対的根拠をこじつけた死に損ないどもは、新生すべき日本の人民空間を滅茶苦茶にしたのだった。(中断)

詩353 沖縄から見た日本という国 1

2012年05月08日 20時17分45秒 | 政治論
 表題は正確には、半世紀以上ナイチャー(本土の日本人)として生きて来た者が、移住先での6年間、ウチナー(沖縄の日本人)としてあらためて内地、本土、本土人、ヤマトゥと言われる沖縄県以外の日本というものを眺望したとき、見えてくるこの日本という国、という意味になる。
 この移住者は、その半世紀以上のあいだ、希薄にして漠然たる印象にすぎないある感覚で、ここ沖縄を半ばいい加減に捉えていた。つまり、こと沖縄戦にしろ、むしろひとつの神話に近い伝承としてしか肉薄しなかったということで、それは、「ヒロシマ」に対するものとも違っていた。
 例年暑熱も8月近くなると、メデアにも徐々にヒロシマが、あるいは他の戦争映像等が目立ち始め、青少年の彼は思う、閃光とともに影となった人群の、永続的な焼付け、英霊と称する戦死者の、果てのない告発、声なき悲嘆、これらのなかに、明瞭に共感的に迫ってくる反戦的なシンパシーやら、「非戦の意思」的なある強度の思い入れを、見出すことは比較的容易なことであったのだが、どういうわけか沖縄戦にしろ熱帯島嶼の玉砕に関る沖縄人にしろ、リアルなかつ無条件に共感的に受容される圧倒的な説得力を、どこか欠いているものとして記憶に残ったのだった。
 これは実は今でもある実感、実感しない実感という意味の性格になる感覚なのだが、ここにあるものの奇妙な非現実的潜在的疑惑は一体何なのか、と絶えず感じているのにいっかな言葉にならない。
 起こってしまった悲劇、起きてはならない、むしろ起こるはずもないと半ば信じきっていたある種のカタストロフィー、集団強制死、軍官民共生共死の現状、それが実際に生起した島とその住人、単純に「日本のなかでただ一箇所」特殊に起こってしまったできごとであり、その特異性がこちら側の「信じられない、あり得ない」常態として、奇妙な非現実的懐疑を誘発すると言うことがおきる。
 にもかかわらず一方「原爆」は「あり得た」のであり、原発事故も大震災もそうなのだ。何故集団強制死は起こってしまったのか。皇民化教育、「生きて虜囚の辱めを受けず」、ニライカナイ信仰、共同体的必然性になる共死意識、それらが悲劇的に複層を成し、起こるべくして起こったのだろうか。
 「天皇陛下万歳」は、特攻隊の青年たちにさえリアリティのない他者を意味してついに彼らの深奥には達しなかったのに、何故あの人たちにあっては当たり前のように口から出たのか。勿論「天皇」にしろ「戦陣訓」にしろ、軍人もしくは被召集兵隊と、一般人とでは受け止め方が違うに決まっている。圧倒的な暴力傾向の権力をもって、住民の生活の場に土足で踏み込んできた日本軍の、絶対的な表現としての「天皇」と「戦陣訓」、及び彼らの有無言わさぬ処決的横行こそ、住民を狂気じみた護国の鬼そのものに馴化したに違いない。
 つまりはそれらが「日本軍さえいなければ起こらなかった」所以である。高校の歴史教科書にあっては、この、「日本軍による強制的集団死」という文言を、歴史的真実として記述することによって、「原因と結果」という関係性の理念的な透かし彫りが披瀝されることになる。この悲劇が、皇国美談でもなんでもなく、リアルに煽情的なあらゆる恐怖感に発したことを我々は見て取らねばならない。住民を「米軍のスパイ」視して起きた「住民虐殺」についてここにつながるのは南京虐殺だが、軍隊心理として「あり得る」こととして、米軍の「無差別爆撃」あるいは「原爆」はナチのホロコーストとどこが違うのか。一切の一般市民に対する避けられる殺人行為に関して現在もいよいよ無差別に「テロ」と「テロとの戦争」においては繰り返され続けるが、極端に、全体主義へ「悪」概念を押し付けた結果隠蔽された戦勝国における、ナチ同様の効率的殺戮を基調とする合目的主義に関し、「人道に対する罪」を論うことがなかった日独両軍事裁判は、その功罪を今にして問うはめになったわけだ。(中断)

詩352 日本という国 16の7

2012年05月02日 08時46分01秒 | 政治論
 琉球沖縄という、地方の一行政単位でありながら、極めて政治的な彩色を色濃く施した歴史的な意味合いの強い、未だ十分に普遍的とはいえない民族的特異性を有する文化的共同体にして、日本という国の中でも、全く単独に中央に伍するだけの政治的理由を持つ存在はほかにはない。ほかにはないということはこの場合少しも幸運なことでないことは、沖縄県民なら誰でも知っているし、その事実はその逆の意味を持つということも大概了解されている。しかしながら、ここを訪れる者は、多くかかる政治的な彩色のことなどいかほども顧みることはない。それが双方にとって不幸なことだと感じることは果たしてこの場合事実に対し正確なことなのだろうか。薩摩侵攻、琉球処分、沖縄戦、異国人統治、軍事基地存続、密約返還、欺瞞に満ちた「負担軽減」という名のアメリカ植民地拡大濃密化政策、日本における軍事展開の沖縄偏向、こうした、現在に至る歴史的事象の推移に関らず何故琉球は敢然決起しないのだろうか。決起とは何か。暴力的解決手段の行使である。あるいは隠密裏に計画は進められているのかもしれない。表面上穏やかにして無音非暴力的に経過しているとみせかけて実は世界的に最もテロリズムが想定されやすいこの地には、驚愕すべき組織的私家軍が存在するのかもしれない。そうでなければここで見聞きした一切は痛烈なデマでしかなかったのかとさえ思われるのだが。本土人の非理解のほどはここで問題ではない。改めて「非暴力不服従」という実践の意味を問い直すことは、この地が普遍的なテーマについてより深化する意味合いでは、有効な共同体意思の確認になるかもしれない。ここからは一試論になるが、圧制と称すべき沖縄琉球に対する本土政府の安保偏重主義にあって、非武の邦、平和外交を本旨とする、地方自治体ながら十分に中央に伍する政治的資格を有するこの地の、これまでの歴史経緯からすれば、「忍従」を基調とする微弱な抵抗を加味した不服従「座り込み」という人民闘争を印象されるばかりだ。この印象が重要なのでなくこの印象どおりなのかどうかなのだが、一方では、一日本人として不測の事態が到来したとき、つまり諸外国ないし日本国軍隊(ありえないことではない)が沖縄島嶼に対し何らかの理由により武力攻撃を仕掛けたとき、そのように想定された状況を意識して一般県民に何をしろと再軍備主義者はいうのか。つまり彼らの言う有事は、彼らの有事、にすぎず人民にあっては単なる起こるべからざる災難でしかないというのに。軍隊は人民の盾になりかつ人民の、災危からの避難補助に徹しなければならない(軍隊の本義からすれば)。沖縄で展開する米軍、自衛隊が、現代戦争定石なら必ず瞬時に戦場化するに違いない沖縄県の、何を守ると言うのか。何も守れるはずはない。従って、諸所の外敵の標的たる米軍自衛隊が沖縄から撤退することこそ、沖縄を戦火から遠ざける唯一の有効な手段であろう。彼らが有事にあって日本を守ると言うことは、当然沖縄を犠牲にするということではあるまいし(ほんとうかな)、日本国民が危難を受け得ない遠方に軍隊があって初めてこの国を(沖縄を含め、だぜ)自衛することになるのであり、アメリカ軍が市街地への無差別爆撃を繰り返したあの戦争の悲惨は現代戦争倫理からは到底許しがたく、完全な人道上の戦争犯罪であり、今後、銃後の非戦状態確保は如何なる場合にも絶対的優先事項でなければならないのだ。こうした見解に則れば、現今沖縄米軍基地ないし自衛隊展開がいかに人民軽視戦争経済主義に基づくものかわかろうというものである。今や「普天間問題」は執拗な民族解放戦線の抵抗にあって撤退を余儀なくされたベトナム戦争のように、アメリカ世界戦略の失政シリーズ第何章かを意味するまで進退窮まったといえるが、にもかかわらず米議会の牽制とは裏腹に事実上の現状維持をどこまでも押し通す日米の合意とはいったいいかなる仕儀になっているかと言えば、日米安保から逸脱することを懼れる官僚と日本国の基地負担肩代わりに便乗する功利的な米国という背景はもちろんだが、対立するイデオロギーの相克がもたらす精神のダイナミズムが失われ、文民統制の理念的練成が「怠慢と放恣」に堕落し、欧州型資本主義の「倫理と信義」が多く「国家エゴ」と「実利主義」により破壊され、ネオコンというガチガチの既得権益守護、新植民地主義による欺瞞に満ちた「民主主義」病に冒されつつある世界が見える。(中断)