沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩371 敗戦 2

2012年08月29日 23時36分13秒 | 政治論
 今年も67年目の敗戦記念日を何げに通過してしまった日本国なのだが、かつて「チャンコロ」と馬鹿にしていた中共に経済大国世界第二位の地位を掠め取られ、「朝鮮人、朝鮮人とパカするな、同じメシ食ってとこちかう」と言わせていた国の首領に我が物顔で領土内を闊歩させている。おまけにどう見ても殺人的環境破壊飛行物体(と、自国ハワイでの訓練計画を中止したのだ)にほかならぬオスプレイ沖縄配備を、「アメリカ様が仰るところですのでこちらからは何も言えません」といって平然としているし(オスプレイ配備計画は米国軍部のこじつけ理論で推し進められているもので、沖縄はじめ日本国はその人体実験に供されるわけだ)、つまるところ、「敗戦」を内面的に受容し検証し総括するごく当たり前の精神労働を怠って(戦後復興と高度な経済成長に血道をあげながら)、対外的には旧態依然の「敗戦国待遇」に甘んじて倦むところがないこの国の保守停滞主義こそ、日本人にとって最大の敵だという証拠ではある。
 欧米に追いつき追い越せで発進した近代日本がある意味偉大な明治精神に則り(それがなぜ偉大かはわからない)自国内で急速な進歩を遂げたときは、確かにアジアの後進国の範たるべき要素を十分に持っていたのだが(アジア各地から留学生が押し寄せていたのだ)、不幸にも貧国が、勝つべきじゃない相手清国露国に偶然にも勝ってしまったのが運の尽きであった。途端に欧米列強の圧力と干渉の嵐にさらされ不平等な講和条約を結ぶはめになってしまった。不平等とはいいながら当時の国際情勢からすれば力の差は歴然としており、むしろ大いなる外交的成功を収めたと解してもそんなに違和感はなかったように今では言えるのだが、どっこい「日比谷交番焼き打ち事件」のような民衆の反発反応に国内騒然となり、やがて大正デモクラシーとともに「大時代」的な明治気質(それがどういうものかは判然しない)は影を潜め、混沌とした自由(価値概念による理念的淘汰を経ない自由)が齎らす翼賛化しやすい大衆的エネレルギーの横溢、という傾向が主流となっていく。つまり「統帥権」という法的曖昧さを温存してしまった結果、軍部の暴走を食い止めることができず、昭和の悲劇を齎す量的な集積回路をこの時点で準備したと言える。天皇制国体の周辺に現人神の強制的盲信によって盲目に集結する国家総動員体制が、国中に自然醸成されるのに手間ひま要しなかったのだと思われる。
 さて敗戦が、半ば初っ端から決定づけられていたという太平洋戦争の後付け論の一理は、ABCD包囲網による物資の枯渇、という全くの物理的理由に基づくものである以上、翻って戦略的有効性の研究による「勝利への方程式」はゼロだったのかと問うと、「やってみなきゃわからない」程度のところで妥結していた参謀本部の実態があった。これを見切り発進というが、国家の大事を決定する最高戦争指導者会議の実情がこの有様では奈落への一本径は原爆2発でピリオドを打つ方向へどこまでもまっしぐらだったわけではある。これを今の大飯原発再稼働によく似た流れと見るのは一人二人ではあるまい。オスプレイにしても同断である。「落ちてみなきゃわからない」、では人の頭の上を飛んでもらうことは到底受け入れられないに決まっている。(中断)

詩371 敗戦

2012年08月27日 08時09分34秒 | 政治論
 尖閣事件は、香港の跳ねっ返り「活動家」の私的なデモンストレーションのようだが、竹島については、ほかならぬ一国の大統領が現地入りし、国家的関与を示すことで韓国国家の領土的野心を露わにしたと受け止めることができるし、同様に北方領土へのロシア首脳の訪問も、露骨な対日牽制を実践した行動と看做さなければならない。
 尖閣事件が囂しいのは、現職都知事の一連の言動と、その後のこの国の関連する動きに由来することは明白だが、残念ながら思うほどに中国当局への牽制にはなっていないことも明らかだ。
 一方竹島については、大統領の任期末期の逆上とも観測されているし、米国も日韓安保同盟国どうしの鍔迫り合いを苦々しく傍観しているらしい。
 国際関係上の押し合いへし合いから、自己都合のアドバンテージへ策動誘導する者が事件の真犯人だが、日本国領土領海を巡る中露韓の一連の動きに、武力衝突を予感させる重大な要素は殆ど見られない。
 韓国がいかに国を挙げて領有権を主張し、実効支配しようとこれみよがしの示威行動をしても、国際関係上は全然児戯に等しい質だと言わざるを得ない。だが、日本にとって、日本人の誰かにとってはこうした、ここ数年際立ち始めた、領土を巡る各国の動きが、ひとつの「国家的ストレス」となってきたことは間違いない。
 当然ながら、この一群の巨塊こそ、「憲法改悪、核武装、再軍備」を標榜する、この国の潜在的軍国主義者であり、明治維新以来、藩閥・官僚・天皇制国体を富国強兵、殖産興業、市場開拓、大東亜共栄圏構想へ誘った、「脱亜入欧」としての欧米への劣等感からくる、対アジア人種差別観念醸成の気運のままに連綿と受け継がれた、神話的精神主義の成れの果てである。
 日清日露戦の、「マグレ」当たりの戦勝を神国日本不敗神話にでっち上げ、逆上せ上がり、やがて人民を一億玉砕地獄へ突き落とした、まさに、かの敗戦という厳粛な事態に立ち至ってさえ何らの自己検証もこれをせずに、「臥薪嘗胆」「捲土重来」「起死回生」を目論む生ける屍どもにほかならない。
 彼らこそ、近代日本がその功罪を省察することなく滅亡したはずの、殺してさえ死なない恐ろしげな物の怪といえよう。この時代によみがえるこうしたゾンビどもを駆逐するには、苛烈な沖縄戦を「軍隊は住民を守らない」という歴史的教訓として認識し、「非戦」意思表明と、不条理な国策への「非暴力」な「不服従」によってのみ自己保存が望まれうるという、現今オスプレイ絶対拒否県民結束へ集結する民衆的自覚こそ有効なのだ。
 日本政府が無策な安保政策を、アメリカの沖縄への「keystone(要石)」視に便乗して「差別的に」継続する限り、沖縄県民は決して日本人を許さないだろう。そしてまた、こうした日本政府のあり方こそが日本を堕落させ、周辺国の「ちょっかい」を許している張本人だということを知るまでは、沖縄を通してしか日本の本質が見えてこない現状に変更はないことも明らかなことだ。(中断)

詩370 「フクシマとオキナワ」

2012年08月12日 11時22分21秒 | 政治論
 「フクシマ」と「オキナワ」は、放射能被害と基地公害という結果的現状においては良く似た国家がらみの不如意に曝されているが、福島第一、第二原子力発電施設の建設誘致には、地元始め福島県において県産常磐炭田関連事業衰退の折から、むしろ積極的な働きかけや黙認姿勢があったことを認めないわけには行くまい。
 佐藤善一郎も木村守江も果ては大熊双葉富岡浪江楢葉の各首長も、大体は一致して賛同したはずだ。唯一の例外は国家権力に首を撥ねられ犯罪者にでっち上げられた佐藤栄佐久が、東電隠蔽体質批判と反プルサーマル姿勢を貫いた最近の例があるだけで、まさしく県・地元諸共、原発立地自治体の財政的恩典を全身で受容したことになる。いわば福島は首都圏から僻遠の寒村に、一旦事故を起こせば取り返しがつかない恐るべき発電電力供給施設を、首都圏人口の電力需要に呼応すべく「自ら犠牲になって」引き受けたのだった。
 この、あってはならない事故を想定しようがすまいが、「安全神話」の無批判な受容において東電も地元も薄汚い合意に達していたことは拭いようもない事実ではないか。戦後復興と所得倍増、高度な経済成長政策の禍々しい弊害は、精神の貧困、自然なる人性が掛け替えないものとして守護するはずのいのちの無造作な投げ出し、未来への責任放棄という、とり返しようもない絶望的な運命を自ら産み落としたのだ。「自業自得」としかいいようもない。酷薄な人生の断面図をみるようだ。しかしこれは福島だけに限った現象ではない。列島全域にわたってこうした過疎地への原発押し込みは同様な経過のうちにほぼ予定通り実行された。
 さて「オキナワ」という差別的表徴にあっては、「フクシマ」とは全く次元の異なる経過を辿って現今「不条理」を除去し得ない状況にある。
 それは、地元民の要求の徹底的な軽視という実質でこの国の差別的施策において形成された、数百年にわたる抑圧の歴史の確定的証明にほかならない。「人種差別撤廃委員会」勧告への政府回答は、まことに不誠実な官僚の作文絵に書いたようなもので、問われている事実関係、即ち国土に展開する米軍軍事施設の7割強を沖縄に集中せしめた結果的差別に対し、これを均等化する方針の披瀝こそ求められているというのに、「沖縄の地政学的優位性」(それをしも差別というのだ)をもって国家専権事案に仮託し言い抜けようとしている。
 これはどういうことかというと(言わずともわかろうが)同じ日本人の住する島嶼に(人口比率からいってもむしろ密度の高い地域に)およそ尋常とは言えない戦争準備のための軍事訓練施設において、戦闘機を、日常的に展開する異常性こそ差別実態の明白な、動かしがたい証明事実なのにもかかわらず、アメリカと共謀してこれを軽視し、自分たちの「国家エゴ」を押し通そうとする、この国の情けない精神状況を示しているということだ。
 これは連想的に「いじめ自殺」の大津事件と同質の、唾棄すべき醜悪な、低劣な人間エゴを想像させる。沖縄県民こぞってこの日米安保体制に拒否反対の意思を有しているのは当然のことだ。"なんのメリットもない"軍事基地を誰が好き好んで誘致するかといえば、地元の財界(基地特需経済主義など)ほか息を吹きかけられた住民(主に雇用を主とする経済効果目論見)という、「フクシマ」同断の刹那主義に彩られた人群に限られる。(中断)

詩369 雑感13

2012年08月09日 21時35分17秒 | 政治論
 高橋洋一という、偏頗な理数系秀才の文科系音痴を論っても仕方がないが、オスプレイと原発問題は構図が似ているという見方は浅はかな印象主義としかいいようがないのであり(確率論やら統計学をもってこの問題に言及すること自体的を外れている)、こういう見方は丁度「フクシマとオキナワ」を無作為に同一視するのと似ている。
 原発は、もともと絶対に手を染めてはならなかった「核」(と原子物理学者なら誰でも知っていることらしい)の兵器化に開発の道筋を与え、これを実際に人間の頭上で炸裂させた人類的犯罪行為(人間が人間であることをやめるということ)に対する贖罪意識を隠れ蓑?に、欧米西側陣営ほか大国が「平和利用」という欺瞞偽善を図々しくもぶち上げた挙句核兵器増産競争に血道を上げる、大戦後世界覇権を巡る果のない犯罪的軍拡の一翼を担ったというからくりにある。
 つまり核廃棄物の再利用は即核兵器製造の意味しかなく、目的化した悪業そのものにほかならない。原発は平和利用でなく、各国軍拡核戦争準備のために増設の一途を辿った。日本の原発事業がいかなる目的を有していたか知らないが、多くの推進者の脳髄の片隅に核兵器保有の意思をみることは比較的容易である。同時にそこには「ムラ」の利権的結束もあり、構造化された抜き差しならぬ「悪の巣窟」現象を目の当たりにする状況が現今情勢にはある。
 従ってここを狙い撃ちして元凶のあぶり出しをしなければならないが、重要なことは原発犯罪当事者並び予備軍は、原発を推進する一切の政財官学関係者及び電力関係者であり、ひとり東電の犯罪性の論難をもって事足りるものでないことは、先ごろの大飯原発再稼働事件でものの見事に暴露されたわけだ。
 しかも原発立地自治体の財政的恩典は、これを十二分に享受して倦むことがなかったといって大外れでないことは、まさしく原発に依存する経済構造を臆面もなく言い募ることで再稼働行為を強力に推進せしめたことからも、明らかなことではある。
 一方原発の驚くべき破壊的永続的汚染処理不能実態を前提する、高レベル放射性廃棄物の気の遠くなるような減衰性質は、原発事故の一触即発緊急性に比しても引けを取らぬ問題性を抱えていることは、すでに素人にさえ知られている事実であり、いずれに転んでも待ったなしの課題であることを止めないのであり、とりわけ殆ど地震帯直上に存在する日本の原発はいつでも地球規模で放射能汚染を招来する「グラグラした」地盤の上にあるということで、引くも地獄進むも地獄の一丁目なのである。
 我々は原子力への大した知識もなく、果たして「脱原発」が効果的な「脱造出放射能」といえるのかわからない。ただそのほうがよりリスクを低減するかもしれないというにすぎない。
 今年に入って数度の事故乃至問題を起こしたオスプレイは、その事故原因等内容如何に関わらず、その、我々が明らかに目の当たりにした危険性を、誰がどうごまかせば「安全神話」に変貌するというのか。ここでも我々はこの無様な飛行物体については殆どなんの知識もないのだが、こいつにだけは来て欲しくないという、ごく当たり前の感覚でいるばかりではないか。
 そしてここでも、米国戦争屋の対中国軍事思潮に基づく引くに引けない財政的事情を絡ませているのだが、我々はそんなことは知っちゃいないのだ。およそ国家エゴによる人民乖離の軍事的行為は、最終的に人民を無視する内容で突進する。従ってこれは人民への戦争行為とみなされる。人民は決して自分を殺しに来る輩の意のままに殺されてはならない。こいつらをさえ殺したくないとすれば自殺する方が良い。日米安保条約を破棄し、米国戦争経済主義と袂を分かつことにしかこの国の未来はない。(中断)

詩368 雑感12

2012年08月07日 09時47分50秒 | 政治論
 かつて70年代頃所謂政治的な「過激派」というと、純粋理念追及の結論としての暴力革命としてリアルに国家転覆を図る行為の実践グループと目されてきた、と思われる。
 蒼ざめた馬のような「テロリズム」の醒めきった一人一殺メカニズムとは異なり、そこには多少の「過剰な温熱」を表出する風情があったらしい。ところが時の権力者にしてみれば、この手合いはどうみても己の勢力基盤を損ねる可能性を持つ、どういうわけか厄介な「庶民の味方」なのであった。
 そして「過激派」は正義の味方になりながら(この場合当然ながら政府は悪なのだ)同時に「悪霊」の世界を演出してみせたことになっている。それは「内ゲバ」と称された集団リンチだが、言わばどこの集合体にも必ずありうる、人間性の一断面の、極端な閉鎖的条件に基づく化学反応とでもいうしかない不可避の悲劇には違いないのであり、もしこの悲劇を解消しようというなら、あらゆる自己批判が不可能になるだろうと、一応は言える(自己と他者を差別しないとすれば)。
 現今「脱原発デモ」と称して、ほぼ不作為に繰り広げられている市民行動は、自発的自生、自然発生に近い集団であり、そこに一定の画然たる主導的運動理論はないものと理解する。
 この現象の対象は、大震災・大津波・原発事故に対する政府の対応や消費税の増税、あるいはオスプレイ配備容認姿勢など、市民の代表たる国会議員たちの執る非市民的国政そのものであり、その意味は旧態然たる「官僚主導」と化けた現政権に「政治主導」の意志を喚起させんという止み難い情念の発露ということになろう。
 野田首相が原発再稼働是認主義者なのは、8月6日広島で発した「原発0%時の課題検証指示」にも表れているが、これを市民デモの一定の成果ととるか、は今後の政府の対応に注目するしかないとして、恐らくは結局一時のそれらしい「フリ」ということになるわけだ。
 官僚の事務的機械的ニヒリズムに対抗し、これを粉砕し市民感覚を政治感覚上に取り返すには、「大虚」というニヒリズムの理論的構築になる「小虚」の包括以外はあるまい。
 しかし三島由紀夫のその現実的表出は「天皇」であった。これを、彼のあの憤死的絶望的自死から、ひとつの限界の表出とみることもできるが、実は意外に根深い問題性を孕んでいる。
 あの戦争に関し「現人神」の時にあってさえ天皇親政でなく、祭りの神輿もしくは「事後承諾」による嫌々ながらの決済という実質であったと、史料的には読めるが、一方、天皇という一人格が、その恵まれた環境と待遇によって見事に絶対的善良ともいうべき人間性を形成したと仮定して、神がかりというのでなく、現実に彼が果たしてあの軍部の暴走を食い止め、また対米開戦を回避し、2つの原爆から市民を守護し得たであろうかという考証は、現に象徴天皇として確実に存在する現今天皇制においては必須の課題として残っている。
 市民の対極(その出自から生育環境含め)としての天皇を見据えることで、間接民主主義の、露わになった弊害、国家があるいは政府が例えばオスプレイを拒否し得ない安保条約の破棄や、原発の有り得ない再稼働を断念させることや、消費税増税に関する熟議の可能性を探ることなど、一般市民コンセンサスを担保するバランスシートとして機能せしめることはできないか。
 2大政党制とは二律背反的効果のためにあるのであり、この場合対極する二つのアイデアideaの熟議的止揚が政治成果であるはずだ。大虚は革命である。簡単な話、「官僚主導」を「政治主導」に変更することであり、維新藩閥政府以来連綿としてあった官僚国家実質を根っこから断ち切ることでしかこの国は出直せない。しかも「出直し」であり新生ではない。(中断)

詩367 雑感11

2012年08月05日 10時32分58秒 | 政治論
 日米安保条約が、第二次大戦における戦勝国たる連合国とりわけアメリカと敗戦国たる大日本帝国との、「国際規約上の占領国と被占領国」関係において、戦後処理の一貫として1952年、サンフランシスコ講和条約と同時に発効をみた、対日の暫定的非戦国家形成手段にすぎないことは、国際司法的に歴史の流れにおいては誰の目にも明らかなことだ。
 国際司法とは雑に言うと世界基準ともいうべき実質であり、国際連合などというまがい物とは意味が全然異なる、「人類が普段により良い生存の在りようを模索しつつ文化的人間的合意性を希求する」結果として、絶えず検証を加えられるべき普遍的なコモンセンス、という意味で、人類が自己自身をその自主性への敵から守護すべき基準になるものだ。
 浅学にして事実上の国際司法たる効果ある条文を知らないが、1960年の新安保条約締結が国民的合意に基づく真の国土防衛意思表明になっていないことは、その条文に何ら発展的独立性を加味しないで偏頗な軍事同盟的内容に変貌していることからもあきらかなことだ。つまり、当時の政権党たる保守党が強行に採決し成立させた、非民主的防共路線による憲法違反実質の、客観性普遍性を有しない外交姿勢と難ずるべき事案であろう。
 この外交姿勢が今日の不健全な日米関係を派生させたことは周知の通りである。最も憂慮すべきことは、こうした外交が主に「西側」乃至アメリカの国家方針を我田引水して、これに追随もしくは無作為な同調によって、極東という位置に対ソ対中の塹壕を構築したということだ。
 そして冷戦終結、東側陣営の消滅とともに無意味な戦線と化したはずの日米同盟が、対中、対北朝鮮、乃至対国際テロへシフトしていく、20世紀末から21世紀初頭にかけ、矛盾に満ちた再検証されるべき問題案件となったことは、今やどんな保守的な手合いにもうすうす感づかれている。
 とりわけそれがこの国の南西部の海中に、弧を描く島々の一角に集中的に体現されている奇観は、所謂構造的差別の実証例として(実効性において全く役に立たない)国連人種差別撤廃委員会で取り上げられるまでになった。
 勿論この構造的差別の元凶でもあり、沖縄県民が現実的国家的人種差別被害状況に置かれている、確定的継続的証拠でもある日米安保体制そのものを追究しなければなんの意味もないし、言い抜ける国家エゴのゴリ押しに正当でない論理的保証を主観的に定置させる限りは、永久に解消されない人民的不利状況が放置されるばかりだ。
 問題は彼らの言い訳が、正当な普遍的根拠を有さないにもかかわらず、恰もひとつの有効な意見として無条件に荷重なしに人民に対置させる弾圧的不公平そのものだ。我々は例えば今回のオスプレイによる日本列島軍事要塞化方針、つまりは国土が、米海兵隊の常時戦時体制のための訓練基地化される事態に直面させられて、漸く国民的議題としての安全保障意義を問われる状況に立ち至った。
 しかしながら堕落した文民的本質に覆われたこの国の主導的理念は、どういうわけか本来執るべき理念的独立性による本質的懐疑に立ち戻ることなく、既成の体制を無批判に受容し小手先の取り繕いに血道を上げる醜態に終始しているってわけだ。(中断)

詩366 雑感10 

2012年08月03日 11時03分01秒 | 政治論
 我々の政治的感興interrestというのは、出来した物事に関し引き続きほぼジャーナルに(日常化)文章化しないと、現実生活に埋もれて容易には回復しないものらしい(先日福島東京を10日ほど経巡ってきた)。
 脱原発運動もオスプレイ配備反対行動も、野党の内閣不信任案提出も、かつての自民党王国時代にみられた、決して実現しない「保守停滞主義」的官僚政治打倒の、虚しい叫びを連想させ、主導的政治家を有しない以上烏合の衆と化すしかない政党政治の括りの中、決して希望のないわけでもない民衆的発露を、如何に理論的に効果的に、かつ実現可能な爆薬として活性化するかが鍵なのであろうが、この民主政権に多少は残存するやもしれぬ「歩み寄り」意思を期待する心情は別として、恐らくこの国の政治的主調音たる東大法学部卒超エリート事務屋の宣伝文句に確実に仕込まれている、三島由紀夫の所謂「小さな小さなニヒリスト」根性を打ち砕く、強烈な弾道ミサイルの開発こそ望まれる、ということであろう。
 そうでなければ、この国の「民主化運動」は結果においてオスプレイの実質的殺害予定行為に強権的根拠を与え、死に損となり、自らをアメリカ覇権主義の犠牲、生けにえに供し、更にはまた4度目の放射能汚染犠牲者(広島・長崎原爆・ビキニ環礁水爆実験・福島原発暴発人災)として、過去・現在・未来に渡ってアングロサクソン民族繁栄のため実験用に献体するというわけだ。
 日米安保条約は、米国戦争経済主義による日本国占領行為の行使という意味しかなく(オスプレイの日本全国低空飛行訓練計画をよくみなければならない)、明治維新以来培養し、跋扈することとなった帝国官僚の残党が、戦後日本を誤誘導した多くの失政の結果に過ぎず、彼ら自身自覚しているデスパレートな仕組みであることは火を見るより明らかなことだ。
 ここで問われている「自国防衛」の意思というのは、彼ら為政者の単純すぎる緊急避難的な強迫観念では推し量れない人民的カテゴリーである。中国が外国である以上、外交問題の言及において交渉される事案につき徒らに戦争脅威を煽り、「防共」という偏頗なこじつけ理論を金科玉条として、「再軍備」「核武装」をねらいめに多方面に斥候スパイ工作員を配備し、懐柔籠絡プロパガンダに血道をあげつつ、彼ら自身の既得権益守護と汚名返上、名誉挽回失地回復のため、軍国主義礼賛をわめきたてる連中を、木っ端微塵に打ち砕き追放しなければならない。それが我々「文民」の義務と責任だということは、現今危機回避という意味以上に、将来に至る生命の道をその父母の代に確保させるという意味でもある。
 いずれにしろアメリカに「殺される」まえに殺人機器を破壊すること、それができないなら彼らの手にかかって命を落とすより自ら死すべきものと心得るべきだ。(中断)