沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 封建遺制の官僚の操り人形安部政権がこの時期辺野古設計変更申請

2020年04月25日 16時55分06秒 | 政治論

 先ずあきれ返り驚き入ったことだが、この4月21日、有識者のお墨付きということで、辺野古新基地建設の軟弱地盤に伴う設計変更申請を、防衛省沖縄防衛局が沖縄県に提出したという、この時期に最も相応しくない政治的行為がまたしてもこの安倍政権において執り行われた。かかる前例はこれまで沖縄では数限りなくあったが、コロナに関し県内も140人近い感染者を出し、今後ますます危険区域に入ってきているというのに、そういう自治体の窮状も顧みず、こうしたまことにふざけきった行政行為に手を付けるということ自体、神をも恐れぬ国家政府の官僚丸投げ操り人形内閣ぶりが明確に露呈していると思わないほうがおかしい。

 これまでとにかく聞こえてくるのはこの安倍政権がいかに薄汚く、言語道断のチンピラやくざ集団か、という世評だ。特にこのコロナ騒動かまびすしい現在、することなすこととんちんかんで、血税を湯水のごとく浪費し、財政策での的外れ対応、胡散臭いアベノマスクのカビノマスク等、すべてが今や世界中の笑いものになっている。どう見てもこの政権によってこの国は後進国以下、国際社会から追放されてもおかしくないほどに、情けない三等国に成り下がった。

 国などどうなっても知ったことじゃないが、我々の生存と生活を脅かされるのは到底見過ごせない話だ。今、GW突入の沖縄県では、とりわけ感染者の少ない北部地域に県外県内から有象無象が大挙押し寄せ、随所にクラスタを発生させ、不作為にコロナウイルスをまき散らすけものみちができつつある。こいつらの無責任な、欲望のままの行動には、この国のあたまがやっているなりふり構わぬ政治が明らかに反映されている。つまりは頭が腐っているから、いやがうえにも国柄が腐るわけだ。

 いずれにしろ、この辺野古工事に関しては、良識という範疇にないこの国の堕落した国策国是が、官僚主導のもとに、国民の血税を我が物顔で費消してやまず、到底現代世界の世界性に沿わない国家犯罪的強行として見ておく必要がある。活断層の走る、マヨネーズ並みの軟弱地盤であり、飛行支障物件が軒並み存在する「普天間」並みの危険区域であり、そもそも飛行場として成り立たない立地における工事の強行なのだが、それもこれもどうやら安部一流の「やっつけ無責任仕事」にほかならず、後は野となれ山となれ、ミサイル戦略上存在価値を失った海兵隊のための、あるいは後続自衛隊援用化という言い訳を付した、本来「不要不急」の事案なのだ。

 この国にはおのれの言動に待ったなしの「責任」を覚悟する「国士」は存在しない。期待もしない。「責任を取ればいいというものではない」と言いのけるのがこの国の宰相であり、どういうわけかこの言い方に納得した国民さえいるだろうということ。確かにこの宰相が責任を取ったからといって、それでいいわけもないのだが、求められている「覚悟」の方は響いていないということに首をかしげるわけだ。その言動、政治的公言が国民の方向を決するということに責任を持てますかという問いに対する答えは、国民を安心させるような一言でいいのだろう、この宰相にはそもそもそういう心の動きは存在しないのだ。国民の方は向いてない。

 麻生はじめ安部一派の「坊ちゃんドラ息子」政治にはそろそろ引導を渡し、二度と国政に復帰できないようにしなければいけない。公明党などくそくらえ、維新?お前らの頭を維新しろ。とにかくこの安部一派に乗っかって絶望的な空騒ぎをしている落ちこぼれたちに政治を任せるな。

 「政治は技術」といったのは小林秀雄だったか、単なる技術屋に倫理だ、理念だ、良識だと唆しても埒はあかない。ただ、国民の半数が権利放棄して政治に無関心でいる限り、最悪の権力亡者が政治を私物化し、富裕層のための国策を優先し、民衆が現実的に困窮する事態を看過し顧みない人間で埋め尽くされるのは間違いない。沖縄が犠牲になっている現行政治は、全て本土内地ヤマトゥの日本人が不作為に送り出した、低レベルな政治技術の代議員による。(つづく)

 

 

 

 


詩の終わり アベイズムパンデミックとコロナの類似性

2020年04月21日 14時10分38秒 | 政治論

 これはイメージに過ぎないが、アベイズムのパンデミックという風にこの現行政権のことを論っていた風向きが、新型コロナという変異性ウイルスのパンデミックによって、実際上の目に見えない脅威が身辺に否応なく迫ってくるという事態に吸収されてしまった結果、言い方を変えれば、政権の害毒が本物のそれに取って代わって、人々はpost truthの事実上の危険性(政府のコロナ対応の拙劣さからくる危険性)にその側面から漸く気づかされている、というふうに事は進んでいると、考えるべきところだ。

 しかしそれでも内閣支持率は40%を切ることはない。つまり、この40%という数値には潜在的感染者という厄介な伝染媒体の実数が含まれていて、無症状で重症化しない(従て検査さえしない)が、周辺に感染を広げる機能を有する人群の存在が指摘される、ということになる。

 これは飽くまでイメージでありそれ以上でも以下でもない。安倍晋三のいくつかの記者会見で彼は、結局決定的に、事の重大性を待ったなしで国民に知らしめるための重要な何物かに欠けていた。それを(要請に留まる)法的拘束力のなさにかこつけることはできるのだが、彼のパフォーマンス的発言イメージは何処まで行ってもあのモリカケ桜に舞い戻り、その他の負のイメージと相まって、ついにぬぐいがたい「不信感」のみが漂い始めるのだ。

 「大本営発表」は最早デジャブである。我々の実際の記憶にはないが、歴史は世相的にあの時と現下の類似性へ確実に誘う。マスコミメデアジャーナリズムの在り様も、あの時の彼らのように商業ベースに乗って「歌を忘れたカナリア」になりきってしまっている。既に始まっているが、挙国一致、大政翼賛会、大日本報告会、隣組、欲しがりません勝つまでは、こういう歴史の示したこの国の忌まわしい風景が、コロナと共に再現再掲されるという、驚くべき事態を呈している。

 国の政策施策完遂のために(休業補償を拒否された)中小企業、零細企業、労働者、弱者はさながら特攻隊のように、コロナという敵艦への体当たりを余儀なくされる(補償なしでは休業できずに)。沖縄戦も始まった。沖縄は今恐らく県外接触者がまき散らすばい菌によってパンデミック状態を引き起こしている。まさかにあの県民の4人に一人が犠牲になった地獄がゾンビの如く墓所から這い出してきたというのか。

 第二の敗戦が、この国の国民にあの惨禍をもう一度味合わせようと、コロナ禍蔓延という大都市空襲によって決定的となった。全てはアベイズムの然らしめた我々自身の「汚れちまった悲しみ」が、自分で自分の骨を拾うという、滑稽極まりない、自虐性に満ちた悲劇へこの国の民を引きずっていく。

 自らまいた種だ、ともいえる。何故あの戦争に学ばなかったのか、学ばないのか、何故そこで自律的更生という道を確実に歩もうとしなかったのか。何故獣化したのか。何故戦勝国の奴隷になってしまったのか。何故敗戦国の身分に永久的に甘んじるような境遇を選ぶのか。

 不正義との戦いをやめたとき、あるいは何気にこれを看過してしまうとき、自らの中にそれらの害毒を意識下で呼び込むのだと、今更ながら思う。我々はここまで、不正義の跳梁という政治ドラマを嫌というほど見せつけられてきた。これほどに悪徳があからさまに横行する場面を我々はかつて見たことも聞いたこともない。あるとすれば後進国の混乱する政情において、遠くから何気に垣間見たくらい。つまりそういうことは、この国ではまず起こらないだろう、というくらいの話だったはずだ。

 (旧)帝国官僚並みに官尊民卑の感性的風情で国策立案に寄与するていの高級官僚が、近代化の失敗という歴史的事件の張本人のはずが、未だにその牙城を固守しているというのは、まさしくあの戦争に学ばないこの国の在り様を根拠づけている。人間(社会人)でさえない天皇という存在を米国GHQ方針のまま憲法上に永らえさせたことは、これも、本来戦犯そのものである者を象徴として祭り上げた奇妙な倒錯した精神を連想させる。

 結論を急ぐまい。ただ己の身はおのれで何とかしなけりゃ済まない。この国が血税を吸い上げた挙句はそれを国民のためには容易に使わない、そういう情けない国体がこの国の実態であり、アベイズムに極まった戦後日本の堕落の底深さを思い知らされている。堕ちるところまで落ちよとは坂口安吾の親心だろうが、ところで民衆は果たしてこの国同様に堕落したのだろうか。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


詩の終わり 側用人政治で官尊民卑は国勢となった

2020年04月10日 00時03分31秒 | 政治論

 コロナウイルスのことは世界的に全く予断の許されぬ状況になってしまった。

 安倍政権の大本営発表は(戦前同様)明らかに数値のマジックや情報操作で終始している(当然同じ穴の小池都政の東京都も同じだ)。つまり、検査体制が駄々洩れ状態(市中感染の実数が雲をつかむようなことになっているーーつまり諸外国並みの検査体制ならいつでもオーバーシュートすべく予定されているということ)で検査実態が感染実態に大きく水を空けられ、(まだぎりぎりのところで病勢を抑え込んでいると喧伝して)事実上、国民に実際の「緊急性」「重大性」といったメッセージを伝えることなく、政治パフォーマンス的に「緊急事態」宣言しただけで、あの見たくもない安倍の、脂下がった老醜ふんぷんの顔を一時間も見せつけられた挙句、ちらほら当たり障りもない平面的な記者質問で早々と切り上げたという話。

 安倍側近今井何某は、この(倫理的にも論理的にも)あってはならない長期政権維持にその官僚的脳髄をフル稼働し、とんでもない化け物国政を現出させた。安倍はこの元官僚の操り人形でしかない。

 簡単に言えば今井何某の頭の中には旧大日本帝国直伝の「官尊民卑」心性がしっかりと根を張り、あの時代の「欲しがりません勝つまでは」と同じ挙国一致体制として国民に限度なしの我慢、臣従を促しているのだが、実際は、あれだけどす黒い醜聞をかました安倍政権を4割以上が支持するという、狂気の奴隷根性を晒しているのが、実に「我慢を強いられた」国民自身なのだ。

 こういう、事大主義的な日本人の国民性(丸山 眞男や朝河貫一が指摘している)をこの側用人ははっきりと熟知している。だから平然と「民主主義」を踏みにじるし「憲法」を破壊してやまない。国民が黙認、目送してしまうことを彼は知っている。モリカケ桜も半ば当然のように忘却の彼方へ追いやってしまうだろう。検察人事などお茶の子であろう。ヒラメ裁判官も。

 さて、沖縄に移住して真っ先に宜野湾海浜公園での「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(2007年)を目の当たりにした。同時に名護中央図書館で沖縄関連図書の数々に今更に出会った。大江岩波裁判もあった。筆者が書籍において出会ったのは島津侵攻以来のヤマトゥとの関係史であり、それは連綿と今の基地問題にまで引き続く、大和民族による弑逆の歴史であり、日本史の中では日本人の目に入らないほぼ完全に近く「埋もれた歴史」だった。

 埋もれさせたのは、琉球沖縄を本土内地ヤマトゥとは何気に差別している日本人自身であり、日本国政府と官僚たちだ。移住者の目に、歴史的にもこういう成り行きは、ようやく手に取るように分かってきた。

 思うに、見透かされた国民性に乗じて、安倍の側用人今井何某が「国家主義まがい」の国政を牛耳っている現在、内国植民地扱いの沖縄はしかし、どうやらそうした「国勢」に乗せられることなく国内唯一、何時でも事の是々非々を弁える自治体であり続けている。それは結局この僻遠の地が異種民族性顕著な独自性(アイデンティティ)をいつの時代も持ち合わせてきたからであろうか。取り分けて先の大戦で被った「沖縄戦」の惨禍は、間違いなくこの地を日本国憲法に最も適う非戦の地にした。

 いずれにしろ、今この国はコロナ禍にあって、同時に、最も戦前に近い危うい国勢下に置かれている。それは側用人政治に極まった「官僚主導国家」そのものの亡国的玉砕コースを辿る道だ。極めて理不尽な信じがたい話だが、安倍晋三はどうも「無責任国政」を「決める政治」と称して実行することで、結果諸共に滅びることも辞さないほどに、私家政治の完遂を目指していると見える。このような政治屋に国政を任せて安穏とあるいは汲々とその日暮らしを続けていいわけがない。

 怒りを忘れた人民に救いはないし、未来もない。やられっぱなしの奴隷身分がいつまでも続く。耳目をかすめ横溢するくずのような情報が、連日メデアマスコミジャーナリズムに現れては消え、消えては現れるが、役に立つ情報は限られている。分析総合し、認識判断するには余ほど目を凝らし、自身の感性、悟性、そして常識に照らして正確な取捨選択を過たず繰り返して、物事の本質を明確に洞察しなければならない。事が終わった後では泣きを見るだけだ。と、自分に言い聞かせているが.........(つづく)

 

 


詩の終わり 正義を最後まで貫けないというジレンマに言い訳する国民

2020年04月06日 16時41分11秒 | 政治論

 月よりの使者月光仮面は、自らは貫けない正義を貫いて見せる謎の人物に、おのれの気持ちを託したい人民が夢に描いた象徴であり、まぼろし探偵や七色仮面、ナショナルキッドや鉄人28号などもそういうことなのであろう。半世紀前の少年雑誌に登場したヒーローたちは、多かれ少なかれそういう人民の夢や憧れを視覚的(聴覚的)に実現して見せる格好のアイドルとなっていた。当時意識したことはなかったが、筆者における少年時代もそういう素朴な感情の中で、人生のあるいは人間の本質を徐々に現実世界へ投影するような生き方に向かい、経験化と認識、行動と発言を選び取っていくように生き始めていたはずだ。

 しかし、一方正義を貫くかどうかということは時として重大な結果を残したと歴史書は伝えている。歴史は正義の闘いを、それをする、しないで人民を酷薄で深甚な裁断の対象としたと教えている。例えば先の大戦とその敗戦は、何よりも自分たちに降りかかった運命が極めて残酷で悲惨な結果しか残さなかったのだが、つまりは(こういう結果を招いた)この国がその意味で「不正義」な戦争を実行していった事実に対し、これに抗して「闘わなかった」自分たちの過誤を歴史が裁いたという話。その人民の中には勿論(人民に正確な情報やリテラシを伝えるべき)ジャーナリズム、マスコミ関係も含まれる。当然一介の職業人にほかならない官僚たち、政治家、あるいは一般の識者、学者たちも。

 「知らなかった」「騙されていた」という言い訳は、戦後人民側に溢れたありふれた自己弁護に過ぎないが、一方で(嘘にまみれた)大本営発表を無批判に鵜呑みにした自分の、「自ら墓穴を掘る」愚かしさについてはどうやら何の反省もしていないようだ。現今安倍一派の醜悪な政治を目の当たりにしても弾劾する行動すら起こそうとしない、この国の有権者の在り様をどう説明するか。

 ところでここ2000年ばかりのヤマトの歴史において無残にかつ無様に、自ら仕掛けた戦争に敗北したという経験は、我々日本人が国民として民族として一度も味わったことのない屈辱的な、恥じ入る出来事だった。

 それはどういうことか?

 こういう(敗戦、国の敗北という)重大な深甚な体験に学ばずに何から学ぶというのか?そういうことだが、残念ながら流れは、ありきたりな国家間の喧嘩騒動で惜しくも!一敗地にまみれたというはなしになっていく。が、それはそれで当たっている。国家という単位に究極すれば、戦争は世界史上極めてありきたりな、ありふれた出来事に過ぎず、勝敗はまさにゲーム感覚で処理されてもおかしくないほどに元々無機質なものだ。かつてイラクの夜闇を豪勢な花火のように覆った米軍のミサイル攻撃ピンポイント映像は、現代戦争事情をこれでもかと映し出していたが、かのように今や戦争はまさに図上のゲームと化し、その実際の内臓は分厚い脂肪に隠れてまるで見えなくなってきている。

 然し我々は、この国が戦後ほどなくして逆コースを辿り、又、我々を盲目な護国の鬼に変貌させ、打ちてし止まん、欲しがりません勝つまでは、と奴隷の如く従わせた神格「天皇」の存続を何気に容認し、挙句は、現今安倍一派が、自公政権が、戦争放棄を宣した自国の憲法を蔑ろにし、ほかならぬ敗戦の相手である米国に犬の如く付き従って、米国のために再び戦争のできる国に仕立て上げようと画策する、その「でたらめさ」だ。

 結局あの戦争とその結果に何一つ学ばないばかりか、かの史実を否定し、あったことを捻じ曲げ、なかったことをでっちあげ、国民を誤誘導して同じ過ちを繰り返そうという為政者や、これを呆けた馬鹿みたいに熱狂支持する国民がいる、この国情を目の当たりにすると、揃いも揃って「のど元過ぎれば」の軽薄さを思わないわけにはいかない。

 我々は先の民主政権が、初めのスローガンから真逆の政治的脱落を見せつけたあのていたらく(普天間問題など)や大震災及び原発爆発で見せた機能停止事態と、現今安倍一派のモリカケ桜醜聞やコロナ事案への拙劣極まりない対応など、およそ「のど元過ぎた」戦後世代の上っ調子な「坊ちゃんドラ息子」政治を、つまりは戦後日本の民族的堕落の表れとしか受け止めえないのだ。

 しかしながら、こうした個別的な国情にありながらも我々は如何にしても人間であることをやめるわけにはいかない。どのような喧噪のさなかにも我々は我々の言動の正義、不正義を嗅ぎ分ける、そういう先天的な心情のたつきにおいて物事の理非を見分けているはずだ。そういう初発のモチーフこそが逆に物事の本質を抉り、誤った蠢きを唾棄するエネルギーとなる。

 かの、先の大戦を招来したのはほかでもない国民だ、という見方ができるのは、国民がおのれの「正義」に忠実にみずからの言動を選び取っていったなら、総体的にかの侵略戦争を未然に、あるいは途中で引き返すことさえできなくはなかったと言えるからだ。

 ドストエフスキー「白痴」の中にこういう文言があった。「現代は美しいもの、正しいもの、が主張すると全てあてこすり、皮肉、偽善に貶められる」却ってヘイトや差別、偽悪的なものが今や大手を振って市中を駆け巡っている。価値というものに対するカオスが、大洪水が平然と引き起こされている。そしてその中心にさえこの国の知的選良階級がいないことはない。彼らの驚くべき不倫が、知的不倫が胸糞悪いほどに蔓延っている。彼らの絶望?は正当性がない、おかしな言い方だが彼らが絶望した地平は、彼ら自身の特権的境遇が然らしめた無資格の絶望であり、民衆の希望とは何の関係もない。一方、民衆は絶望する暇さえないのだ。だから、そこにこそ希望がある。

 何が言いたいか?

 自分で感じ自由に考え、認識し、言葉と行動で表現することが、結局は自分たちの生きる道を確かに定めるのだということ。(つづく)