沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩 66

2010年03月30日 10時47分40秒 | 手記
 そこは彼にしてみれば禁断の地のような匂いに満ちて別種の空間であり 禁句のようなささやきに支配された僻遠の地としてのみ頭骸の陰にほんのちょっぴりひそんでいた 悲痛な叫びは迸る涙を呑んでいつしかアッケラカンとしたサンシンの弦の上に南国特有の軽々とした旋律を奏でる 65年前の嵐のような血みどろの殺し合いと信じがたい祖国の裏切り いうに言われぬ恐るべき差別 そして今に至る妄想に満ちた核の傘というアメリカ支配 腑抜けと化した祖国の為政者たちは飼い犬さながら盲従し この地を蝕むにまかせこの地の人々を蹂躙し 今また薄弱な希望の挙句に裏切りの地獄への第1歩を偽善的に歩ませようとする 怒れ怒れ怒れ 死していかれ いまや涙のままに爆発的に噴煙をあげ 足踏み鳴らしてプロテクトせよ
 彼は言葉足らずの感情の湧き上がるさなか 仇敵を凝視する柔弱な青侍のように頼りなくだが これから起こらんとするこの国の歴史を確かに少しも見逃すまいと身構えた

詩 65

2010年03月25日 16時43分41秒 | 手記
 人間として生きとし生けるものとしてこの生存の実像を確かめることはいつも悲喜劇の舞台からスポットライトを転じどちらかといえば宇宙の隅っこを照らすようなしかも光は届かぬような作業であり しかもそれなくしては到底救いがたく更にいえば救済不能な実態にあってさえ不可欠な精神の働きに属する   

詩64

2010年03月02日 16時34分45秒 | 手記
 さて神は 希望など齎さない その代わり時間を試す 人はあらゆる場合において徐々にだがある結論に導かれる 五感が直接間接感得したものの最終的誤謬を切り落とす瞬間まで 肉体は耐えなければならない 人は往々にして一生を誤謬の中に過ごさぬとも限らない いや残念ながら大多数は大小の誤謬に生きることを余儀なくされているのだ ところでこの数学的不合理にもかかわらず人は盲目のままに何十年という時間を費消し倦むことなく誤謬を繰り返す シジホスの神話を論うまでもない バケツの水を交互に入れ替えるという刑罰で発狂する囚人の話をドストエフスキーが書いているがなんという皮肉か いったい誰がこの過ちに気づかせるのか 神は希望など齎さないばかりか惨たらしく希望をもぎ取るのだ しかし神は言う それは希望ではないと いやそうも言っていない ただ無残にこそぎとっていく それでも人はたえねばならない つまり「手や足がもぎ取られても全身が地獄に落ちるよりはましだ」とかいいそうだ すべて信仰によらざれば罪