沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり GoToキャンペーンと沖縄 其の悪しき現状

2020年10月27日 09時28分27秒 | 政治論

 2020年10月26日現在の沖縄県の新型コロナ感染状況(沖縄県発表)

入院中198(198)人(重症者21(21)人、中等症者59(59)人)

入院・療養等調整中32(32)人 

宿泊施設療養中99(99)人 

自宅療養中27(27)人 以上療養中患者計356(356)人 死者58(51)人

累計感染者数3194(3052)人

 以上の通り、沖縄県では(赤字)の部分が7月以降(GoToトラベル開始ころ)の数値であり、それ以前、4月30日以降全てゼロ(累計感染者数142人、死者数7人)で推移していたことを示している。しかも明らかにこの第二波と言われる感染爆発があって後、一進一退の増減が突出してここ沖縄では見られるのであって(収束の気配さえなく)、一昨日などは自民系県議団11人がクラスタ感染を生じせしめ、石垣、宮古等離島(県議団の視察先)での感染リスクがいやが上にも高まっていることを証明している(尤も彼ら自民県議団の視察内容や懇親会など見ると到底褒められたものではないhttps://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/653528)。

 観光立県として県財政シェアが大きい観光資源(離島等)が感染症の確実な出来原因となることは、つまりは沖縄県は国のGoToキャンペーンの対象として、明らかにハイリスクな対象そのものだということだ。何が問題か?県民には国策による願わしくない危難が現実の事として確実に起こっている。そこには国が為すべき救済の手立ては一切ない、と言っていい。

 先ず第一に、現行コロナに関する世界的評価はほぼ無診断無回答という有様で、WHOの見解などは、欧米が極めて深刻な感染実態を示しているといった程度の観測しかしてないということ、ワクチンは未だに事実上のエビデンスを得られず、治療薬が少しばかり治験を示すくらいのレベルだ。つまり感染予防薬は今のところ全くないということ。当然日本もまたこの世界傾向に逆行するような、明らかな、特別の実績(著しい減少傾向や収束期待値)を示しているわけではない。見たところ、日本の所謂専門家会議(分科会)の議事非開示な在り様から、明確な見通しやら収束期待、あるいは確実な防疫的見解が確立されてない、ということがわかる。

 どういうことか。国が今やっているGoToキャンペーンは、戦時中の「打ちてし止まん」特攻精神、あるいは国民総玉砕覚悟の経済展開推進(戦争?)という仕儀であり、大本営発表並みのガセデマ扇動言辞はともかく空気感がそうなっているし、大方は日本国政府の危機管理能力が如何に空洞化した実態を晒しているか国民はあきれ顔で眺めているということだ。少なくとも我々の眼には、この国はコロナ禍対策に関し全く真摯に真剣に取り組んでいる様子には見えてないどころか、国の経済はむしろ国民の故知らぬ犠牲の上に成り立つとでも言いたげだ(野党合同ヒヤリングなどで曝け出されている政府忖度答弁の官僚たちの、即応臨機における無為無策ぶりは目を覆うばかりだ、この国に公僕はいない)。

 よくよく考えてみればここにも、この国の沖縄に対する極めて非情な国策的差別があらわになっている。それはかつて沖縄戦でこの地を4人に一人が戦禍に叩き込まれる国家犯罪的な仕方で対したそれを連想させるということだ。このことは結局は、確率的に、相変わらずこの地を国内最適の国策上の「捨て石」と見做していると、思わないわけにはいかない。さらに言えば辺野古の事も今更ながら、到底独立し自立した国のやることではなく、「被占領国」の体を為してどこまでもバビロン捕囚の身分から抜け出せない。奴隷国家日本万歳!!くたばってしまえ。(つづく)


詩の終わり 憂国 

2020年10月23日 17時28分18秒 | 政治論

 post truthにおける非論理、非倫理、反知性、非理念と言えば、突き詰めればただのやくざ、チンピラ、ごろつき、ギャングの類にしかならない。今この国は、国政はじめ政治的権力をそういう類の勢力に何気に寄託しているし、其処から初めて警察、司法、行政、剰えメデア・マスコミ・ジャーナリズムまでもがこれになびいている。言ってしまえば、今回の日本学術会議新会員任命において、菅内閣が行った違法な人事権の説明のつかない行使(排除理由が開陳されない限り昔年の思想弾圧に匹敵する国家的行為)もまた、一連のposttruth的「(良識?警察?)あってなきがごとき」政治環境から説明がつく。これが現今自公政権の根底的な性格を明示している。

 我々は、主に第二次大戦または15年戦争にまつわるあの時代に歴史的着眼点を置き、「戦前価値復活」「皇国史観再生」「歴史修正主義」という、そういう明らかな傾向にある「日本会議」直系の自公系保守政治勢力のすること、為すこと、口にすることに、明治維新以来の近代日本がして来た、多くの負の事跡のデジャブをいやが上にも見出して、体験も経験も絶無か希薄な戦無世代ながら、我々自身の歴史的追体験や想像力の連続的発展的な全面的展開により、これらへの警世的警告的反攻を企図しない訳には行かなくなってきている、という立場に置かれていることになる。我々、というのは民俗学にいう「常民」であり、知的な意味では「常識」人のことだ。

 勿論、例えば北一輝、大川周明など所謂国家主義(超国家主義)の泰斗と目される思想家並みの、純粋に指導的な理論なるものを今この国で見つけることは容易ではない(というよりそもそも右翼に理論などないわけで)ので、無思想、無知、という誹り以外現今似非国家主義者に向けて発するものはない。ついでに言えば昭和45年の三島事件で、この国のそういう思想方面はその後完全に亜流化するしかなかったと思われる。

 アベイズムという、空気感染のようなパンデミックが発生し、この国の8年間を汚染の非アンダーコントロール下においた安倍晋三が、本物のパンデミックである殺人的新型感染症の猛威(コロナ禍)によって、その危機管理能力欠如をその周辺ともども暴露せしめ、かくして無様にその政治的野望を、以前と同様再び潰えた格好で空しく消えたわけだが、恐らくはその下支えとでも形容すべき立ち位置で、本来的な野望なき(目指すべき国家像や目標を元々持たない宰相)ままにポピュリズム的に場当たりな諸策をさも深慮遠謀から導いたとでもいうように、そのサメのような死せる顔貌にうつろな眼を蠢かして、安倍同様事あるごとに国民の耳目を塞いで好き勝手し放題の権力の亡者になるというのが見えている、菅の末路への道だ。

 「憂国」は古い治国平天下の国士的情熱であろうか。それはしかし国というものに対するある心情なしにはあり得ない話だ。ある心情とは一種の「愛国心」だと言えるが、しかし、抑々「国」とは何かということに関して一定の定義がなければ成り立たないはずの極めて曖昧な心情だと言えよう。「日本」という国名が世上に浮かび上がるとき(ノーベル賞、あるいは国際競技などでのこと)、我々が故知らず感じる拍手喝采などのそれはしかし、この愛国心とは別物だと思われる。自然発生的なものでなく、やはり「国」というものに対する個別の明確な意識なしには説明がつかないのだ。すると、この「国」という実体のない名称(勿論国体などというものではない)に我々が見るのは、我々の中に醸成された後発的観念というものだと言わざるを得ない。当然ながらこの「国」に対して我々が要求するのは、観念であるがゆえに言える「理想」というものであり、「理想」から外れていく「国」に対する「憂国」が一般心情だ。「愛国」を胡散臭いものだと思うのも、自称「愛国者」どもがいう「国」が、多面的に考えられた「国の在り方」に添ってないからだ(保守主義の論理的矛盾)。若干乱暴な言挙げになろうが、野党合同ヒアリングなど聞いていると、公僕たる官僚たちに決定的に欠けている「国民向け」の視点であり、取分け安倍内閣以降目に余る逆賊的言動の数々が、我々一般国民の「国」に抱く一種の「理想像」から苦々しくも乖離していると思うことだ。そしてこれを強制的に助長しているのがアベスガイズムにほかならない。

 いずれにしろ、戦後日本のあげて重大な危機を意味するこのコロナ禍の中、リアリテイのない(現に実を上げることがない)、従って当然に目指すべき国柄が見えない、更には「理想」をどぶに捨てて顧みないこの現行政権を支持する日本国民の自ら自分の首を絞める行為は、到底座視すべからざる様相を呈してきている。しかしながら戦後75年は永すぎた冬であった。凍えきった国民に雪解けはあるのだろうか。(つづく)

 

 

 


詩の終わり 菅義偉という政治家の泥沼政治

2020年10月12日 14時31分55秒 | 政治論

 菅内閣が発足直後早速に問題化させた「日本学術会議会員任命」拒否行為は、大方次のような政治傾向を露呈したということになる。

 先ず、中曽根内閣で先鞭をつけたこの、首相による任命行為に関する考え方(法解釈?)に対し、菅内閣は明確にこれを否定したと取られているし、実際事実は何を抗弁しようがその通りであろう。しかしこの法解釈(考え方、基本方針、法の精神)否定は決して有効な説明内容を披歴せずに単に「私はある者(政権に批判的な知識人等)の任命を拒否する」と私的に(党派的に)表明したというに過ぎない。つまり、正確には、何ら公的な有効性を持たない首相の(ツイート的)独言を、軽はずみに明るみに出してしまった菅個人の無様な失態にほかならず、言わば彼自身の公人としての自覚のなさ(いつまでも官房長官のつもりらしい)を内外にひけらかしてしまったのだ。

 しかし問題は勿論そこに留まらず、一国の最高権力者が事もあろうに(前任者が結局グレイゾーンのまま逃亡を図った)明らかな私家政治を強行し、私的な権力保持手段を行使して、印象の拭えない低劣さを恥も外聞もなく曝け出したということだ。そこにあるのは前任者同様反知性、非論理、更に非倫理な性格に満ちたpost truth政治性だ。つまりは時代が生んだモブというべきチンピラやくざ風情の集合として、この新内閣を見据える必要がある(あくまで純粋に民主主義というものを前提するなら)。繰り返せば今回のこの問題は法(習慣法)解釈などというレベルの明らかな事実関係にはなく(従って法律問題ではなく)、極めて低レベルな私家政治の暴走、前内閣同様の失政既定路線にほかならない。

 この国の民はかく各論的に権力が為す失態など意に介さない。「他に適当な者がいないから」と言っておのれの首を自ら締める浅はかで愚かしい代議員選択に変更はない。実はこの事実の方が由々しき問題を孕んでいることは言うを待たない。疑似挙国一致内閣(国家統制を強権的に実行する内閣)の引き続くこの国では、一億総与党、大日本報告会そのままに大政翼賛会が出来上がりつつあり、メデア・マスコミ・ジャーナリズム挙って政権になびき、自由論陣から転落して恥知らずな忖度を繰り返す夜盗集団(公に申し開きのできない半犯罪集団)の国に成り下がった。官僚は「野党ヒアリング」で、その選良頭脳を鈍化し摩滅した口舌を臆面もなくダダ洩れさせ、国民が見ている前で明白な「官尊民卑」正体を曝け出す。彼らの口から出る言葉からは決して「公僕」の真摯な姿は見えてこないし、国民にあっては彼らの抱える世にも醜い組織的同性愛実態などは思いもよらないことであろう。

 所詮コップの中の嵐、愚にもつかぬ醜態でしかない。その喧騒は国が何かその陰で後戻りならぬ仕掛けを企てていると考えて置くべきところだ。(つづく)

 

 

 


詩の終わり スガイズムの行方と沖縄琉球

2020年10月06日 10時42分02秒 | 政治論

 時代錯誤の疑似挙国一致内閣(但し手口は詐欺に等しい)というべきであろう。朝日新聞の9月の世論調査では菅内閣の支持率、実にあらゆる世代で7割近い数字を叩き出している。勿論男女を問わない。これはこの国の民が総論的に自公政権をこの国のかじ取りとして過半以上承認したということになろう(菅首相自身への実質的な支持ではない)。つまり、今後各論的に無数の問題が恐らく奔出するとしても、前内閣同様に「他に適当な者がいない」という理由で、変わらず高支持率を献上する状況が続く。この国の民の性向は少しも変異しない。飼い馴らされた状態が続く。

 安倍晋三は側用人政治で(自律性を損ない)墓穴を掘り、難病再発を隠れ蓑に、コロナ禍の責任所在も不明のままうすぼんやりと表舞台から消えたのだが、安倍に特徴的な私家政治のグレイゾーン(もりかけさくら)を横目に見ながら、同時に菅独特の(前内閣批判に対する)「責任回避」的手練手管で、当代のメデアマスコミが不作為に(無責任に)音響高く奏でた、「たたき上げ」の純血種イメージ(勿論実質嘘である)で身を固めつつ、首相となったら「行政府の長」(司法でも立法でも彼は長でない)たる大権!を何気にふりかざして(司法も立法も踏み倒して)、前内閣で存念なく発揮していた「陰の実力者」然と、表舞台でもそこ気味が悪いほど陰険で陰湿な政治的画策に辣腕を振るうのであろう(彼の学術会議に関する法解釈には詐欺師の発想しかない、まさに法の精神を閑却して抜け道だけを追求する現政権の体質そのものだ)。

 このように、この自公政権によってこの国がどこまで回復不能の国柄に落ちぶれるかは最早わからないというしかない。ただ、必然にアナクロニズム(戦前回帰、神の国論)に覆われている自公政権下の政治がまともに諸方面で実体のある成果を上げるものとは思えない以上、野党は結束して彼らの失政予定施策につき糾弾、弾劾、抗議行動を繰り返すことだ。これは辺野古闘争の本土版であり、未来にわたって改変しがたい永久敗戦実質を少しでも突き崩し、「人間」の住む時空を確保するための劇的な精神の闘いといえる。

 辺野古闘争は(異国の軍隊のための)半永久的軍事施設を郷土の陸海空に決して出現させてはならないという、反戦、非戦、厭戦に覆われた沖縄県民の強い意思によって絶え間なく続けられている。それは他の都道府県でここまで行われてきた国策への反攻とは明らかに一線を画す。県はこれまで一度として、日米の政府が戦中戦後強行してきた基地建設を自ら望んだことはない。全ては彼らの強制と民意蹂躙によって行われてきた。この菅などはどうやらあけすけに、振興策と基地問題をリンクさせることにためらいを見せない(論理的でない理由で政策実現を図るのは詐欺師のやり口で、到底品位ある未来を期待できないのは当たり前だ)。しかも振興策といって、当初の、戦後国内インフラ整備が進められる過程で遅れて県がこれに加えられたにすぎず、他の自治体に比しても格段に莫大な予算を得ているわけでもない。「沖縄返還なしには戦後はない」という佐藤栄作の掛け声で1972年所謂「祖国復帰」は成ったが、基地は存続、核密約、地位協定、と、本土政府が実現させたのは敗戦国の従米主義に沖縄を軍事的に利用しただけの、ここだけ「日本国憲法」が通用しないアンタッチャブルゾーンを設えた話に他ならなかった。

 繰り返せば、沖縄の経済は基地経済で持っているわけでもなく、そのシェアは5%程度に過ぎず、剰え、返還成った基地跡地の利用状況は膨大な経済効果を実証している。つまり、本島中枢部分(本島の2割弱)を占拠している米軍基地がなくなれば、沖縄の財政は本土依拠のそれに代わり完全に独立的に賄えるものと証明されたわけだ。

 「辺野古唯一」を馬鹿の一つ覚えに吠えているこの国の政官業学一切は、おのれらの思考停止状態を詐欺的に糊塗するためにのみこれを言い続けているわけで、彼らの中には沖縄問題に関する論理的説明が可能な者など一人としていない。

 スガイズムは、いずれにしろ理論のない国家主義(超国家主義)であり、憲法精神を180度ひっくり返し、主権を国民から奪い去って、より鮮明な奴隷状態を現出させるものだ。但し、こういう彼らの奇妙な政治的野心は必ずナチズムに似て、合法性を強調しながら、従って国民の目をくらましながら、「粛々と」執り行われ実現されるものと覚悟しなければなるまい。(つづく)