老人の認知症は、彼の数10年に及ぶそれなりの人生が培った彼の人格からくる様々なノウハウや教訓あるいは感覚的習性、性格、などが渾然と一体になってその言動に恐らくは如実に現れるものなのだという認識に立たないと、彼の周辺で彼を物心両面で支えている気でいる介護補助者にあっては自身の精神的な自律性を保持し続けることの困難さばかり際立って、必ず何らかの抗し難い「悪意」に自ら取り込まれてしまう、ということになる。
国がどうやらこの認知症に罹患したような場合、こちらがわにとっては恐らくは「テロリズム」「無政府主義」「革命意思」といった「善意」よりも破壊以外に意味のない「悪意」のほうが勝ってしまう、つまり相手の「姑息さ」や「見るから直接的な態度」などに絶望的に対抗しようと、墓穴を掘るような低レベルな言動に走るというようなことが往々にしてある、ということだ。
こうした「取り返しのつかない」言動で切迫した現実に直面したときどうするか、実はそこに特効薬などないということが先ず知られなければならない。「復讐するは我にあり(劫罰は神の領域だ)」は信仰へ誘う目くらましだが、いずれにしろ「復讐」は愚である。しかし同時に、始められたそれは完遂するしかないとも言える。だから始めなければいいのだ。始めるのは衝動であり必ず引き金が用意されている。例えばコンプレクス、とか貧困、あるいは出世欲といった世俗的欲望、我執、など。
琉球沖縄にとって、自国の認知症的頑迷にどう向き合うか、ということは、かくしてむしろ本土以上に総合的に検証されなければならない。(つづく)