沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 世界の中でこの国は及び難く三等国のまま推移する

2020年03月23日 08時40分20秒 | 政治論

 会期中の国会や衆参各院予算委員会、あるいは安倍政権が引き起こした事件の真相追及野党合同本部公開ヒヤリング、その他のyoutube動画など散見するに、安倍一派をここまでほぼ無批判にのさばらせている(世論調査動向を見る限り右翼系支持者が圧倒的に高支持率を献上しているようだ)日本国民有権者は、あの15年戦争でこの国の先達である我々の父祖が「知らなかった」「騙された」と言い訳してやまない、当時の国家政府、大本営、大政翼賛会、大日本報告会、隣組が醸し出し強請し、一大国民ムーブメントを造出した戦時体制なるものをもう一度再現し、同じ時局を繰り返すことさえ何気に許容する、恐るべき政治的無神経無関心、非情で酷薄な獣的で非人間性そのものの非倫理、非論理的post truthの世情の中に埋もれているという評言がぴったりすると思われる。

 これは国民への批判ではない。国民が愚かだともいう気はない。この国の民の絶望的な状況は、近代日本が必然に負うべき、近代化の失敗への真摯な底深い反省と批判的検証という行為に対する、これをなすべき政治家や識者あるいは一般ジャーナリスト、マスコミ関係者の重大な責務こそ厳しく問われねばならない、と言っているのだ。しかしながら彼ら国民の期待を背負いその役を担うべき知的選良たちは口をそろえて言うだろう、「如何にしてもこの国は変わりようがいないということは我々自身の絶望そのものでもある」と。つまり最初から自らの責任放棄を宣するわけだ。結果として彼らもまたどういうわけか恐らく金銭がらみで体制同調路線をひた走ることとなる。これもあの15年戦争時の、彼らと同様の立場の者らが示した迎合商業主義や敗残左翼くずれなどの軍国化、右傾化論調と重なる。

 正確に言えば、この日本国国民、歴史的には所謂大和民族なる存在は、民族としての矜持やアイデンティティを、今やほぼ紛うことなくその魂から欠落してしまったと言える。それは鎖国していた江戸期なら総じてあり得ない話なのだが、開国し、国際社会に参入した時点でこの国が世界的に評価されるという意味で考えられる、一つの逃げようもない価値観に拠ってであり、又、全権松岡洋右がいみじくも蹴立てた国際連盟の枠組みなどとは別の、普遍的世界観に照らすなら、ということにほかならないわけだ。当然現行国際連合(所詮、第二次大戦戦勝国が優越して構成する独善的集団、当の日本国はまさにその敵国条項において永久に身分据え置きされている)などというまがい物が発する似非世界性とは別種の意味だ。そしておそらくナショナリズムやインターナショナリズム、所謂現代グローバリゼーションとも袂を分かつ。

 何故こうした世界性が日本の場合殊更問題になるかといえば、この国にとって最も重要な真実は、戦後この国が独立した一個の国民国家足りえない重大な国策上の過ちを引き続き持ち来たって、向後いよいよ抜きがたい泥沼の中に、さながら一人の酔漢の如く居眠るような在り様でその身をひけらかし続けている事実にあるからだ。

 事は戦前の日本人の在り様よりも更に度し難い病根を覗かせる。それはこの安倍晋三政権が今の今まで晒し続けている醜態に対するこの国の有権者が見せた反応そのものに、端的にその症状なり問題点を示しているのだが、病理学者でもない限りこうしたほぼ爆発的に常態化したパンデミックの正体を、正確に分析することはいやが上にも困難であろう。まさにコロナウイルスは象徴的にかつ現実的に日本人の本質を抉り出した。世界的な現象ではあるが、日本人にはより救いがたい不治の病として感得される。

 要は具体的には勿論一人問題児安倍晋三を政界から駆逐することに極まるが、恐らくはアベイズムの流れというのは今後暫くは政治家の中に、与野党含め何気に立ち現れることは想像に難くない。

 三島由紀夫が壮絶な割腹自決で諌死したところの戦後日本人の精神的堕落、坂口安吾が「堕落論」に言及したそれ、落ちるところまで落ちるべき奈落がそろそろ見えてきている。何も言うまい、自助努力以外道はないが、それさえもままならぬ。(つづく)

 

 


詩の終わり 官僚主導は完全封殺、政治主導は側近政治に堕す

2020年03月22日 19時38分35秒 | 政治論

 安倍内閣の側用人(今井何某以下)政治は恐らくは、いじましいまでの政権維持我執・権力護持あがきが最終段階に至るまで、この国を徒に誤誘導する以外には、外交財政安保他にわたり何らの国政成果も齎さない(それどころか財閥偏重トリクルダウン政策や従米主義によりいよいよ国柄を下げ格差を広げる作用が顕著になってきている)ばかりか、歴史的学術的検証などされない危険で中途半端な「国家主義」が、戦後的「民主主義」縛り(日本国憲法が担保していた)の一切を「法的」に言えば(隠蔽、改竄、データ破棄を旨とする)解釈画策で捩じ切り、国家主義的独裁的(ファシズムまがいの)権力私的濫用により、三権分立の大前提を事も無げに崩壊させてやまないだろう。この国では今後、悪辣政権による稟議なしの独断専行が繰り出す民殺病原菌政治が、現行新型ウイルス感染症パンデミックのように日本国民の体幹をじわじわと浸潤することになる。

 歴史は繰り返すという、安倍自公政権にあってはその政治本旨が国家主権・国民滅私奉公、所謂戦前価値の踏襲という道筋にある以上、間違いなく流れはあの忌まわしい歴史(覇権的帝国主義的侵略行為の末の無様な国家的敗北の歴史)の再現という大団円に向かっている。問題は、結果(敗北は戦争ばかりが然らしめるのではない)この度もまた国民は、またぞろ「知らなかった」「騙された」と大まじめに言い訳して、せっかくの「主権在民」保障憲法を半ば権利放棄(選挙権等)によって反故にし、事大主義的に「総論賛成各論反対」(世論調査内容の傾向)のうそ寒い実態のまま、玉虫色の在り様でその時を迎える、ということに尽きる。

 現代にあっては戦争は必ず二項対立(戦争と平和)の一方にあるわけではない。安倍一派がいかに仮想敵脅威に国民を引きずっていこうとも(一時的に米国の戦争に巻き込まれようが)この国は本格的の戦争するだけの物質的精神的仕組みを持ちえない質にある。仮令小規模偶発的な戦闘状態が訪れようとも既に憲法上「戦争放棄」を世界に宣した国に自力で戦時体制を維持する用意は最初からないし、臨時的に憲法改正して完全武装化してもこの国の国民には通常言われる国防意識など本質的に欠けているのだ。まさに闘いようがない国なのだ。これが三島由紀夫がその最後の言動において示した国自体の「絶望」の本質であり、日本国が今後覇権国家足りえないどころか、独立国家にさえなれず永続的「敗戦国」身分から一歩も出ない三等国に終わる所以だ。

 今、安倍一派がやっている政治の根幹は明らかに所謂側用人政治、宦官政治、お飾りだけの無能無益な大臣どもをひな壇に並べただけの、幼児的亡国政治体制というほかない。しかしこういう体たらくを許して異常な支持率を献上しているのはほかならぬこの国の有権者だ。戦後の丸山 眞男や戦前の朝河貫一が指摘した、この国の民のある度し難く性向化した特徴的な傾向がしからしめているものであろう。

 この性向を改善する方途は残念ながらない。しかし三島由紀夫が絶望した地平は「民衆への絶望」だった。そして彼の出自もまた一種の特権階級にほかならず、知的な意味で彼には「民衆への絶望」を語る資格はないのかもしれない。

 ほかならぬ沖縄において展開する「民衆の闘い」は、そういう知的な絶望を超えて何故か不思議な「希望」を予感させる。そういう沖縄は国内唯一の「天皇が見捨てた土地」であり、天皇制を不倶戴天の敵としてやまない。これがまた、三島と袂を分かつ唯一つの、真逆の立ち位置であり、知的な絶望を拒否する、「民衆的な希望」という意味の希望の地と言えるのである。但し、このことをヤマトゥが理解するのは一体どれくらい先の話であろうか。(つづく)