大津市の事件は女市長の涙を象徴的に浮かび上がらせながら、校長の軽薄なコメントに代表されるこの国一般の「無責任根性」を暴き出したとは言え、一転「和解」方針に転じた市側の対応には胡散臭さを感じないわけにいかない。
かかる事件が本質的な正体を暴かれたとき、その当事者が処決されない憤懣が我々の中に渦巻いているのである。第三者が断罪するのを待つ以前に、彼らの誰かが自決してくれることを希う(途端に別の校長先生が自裁された)。
原発事故が東電の責任であるのなら、何故彼らの中には腹を切るものが一人もいないのか。国の原発行政に抜き差しならぬ過誤を認めるなら、何故国民会議において原発犯罪裁判が開かれることがないのか。
事故調査委員会は直ちに司法手続きに移行し、この国と「原子ムラ」当事者たちの責任追及とその犯罪性を立証すべく、確固たる法廷臨時条例を発効させることだ。彼ら「原子ムラ」の絶対的強欲さは再稼働が当たり前、という方向にしか働かないのである。
いずれにしろ醜悪な世界だ。あらゆるマニフェストを根絶やしにしたこの政権党の中には「敗北感」を感じて潔くこの世から!!退場する「義」の人はいないのか。何故この国はこのようなタガのゆるんだ亡国の民と化したのであろう。
耐震偽装やら食品産地偽装等、日本資本主義の低レベルな犯罪的顕現の横行が臆面もなく繰り広げられ、人間の生業(なりわい)の浅はかさすら滲ませる世相となってしまった。
高度な経済成長に成功した戦後の復興自体をとやかく言うのでなく、バブル化する経済至上主義の末路が21世紀現代日本の精神の行方っだったのであり、放置されてきた自己責任の内容であったと考えること、である。
漱石が、「個人主義」から「則天去私」へ昇華?したのは、国家におけるナショナリズムが集団エゴに陥る弊害につき警告しているようにも思える。「秤が丁度平衡を保っている」(芥川)ような彼の精神というのに思いを致すと、一旦バランスを喪った国というのは取り返しがつかないという、解りきった回答しか浮かんでこない。勿論歴史は繰り返すという俗言すら信じ始めた自身がいる。
野田が集団的自衛権公司肯定論者なのは既知のことだが、既に瓦解した政権が放置されている状況で、彼が次々と方向性の明示化を実践するなら、野合した現今政界にあってこれが法案化され立法化されるのは時間の問題だと考えていたほうが良い。なにしろこの国の戦後民主教育効果は、その最優秀部分に「再軍備核武装憲法改悪」主義者を巨塊として生み出しているのだから。(中断)