沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩365 雑感9

2012年07月19日 08時17分31秒 | 政治論
 大津市の事件は女市長の涙を象徴的に浮かび上がらせながら、校長の軽薄なコメントに代表されるこの国一般の「無責任根性」を暴き出したとは言え、一転「和解」方針に転じた市側の対応には胡散臭さを感じないわけにいかない。
 かかる事件が本質的な正体を暴かれたとき、その当事者が処決されない憤懣が我々の中に渦巻いているのである。第三者が断罪するのを待つ以前に、彼らの誰かが自決してくれることを希う(途端に別の校長先生が自裁された)。
 原発事故が東電の責任であるのなら、何故彼らの中には腹を切るものが一人もいないのか。国の原発行政に抜き差しならぬ過誤を認めるなら、何故国民会議において原発犯罪裁判が開かれることがないのか。
 事故調査委員会は直ちに司法手続きに移行し、この国と「原子ムラ」当事者たちの責任追及とその犯罪性を立証すべく、確固たる法廷臨時条例を発効させることだ。彼ら「原子ムラ」の絶対的強欲さは再稼働が当たり前、という方向にしか働かないのである。
 いずれにしろ醜悪な世界だ。あらゆるマニフェストを根絶やしにしたこの政権党の中には「敗北感」を感じて潔くこの世から!!退場する「義」の人はいないのか。何故この国はこのようなタガのゆるんだ亡国の民と化したのであろう。
 耐震偽装やら食品産地偽装等、日本資本主義の低レベルな犯罪的顕現の横行が臆面もなく繰り広げられ、人間の生業(なりわい)の浅はかさすら滲ませる世相となってしまった。
 高度な経済成長に成功した戦後の復興自体をとやかく言うのでなく、バブル化する経済至上主義の末路が21世紀現代日本の精神の行方っだったのであり、放置されてきた自己責任の内容であったと考えること、である。
 漱石が、「個人主義」から「則天去私」へ昇華?したのは、国家におけるナショナリズムが集団エゴに陥る弊害につき警告しているようにも思える。「秤が丁度平衡を保っている」(芥川)ような彼の精神というのに思いを致すと、一旦バランスを喪った国というのは取り返しがつかないという、解りきった回答しか浮かんでこない。勿論歴史は繰り返すという俗言すら信じ始めた自身がいる。
 野田が集団的自衛権公司肯定論者なのは既知のことだが、既に瓦解した政権が放置されている状況で、彼が次々と方向性の明示化を実践するなら、野合した現今政界にあってこれが法案化され立法化されるのは時間の問題だと考えていたほうが良い。なにしろこの国の戦後民主教育効果は、その最優秀部分に「再軍備核武装憲法改悪」主義者を巨塊として生み出しているのだから。(中断)

詩364 雑感8

2012年07月17日 12時53分10秒 | 政治論
 この野田「官僚奴隷」政権は、その口舌において「非民主的」、「対米追随」(日本政府は殺人輸送機オスプレイの米軍配備に物申すことができない、だとさ)、「官尊民卑」発言を繰り返すのだが、政権が醸す国家の代表意見というメッセ-ジが、大衆的政治反応にあっては必ず翼賛的に一方向へ流れる傾向を示すことは、既に史実が物語っている故に、こうした文民統制事案につき、あらゆる殺傷武器を剥奪されている無辜の民の逆作用にあっては、この政権が何者かによって爆殺されることを密かに望む、という心理傾向へ内実向かうものとして、「テロ」の実質的容認、地方民兵の組織化、政権打倒手段の模索の中、実際上、現今多用される「デモ」や「座り込み」によってどこまで非暴力的に効果を挙げるものか、これらを主導する識者にあっては、重々考慮すべきことなのだと思われる。
 タントラバジラヤーナの「ポア」が、「愛」から出るなら、野田への愛は一体何なのか。支持率低下からみて大衆に愛はない。高度な大乗的愛は政治に通用するか。ポアと殺人は因果関係にないとはいえ、嘱託殺人は「高瀬舟」に描かれたように、ある種永遠の課題を投げかけているし、「罪と罰」の「英雄と凡人」思想は、「現代の象徴」「血が全てを解決する」など、単純すぎる抽象的「あたまのやまい」としてしか現実に顕現しないリアリズムを示している。
 ここでガンジーの「非暴力不服従」を想起するにしろ、この思想がむしろ、インド始めアジアの宗教的規範にあっては、最上の価値として伝統的に息づいていたのであり、一方彼の「不服従」が、「無抵抗」でも「暴力の否定」でもないことは十分以上熟慮しなければならない事実である。
 アメリカが恐らく確実に10年内に墜落し、県民乃至国民の数名を殺すに違いないオスプレイを、日本政府の卑劣極まりない安保堅持意向に乗っかって、日本中飛び回らせるというのなら、勇気ある日本人ならこれを肩担ぎミサイルで洋上に打ち落とす計画を立てるべきだ。
 つまりは、放置すればアメリカ軍の訓練の餌食になるのである。日本人は平和憲法という幻想(日米安保体制)に骨を抜かれて、実際上の戦争準備状態にあることを忘れている。
 日本の基地から飛び立つ米軍機はイラクアフガンベトナムで人殺しをしてきたし、しつつある。これに不作為で加担しているのが日本なのだ。おまえさんがたはなんの意識もなく戦争を継続しているし、いつのまにかなんの痛みもなく人を殺している。それが日米同盟容認の我々日本人である。しかしながらオスプレイ搭乗米兵にはなんの恨みもない以上、肩担ぎミサイルはその本体機のみを破壊すればいいのである。(中断)






















詩363 雑感7

2012年07月15日 11時13分31秒 | 政治論
 ガチガチの親米派、前原政調会長の安保危機感は、実は向こう側から見て当然の帰結であり、これを政府見解の進歩(オスプレイ配備見直しのための)ととるのは早計で、依然として予断を許さない政治的状況にあることをよくよく心しなければならない。
 既に接受国通報を完了し、機体の洋上搬送中になるこの計画を中途で断念するには相応の代価を必要とする、と考えたほうが良い(ただしそれはアメリカ側の言い分である。危険きわまりない輸送機を他国で展開して平気なやつらの言い分など何ほどのものか)。
 沖縄を属国視したがる中国文民の視点には、こうした客観的普遍的理念に対する日米政府の無顧慮性が当然乍ら含まれているのであり、21世紀現代世界史を通観すれば「日米地位協定」の偏頗性が人民とりわけ沖縄県民にとって到底許容し得ない本質を抱えていることは明白であろう。
 凋落傾向の欧米経済状況からして、「戦争経済主義」の現実的破綻は目を覆うばかりであり、大国強国の一極集中論理の強行が、当事者ばかりか周辺国にとってさえ明らかな脅威と化していることは、アジア的東洋史的視点に立てば自ずと了解される事実である。
 ASEANにおける米中の綱引きは当分継続するだろうが、一見それとは全く無関係に推移する、日本とりわけ沖縄に対するアメリカ国防省の戦争準備対中抑止体制の強化に対して、日本にあってはただ日米同盟の存続危機として切り札(一方的条約破棄)をちらつかせれば済むことであり、ここまで不作為に惰性で放置した安保体制の絶対的無効性を国民総意で認識することが望まれる。
 いずれにしてもこのような均衡性のない同盟関係が永続的に安泰するとは思えないが、一方自衛隊をどうするかという問題もそろそろはっきり現実的に捉えていかなければならないのだろう。
 自衛隊沖縄展開を目論むこの国の多くの「核武装再軍備憲法改悪」思潮輩が、皮算用を弾く状況に傾向は染まり始めているが、沖縄からの米軍撤退は同時に自衛隊軍事撤退の意味になることを彼らは十分に知っているのだろうか。
 自衛隊の9条縛りが、軍事的士気を実質的に吸い出している現今状況で、この半端な軍隊が数兆円の予算をかけて軍事的訓練をしているより、むしろ災害救助隊として編成替えしそのための実質的訓練をすべきだと誰しも思うのではないか。大震災と原発暴発が、これから何十年とこの国の主要な改善問題として続いていく以上、戦争のための財政負担(西側欧米論理に基づく防共思想による)がいかに無駄かを徹底的に認識する必要がこの国にはある。(中断)

詩362 この国の傀儡国政、アメリカ覇権主義と闘うために

2012年07月13日 09時29分15秒 | 政治論
 日本政府、アメリカ政府がオスプレイ配備を予定通り実行するのは、安保体制を是認する本土国民7割の支持があるからであり、9割が安保を拒否する沖縄との完全な格差は、この国で多数見られる「民意からの乖離」という非民主的国政実質をこれ見よがしに表現している、実に嘆かわしい事実ではある。そしてこうした国情が、地元民に毎度毎度耐え難いストレスとして継続的に攻撃的に加えられていることを、この国の為政者もアメリカ政府もまた本土の国民さえほとんど認知してないというのが問題なのだ。しかしながら、こうした乖離現象の本質が実は「対岸の火事」や「地元からの距離」といった感性的事情以前に、アメリカ覇権主義も日本国政府も「人命の危険より国策を優先する」という恐るべきナショナリズムが絶対的に優勢なのだということをしっかり把握しておかねばならない。これは原発「フクシマ」が実証しているし、大飯原発再稼働があつかましくも実行されているのだし、彼らにとって人民の「命」は彼らの頭の中の「国勢地図」のなかではいつでも省略される運命にあり、多数の中のごく一部として処理される特殊事情にすぎない。我々はこうした権力の思い上がりを我々自身のなかの醜悪なるエゴイズムに照らして絶えず監視するリアリズムこそ武器として持たねばならない。従って我々人民の闘いは「命懸けの、命の持続のための、将来の声なき命のための」戦いだということをいつでも想起する必要がある。(中断)

詩361 日米政府の人民乖離が強行する、オスプレイ配備という犯罪の実践

2012年07月11日 08時10分14秒 | 政治論
 日米政府は是が非でも旧式ヘリ交替用オスプレイ配備のため高江にヘリパッドを準備しようと、言わば可能な限り出来そうなところから徐々に外堀を埋め始めた。明日にも重機を搬入、鍬入れとなろう。こうした動きに「実務」段階の「粛々たる」遂行という意味以外には何らの含みはなく、従って今後のオスプレイ配備に関わる県民大集会や議会系の抗議、首長クラスの申し入れによって木っ端微塵に打ち砕く傾向は生み出しつつあるとも言えるが、あらゆるなし崩しの雪崩現象が醸す国家的翼賛行為を叩きのめすには、実力行使に対する実力「座り込み」を徹底的に継続しなければならないのであろう。オバマ、野田、くたばりやがれ!!!(中断)

詩360 雑感6

2012年07月08日 15時34分09秒 | 政治論
 タントラヴァジラヤーナが、人性を究極する意味の所謂「密教」であることは、恐らく、「開放」乃至「解放」された全面的宇宙合一を現実に踏破することで(自己において止揚を実現するという意味)、あらゆる自己束縛たる社会的公的留保になる禁忌を合目的的に(つまり理性において)蹂躙し、反社会的反人性的行為を逆転の発想で正当化する根拠となっているらしい。
 我々の常識というのも疑ってかかるべきものがあるが、社会的に顕現した「犯罪性」によって麻原という人物に欲得、エゴイズム、の兆候を感得する一般市民的常識は、彼の中に「余りに単純な」論理という理性批判を当てはめようとする傾向を生む。
 密教が陥りやすい陥穽は、一般市民的常識というものにさらされたとき、「余りに単純な」論理の実践が人性に堪えないという結果を招来する自然の理(ことわり)につき、予め認知されないという一点に尽きる。
 オウムの実行犯たちが、大概その公判においては麻原帰依を過ちとして認めることになるのは、さながら強制的な「ラスコーリニコフ」現象とでも称すべきことだ。彼(ラスコーリニコフ)に対する徹底的な評家たるポリフィリー検事なら「現代の兆候、しるし」をどこにみただろうか。
 麻原たちにおける、オウム以外の社会に対する殆ど無差別な「テロ」が、本質的に社会に対する一片のメッセージも含まない異常性を考慮すると、彼らが内心において切り捨てたであろう「社会」は、彼らの宗教的神がかり的「エゴ」にとって、彼らの持続的生存を脅かすかあるいは利用すべき唯一の外在だったはずなのに、これに敵対することで彼らの行為が、犯罪心理学上の一症例程度のものに堕したとみえるのを如何ともしがたい。
 およそカルトが、多くの場合社会的照明に晒された瞬間、その存在自体の「非社会性」乃至「非常識性」により、見るうちにその異常性ばかりが際立ち、「問題性」を喪失する現象というものを見据える必要がある。
 我々の誰にでもその中にあるだろうカルトへの胚種を探ること。70年安保の頃、あるいはその前後、若者たちはその「精神性」の飢渇においては、恐らくは彼らの近い祖先たる人々が醸した、明治大正昭和を通じてのこの国の「精神的運動」成果を糧にして成長したのであろう。だから彼らの中には、彼らの若い正義感を刺激する「反体制」思潮を顕著に見ることができる。
 佐木隆三氏は「大義なきテロ」と称したが、オウムにあって決定的に欠落した「社会性」は、反体制ではなく自身が体制だと主張することで外的体制そのものを否定する結果を招来している。
 しかしながらその内容如何に関わらず、「個人」乃至「人間一般」の「救済」を希求するがゆえに始まったであろう「求道精神」の行き着いたところは、なんという修羅場だったものか。
 飛びぬけた知的エリートたちが等しく陥った陥穽は、果たして大本営発表並みの「マインドコントロール」でかたがつくのだろうか(つまり麻原という詐欺師への奇妙な帰依という漫画じみた世界)。「救済」は結局政治的絶望と表裏一体ではなかったか。
 彼らを不徹底な政治的テロリストとみなした場合、彼らの本音は果たして「人生の敗北」として感得されるのか。
 ここで唐突に、この時期の米国軍事方針から、とうの昔に配備予定されていたオスプレイ展開について、沖縄側から考えるとき、政治的無力感からくるテロへの実戦的考察を、沖縄のひとたちが実行することは果たして異常に非常識な反社会的行為であろうか。
 かつてのコザ騒動が、鬱積した憤懣の爆発という自然性によったということは既に誰にも分かられている。この極度に節度ある暴発は「声なき民」の代弁に違いなかった。今同様な「理不尽なる国家的行為」に直面して極度に暴力的な反攻を加える可能性はどうも否定できない。(中断)

詩359 雑感5

2012年07月01日 21時16分16秒 | 政治論
 日本国憲法第2章第9条 
 1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。
 2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 この明確な戦争の放棄条文は、どう解釈しても自衛隊と日米安保条約の憲法違反実質を暴いている。当然これだけでもこの度のオスプレイ展開の無効性は明らかだが、同盟国のどちらか一方の無条件条約破棄が認められている限りは、アメリカの一方的軍事展開行使を拒否する機会が日本側には残されていると解釈できる。
 「あなたがたが沖縄県民乃至日本国民の危機感と拒否の意思を無視して、オスプレイを強引に日本国内展開行為に付すのなら、即時に条約は破棄しますよ」と警告するだけでよい。
 ある意味、沖縄だけでなく列島全域に飛行訓練経路を示すことで、アメリカはこの日米同盟の偏頗な核心を衝いているとも言える。つまり「沖縄問題」の中心的要素を引き出したようなものだ。
 アメリカ側が振ったサービスゲームに乗って、国策のアドバンテージを得たと了解し、外交問題の中心に沖縄問題を据えることだ。日本国中が安保用軍事基地の受け入れに忌避の念を表明しているなかで、沖縄だけが嬉々として受け入れた経緯などは全くないのに関わらずこれを(基地負担を)強要する、強要できる理由は当然ながらどこにもない。
 従って日米の現今同盟関係の軍事的局面にあっては、「アメリカ対沖縄」の宗主国対植民地的な偏頗性に鑑み、「日米軍事同盟」に対する現今国家レベルの妥当性を国民審判に付す必要があろう。
 いずれにしろ安保容認派である仲井真知事が、防相と会談後記者へのコメントにしろ基地全面閉鎖即ち安保条約破棄まで言及したのは、沖縄県民民意明示の意味では誠に当を得ていた。
 辺野古にしても、彼らは沖縄県民の意思如何に関わらず必ず搦手は固めていく。今回も事実上どうなるにしろ、計画通り配備に向けた作業は持続する。しかしながら副総理の岡田のごとき、国家国民の命運すら、アメリカにその絶対的権限を認証する国賊を許すわけには行かないのだ。国民の命よりアメリカ覇権主義を尊重するような精神的遺物は必ずこの国から放逐しなければならない。(中断)