原初の水、原初の塵。 これらに人の形が与えられ、見通しと活力が加えられた。 これにより水の不満、塵の怨念は自分で形に出来るようになった。 これが人型の理由。
今の世界は多くの人型に自由が与えられるのを良しとされている。 それが為すべきことが間違われている状態なのでは、という見解を書こうとしている。
「世界のあるべき」が無く、人型たちに自由がある。 結果、彼らは互いに奪い合い殴り合う。
原初からある水の不満、塵の怨念が人型になった。 天の者たちが彼らに仕えなければならないとすると、彼らの略奪、殺人を助けなければならないとなる。
私は彼らには「世界のあるべき」に沿った不自由が与えられるべきだとする。 その中で彼らは自分のあるべきを探さなければならないと。
妄執に人型が与えられた。 自由であるべき、ではなく。
私が示さんとする順序は以下のような。
1 「世界のあるべき」が掲げられる
2 「あるべき」に沿って整備が成される
3 妄執の人型は維持されるが、妄執自体は助けられない
4 人型それぞれが「あるべき」の中で自分がどうあるかを決める