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アラフは扇動者、教育を知らない

幸福と不幸

2017-05-21 02:09:29 | Weblog
幸せと不幸せって反対の概念ではない、としたら怪訝に思われるだろうか。
「幸せな状態」は割と、自分で認識する、自分を幸せにする何かが有る時に喜び、それが離れた時に「ああ、自分は幸せだったのだ」と気付く。 そして似たようなものがまた来た時の喜びに、「ああ、今自分は幸せなのだ」と思うと。
一方の、不幸せは、他人が決める面がある。 一般には怪我や病気等の健康上の問題が続いている、自分の子などを亡くした際の心の痛み、他人に毟られ続ける状態、何をやっても上手くいかない時の、全てがどうでもよくなる無気力感など。 個々に内容が結構違う。 無気力感が有る時は自分で自分を不幸だと認識する。 心の痛み云々は永くあると期待していた幸福が去ってもう帰ってこなくなる状態で、不幸だという認識よりも感情としての悲しみが強くあると。 健康状態については身体の苦しみだわな。 「何でもいい早く終わってくれ」とか「何故こうなったのだ自分をこのようにした何者かを恨む」とかの、感情があると。 「終わってくれ」という願いよりも「何故だ」との恨み怒る感情の時の方が、余裕がある。 多分。 毟られる状態が続く時。 これは往々にして、それが不幸とされる状態なのだと気付かなかったりすると。 指摘され、何らかの形心に余裕が出来顧みると納得する。 その状態は不幸だったのだ、と。

・幸福は主観だが不幸は客観
・幸福自体は感情だが不幸は状態認識

必ずしも全パターンに当てはまるわけではないが、同じものの両端、対義、裏表の関係ではなさそうだ。 幸福かつ不幸という状態も幸福ではないが不幸でもないという状態もあり得ると。

こうしたものから考える。
幸福は幸福感でありその反対は悲嘆や憂鬱感。
不幸は不幸状態の認識でありその反対は有能感の確信や心身充実の確認。

「知恵があるから不幸なのだ」といった話があったりする。 私はこれは嘘だろうとする。 知恵がなくとも当人が「嫌だー逃げ出したいー」と思い続けるが叶わない、そういう状態はありうる。 「嫌だった。 抜け出せて良かった。 もうあのようにはなりたくない」と思う事もあるだろう、これは「不幸だ」という認識、概念を外部から与えられたものとは違う。 概念として認識されなくとも当人は忌避する、これは「不幸に気付いた」状態となんら変わりない。
「彼らは幸せだったのだ」はどうだろう。 私なら「勝手に決めるな」と怒るかもしれない。 なるほど「彼らは幸せだった」は、知恵の悪用に該当するのだろう。 発言者が「馬鹿のままでいてくれた方が都合がよかったのに」と思っているだけの事と。
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