狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

悪人はどうしたら悪人を止めるのか

2016-11-17 10:19:06 | Weblog
2009年からだったと思う、聖書でつっかえている部分がある。 出エジプト記の真ん中ら辺、金の子牛事件の手前である。
「思考が妨害される」とでもしたもんかな、この事をして私は「聖書の霊たちに不義がある」とし、該当部分を「ジャンクだ」と書いた。 さてこの行い、正しかったかなと考えたと。
該当部分。 神様が、モーセ氏に、祭事の詳細を指定する。 さてここを、ユダヤ人の子等、の一部、はどう読んだだろうか。 想像する。 神様が、楽しそうに、祭りを創る。 そういう場面なのではないか。 そう考えた。
なるほど、そこはそれでよい。 そういうものなのだ、とするとそこにはそういう良さがある。 では私が感じた、聖書霊とユダヤ人たちとの癒着関係は真か偽か。 真であろう、そう話を進める。
考える。 聖書霊たちにとって私はどう映っただろうかと。 ひょっとしたら、強く、暗く、不可解な、恐ろしげな何かだったのではないかと。 仮にそうだとするなら彼らの有り様は、全くおかしい何か、といったものではないとなる。 必ずしも。
どうしてこうなった。
私はなにに怒っていたのか。 不義の関係がある、この一点である。 一方に、聖書は子供たちが楽しく読み学ぶものである、という面もある。 そうである、ならば義も不義もない。 問う対象ではないはずだ。 どうしてこうなった。

ふむ。 教会人たちが言う。 聖書が義である、と。 これに対し私は「そこに不義がある」とした。 なるほど、子供たちの読み物、であるならば不義の指摘は無用の長物、だが教会人たちが人間たちを支配する手段とするならば私が怒る、こうなる。
「その者に不義がある」これを避けるため私は私を「正義」ではなく「正義殺し」とした。 おかげで私は自分に焼かれずに済んでいる。 その者に不義の面あり、さてこれ「死」であり「義」であるとするそれに当てはまるのか。 是、であろう。 押しつけてはいる。

崖から落ちそうな蛇をライオンが助けようとしたところそのへびがライオンを咬んだ。 助けるはずだった側が問う、何故咬んだと。 助けられるはずだった側答える、蛇だからと。
この物語、なかなか曲者なんじゃないかなと思う。 最良解は何だったのかと問うと多くの人が「ライオンが蛇を助けない」と答えるのではないかと。 私は「両方助かる」がそうだとするもので、同意見の人間も結構居るんじゃないかと思う。 そこでさらに問うわけだ。 次善解、二番目に良いのはどういう状況かと。 私はこれを、ライオンが助けようとし蛇だけ助かる、とする。 最悪解は、というと両方助からない、ではなく、ライオンが助けようとしない、であるとする。

ソロモン王は祈った。 イスラエルの民以外もまた彼らと同様であれ、と。 これ大問題、大難題でね、例えば盗む人はどうしたら盗まない人になるのかと。 これの答えが、盗まれることを恐れ続けるならば、だったりする。 つまり神様は、盗む人を金持ちにし続け、周りにそれを窺わせる、となったりする。 聖書の転換点。
コメント
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