狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

復活の理

2015-11-24 13:14:15 | Weblog
人は何故、人間は何故罪を犯すのか、の答えの一つとして私が挙げるのが、その人の価値が無いから、である。
その人無価値、と書くと罵倒しているかのようだが此処でのそれは、当人にとっての人生のそれである。 こう書くと「自己評価ね」と理解する人が多いだろう違いを書く。
一例。 たしか1990年代後半、リストラ時代の日本での一幕。 高度成長期、バブル期の就職戦線では企業からラグビー部員が歓迎されていたがある年これが、なくなった。 面接官から「何の役に立つ」と問われたその年卒業ラグビー部員愕然とし、「足下が崩れ去った」様だったと。 これが自己評価と自己価値の差で、もし当人ににとってのそれこの場合はラグビーが自己価値だったならば、平然とか自身の驚愕に苦笑しながらかはともかくも何らかの答えは出せただろう例えば、「気分転換の方法を知っています」などの。

タッチパッド使えねー何勝手に拡大縮小するんだか。
設計者死ねや。

自己評価と自己価値。 自己価値を知らない人間はそれを自己評価だと思い込む。 他人の評価が反響しているだけのそれは場面変われば消えてなくなる。 宗教的な人には「自己価値とは神様に対する自己評価である」でも通じるだろうだが通じる人はそれを持っている人。
自己無価値問題。 売春婦の心、奴隷根性とも通じる神様にとって主要命題だったそれの解決方法がお祭り騒ぎ、宗教新興、酒や麻薬、賭博、性欲支配欲、継続する身体的虐待、それとそれらの一大集大成である戦争。 大勢死ぬ中もがき苦しみ無価値人が有価値人に変わる。 死んだ人死にある霊は適当な頃合い新たな「遊び」を準備して復活させればよいそれで無価値の生者死者共に再挑戦となる。

だった。 過去形なのだ。 そうした手段に拘る理由はもう無く残るそれらは別の手法で対処、今ある命題は複数価値悪質選択。
コメント
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