箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

おおみそかと煩悩

2019年12月31日 07時38分00秒 | 教育・子育てあれこれ



今年もあとわずかとなりました。

さて、おおみそかに聞くのが除夜の鐘です。人間には、煩悩が108個もあるそうです。

だから、鐘をついて、煩悩を消滅させるのです。

煩悩とは、人の心を苦しめたり、悩ませたりする心の動きです。

その煩悩の一つに「怒り」があります。「怒り」は、誰もがもつ自然な感情です

たとえば、私が市内各中学校を回っていて、廊下で会う生徒のうち。けっこうたくさんの人が「こんにちは」とあいさつをしてくれます。

こちらからもあいさつをしますが、「こんにちは」と返してくれる生徒もいれば、まったく答えてくれない生徒もいます。

あいさつしてくれる生徒の場合、やはり心が通い合い、嬉しくなります。

でも、してくれない生徒の場合、こちらはいい気がしないのが正直なところです。

そのとき、「わたしがあいさつをしたのだから、その生徒もあいさつをするべきだ。あいさつをしない、無視をするその生徒がよくない」という捉え方をしたら、怒りを感じます。

ところが、「その生徒は、他のことや考えごとで精いっぱいだったのだ。だったらしかたがないよね」という捉え方をしたら、怒りを感じないのです。

つまり、なにかのできごとに自分がどういう捉え方をするかで、自分の中に電流が流れ、怒りを感じるのです。

ということなので、電流を流さないためには、こだわらないことであり、「まあ、いいか」と許容する幅を広げることで、穏やかな気持ちで過ごすことができます。

でも、どうしてもこだわってしまうときには、二つの方法があります。

① 状況を変えることができる件なら、自分が何をすればいいかを考え、働きかけること。

② 状況を変えることができない件なら、それを受け入れ、気持ちを切り替え、別のことを考えること。

あまり、怒りの電流を流さず、新しい年を迎えたいと思う年の瀬です。

みなさま、よいお年をお迎えください。

何度も何度も繰り返すこと

2019年12月30日 07時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ
今年もあと2日となりました。

あいにく雨が降っています。

雨だれが石を穿つ(うがつ)のは、激しく落ちるからではなく、何度も何度も落ちるからです。

「穿つ」とは穴を開けるという意味です。

滴る雨でも、固い石に穴を開けることができるのは、長い年月にわたって滴り続けるからです。

たとえ微力でも、粘り強く、根気よく続けることで大きな目標も達成することができるという意味に解します。

私は、校長在任中の2017年の5月頃から、このブログを毎日更新に変えました。それ以前は、2日に1度というペースでした。

慣れると、苦痛でなくなり、いまはルーティーンワークのようになっています。

習慣というものはこのようにしてつくられるのかなと思います。

中学生の人も、一時は懸命に、がむしゃらに努力するよりも、毎日小さなことでもコツコツと継続すれば、大きな目標に近づくことを伝えたいと思います。

読解力を上げるには

2019年12月29日 08時52分00秒 | 教育・子育てあれこれ



PISA調査(学習到達度調査)の結果が出ました。

この調査は、3年ごとに世界の15歳の読解力、数学的応用力、科学的応用力を調べています。

日本はとくに読解力の順位が、世界的にみて低迷していることが、問題点として指摘されました。

懸念するのは、日本の子どもが読解力に課題があるからと、また学校に読解力向上の取り組みを強化する動きになることです。

また、学習指導要領に読解力向上が盛り込まれ、教育改革につなげるのでないかと心配します。

そもそも、PISA調査がいう読解力の豊かさは、価値観の多様化に関係します。

その点で、高い読解力をもつためには、自分なりの価値判断ができなければなりません。

それはちがった価値観を持つ人と対話や議論をして養われていきます。

まして、外国人とのコンタクトが増えている現在、外国の人と意見を交流して異なる価値観を知って、認める経験を積むことで、自分なりの価値を判断でき、読解力につながるのです。

いまの日本の教育現場では、そのような場が十分ではないので、読解力を培う土壌が痩せているのです。

拙速に、たとえば読書に力を入れるとか、「国語の授業を充実させれば、読解力が上がるね」と、短絡的に捉えないことを望みます。




執着することに意味があるのか

2019年12月28日 11時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私は、高校のときヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を文庫本で読みました。

とても、奥の深い名作で、主人公ハンスは神学校に上位の成績で入学しますが、学習ばかりする自分の人生に疑問をもち、次第にドロップアウトしていきます。

純粋な心を失っていくハンスでしたが、ちょうど時期的に私もそのような心境の頃で、必死で読んだことを覚えています。

その『車輪の下』を書いたヘルマンヘッセが残した言葉に、次のものがあります。

「しがみつくことで強くなれると考える者がいる。

しかし時には手放すことで強くなれる。」

今やっていることをやめたいけど、やめたら先々が不安。我慢していれば、そのうちに何とかなるだろうと考える人もいるでしょう。

しかし、思いきってやめることで、新たな道が開かれることもあるのです。

耐えることも大事ですが、いまの生活が、自分にとってほんとうに必要なのか。執着することに意味があるのかというヘッセからの問いかけを感じとります。

言葉でカタチをつくる

2019年12月27日 10時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ


車の色についての話です。

私はそもそもあまり車の色について、こだわりがあるほうではありませんが、街でひときわ「きれいな色だな」と思い、注目する赤色があります。

私の学生時代に、昔、赤色の車がはやったことがありましたが、その頃の赤色とは、全く違います。

しみじみと、何とも言えないきれいな赤色だと思う車を最近見かけるのです。

それは、MAZDAの車の赤色で、調べてみるとその色は「ソウルレッドクリスタルメタリック」というそうです。

この色の車は、他の色の車と比べて、同一車で7万円ほど高くなるそうです。

高くなるため、たとえカラーオプションの注文が少なかったとしても、ここまで色の美しさにこだわるMAZDAのブランドに対する姿勢を感じます。


そもそも、人はそれとなく、なんとなく、身体でつかんでいる「感覚」というものがあります。

そこに「言葉」が加えられると「イメージ」ができ上がるのかもしれません。

こう考えると「言葉」はカタチなのかもしれません。「感覚」に「カタチ」が付与され、「デザイン」ができる。

その意味で、MAZDAというメーカーは、ブランドとして、「美しさ」というデザインを表現していることになります。

こう考えると、「ソウルレッドクリスタルメタリック」という言葉は、じつに見事な色の名前であると、私は感心するのです。

中学生が、なにかわからないけどすごくいい感じ、でも言葉で表せないという体験や経験を街中ですることがあります。




たとえば、生徒が舗道に落ちている銀杏の落ち葉を見て、いつだったかおぼえてないけど、なにか懐かしく、惹かれる感覚を覚えた。

それには幼い頃、母に連れられ歩いた街路樹という体験が隠れていました。

そのとき、誰かが「郷愁」という言葉を教えたら、ピッタリとはまり、納得するのです。

ということで、私はあらためて「言葉」の大切さを理解するのです。


子どもをコントロールできない

2019年12月26日 15時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ









「校長が変われば、学校が変わる」という言葉があります。

「親が変われば、子どもが変わる」と子育てに関して、教育心理学で言われます。

それは、一面的には真実だと思います。
でも、親の態度が変われば子どもが必ず変わるかといえば、それはわかりません。

変わらない場合というのは、親が子どもに、自分が思うように変わってほしいと望んでいるケースです。

大人が子どもをコントロールしたいと思っている場合には、子どもは変わりません。

子どもが大人の話を聞こうとするのは、自分の話を聞いてくれると思うからです。自分の話を途中で遮ったり、批判しないという安心感があるからです。

かといって、子どもの言うことや行いに、親が自分の意見を曲げてまで賛成しなければならないということではありません。

賛成することと理解することは別物です。「わかったけど、ここはおかしいと思います」と、自分の意見を伝えれば、子どもはその意見を聞こうとするかもしれませんし、自分の考えをもっと説明してくれるかもしれません。

それを、聞きもせず「それはアカン」とか「ダメだ」と決めつけるから、子どもは「それならもういい」と心を閉ざすのです。

「どうもあの生徒は本音を言ってくれない」と教師が嘆くのは、それは子どもの課題というよりは、「言わせない」ようにさせている、その人自身の課題であると言えるのではないでしょうか

自然の流れにまかせる

2019年12月25日 08時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ






私の娘の子はいま2歳半になりますが、少し前まで人見知りが強くあらわれました。

お母さんとお父さん以外の人を見ると、「わー」と泣き出し、久しぶりに会ったので抱っこしようものなら、大声で泣きわめきました、

こちらにすれば、仕方ないと思いました、

それと同時に、こうも思いました。

少し前までは、知らない人にも、微笑んでいたのに。

でも、思い直しました。
人見知りとは、人を見て正しく判断し始めるようになったのだと。

つまり、母と父を絶対的に安心感のある人として認識して、心を向けることができるようになったのだと思ったのです。

ゆえに、人見知りとは成長の証だと、私は考えます。


その後、大きくなって思春期には、親やおとなに反抗する時期が現れるのがふつうです。

親しかった人に心を閉じることも特徴です。

でも、これも成長の一過程です。

親からの自立を求め、独り立ちしようとしている時期です。

親に依存しなければ生きていけない子どもから、親を越えようとしているのが思春期の成長です。

この時期の子育てのキーワードは「見守ること」です。

おとなに見守られ、自然と子どもは成長していくのではないでしょうか。

だから、自然の成長の流れにのって、その時期に応じて、子育てをしかたを変えていけばいいのです。

子どもの可能性を信じて、その可能性を伸ばす環境づくりが必要になってきます。

「早くするのよ」。このように急かさない。

本人にとって大きすぎる理想もいりません。

自然に子どもが育つ流れにおとなが合わせるのが、中学生の子育てだと考えます。






話しかけやすい先生

2019年12月24日 09時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ






箕面市の小中学校は、本日2月期の終業式を迎えました。

インフルエンザによる学級休業(学級閉鎖)が、箕面市内で出ています。

冬休み中の健康管理にご留意ください。

さて、基本的に、学校には子どもと先生がいて、先生は子どもに話しかけます。そして子どもは先生に話しかけます。

子どもは話しかける先生と話しかけない先生をどのように区別しているののでしょうか。

生徒に聞いたことはないですが、一つには、今までに先生に話しかけたときの生徒の経験があると思います。

以前に話しかけたとき、生徒がイヤな思いをした先生には、もう話しかけようとは思わないでしょう。

じっさいに、わたしがまわっている中学校でこんな実例を見ました。

職員室を訪ねてきたある生徒が、「〇年〇組の〇〇です。〇〇先生はおられますか」と、あいさつをして職員室入り口に立っています。

背中でその声を聞いた先生が振り向いて、「その前に、することがあるやろ。シャツを中に入れてから来なさい。前もゆうたやろ」と言いました。

昔なら、こういうやりとりはよく見聞きしましたが、いまの学校には、なじまないやりとりです。

子どもは先生のふだんの様子をよく見ているものです。先生の人となりや話を聞いてくれそうな人か、適切にアドバイスをくれる頼りがいのある人かを判断できます。

いっぽう、子どもにとって苦手な先生もいます。

すぐ大声を出す人、すぐ感情的になってむきになる人、話を最後まで聞いてくれない人、説教をし始める人、また一番いけないのは、生徒によって態度を変える人です。

わたしは、教職経験の少ない先生の授業を見て助言し指導する役割ですが、生徒への話し方や生徒指導、学級づくりについても、若い先生に話すことがあります。

そのとき、人を傷つける言葉は言わないということを基準にします。

それにより、教師が生徒に発する言葉を是か非と判断します。

これは、生徒同士の会話でも同じです。生徒の言う言葉を何でも「うん、うん」と受け止めるのではなく、そういう言葉が出たときには、「それはあかんやろ」と、はときり伝えなければなりません。

そう言う私でも、使ったこと言葉が相手を傷つけていることがあります。自重して、人を傷つけないようにしたいと思っています。

忙しい教員なので、話しかけるかどうか生徒も気を遣います。

「話しかけてください」という雰囲気は表情にあらわれます。

明るい気持ちでいる内面は表情に出ますが、不満そうで面白くなさそうな気持ちも、表情にあらわれ、誰も話しかけようとは思わないでしょう。

自分の声を聴く

2019年12月23日 08時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ







箕面市内のある中学校の体育の授業でのことです。

一人の女子生徒がケガをしていて、その1時間の体育ではハンドボールの実技を見学することになっていました。

その子に対する体育担当教師の話し方が鮮やかで、印象に残りました。

「〇〇さん、今日1時間は、たいへんな仕事をしてもらおうと思います。こちらにあるんだけど」と言って、近くの体育倉庫までいっしょに行きました。

「このラインカーで、二つのハンドボールコートのラインを引こうと思うんだけど」

「けっこうたいへんなんだけど、やってみる? できるかな?」

その生徒は、首を縦に振り、「はい、やります」と答えました。

そして、ラインカーの使い方を教わり、一人でしっかりと2コート分のラインを引き終えました。


こんな日常の学校風景から、わたしが思うことは、生徒が自ら発した言葉が持つ意味です。

人は自分の考えを言葉にするとき、その声を自分で聞き、自分の意思を固めます。

この場合は、「はい、やります」と自分で話したことが、ライン引きを最後までやりとげる力になっています。

自分の考えや思いを言葉にしたとき、それを自分の耳で聞きながら話して、自分の決めたことや思い・考えを理解して、気がつくのです。

人は、ふだん自分の気持ちに全部気づいているのではないのです。

あわただしく過ぎる日々の生活のなかで、私たちは自分が感じていることに気づかずに時間を過ごしていることが多いものです。

だから、話す機会や時間をもった人は、話しながら「自分がこう思っているのか」に気がついたり、「はい」と答えたということは、自分はやらねばならないし、やりきれるんだという意識をもつのです。

これが、生徒が言葉にして答えたり、話したりすることの効果です。

思っているだけではなく、言葉にすることで、人は自分の考えや思いにあらためて気がつきます。

人に命令されたり、指示されるのではなく、自分で発した言葉ということで、その責任を引き受けていく覚悟や自覚が生まれるのです。

私たちは大人であろうと、子どもであろうと、「自分の声を聴く」必要があるのです。

自律の気持ちに対応

2019年12月22日 09時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ








自律したいという気持ちは、子どもの成長とともに現れてきます。

「自立」とちがい、「自律」は自分がやることは自分できめる。自分がどうするかは、他者ではなく自分できめる(自己決定)ことです。

スマホをさわっている子に、「もう勉強する時間よ」と言ったところ、「今からしようと思っていたのに」と子どもが反応した経験があると思います。

子どもは、本当に、もう学習をしようと思っていた、または、しなければいけないなと思っていたのです。

ところが、自分を律して学習を始める前に、親から言われたことで、自分のやることを自分で決めることができなくなりました。

言われてから、スマホの画面を消してテーブルの上に置いても、自分の意思でそうしたのではありません。

自律したいという気持ちが実現できなくなりました。

あとなは、子どものようすをよく観察して、タイミングよく声をかけることが必要です。

「あと何分ぐらいで、勉強しようと思っているの?」とタイミングをみはかって声をかけます。

子育ての環境について

2019年12月21日 08時35分00秒 | 教育・子育てあれこれ






わたしが学級担任をしていたころ、親御さんから尋ねられたことがありました。

この子に意欲が足りないと思うのは、もともとののんびりとした性格でしょうか、それとも、のんびりと育ててきたからでしょうか。


じっさいに、クラスを見渡すと、何でも意欲的に取り組む子もいれば、授業中でものんびりと学習する子もいます。

「それは、生まれつきの性格でしょうね」。

こう言ってしまえば、みもふたもありません。

これでは、子どもの意欲を育むことはできません。

だから、子どもそれぞれの特性というか性格をよく理解して、それぞれの子にあったやり方が必要になります。

そして、子どもを育てる環境を整えます。

そのとき、人の成長を親がどう捉えているかが左右します。

①  人間は、放っておくと、怠ける。だから子どもの場合は、おとながコントロールして育てる。

②  人は自分で自分を伸ばしていける。だから、環境を整えれば、自分で行動するようになる。

①を思う人は、相手を管理して、自分の思い通りにしようとする支配型親になります。

②をよりどころにする親は、子どもの興味に関心をもち、やる気を出す言葉かけをする環境調整型親になります。

もちろん、親は①と②の中間の子育てをされている場合も多いとは思います。

じつは、学校の教員にも、児童生徒をどう見るかが問われてきます。

ただし、私は基本的には、②の人間観・子ども観に立って、ブログをずっと書いてきています。

「救育する」とは、英語でeducateです。

educateの本来の意味は、「引き出す」です。

その意味で、子育ての環境を整えることはたいへん重要です。


しかし、その前に、親がどんな人間観や生活観をもち、どのような生き方をしているかが、子どもに重大な影響を与えます。

つまり、親こそが子育ての環境なのです。

同じように、教師が教育の環境だとも言えるでしょう。

だから、私たちは、困難なことに対しても、前向きに生きていたいですし、日々のできごとに感謝して生きていたいのです。

そんなおとなの態度を、子どもは引き継いでいきます。


任されるとできるようになる

2019年12月20日 14時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ








ある生徒が言っていました。

「うちのお父さんは、旅行へ行くときも、出張ででかけるときも、着替えをかばんにつめたりの支度を、全部お母さんがやっている」


また、あなたの職場にこんな人はいませんか。

仕事はするにはするのだが、言われたことしかしようとしない。大人なんだから自分で必要と思うことを工夫してやればいいのに。

もし、上司や同僚がこんなふうにぼやいているとき、ひとつ考えてなければならないのは、その人に仕事を任せているかという点です。

人は、仕事を「あなたの仕事」として任されないと、「こうしたらどうだろうか」と考えたり、この点についても配慮すべきだというように、注意力や意識が広がることはないのです。

このことは、思春期の子どもも同じです。親が学校にいく前に、「〇〇はもった? 今日の授業では、ポスターカラーがいるから、かばんに入れといたよ」と、親が準備していたら子どもはいつまでも自分で準備するようにはなりません。

そういった子は、あるときに授業の準備物を忘れて困っても、家に帰ると「お母さんが準備しなかったから」と親のせいにすることにもなります。

「自分のせい」と思わず、人のせいにしているところでは、子どもは失敗やまちがいから学ぶことは何一つありません。


大人であっても、子どもであっても、仕事やものごとをするときに自発性があるかないかは、意欲に関係します。

その自発性は、ものごとや仕事を任されるかことよって引き出されます。

子どもの場合はとくに任せてもうまくいくかどうかはわかりません。期待通りの結果にならないこともあるでしょう。

でも、任されていれば、うまくいかなかったことでも、「こうしたらどうだろうか」とか「今度はこうしよう」と思い、意欲が出てくるのです。

子どもは、任されることで責任感と意欲が高まり、できるようになるのです。



輝く学校

2019年12月19日 07時27分00秒 | 教育・子育てあれこれ




いまから80年ほど前の詩があります。


学校遠望       詩人 丸山薫

学校を卒へて歩いてきた十幾年

首をめぐらせば 学校の思い出のはらうかに

小さくメダルの浮彫りのやうに かがやいてゐる

そこに教室の棟々が瓦をつらねているゐる

ポプラは風に裏返って揺れてゐる

先生はなにごとかを話しておられ

若い顔たちがいちやうにそれに聞き入ってゐる

とある窓辺で誰かが他所見(よそみ)して

あのときの僕のやうに呆然(ぼんやり)こちらをながめてゐる

彼の瞳に 僕のゐる所は映らないのだろうか?

ああ 僕からはこんなにはっきり見えるのに



考えてみれば、教室で授業を受ける生徒には、一人ひとりに将来・未来があり、そのそれぞれが、いまからつくられていくのですが、おのおのちがったものになっていきます。

そして、中学生のときには、先のことはこれから起こることであり、見通すこともなかった将来・未来だった点に、やがて誰もが立つことになるのです。

それぞれの生徒が社会や家庭や地域で異なった生活をしていても、そのもとになるどんな学習を積んできたかをたどっていくと、誰もが学校の「教室」にたどり着くのです。

でも、それは学校にいるときには、将来そのように逆戻りして思い出すことになるとは思ってもいなかったのです。

「授業が楽しい」「授業がつまらない」というありきたりな学校生活を思い出すのです。

このように考えると、現在の「わたし」は中学時代の「わたし」につながっているとあとで気がつくのです。

学校とは、人生の中で重要な位置を占めています。


生きることに必死すぎて

大事なことを見逃していた

一度来た道 引き返して

あの校庭に立つんだ

さあ、母校へ帰れ
  
 (秋元康『母校へ帰れ』[NMB48])





贈り物

2019年12月18日 07時55分00秒 | 教育・子育てあれこれ







1年は早いもので、もう師走。

お歳暮を送ったり、クリスマスプレゼントを準備する時期です。


誕生日のとき、お別れのとき、出会いのとき、相手が昇進したとき、結婚したとき、出産したとき・・・、人は贈り物をします。

「贈り物」は、「送り物」にならないように、気をつけたいのです。

贈り物には、心がこもっているので、心もいっしょに届くのです。

包み紙にもリボンにも、パッケージにも、気持ちがこもっているのが、贈り物です。

受け取った人には、品物だけでなく、おくった人の気持ちや心まで受け取って、感謝するのが贈り物です。


不安を取り除く

2019年12月17日 08時33分00秒 | 教育・子育てあれこれ




シンクロナイズドスイミングの井村雅代さんは、以前に中国チームのコーチをしていました。

井村さんご自身の講演で聴いた話を紹介します。

北京オリンピックを前にして、四川省出身の中国チームの選手が故郷を離れている合宿中に、四川省大地震が起こりました。

それは2008年のことでした。

家のことが気になる。でも、オリンピックが迫っており、戻ることもできない。

不安で胸が張り裂けそうになり、動揺して、シンクロを投げ出しそうになる選手を励ましたのは、井村コーチの言葉でした。

考え抜いた末に、井村コーチが選手に投げかけた言葉は、「ここは北京です。みんながあなたを応援しているよ」でした。

その人のことを想い、ひねり出した言葉は、聞く人の胸に届きます。

コーチが選手にできるのは、もちろん技術指導ですが、それ以外にメンタル面を支えることです。

試合前に選手が抱く不安要素を取り除くことであるのかもしれません。

翻って、教育や子育てで教師や親ができるのは、子どもの不安を取り除き、子どもがくじけそうになる心を、自信をもってものごとに向かっていけるように変えることではないかと思うのです。

たぶん、コーチというものは、子どもが幼い頃は「指導者」の役割がおもです。

しかし、思春期の頃は、「指導者」的役割を残しながら、「理解者」になるのが教師や親の役割でないかと思います。

私たちは中学生と接するときには、子どものよき指導者・理解者として、信頼関係をもとにした教育・子育てをするのです。

子どもが教師や親を信頼していればこそ、子どもの力を引き出し、意欲を喚起します。

また、信頼してくれている大人の期待に応えたいとして、子どもは取り組むのです。