箕面三中 校長室からのメッセージ

おもに保護者のみなさまに向けたメッセージです。生徒の近況を伝えるとともに、教育と子育てについての情報をお伝えします。

子育ては、人育てと似ている

2015年10月31日 18時08分37秒 | 校長からのメッセージ

                
私には、学校を経営するうえで常に大切と思っていることがあります。それは三中の教職員が主体的に働くことができるように、校長としてサポートすることです。

たしかに「あれはこうする」「これはこうしなさい」と指示したほうが早い場合もあります。

でも教職員としての成長・力のアップを考えた時には、「あなたはどうしたいのか」「そのためにはどうするのがいいと思うか」と考えさせることが必要です。そして「わたしに何か手伝えることはありますか」と最後に添えます。

このようにして、できる限り教職員の意見を引き出して、本人が主体的に考えて出した答えを尊重しています。(もちろん、即断即決が求められるときは、こちらから「あれはこう、こうしなさい」と指示する場合もあります。)

そして、できるだけその教職員の行動やともなう子どもの様子を見て、あまり細かいことまでは口出しするのを控えます。そのかわり何かあれば最終的な責任は私がとります。成功しても、かりに失敗しても、教職員が主体的に考え、熱心に取り組んだことに対して、本人自身でふりかえりができるようにします。

人はやらされるのではなく、自分で考え、自分で出した答えを実行するときには責任感がともなってきます。そして、成功するから意欲が高まり、自信がついてきます。このような経験を積み重ねていくことが教員としての成長なのです。

ところで、この教員育ては、子育てに似ているのではないでしょうか。

「ごはんの前にお風呂に入りなさい」
「また部屋を散らかしている。片付けなさい」
「塾へ行くまでに、宿題をすませないさい」・・・・

このように、指示すると親としては楽かもしれません。(もっとも、小学生の低学年までなら子どもは親の言うことを聞くでしょうが、中学生にもなるということを聞かないので、かえって親のストレスがたまるかもしれませんが。)
 
しかし、指示してばかりでは子どもの主体性は育ちません。

「お風呂はいつ入るつもり?(早く入ってくれると助かるけど)」
「この部屋を見て、あなたはどう思う?(お母さんは残念だけど)」
「塾へ行くまでに、何かしておくことはある?(学校の宿題をすませておけば早く寝ることができると思うけど)」 (  )の中の言葉のように、自分の気持ちを添えてもいい。

そして子どもが出した答えを受け入れ、見守るのです。基本的にこのようにして子どもの主体性や実行力は育っていくものだと、私は思います。
コメント

交通安全の敵は自動車でなく、自分自身

2015年10月29日 18時37分01秒 | 校長からのメッセージ

今日の6限に全校生徒を対象に、スケアード・ストレートを行ないました。
この交通安全教室の冒頭での私のあいさつをご紹介します。

100人いれば約75台。これが大阪府の自転車台数です。一方、100人いれば約55台が全国です。全国的に見ても大阪では多くの人が自転車を使います。そして箕面市でも多くの中学生が利用します。そして、自転車が巻き込まれる交通事故が多発しています。

箕面市では今年の1月より、「自転車安全利用条例」が始まっています。携帯電話を使用しながら自転車に乗った場合、またスピードの出し過ぎなど危険な運転をしている人を発見した場合には、警察が指導して警告を行い、「自転車安全指導カード」を渡します。この中に、警察から指導された人はいませんか・・・。

この条例が生まれるきっかけとなったのは、六中の2年の生徒が自転車に乗っていて、被害になった死亡事故でした。ある男子生徒が箕面市今宮付近で自転車に乗っていて、自動車とぶつかり即死する事故があったのです。

生きていれば、その子は今年成人式を迎えることになるのです。そのとき、私は六中で教頭をしていました。当時、どれだけ多くの人が悲しみ、苦しんだか。親御さんはもちろん、教員もその子の友だちも、どれほど動揺したことか。

箕面市では、自転車による事故で、命を落とす人があってはならない。このために、この条例が生まれたのでした。

さて、今日はスケアードストレートという方法で、事故現場を再現してもらいます。そして皆さんにはちょっとした恐怖を感じてもらいます。恐怖を実感することで、自転車の安全運転をするようになることが、今日の授業のねらいです。

そのために、今日は遠く関東のほうから、スーパードライバーズというスタントマンの方が来てくださいました。めったに体験できない授業です。大切な1時間にしてください。

私からお願いしたいことが1つだけあります。皆さんにとっての身の安全を守るときの敵は自動車ではなく、自分自身だということを自覚してください、ということです。

自転車を運転するということはどんなことでも起こりうるんだと思ってください。自分の身を守るためいつも安全を考えながら自転車を運転することが、運転者の責任なのです。敵は自動車ではなく、自分自身の油断であることを覚えておいてください。

今日のスケアードストレートは皆さんの安全運転の意識と習慣が合わさって、初めて効果が出るのです。
ではみなさん、今日のスケアードストレートを、自分の命と人の命を守るために活用してください。よろしくお願いします。
コメント

ほんとうのボランティア活動とは

2015年10月28日 18時15分25秒 | 校長からのメッセージ

今日の1限目、1年生は体育館で「ボランティア活動とは」の学習を行いました。
1年生全体に、箕面市社会福祉協議会の高田浩行さんが、写真をみせながらボランティア活動について考えるための、お話をしてくださいました。

高田さんのお話の中では、ボランティアの原則を4つ説明してくださいました。
○自発性:イヤイヤではなく、自分から進んで・・・
○無償性:見返りを求めず、自分のできることを・・・
○社会性:だれかのためでなく、社会に影響を・・・
○継続性:せっかく始めたのだから、続けられるように

そして、生徒たちには具体的な画像をみせて、感想や意見を引き出しておられました。
一例として、「混雑するエレベータの前にいる、ベビーカーを押すお母さん」の写真を見て、
「あなたはどう声をかけますか?」→「手伝いましょうか」
「そのときのあなたの気持ちは」→「ちょっとでも役に立てれば」・・・・

高田さんはたいへん上手に子どもたちの感想や気持ちを拾い上げ、全体に紹介して広めていかれました。
そして最後は、コミュニケーションの大切さでまとめ、授業は終わりました。

学年全員を前にして、難しい専門語を使わず、中学1年生にわかる言葉で、授業をしていただきましたので、生徒たちのとっつきもよかったです。

さて、ボランティアについて、私はいつも二層構造で考えています。一層目はボランティア活動の基盤となるもので、洗濯物を干す、家族の使った食器を洗う、お風呂の湯船を洗う、掃除機をかけるなど、家族の一員として当然、子どもが家庭でやらなければならない仕事です。
いわゆるお手伝いのことです。

そして家族の一員としての責任を果たしたうえで、さらに自ら進んでやりたいことをみつけ、自発的にやること。これが二層目であり、本来の意味でのボランティア活動です。東北地震の復興のために何か役に立つ活動したいなどです。

でも、私の問題意識として、最近では一層目があやうくなっています。電化製品の普及・充実のなかで、または「子どもはとにかく勉強していればいい」という時代の変化の中で、子どもは家族の一員としての役割を十分果たす機会がないのです。

そのうえ、高校へ行ったら、ボランティア学習を単位取得の条件にしている場合もあります。それは自発的ではない、「活動すれば単位をあげるよ」となってしまい、本当の意味でのボランティアではないのです。

一層目の土台ができていないところに二層目を築いてもぐらついてくる心配があります。

高田さんのいう4原則が実現できるために、私は、(自分の家庭も含めてですが、)みなさんも家庭の中で、家族として子どもが当然果たすべき役割をしっかりと担わせることが重要だと思います。
コメント

美しい行動

2015年10月27日 19時30分39秒 | 校長からのメッセージ

子どもは中学生になると、小学生の頃とはちがった態度を見せることがよくあります。
親の戒めの言葉に反抗し、言葉もきつくなり、ときには、いわゆる「憎まれ口」を言うようにもなります。

その態度に対して、親はつい腹が立ち大声で応酬します。そして声を大きくすると、相手も大きな声になる。するとよけいに反発するようになる。・・・
どうしたらいいの?と悩む親がいます。

親が子どもをしつけるやり方や子どもへの言葉かけには、じつは対応法があります。この対応法はいろいろとあります。

たとえば、口うるさく言わない、「売り言葉に、買い言葉」を言わない。子どもを傷つける言葉を言わない・・・などが対応法の例ですが、詳しくは過去のブログに書いていますので、ご覧ください。

ただ、これらの対応法には、それらの基礎になる子育てのセオリーがあります。

それは「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、ほめてやらねば人は動かじ」です。

この有名な言葉は山本五十六のもので、企業や組織における人材育成の金言となっていますが、子育てにも通じる名言です。

子どもが小さい頃は、子どもを前にして親がまずやって、モデルというか手本を見せます。そして、子どもはそれを模倣します。

そして「これはね・・・」と、おこないの理由や、「こういうときに役立つんだよ」とおこないの意味を語ります。

そのあとは、子どもが実際に自分でやってみます。やったあとにはほめること(肯定的で効果的な評価)で、子どもは、しつけられていきます。

「しつけ」という言葉に漢字をあててみましょう。「しつけ」は、「躾」となります。身体の動きが美しい、つまり、親が自分の行動を調整しながら示し、子どものよき手本となって、人として望ましい行動を見せるのです。子どもはその美しい行動から学びとっていきます。

親による「しつけ」から、子どもは家族や社会の一員として、どうふるまうべきかを学びます。そして、子ども自身が自分を律する(=コントロールする)力を身につけることがファイナルの目標なのです。
コメント

三中校区小学校英語・中学校英語研究会

2015年10月26日 17時25分15秒 | 校長からのメッセージ


本日、三中では英語コミュニケーション科の授業(4限、1年B組)、西南小では15分の英語活動の授業(5限前、全クラス)と45分の英語授業(5限、6年2組)を、市内教職員に公開しました。

指導助言者として、文部科学省から直山木綿子(なおやまゆうこ)調査官にお越しいただきました。直山先生は中学英語と小学校英語の連携を図りながら、小学校での英語活動を現在、推進する中心的役割を担っておられます。

三中の英語コミュニケーション科の公開授業の授業者は、庫田先生とギャビー先生でした。英語のスピーチの発表とハロウィンにちなんだクイズがおもな活動でした。

箕面市では国に先がけて、小学校1年生から英語活動を少しずつとり入れています。現場の小学校の先生からは、慣れないことからくる指導上の課題が出されます。

さて、先週金曜日、私の高校2年の娘が,アメリカへの修学旅行から帰ってきました。はじめての海外旅行で、もともと英語は得意でない娘でしたが、帰ってくるといった言葉があります。

「お父さん、何とか通じるよ。身振りと手振りと単語を並べたら通じたよ。」
「それとね、外国の人はとにかく相手が高校生でも、むこうから近づいてきて,あいさつしてくれ、気さくに話しかけてくれるのにびっくりした。でもうれしかった。」

結局、小学校から英語を学習する意味はここにあると思うのです。相手が外国人であろうと、意思を交流でき、つながりをもつ。その楽しさやうれしさを感じ、英語を話してみたいという態度や意欲を高めること、これにつきるのではないかと再認識した次第です。

このように原点に戻ったとき、よく小学校の教員から出てくる不安の声「発音がうまくないのに子どもに教えるのはどうも・・・」は、乗り越えていける意識だと思うのです。

何よりも学級担任が一生懸命に英語を使って、communicateしようとする態度から,子どもは学ぶのです。

というのは、すべての教育活動は子どもと教員の人間関係がベースになるのですから。そして、そのベースをもとに、自分のクラスの生徒が臆することなく英語を話し、友だちや外国人と活動する様子をみたとき、これをうれしく思わない教員はいないのです。
 
今後も箕面三中校区ならびに箕面市での英語教育が推進され、地球上の人とつながる子どもが一人でも増えていくことを願いたいと思います。

コメント

できないことこそ大切

2015年10月25日 17時35分02秒 | 校長からのメッセージ
子どもは自分が選んだものごとに上達することで、伸びていきます。たとえばサッカーを選ぶ、ピアノを選ぶ、ダンスを選ぶなど、自分でこれをやろうと決める中で、自分で選んだ、そしてうまくなったという過程を実感することで、意欲が高まるからです。

「好きなものこそ上手なれ」の言葉どおり、自分から求めれば上達します。さらに「がんばったからできるようになった」という学習効果があれば、さらに面白くなり、努力を持続させることができます。

「もっとうまくなりたい」という強い思いこそ、ここ一番といときに、子どもを突き動かし、力を発揮できるようになるのです。

児玉光雄さん(鹿屋体育大学教授)は、臨床スポーツ心理学者としてスポーツでチャンピオンになった人の思考・行動パターンの研究をしています。

彼によれば、最近さまざまな分野で本番に強くなるためのメンタルトレーニングがもてはやされていますが、結局メンタルの強さは努力に裏づけされたものからしか生まれないといっています。

いくらメンタルトレーニングを繰り返しても、肝心の基礎技術ができていない状態では、「ここ一番」に強くなることは不可能であるとのことです。

あるとき、イチロー選手はこう語っています。
「僕なんてまだ、できていないことの方が多いですよ。でも、できなくていいんです。できちゃったら終わっちゃいますからね。できないから、いいんですよ」

この言葉にも表れているように、「できないことに価値がある」ことを、親やコーチ、教育関係者は教えなければなりません。このことは学習にも通じます。

試合や発表会、コンクールで負ける、テストで思った点数がとれなければ、がっかりしてモチベーションが下がってしまうのが自然でしょう。しかし、それでは、子どもの精神力や成長力は養われないのでしょう。

本番に負けても、そこから何かをつかんだり、学んだりする態度が、「ここ一番というときに強い子」を生むのでしょう。

超一流のアスリートであるイチロー選手ですら、打率10割のバッターにはやはりなれないのです。しかし、そこに一歩でも近づくことはできます。

「勝つことよりも負けたことに感謝する」
 
負けて、ただ悔し涙を流すだけでなく、負けた試合やうまくいかなかったことから何かをつかみ取ることができれば、本番に強い子が育っていくのです。

一般的に子どもの経験と大人の経験は、その多さに大きな差があります。大人の方がさまざまな経験を重ねてきています。

ところが、大人は自分の尺度で考え、「なんでこれができないの?」とか「こんなこともできへんのか!」と言いがちになります。子どもはできないことが多くて当然なのです。       

私たちは、子どもの可能性を信じて、子どものチャレンジの結果がうまくいかなかったときにこそ、気づきや学びが生まれるように支えるサポーターでありたいのです。

(本文は『本番に強い子を育てるコーチング』(河出書房新社発行、児玉光雄著)を参考に、一部文章を引用して書いています。
コメント

沖縄に想いを馳(は)せて

2015年10月24日 14時43分18秒 | 校長からのメッセージ

3年生は、6月に行った沖縄修学旅行から帰ってきてから、沖縄をイメージする図案を考え、Tシャツにプリントしました。(美術の授業)

いま、その内の何点かが、A棟とB棟の間の渡りローカに展示されています。

ある生徒は、沖縄のシンボルの花ともいえるハイビスカスを描いています。またある生徒は保護が叫ばれているウミガメ、さらには平和に関係した絵を描いています。サンゴやシーサーを絵で表している生徒もいます。

沖縄と言えば、いま新聞やテレビで報道されるテーマは平和や基地問題がほとんどを占めています。

しかし、沖縄は戦争や基地問題だけで語れるものではありません。美しい自然、美味しい食べ物、豊かな文化が溢れています。

沖縄へ行った生徒たちは、沖縄が発しているメッセージをおのおのに受けとり、絵で表しているのです。

ただし、いまの沖縄は基地問題を抜きには語れないことも事実です。沖縄問題は、自然、文化、人、食べ物、音楽などをきっかけに、沖縄が好きになり、それを入り口にして、おのおのの生徒が平和の大切さを考えていくことができると思います。

このように平和の学習だけを詰め込んで考えさせるのではなく、さまざまな角度から広く学び、沖縄への関心を高めながら、抱える問題を掘り下げる方法が、三中で進めている人権教育です。

平和といえば、三中では夏休み中に、全校生徒が平和作文を書きました。それらの作文の中には、キラッと光る感性で書いているものが何点かありました。

平和について、現在のわが国の状況をみつめ、自分のあるべき行動を打ち出している生徒もいました。

優れた作文は、今度、全校生徒の前で読んでくれることになります。

コメント

親が自分を語ること

2015年10月23日 18時48分46秒 | 校長からのメッセージ

子どもがまだ幼い頃は、親が子どもに何か質問すると、子どもはそれに答えるというやり方で会話は成立します。

たとえば「今日のマラソン大会どうだった?」と親が聞くと、子どもは「楽しかった。寒かったけど、三番になれたし・・・」というように会話は続いていきます。

ところが中学生にもなると、「うん、まあまあ」とか「別に・・・」と、答をそらすような返答となり、素直に答えなくなることも増えるようです。親にすれば何か頼りなく、手応えを感じられず、会話にならなくなります。

このようなとき親は、子どもから必要な情報を聞き出すやり方では、子どもは満足しなくなってきていると、とらえるべきでしょう。

子どもが思春期になる頃、子どもはより多くを求めるようになります。ただ聞いてもらうだけでは満足できず、自分もいろいろなことを聞きたいと思っているのです。

親が思春期の子どもに何かを教えたり、子どもを動機づけたりする方法の一つは、親が自分を語ることです。

子どもに対して、「あなたは~すべき」をいうより、親自身が自分としての気づきや夢を語るとき、または自分の仕事を語るという働きかけ(=ストロークといいます)をするとき、子どもは興味深くそれをキャッチしようとします。

大切なことは、成功話を語らなくてもいいということです。
「本当はこんな仕事をしたかったけれど、なぜそれをあきらめ、今の仕事に就いているのか」
「だけど、こんなときやり甲斐があるんや」
など親が今を生きているという生の姿(=人生)を語るのです。

心が不安定な思春期の時期に、子どもはさまざまな試練に出会います。目の前にそびえる悩みの壁に立ち止まってしまいそうになります。壁に背を向けず、あきらめずにチャレンジして、乗り越えていくには、親や教師の心の支えが必要になります。その支えの働きかけは、おとなの方から子どもに向かってアプローチをかけるのです。

この時期、子どもは親から離れようとしているのです。それが思春期です。親からアプローチをしないと、「あのね、今日学校でね・・・」などと話してはくれません。
そのアプローチは、親が自分ことを語ることでしか子どもには届かないのです。

自分のことを語ることは相手の心をひきつけます。そのとき思春期の空白になっている心を、ぐっと引き寄せることができま
す。この繰り返しが、子どもを支え、自らの力で壁を乗り越えていく力とな
るのです。 
コメント

「ありがとう」のことばを伝える

2015年10月22日 19時00分08秒 | 校長からのメッセージ

私の家では以前、水田をつくってコメを生産していました。私が幼い頃の稲作は機械が入る前のやり方でした。梅雨の頃には苗を手で一本ずつ植え、秋の稲刈りの時期には稲刈り鎌(かま)で、一束ずつ刈り取るという手作業をしていました。

それこそ、家族だけでなく近所の人が総出で働きました。そしてこのような仕事には小学生の低学年であった私も駆り出されることがごくふつうでした。

ちなみに高学年になると、ようやく耕耘機や稲刈り機を購入し、作業は飛躍的に速くなりました。そのあとには田植え機も導入して、労働力は大幅に軽減されたのでした。

機械が導入される前のコメづくりの時代に、私も田植えを手伝ったり、稲刈りを手伝ったりしました。手伝うといっても、みんなが手際よく作業をしているのでしたから、子どもでも失敗はあまり許されませんでした。教えてもらった苗の植え方や稲の刈り方を何度も繰り返し、あとで私のやった分のやり直しが必要でないように、私なりに手伝ったつもりです。

この手伝いは自分から望んでやっていたわけではありません。しかし、子ども心で少しでも忙しい家族の助けになればいいと思ったことは覚えています。そして、作業が終わるとおばちゃんから、「ありがとう」という心からのひとことがよくありました。

この「ありがとう」は時代がどのように変わろうとも、次の世代に受け継がれます。あなたがもしあなたの子どもに、こころから「ありがとう」と言うことができるのなら、あなたの子どもはあなたの孫に素直に「ありがとう」と言えるようになるのです。

私たちはだれでも、潜在的にだれかの役に立ちたいという願いを内にもっています。マザー・テレサのように、その願いに突き動かされ、自分の一生を他者のためにつかった人もいます。

私はみんながマザー・テレサになるべきといっているのではありません。だが「人の役に立つ喜び」はだれでも感じることができると思うのです。

ここで大切なのは「ありがとう」というように感謝の気持ちを正直に伝えることだと思います。「本当に助かったわ」「うれしいわ」という言葉でもいいでしょう。ただし「いい子や」「えらいな」という言葉はここでは当てはまらないでしょう。

一方的に相手を評価したり、ほめたりするのではなく「あなたのおかげで(わたしが)助かった」と率直に伝えるべきでしょう。(いわゆるわたしメッセージで→10月14日のブログ参照)

子どもの行動の動機づけに「ほめること」を使う親は、ほめられて行動する種を植えています。この種を植えられた子は、ほめられて動くようになります。反対に言えばほめられないと動かなくなります。

本当のやる気とは子どもの内から湧いて出てくるものです。そして、そのやる気を引き出すのは、自分の中に内在させている「人の役に立つ喜び」(=貢献感)です。

この喜びを知った子どもは、見返りなどを求めず、人の役に立ちたいという一心で行動を起こすのです。人に対してやさしくなり、人の役に立ちたいと願うようになるのです。

いまや日本社会は成熟社会に入ったといわれています。震災復興に向けたボランティアをはじめとして、人の役に立つ喜びでつながる人間関係が今後もっともっと必要になってくるでしょう。

まず、子どもたちに心から「ありがとう」の言葉を伝えていくことから始めましょう。                         
コメント

子どもはいずれ離れていくもの

2015年10月21日 17時04分57秒 | 校長からのメッセージ

三中では昭和48年(1973年)の開校時は全校で10クラスでした。その後昭和60年代の30クラスの最大の時期を経て、今年度が15クラスとなっています。これ一つとってみても、日本では少子化傾向が進んでいるということは、いまさらあらためて言うまでもない、周知の事実です。

ところで、いまから70年以上前の日本社会では、一つの家庭に6~7人の子どもがいることは決して珍しいことではなかったのでした。事実、私の父は6人の子どもがいる家庭で幼少期を過ごしました。

ただし、昔の子どもは病気で亡くなる場合が多くありました。しかしその後、医学の発達と衛生・栄養改善が進み、乳児死亡率はここ100年の間に急速に低下しました。いまや1000人あたりの乳児死亡率は2,3人と世界で最低となっています。

この変化により、子どもは「生まれれば必ず育つもの」という心理が親の中に当然のごとく生まれ、子どもを産む数を減らしても子孫は残っていくという「確信」を、親はもつようになってきたのです。

さて、今回、問題としたいのは、少子化が親の子育て、および子どもにどのような影響を与えてきているのかということです。

子どもが多ければ、親の愛情は「分散」されるでしょう。子ども一人ひとりに、今の時代のように十分かかわることには無理がありました。ある意味、「放っておいても子どもは育つ」時代であったといえるでしょう。

しかし、少子化の時代では、親は数少ない「わが子」に十分な愛情を注ぎ、教育投資ができるようになりました。このような親の愛情のもとに育つ子どもたちには、学習への自発的・内発的な動機が希薄になりがちです。

「なぜ勉強するのか」という学習動機を日本、イギリス、インド、マレーシアと比較した研究があります。その結果、日本の子どもたちにだけに見ることができる学習動機が確認されました。

勉強が面白いから、自分の力を試したいからなど、自分の成長や興味にもとづいての勉強の姿勢よりも、「お母さんに叱られないように」「いい点をとると親が喜ぶから」など、親の喜怒哀楽を気にし、親の機嫌をそこなわないようにと勉強する傾向が強く出ていたそうです。

それは、親の気持ちを察するけなげな子どもとも見えます。しかし自分の成績に一喜一憂する親の存在があまりにも大きい場合、子どもは親のために勉強することになってしまいがちなのではないでしょうか。

そこには、学ぶことへの内発的な動機や自らの関心によって、自発的な探求をする態度や力は育ちにくいのです。

指示待ち人間、創意に欠ける、自信・自己肯定感の低さ、個性が乏しいなど、しばしば言われる日本の子どもの特徴は、誤解をおそれずに言うならば、親の教育に寄せる強い期待という「圧力」の産物とも見なせるでしょう。

親にとってわが子はかわいいものです。しかし、親が子どもの自立を望むならば、かわいく、愛おしいけれども、「この子は独立した人格」とか「いずれは自分のもとから離れていく存在」という認識を根底にはもちます。そして一歩離れた心構えで、密着しすぎることなく、わが子に日々接していくことが大切になるのではないでしょうか。   
コメント

秋に想う

2015年10月20日 18時16分06秒 | 校長からのメッセージ

秋深き 隣は何を するひとぞ (松尾芭蕉)

いまの時代なら、のぞきと揶揄されたり、プライバシーの侵害だと、非難されそうなこの俳句。

しかし、この句が詠まれた背景は、次の通り。

元禄時代のある秋の日、芭蕉は句会に誘われた。

しかし、体調不良で出席できず、この俳句だけを送ったらしい。

旅の途中で、病気になり、孤独感をもちながらも、人への想いに溢れていたのかもしれない。

秋が深まり、どの家も静まりかえっているが、 人それぞれにつつましく、懸命に生きている。

私は、人へ想いを馳せるこの句に心の底からの共感を覚える。




コメント

存在する価値がある

2015年10月19日 21時30分27秒 | 校長からのメッセージ
              
思春期の子どもたちにとって大切なこと。それは自分に存在する価値があると感じていることです。

思春期は、個人によって早いか遅いか、また程度のちがいはあるでしょうが、多かれ少なかれ自分の存在を親と切り離し、自分という個人にその価値を見つけようとする時期です。

それゆえに、親と「ひとつ」になっているわけではなく、かといって、個人としての価値を見いだし、揺るがぬ自信をもっている(=個人としての価値を確立している)のでもありません。

これが「思春期とはおとなでもなく、子どもでもない(中途半端な)時期である」といわれる状態です。つまり自分の存在価値に空白ができる時期であるといえるでしょう。

しかし、空白は埋められなければならないのです。空白を埋めるのが、自分を受けとめてくれる居場所です。居場所は中学生にとっては、小学生以上に必要なものです。

その子を必要とし、求めてくれる人間関係や集団(家庭や学校あるいは地域)が絶対に必要です。求められるということはつまり、自分には存在価値があるということです。

したがって、思春期の生徒は、自分の存在価値を見いだそうと日々、学校へ通ってこようとしているという見方ができるのかもしれません。

このような子どもたちを、私たちおとなはどうのように支えていけばいいのでしょうか。私たちは真摯に考え、誠実に行動を起こさなければならないのです。

なぜ三中が「いじめZERO」に取り組んでいるのか。それはいじめる行為が、存在する価値と居場所を奪ってしまうからです。

学校で長期にわたっていじめられたり、無視されたりした場合、いじめられる側からすれば、自分の存在価値を見いだせなくなるし、居場所もなくなってしまうのです。

だからこそ、おとなが子どもたちを守ってやるのです。いじめのない学校や社会をつくることが私たちのなすべきことです。

さらに私たちおとなができること、しなければならないことは、人生には生きる価値があること、あなたには生きる価値があるんだということをしっかりと教え、それを実感できる機会を増やしていくことです。

たとえば2年の職場体験は、子どもが自分の価値を知る絶好の機会です。自分も「働く」ことで社会にかかわることができることを、子ども自身が学びとることができる学習なので、学校も全力を挙げて取り組まなければなりません。

家庭も、子どもが無条件で愛される場でなければなりません。父・母、祖父母、兄弟姉妹など、言いあらそいもケンカもするが、基本的には強い愛情でつながっていることで、思春期を生きる子どもは、自分の価値を見いだしていけるのです。 
              
コメント

ブレない軸をもつこと

2015年10月18日 17時30分52秒 | 校長からのメッセージ
自立とはなんでしょうか。経済的に独立していることでしょうか。たしかにそれは一面で自立の意味を表しています。しかし教育や子育てにおいてめざす自立について、わたしは次のように考えています。

なんでも自分一人でものごとをやること、できることではありません。自立とは精神的に人に「もたれかかる」ことなく、自分のことは自分でやり、必要なときには周りの人に「助けて」と援助を求め、それを素直に受け入れることができることではないかと考えています。

さらに付け加えれば、自立にはものごとに対して正面からむきあう力が求められます。

自立している人は、ものごとに対する価値観や自分が引く線引きが定まっていて、軸のブレがありません。何か困ったことに直面しても、自分で考え、「こうしよう」と決めて行動に移せます。

このことはなかなか実行できないこともあるのですが、自立の本質はここにあると思います。軸が定まっていれば、人は周りの評判やウワサ話に惑わされることはないからです。

ですから大人が子どもに求める自立とは、ある意味、自分というものを確固としてもった人になってほしいという願いが込められているともいえます。思春期の完成は自己の確立といわれるゆえんはここにあるのです。

しかし子どもに自立を求めるのなら、同時におとな自身も自立ている必要があります。前のブログでも書きましたが、いまという時代、わたしたちはさまざまな情報という流れの川で泳いでいるようなものです。そして情報に惑わされ一喜一憂します。

たとえば早期教育を重視する教育雑誌やテレビ報道は「英語は3歳から学ばせましょう」、「グローバル時代を生きる力は英語力です」と親の感情を煽ります。また進学塾についても「あの塾はいいそうよ」という評判が流れます。

そして情報は日々新しくなります。でも私たちはどれほど情報を見極め、自分や自分の子どもにとって必要かを考えているでしょうか。情報に惑わされ、意見や発言が変わるおとなに対して、子どもの軸はぶれてしまいます。

情報に振り回される必要はありません。親として「自分の子どもにとって、ほんとうの幸せとは何か」を考え、軸をぶらすことなく必要なものだけを選んでいけばいいのではないでしょうか。

「人として、これだけは大切なこと」、「人として、このことだけはしてはならない」という価値観をおとな自身が確立していることが、おとなの自立であり、このようなおとなのもとで子どもは安心感をもち、揺れる思春期を悩みながらもくぐり抜け、自己の確立に向かっていけるのです。
コメント

おとなも迷う時代の中で

2015年10月17日 19時33分09秒 | 校長からのメッセージ
時代の変化は、子どもだけでなく、おとなにも影響を与えます。かつての日本社会には、さまざまな「・・・すべき」「・・・すべきでない」という決まりごとがありました。

「子どもは親のいうことをきくべき」
「目上の人にはさからうべきではない」「子どもは親の後を継ぐべき」・・・
などがそれにあたります。

その決まりごとの基盤となる価値観は窮屈なこともありましたが、その一方で人の生き方を安全で安定させてくれていました。

決まりごとどおりにすることで、何に向かえばいいかがはっきりしていて、周囲が期待する人生を生きることで、それ相当の意味を見いだすことができたのでした。

しかし、いま、私たちは自由に選べる時代に生きています。自由選択の荒波に放り出されています。伝統的な「家」制度という縛りから解放され、自由な生き方ができるようになっています。

こうなってくると、生きることそのものに意味を見つけるのではなく、「どう生きるか」が問われてくるようになります。

それは同時に、どう生きたいかがはっきりしない人、とくに若い人は、自分はだめなのでないかという自己嫌悪を抱くとか、あせりに駆りたてられることにもなりかねません。

さらに選ぶことは多種多様で、選択肢が多いのです。そのうえ、その選択は個人にまかされているのです。

「あなたのやりたいことはなに?」そのようなことを聞かれて、すぐに答えることのできる人がどれほどいるでしょうか。まして中学生が「将来は何になりたいの」、「あなたのやりたいことは?」と聞かれてはっきりと答えることができないことがあっても当然でではないでしょうか。

子育てに関しても同様なことがいえます。
本屋さんへ行けばさまざまな子育て本や雑誌が並んでいます。世の中には子育てや教育に関する情報が氾濫しています。何を信じて、どのようなやり方をしても自由です。

たとえば幼児の早期教育を選択することもできますし、音楽やスポーツに子どもを打ち込ませることもできます。また情報は更新され、どんどん新しいものが出てきます。その一つひとつが魅力的な響きをもって私たちにアピールしてきます。

しかし大切なことは、私たちがそれらの情報をよく見きわめ、本当に役立つのかどうかを確かめようとすることです。情報を鵜呑みにするほど子どもにとって迷惑なことはありません。子どもにとって本当に何がいいのかを考えなければなりません。

たとえば「ほめられた子どもは伸びる」ということで、ほめられて、ほめられて、ほとんど叱られずに育った子は、万能感をもち、自己中心的な考えをするようになるかもしれません。

情報を一つとってみても、その言葉の意味を親が自分の中に取り込んで、自分なりの解釈を加えていくことが求められるのです。

いまの時代、親が深く考え、自分自身を見つめ、子どもとふれあうことで、子どもの豊かな成長を支えることができます。

このことは子どもの成長にかかわる教職員も同様です。いまこそ、おとなたちは立ち止まり、親として、教師として、一人の人としてみずからを成長させるときなのです。                      
コメント

授業研究は教員の命

2015年10月16日 21時53分43秒 | 校長からのメッセージ

本日三中では、6限に2年D組で英語科の研究授業を行いました。

授業写真はKuwayama先生。この研究授業には、箕面市内の英語の教員が20名以上、それに教育委員会から3名が参観しました。

さらに、アドバイザーとして、姫路市にある賢明女子学院から専門の稲岡先生に来てもらい、授業参観と授業後の研究協議会での講演をしてもらいました。

この授業に先立って、三中からは3名の英語科教員が、稲岡先生を訪ね賢明女子学院まで打ち合わせに行っています。そして今日の研究授業を迎えたという次第です。

今日の授業は、to不定詞の副詞的用法(~するために)の学習でした。

2年D組の生徒たちは、ほとんどがAll Englishを使う授業に意欲的に取り組み、元気に英語を話していました。

授業後には、会議室で授業の反省をする研究協議会をもち、参観した英語の先生が感想・意見を述べ、生徒のコミュニケーションの意欲を高め、英語で伝える力を育てる授業について、意見を交換しました。

教職は、授業を行うプロであり専門職です。ですから、授業研究を行い、自らの授業を高めていき、生徒の学力向上に寄与することは、教員にとって必要不可欠なものなのです。

保護者のみなさんは、いま学校の教員にとっていちばん求められる資質は、何だと思われますか?

子どもと信頼関係をつくれる力、
子ども理解の力、
学級を動かす力、
部活での指導力、
進路指導の力、
生徒に誠実に向き合う力・・・。

もちろんすべて大切です。

しかし、私は校長としていまの教員にいちばん求めるのは、「探究力」です。つねに研究して、実践を重ね、自己を成長させるバイタリティが、いちばん求められます。

なぜなら、いまの学校教育を取り巻く環境や条件は変化が激しいからです。
たとえば授業では、タブレットや電子黒板などのICT機器を活用したり、課題解決型の学習が導入されたり、小学校では1年生から英語活動が始まっています。

このようなとき、説明して、板書して、生徒は写し、知識を暗記するだけの授業だけでは不十分なのは明らかです。(私は説明・板書・暗記を否定しているのではありません。知識の獲得にはこの活動も大切です。)

しかし、周りが変化して前に進んでいるのに、旧態依然の授業だけを続けるのは、後退していることになるのです。

つまり、いまの時代、「現状維持は、実質後退」なのです。

授業をはじめとして、教育活動に対して積極的に、新しいことにチャレンジしていく探究力が、いまの教員に求められるのは、このような理由からです。

三中教職員は、新しいことにチャレンジしていこうという意欲にはかなり高いものがあります。しかし、経験が足りないためうまくいかないとか失敗することもあります。

それでも、チャレンジすることに私は価値をおいています。I Phoneのアプリはまず世の中に出す。そこで不具合が見つかるたびに、常に改善してバージョンを新しく更新していくうちに、完成度の高いものになっていきます。
つまり、失敗しても、それから学び、よりよい活動に改善していくことの方が、なにもやらないより、よほど価値がある。私はそう思います。

私は今日の授業研究から、以上のことを感じました。

なお、ご存知かとは思いますが三中のホームページの「校長から」のページには、私が4月に着任して以降の、ほぼ全てのさまざまな「あいさつ」をのせています。本日、朝礼で全校生徒に話した訓話もアップしています。お読みください。
コメント