箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

性的マイノリティの子ども

2022年10月31日 07時56分00秒 | 教育・子育てあれこれ
毎年夏休みが明けた9月には、子どもの自殺が増えます。

子ども自殺の問題は、学校教育関係者も深刻に受け止めています。

ただ、そのなかでもLGBTQの子どもの悩みは深いものがあります。

調査によれば、LGBTQなどの性的少数者に該当する10代の人の約半数がこの1年間に自殺を考えたといいます。

自殺未遂をした人は1割越えで、自傷行為にいたっては4割になります。

当事者にとって、学校や家庭が居心地のよい場所でないことが大きな理由のようです。

学校では、生徒がLGBTQを笑いのネタにしていたり、ひどい例では教師が偏見に満ちた発言をしたりして理解してくれないという感想をもつ場合もあります。

教職員が悩みの相談相手にならないという思いは、多くの当事者生徒が感じるところで、残念に思います。

家庭では、親に安心して自分の性に関する悩みを話せない人はじつに9割います。親がLGBTQについて否定的な言葉を言ったり行動をしたというケースも多くあるからです。

文科省は理解を深める取り組みを学校に求める通知をだしており、LGBTQに関する周りの認知は10年ほど前と比較すると上がりました。

でも、認知のわりには理解が進んでいるとはけっして言えない状況に当事者は置かれています。

いちばん必要なのは、自分の性について相談できる体制づくりです。

信頼でき、安心して相談できる人が一人でもいるだけで悩みを抱えた子どもは救われることもあるのです。

性的少数者(性的マイノリティ)の生徒の悩みは、思春期の一過性のときもありますが、人びとが一般に考えるよりも、当事者の実数は多いのです。

まわりの人びとの理解と相談体制の充実が望まれます。





人が旅する理由

2022年10月30日 09時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ

むかし、マンガで人は亡くなるときに、自分の人生を一瞬のうちにふりかえり思い出すと聞いたことがあります。

どこかへ出かけて、誰かと出会い、なにかを経験し、非日常の世界が心に刻まれていくことで、それらはすべて思い出になります。

それは自分にとっての貴重な財産ではないでしょうか。

人が旅に出る理由はこのあたりにあるのかもしれません。

もしそうだとするならば、生きている間にできるだけ多くの景色や風景を見て,目に焼き付つけ、心に刻んでおきたいと思います。

学生の起業を支える大学

2022年10月29日 08時20分00秒 | 教育・子育てあれこれ
新型コロナウイルス対策としてテレワークが導入され、一定程度定着しました。

また、副業や兼職・兼業への規制が緩和されてきています。

さらに、企業に就職したとしても、終身雇用を前提としない働き方が増えてきています。

そういった働き方の多様化が進んでいます。

そのような時代背景から、学生で起業する人は少なくない時代に入っています。

こうなると、学生は雇用されることから視点を変え、経営する役割を意識するように変わってきている面が、今の大学生に見受けられます。

2010年度なかば以降増え続け、2021年度には、大学生が企業したベンチャー企業は全国になんと3300社以上あります。

大学も学生の起業をサポートする例が増えています。

基礎的な知識を伝えたり、事業の計画書を作成するやり方を教えるセミナーを開いています。

アメリカのシリコンバレーでの研修を受ける機会を提供する大学もあります。

また、アイデアや試みを事業化する資金援助をする場合もあります。

さらに、メンター制度を導入し、起業の専門家が学生の志の具現化に向けて、指導してくれます。

このようなサポートに力を注いでいる大学は、関西では近畿大学です。

この大学は、学生の起業をサポートする施設を学内に設置していて、学習ブログラムを整えているという力の入れようです。

あわせて、この施設は同じような志をもった学生が集うコミュニティの役割をはたしています。

学生のうちに法人化することを目指す学生がいます。

今後、組織に雇われる生き方から、自分で起業して、社会や地域に貢献する生き方をする人がさらに増えてくると予想できます。






支えてくれている人がいることに気づく

2022年10月28日 06時45分00秒 | 教育・子育てあれこれ

中学校の学校行事の中でも修学旅行(3年での実施が多い)は、「3年間で最大の学校行事」と言われます。

その点で、教職員も修学旅行については、長い日数をかけ準備をして、生徒に楽しい、実りある体験をして時間を過ごしてほしいと、心を砕き取り組みます。

2泊3日で学校の友だちと連れだって出かける修学旅行は、青春時代の思い出として一生心に刻まれていくことが多く、このブログを読まれている方も修学旅行の思い出をおもちの方も多いと思います。

わたし自身も中学校の修学旅行では信州へ行きましたが、途中のバス内で歌を歌ったこと、また宿舎のレクでも歌ったことなどを、今でもイキイキと思い出します。


さて、新型コロナウイルス感染が始まり、3年目になっています。

その間、中学生の修学旅行の実施については、全国の中学校で対応はさまざまでした。

交通手段での感染懸念と考慮し、行き先を近距離に変更して実施した学校もあります。

また、修学旅行そのものを取りやめた学校もありました。

取りやめた学校の中にも、2020年度・2021年度の2年連続実施しなかった中学校もあります。

2年連続実施しなかった学校でも、2022年度には実施した学校もあります。

以下は、感染予防対策を万全にしながら3年ぶりに復活させた中学校の生徒が書いた手記です。


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 わたしの学校では、新型コロナウイルスの感染拡大により3年生の修学旅行が3年連続で中止になっていました。校長先生は「中止になったと聞いたとき当時の3年生の悲しい顔は、一生忘れないものになってしまった』といっていました。
 
 そんな状況で迎えた私たちの番。先生方は「次こそ生徒に楽しい思い出を残してあげたい」という一心から、旅行会社や旅館、タクシー、バス会社の方、カメラマンさん、看護師さんなどたくさんの人たちにお願いをして、3年ぶりとなる修学旅行を実現させてくれました。
 私は支えてくれた皆さんに感謝でいっぱいで、その協力に応えられるようさまざまなことを学び、周りの方へ「ありがとうございます」という言葉を心から伝えてきました。感動であふれたこの修学旅行を、残りの学校生活で生かしていきたいです。

(『毎日新聞』2022年10月17日の「読者の広場」への投稿から引用、一部略)

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このように、中学生はふつう考えます。

中学生になると、修学旅行がどれだけの大人に助けられて実現しているのかを知っています。

教職員をはじめ、校長(引率責任者)、旅行会社の添乗員、現地の人びと、記録用写真のカメラマン、健康・保健面でのスタッフである看護師さんなど、じつに多くの大人が協力しあい旅行を提供します。

このことに素直に感謝できる中学生も素晴らしい。さすが中学生とあらためて思います。

明るさ、豊かさ、潤いを送る

2022年10月27日 07時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ
ジンガーソングライターの松任谷由実さんが、このたび文化功労者に選ばれました。

彼女の曲に『海をみていた午後』があります。


山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える
ソーダ水の中を 貨物船がとおる


ドルフィンというレストランでのワンシーンを心地よいメロディとともに、人が思いつかないような言葉で描いています。

緑色のソーダ水のグラスに海を行き交う貨物船が映り込んでいる。

なんともおしゃれな描写だと、わたしは感心したことがあります。


松任谷由実さんは、受賞の喜びを次のようにコメントされています。

「洋楽の影響を受けたメロディに、日本語の美しさをあか抜けした歌詞にのせ、歌という形にまとめることを楽しんだり苦しんだりして続けてきました。

災害やコロナ禍にみまわれ、歌の役割をはっきりと自覚しました。

それは、明るさ、豊かさ、潤いを聞く人の心に送ることです。

お世話になった方、ファンのみなさんと喜びを分かち合いたいです。心からお礼申し上げます。」(大意)


ほかにもあるでしょうが、『海をみていた午後』はこのコメントを体現する真骨頂の曲だとわたしは思います。

慣れてしまえば仕事は終了

2022年10月26日 07時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ

人は初めてのことでも、試行錯誤し失敗もして、一方でうまくいくこともありながら、技術やノウハウを学び、改める必要があるときは改めて、改善をしていきます。

私も教員の頃は中学生を対象に英語の授業を担当していました。一人でだいたい5クラスの授業をしました。

同じ単元の同じ授業を5回重ねることになります。

1回目のクラスの授業よりも2回目の授業、2回目の授業より3回目の授業・・・

というように授業を重ねるうちに、前回のクラスの授業でうまくいかなかったことをあらためていくことができました。

すると、生徒の反応も変わってきます。回数を重ねるほど、同じ内容の授業でもブラッシュ・アップされていくのです。

ところが、小学校の教員は自分の担任するクラスを対象に、ほとんどの教科の授業をするだけで、基本的にはほかのクラスで同じ授業はしません。

つまり、一つの授業を小学校の場合は1回きりですが、中学校の場合は何度もできることで改善していくことができるのです。

さて、そのような小中の違いはあるのですが、共通して言えることもあります。

それは、学校でのどんな授業にでも言えることですが、授業者(教員)にとって「わたしの授業に完成はない」ということです。

たとえば20歳代のはじめに教員になった人が、授業について研修や研究を重ねて、かりに児童生徒から「よくわかる授業」とか「楽しい授業」とか「ためになる授業」という感想をもったとします。

しかし、「40才にして、わたしの授業は完成しました」ということはありえません。

教職を40年近く続ける間に、つねに社会は変化しています。知識や技術は常に更新されます。子どもの様子もかわってきます。

その点で、学校の授業はつねに変わっていきますから、教員には常に授業を研究し、改善を重ねる探求的な態度が求められるのです。

ですから、わたしは教員を続けるのに必要な資質は「探求する態度・実行力」であると考えています。

ひるがえって、「探求」はどんな仕事にも、多かれ少なかれ求められると思います。

人は経験を重ねるとうまく仕事ができるようになります。それとともに、仕事に慣れてきます。

それでも、人は慣れてしまったらダメだと思います。「だいたいこれくらいにしておくか。そのほうが樂だし・・・」。

少しでもこう思ってしまえば、その人はその仕事をもう終了した方がいいのです。

あえて楽な道を選ばず、考えながら、苦しみながら、工夫を重ね仕事に精進するのが「仕事人」とか「プロ」だと言えるでしょう。


わかりあえないと悟ること

2022年10月25日 10時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ



自分を見つめること、つまり自分との対話では、自分の喜怒哀楽の気持ちや感情を抑え込まず、否定せず、そのまま認めることが必要です。

ところが、幼いときからの育ちの中で「がまんしなさい」と親から何度も言われてきた子は中学生になると、弱音を吐いたり、しんどいとかいうのはよくないと思い込んでしまっています。

本来は、自分との対話で自分の意思やこうしたいという願いを出せるようになるのです。

でももし自分の意思や願いを自分自身が把握できていないと、対人関係では相手への要求や頼みたいことがあやふやになってしまい、意思表示がうまくできなくなります。

反対に、自分が相手に伝えたいことがはっきりしている子は、相手への伝え方も変わり、コミュニケーションが円滑にとれるようになるのです。

ただ、そのとき条件があります。

自分と他者は同一ではないということをわかっていることです。

教師と生徒の例を当てはめてみましょう。

生徒が相談してきたとき、いくら教師が生徒の立場に立ちきって、心を砕いてかかわろうとしても、人は誰もが自分の経験から築いてきた枠組みでものごとをとらえようとします。

教師としての経験があればあるほど、その枠は強固になってしまいます。

それは、自分が体験したことはたしかな事実だからです。

そうなると、生徒の話を自分自身の経験を基準にして、「こうにちがいない」という枠内で話を聞き、アドバイスを生徒にしようとするのです。

「うん、よくわかる」とか「そういうとき、わたしはこうしたよ」「そうするべきだよ」「あなたのために、いうけれど・・・」となります。

これでは、相談をしにきた生徒の心は教師から離れていきます。

教師と生徒だけで無く、大人と子ども、大人同士の会話でも同じです。

基本的に、自分は他者のことは理解できないし、わかりあえないものなのです。

相手の話を受けとめ、相手を尊重するためには、「わたしは」という視点ではなく、「あなたは」という視点でかかわることがどうしても大切になるのです。

「(わたしには)わかるよ」ではなく、「(あなたが)そう思うのね、そう感じるのだね」であり、「同感」ではなく、「共感」したいと思って対話をするのだという意識を強くもたなければなりません。

休むことも大切

2022年10月24日 07時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ
昨日のブログでは、「隔年結実」として柿の実が豊作年と不作年を交互に繰り返すことから、人間も休むことが必要であるという考えを述べました。


さて、昔は皆勤賞を生徒に出している学校がありました。

学校によっては、退学したり、遅刻したり、ずる休みをする荒れた状態にあるので、無欠席だったことを認める賞を出すことに、意味があることもあります。

でも今は、不登校の子が増えていて、全出席した子に賞を出すのは望ましくないという考えもあります。

いずれにしても、その学校ごとの事情があるので、皆勤賞の是非を問うつもりはありません。

ただし、皆勤賞そのものが休まずに全授業日数を登校してきたという基準の賞があるぐらい、日本では「休まずにがんばることは立派なこと」という価値観は、依然として社会に残っていることは確かです。

だから、休むとなにか悪いことでもしているような気分になる人もいるのではないでしょうか。

しかし、そもそも休むことは人が生きていくうえで必要かつ不可欠なものです。

休むのは、疲れをとるためです。

疲れがたまると、余裕がなくなります。

余裕がなくなると、ふだんならでなんでもないことに腹を立てたり、イライラしたり、ものごとに失敗したりしやすくなります。

つまり、疲れると感情の調整が難しくなるのです。

だから休むのは感情調節をすることになります。

昔とちがって、ストレスのたまりやすい社会に人びとは生きています。ストレスがたまりすぎると体と心は限界の状態を迎えます。

ためらうことなく、「休みます」とまわりに宣言して休みましょう。

それが今流の「持続可能な生活」の仕方、働き方です。

疲れたなと思えば、職場に遠慮なく、自分に許可を出し、休むべきだと思います。

隔年結実

2022年10月23日 07時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今年は柿の実が豊作で、いわゆる鈴なりです。

子どもの頃は、小学校の教室の外、すぐそばに柿の木があり、友だちは休み時間に食べていました。

隔年結実(かくねんけつじつ)という言葉があります。

つまり柿は豊作年と不作年を繰り返すのです。

柿の木は実をつけると植物ホルモンを分泌し、これが新しい芽が育つのを抑えます。

すると、翌年には実があまりならなくなるなです。

たくさん実を付けた翌年は、柿もパワーを蓄えるために休憩しているのです。

人間もいつもがんばるのではなく、力をたくわえるには休息も必要ということを教えてくれます。

インクルーシブな社会の実現に向けて

2022年10月22日 07時53分00秒 | 教育・子育てあれこれ

国連の障害者権利委員会は日本に対して、障害のある児童生徒が特別支援学校で教育を受けるしくみを中止するように勧告していました。

これはインクルーシブ教育の視点に立って、障害のある人が特別な学校で学ぶことで、「分けられる」ことになるからです。

世界的な社会の流れは、同じ社会で障害のある人とない人がいっしょに暮らすという共生社会の理念と重なるものです。

津久井やまゆり園で、2016年に起きた殺傷事件の際に、新聞記事がつけていた見出しを私は今でも忘れません。

「こんな静かな緑豊かな山の奥の施設で殺傷事件が」でした。

こんな人があまり住んでいない山の奥に、なぜ住むことになったのか。それは障害者を分けて、山奥に押し込める立地条件を選んでいるからなのでないかと、私は思いました。

その意味で、新聞記者は「分けられた障害者」という識見がなかったのでないか、それが世間の障害者への「まなざし」でないかと感じたのでした。

さて、国でh2023年度からむこう5年間の「障害者基本計画」案がこのたび出されていますが、国連の勧告にもかかわらず、障害のある児童生徒がほかの児童生徒とわかれ、特別支援学校で教育を受ける制度の中止には踏み込みませんでした。

勧告に背いた形にはなりますが、私はいまの日本の有識者の考えが分けるのに全面的に反対とはならない意識段階にあると考え、やむを得ないと思います。

ただし、「障害の有無で分け隔てられることなく、可能な限り共に教育を受けることのできる仕組みの整備を進める」と基本計画に明記しているという段階にあることを評価したいと思います。

日本ではもっとインクルーシブ教育の理念が人びとに浸透してからでないと、「分けることをやめた」だけになり、本当の意味での共生社会の実現にはつながらないからです。




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 なんでもかんでも学校に求めるのは

2022年10月21日 07時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ

2016年に,文科省により行われた教員勤務実態調査では、「過労死ライン」(月80時間)を越えてはたらく教員が、小学校の場合でおよそ3割、中学校でおよそ6割いることが明らかになりました。

また、1週間の勤務時間の長さでは、10年前よりも小学校で4時間、中学校で5時間増えていました。

これは由々しき自体ということで、文科省は「働き方改革」を進めてきて、現在にいたっています。

その途中で2019年に国は教職員給与特別措置法を改正し、教員の時間外勤務の上限を定めました。

月に45時間で年間で360時間と定めました。

法が変われば、教育行政や学校の教頭・校長・副校長らは、それを遵守することが求められるようになりました。

「学校の教育推進のために仕事をしてくれている」とはわかりながらも、時間外勤務が長くなる教員には「早く帰りなさい」といわざるを得なくなります。

しかし、その一方で、教育課題は2016年以降も増え続けます。GIGAスクール構想、新型コロナウイルス感染防止対応、小学校での英語教育の拡大、プログラミング教育、SDGs学習、子ども間で起きるもめごとへの指導、地域の行事への生徒・教職員の参加・・・などです。

そこで、管理職の「指導」と肥大化する仕事の間に挟まり、苦しむ教員が増えるのです。


そもそも、教員の働き方改革を掲げる国が、その片方で経済的発展と社会的課題の解決を両立させる社会(Society 5.0)に向けたあらたな取り組みや対応を学校に求めているのです。

また、日本では何か課題が出てくると、何でもすぐに学校教育に求める傾向があります。

「これも対応しなければ」「あれも子どもができるようにならなければ」・・・。

授業に終わりはありません。たとえば「私の授業は40才で完成しました」などとなることはなく、つねに研究と研修が求められるのが教職という仕事です。

そこに学校の教員は、人にもよりますが、自分の仕事と報酬を結びつけて考えないという傾向があります。

「子どものためなら」「子どもの喜ぶ様子をみるためには」と思い、時間をいとわないという古くからの習慣があります。

もちろん、国も「教員でしかできない学校の仕事」、「教員でなくてもできる学校の仕事」に分け、スクールサポーターや学習支援ボランティアなどの予算措置はしてきています。

しかし、もう何でもかんでも学校教育に「おんぶにだっこ」をするのはやめないと、良心的で善良な教師は時間外勤務を減らして働き方を変えることは難しいのです。

自信はどのように生まれるか

2022年10月20日 07時51分00秒 | 教育・子育てあれこれ

自信がある人とはどんな人でしょうか。どのように自信をつけてきたのでしょうか。

よく成功した体験を積み上げていけば、それは大きな自信になる。学校教育関係者はよくそのように言います。

また、そのように説明する人が世間でも多いと思います。

でも、それでは成功体験を積めない人はいつまでも自信がなく、小さくなっていなければならないのでしょうか。


過去を振り返ることで、結果だけでなくそこへ行き着く「過程」に目を向けた人は、自己のがんばりを認めることができます。

短い年数の中では難しいかもしれませんが、人生の半生を生きた人なら、自分の半生を振り返ると、じっさいに思うことがあります。

それは、「案外、よくやってこられた」と思える実感を伴います。

できなかったことや失敗したことも、自分のいいところもよくないところも、強みや弱みも、自分のすべてをひっくるめて、「これがわたし」と思えるようになってきます。

そして次です。今までもやってこれたのだから、これからも明日からもなんとかやっていけそう/やっていこうと思えることができます。

それが、自分に自信をもつという本当の自信でないかと思うのです。

かりに、まわりから認められなくても、自分の生きてきた道程の「過程」に目を向ければ、自分にしかわからない宝もののような過去がたくさん横たわっていることに気がつきます。

それが、成功した、失敗したに関係なく、本当の自信のよりどころになるのです。

自分との対話 とは

2022年10月19日 06時44分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私は校長在任中に中学生に対して、「自分を見つめる」ことを一貫して話してきました。

「自分を見つめる」方法の一つは、「自己と対話する」ことと言い換えることができます。

中学生は思春期の年齢にあたりますから、発達段階からみても個人差はありますが、自分を見つめることができるようになります。

私たちはふつう対話といえば、自分以外の誰かと話すことを思い浮かべますが、基礎になるのは自分と対話することです。

自分のことを客観的に把握できていない人は、おとなでもじつにたくさんいるのです。

たとえば、小さい頃から「がまんしなさい」と親からいわれ続けてきた人は、知らず知らずのうちに自分の気持ちを抑える習慣がつきます。

「こんなことで耐えられない自分はよくないのだ」と思い込んでしまいます。

また、「こんなことでメソメソしたらダメ。世の中にはもっとつらいことがいっぱいあるのよ」

こう言われて育ってきた人は、「つらい」と口に出していうのはよくないことと思い込んでしまっています。

「自分がされたらイヤなことを人にしてはダメだ」と教えられて育てられた人は、相手に必要以上に気を遣い、相手の気持ちを察しようとします。

このような事情で、自分のことをきちんと把握できていない大人は多いですし、それは中学生でも同じです。


そこで、「自分との対話」とは、自分の気持ちを大切にするということにもなります。

喜怒哀楽の感情を感じたら、「こんなときはうれしいな」「相手がこう言ってきたら腹が立つよ」「自分がこんなめにあい悲しい」「相手からこうしてもらったら楽しい気持ちになるよ」と、自分の気持ちを否定せずにありのまま感じていいのです。

ただし、対人関係でこの言葉をそのまま発すると、人間関係がうまくいかなくなることはあるのですが、心の内で思うのは自由です。

「こんなことを思う自分はダメだ」とは考えず、イヤなことはイヤと思っていいのです。

自分と対話するとは、ありのままの自分の気持ちを自分の中で認識することで、気持ちがすっきりする行動であると言えるでしょう。

無理に自分の気持ちを抑え込むと、気持ちが晴れず、イライラしたり、モヤモヤ感を引きずることになるのです。

自分との対話とは、自分の気持ちや感情に善し悪しをつけず、そのまま認めることです。

考えてみれば、人は毎日楽しく気持ちよく過ごしたいと願っていても、生きるとは悲しいこと、腹立たしいこと、つらいことの連続です。

だから、マイナス要因を自分から引き寄せないようにすることが大切で、そのために「自分との対話」を深めていくのです。

要は、自分との対話とは「あんな言われ方をすると、腹が立つよ」「今日は悲しかったなあ」と自分の気持ちにフタをせず、自分の気持ちや感情を自分の中で認めることです。

体や心の叫びを聴く

2022年10月18日 07時58分00秒 | 教育・子育てあれこれ

私たち人間の体は、今までずっと脳が考え、判断を下し、神経を通して全身の筋肉とか臓器に命令を送り動かすと考えられてきました。

しかし最近の医学では、肝臓なら肝臓が、腎臓な腎臓が、脳の指令に関係なく、自分の働きとして体を監視し、ホルモンを増減させて、健康が維持されていることがわかってきました。

すなわち、それぞれの臓器は、自分の裁量で全身の健康のバランスに寄与しているのです。

ということは、私たちの体は、脳への中央集権型でなく、地方分権が行き届いた集合体であると言えます。

ところが、体は常に健康かといえば、現代社会を生きる私たちです。ずっと刺激にさらされ、ストレスをため込んでしまうことが多く、体の具合が悪くなることもあります。

体にも心にも負担がかかるのが現代社会です。

だから、私たちは定期的に臓器の悲鳴や心の叫びをしっかりと聴いてやらないと、体や心はパンクしてしまうのです。

そのような時代を、私たちは生きているのです。

田舎に暮らしたい

2022年10月17日 05時54分00秒 | 教育・子育てあれこれ
生まれてずっと大阪府の山間部に住んでいると、最近田舎暮らしをもとめて移り住む人が少しずつ増えていると感じます。

以前は、定年退職の年齢層の人が「第二の人生」を求めてやってきました。

いわば人生の「終点」として田舎へ移ってきたのです。

しかし、いまはちがいます。もっと若い年齢層の人が来るのです。

若い世代にとっての移住とは、人生の終点というのではなく、より豊かに生きるための人生の「通過点」です。

首都圏や大都市圏から地方へ移り住む人は、東北大地震後増えたように思います。

地震は、人びとに生き方を問い直す機会を与え、大都市を離れ田舎に移住する流れを加速したのでした。

田舎という土地と地元の人のことが気に入り移住をきめる人も多いようです。

ただし、山間部の田舎に長年住んでいる者として思うことがあります。

田舎はバラ色の楽園ではありません。ユートピアと勘違いしないでほしいのです。

薄れてきたとはいえ、村落共同体的な濃い人間関係の地域コミュニティのつきあいはあります。

それが煩わしいと感じる人は、移住せず、都会の方がかえって一人静かに過ごすことができます。

できるならば、何回か直接そこへ行き、地元の人と話し、四季折々どんな暮らしになるかをある程度知ってから移住した方がいいと思います。