あなたが虚(むな)しく過ごした今日という日は、
昨日死んでいったものが、
あれほど生きたいと願った明日。
(趙昌仁(チョチャンイン)の小説『カシコギ』より)
生きている喜びは、ほかの人とともに生きる生の喜びです。
世界をあらたに知るという知のよろこびです。
また、感性の領域を広げていく感覚の喜びでもあります。
芸術というのはこれらの喜びと深く関係しています。
自分の目の前にある問題やふりかかる不運や不幸にまどわず、現在を生きることの大切さを教えてくれる言葉です。
以前の受験は、大学入試にしても、高校受験にしても、中学受験にしても、どれだけ勉強を積んだか、つまり「勉強量」が重視されていました。
でも、今は勉強量もある程度は重視されますが、それだけでは対応できない状況にあります。
いまは、実生活の中で生じる課題をどう解決するか、また受験者がいかに深く考えて日々の生活を送っているかに関係する問題が出題されるようになっています。
もちろん知識は必要ですが、その知識を具体的な実生活の場で他の知識とつなぎ合わせたり、知識をもとに情報を処理したりすることで解く問題にかわってきています。
その際、考えることがキーワードになります。
知識を覚えるだけでは、人間は人工知能に匹敵するのが難しくなります。
学び続ける姿勢・態度が強く求められるのが今の時代です。
家庭の事情で、親に代わり家事や介護、さらにはきょうだいの世話を担うャングケアラーは、学習や友人関係などに支障をきたす可能性もあります。
本人がその問題点に気がつかず、家族だから世話をするのが当たり前と感じて、意識せずにいることもあります。
行政の支援が必要ですが、職員が家庭の中に入り込む必要があり、簡単にサポートできるものではありません。
子どもや家族との人間関係ができないと、支援は進みません。
また、相談体制を整えることも必要です。
困難なことに直面しても、へこたれず、たいへんな思いをせず、前を向いて歩くのはそうそう簡単なことではありません。
何か突然に転機となる幸運が舞い込んだり、いいことがおこることは、まずありません。
それでも、絶望せずにもちこたえ、踏ん張っていたら、少しずつ何かが変わっていき、ふと気がついたときには、自分は前に進んでいるのです。
希望とは、そんなものではないでしょうか。希望は明るく煌々(こうこう)と輝き、足元を照らしてくれるような場合は少ないのです。
孤独について私が考えていることを書きます。
アメリカのアーティストJ.D Souther(J.D サウザー)の1979年の曲に「You're Only Lonely」という曲があります。
「あなたがひとりぼっちで孤独なとき」という意味でしょうか。
また、日本の楽曲にも孤独をタイトルにしたものがあります。1991年に発表したZARD(当時はZard表記)の「Good-bye My Lonliness」です。「わたしはひとりにさよなら」という意味の歌詞が続きます。
さてこの「孤独」には、英語でsolitude(ソリチュード)とlonliness(ロンリネス)があります。
solitudeは望ましい孤独、lonlinessはどちらかというと有害な孤独になります。
前者は、人との接触や会話に疲れたとき、一人になりたいという感覚です。
一人になって仕事や作品づくりに打ち込みたい。休息や休暇を一人で謳歌したい。
いまはやりの、ひとりランチやひとり旅などはそれの延長上に位置づく行為です。
これは決して悲観的な孤独ではありません。というよりは望ましい状態ではないかと思います。
このsolitudeという孤独は、自分で選んで求めることができるという選択性があります。
しかし、後者のlonlinessは、いまでは精神的にも身体的にも疾患リスクを高めるということが明らかになった、有害な孤独です。
他者とのつながり、人間関係に乏しい、あるいは人間関係から隔絶された状態、突き進むと「孤立」になるのがlonlinessという孤独です。
だれかとつながりたいのだけれど、適切なだれかがいない。選択せずして一人ぼっちに追いやられた場合、その人には苦しみが沸き起こってきます。
そうなると、人づきあいにますます消極的にもなりがちで、さらに孤独が深まり、心身の不調にいたることもあるのです。
福祉の分野では、いま行政は住民の孤独対策・孤立対策を迫られていますが、独りぼっちを防ぐときに、lonlinessとsolitudeを区分して、人間関係の選択性・自由性を施策や事業にどう織り込み孤独・孤立を防いでいくかを検討しなければなりません。
ジャニーズの問題に対して、「ひどい」とか「ダメだ」「とんでもない」と多くの関係者が抱ていた感情なのに、その^事実から起こる感情を言葉にしてこなかったために、今回の被害者側の告発によって社会問題化しました。
この言葉にする=「言語化」はとても大切なことです。
その意味で、メディアが申し合わせたように沈黙を保ってきたことにより被害が広がったという事実は、関係者は重く受け止め自己反省しなければならない。
それなのに、その反省をほとんど表明することなく、今もメディアは会社の対応や、記者会見の様子、記者会見の持ち方などで批判を繰り返しています。
そもそもある事案に対する意見や感想、つぶやきは言葉にして言語化することで、はじめて共感を呼んだり、反発が起こったりするのです。そして議論が始まるのです。
現代人に多いのは、物事にあたる前には、そのための条件を整えたいということです。
それは大切なことでしょう。十分なリサーチをして、条件を整えてから動き出すと、ものごとはうまくいくことも多いです。
織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦い。
山から谷を伝い降り、奇襲攻撃をかけました。
清洲城から出撃したとき、随行馬はたった十騎だったそうです。
兵が集まるのを待っていると時間がかかり、奇襲にならなかったからです。速度優先が第一の作戦でした。
危機に瀕したとき活路を見いだす人は、条件が不足していることを嘆きません。
それよりもその条件の下で何ができるかを焦点化するのです。
物事にあたる前に、そのための条件が整わないと、前に踏み出せない、動けない人が多い。
でもそれは、動かなくてもいい理由を探しているだけなのかもしれません。
危機を迎えたときには、今ある条件の中で思い切って行動する果断さが求められるのです。
コロナ渦が一定程度終息し、街には観光客が増えてきました。
6月に京都へ行きましたが、もう修学旅行のピークは過ぎていました。
それでも、結構な数の修学旅行生を見かけました。
観光客が増え、京都の街には活気が戻ってきています。それは喜ばしいことでしょう。
しかし、喜んでばかりもいられません。
通勤バスに観光客の長蛇の列ができ、道路にはみ出しての写真の撮影、ゴミのポイ捨て。
いわゆるオーバーツーリズムという問題が顕在化しています。
修学旅行生はそのようなことはしませんが、おとなの観光客のマナーの悪さには閉口します。
このままでは、旅行は持続可能なアミューズメントにはなりません。
旅行者と地元の人びとの良好な関係づくりが欠かせません。
いま、修学旅行のプログラムとして、旅行先と旅行者が共存していく旅行者であるための「ツーリストシップ」が注目され始めています。
「消費する旅」から「豊かな旅」にシフトしていくための旅行者の心構えや行動を旅行者側から起こしていく関係のことです。
「調べる」「あいさつ」「聞く」「読む」「守る」「生かす」という6つのアクションを旅行者側から発していくのです。
そのようにして、旅行者と旅行先の間に良好な関係を築こうとするものです。
その6つのアクションを修学旅行生が当日現地で実行するのがツーリストシップです。
学習の深まりに期待します。