箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

ストイックな人

2020年03月31日 07時31分00秒 | 教育・子育てあれこれ

 
 
イチロー選手が現役を引退しました。
 
今年で46歳です。
 
もとをたどると、オリックスでドラフト4位指名でした。
 
しかし、1994年、つまりプロ入り3年目で1軍で活躍を始め、のちに7年連続の首位打者をとりました。
 
その後、アメリカメジャーリーグに移籍して、1年目の2001年には、首位打者、最多安打、盗塁王、くわえて新人賞まで獲得しました。
 
華やかな活躍の陰では、黙々と練習を重ねて、努力の人でした。
 
彼ほど「努力」という言葉が当てはまる人はいないのでないかと思います。
 
まさしく平成一の野球人だったのです。
 
中学生にも、彼の努力するストイックな姿勢は見本とすべきです。
 
努力しても報われないこともある。いや、報われるまで努力してこそ、本当の努力なのです。
 
この言葉が、イチロー選手にはふさわしいと思います。

多く人は、夢にたどり着かず、途中であきらめてしまいます。

でも、「夢は全力で手を伸ばした、その1ミリ先にある」と言う人もいます。

ストイックな人は、その1ミリ先にまでたどり着くことができるのです。

しつけと称して

2020年03月30日 07時27分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
昨年兵庫県内の高校の部活で、体罰が行われ、生徒がケガをしたと報じられました。
 
いまどき、生徒を殴る蹴るという体罰がまだおこなわれているのです。
 
 
しつけと言って親がわが子に暴力をふるう事件が頻発しています。
 
東京都では一昨年の3月に、女の子が親からの虐待でなくなりました。
 
大阪府箕面市で、3年前、幼い子が虐待で亡くなりました。
 
そこで、政府は児童福祉法と児童虐待防止法を改正して、体罰禁止を閣議決定しました。
 
改正案では、親権をもつ人が体罰をしてはならないことを明記しています。
 
ただし、学校での体罰と親による暴力は似ているようで、性質が、若干異なります。
 
学校での問題は、法で裁けばいいのですが、家庭の問題に法が入るのは、難しい側面があります。
 
しかし、よしにつけ悪しきにつけ、家庭の問題に法が関与せざるをえない今日的現状があります。
 
しつけと称する虐待は、ここまで深刻になってきているということです。
 


人の怖さも知らないと・・・

2020年03月29日 07時51分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
私は、田舎で生まれ、子ども時代を田舎で暮らしましたので、いわゆる「世間」と近いところで育ちました。 
 
よく親は、「世間に恥ずかしくないように」と言いました。
 
ありがたさと同時に、他人の悪口を人が言うという世間の、ある意味の「怖さ」も知らされたのです。
 
当時は、葬式は自宅でやるのが普通でした。
 
そうすると近所の人が家の中に入ってきて、てんぷらを揚げたり、料理をかわりに作りました。 

参列者の受付を近所の人がしてくれました。

つまり、葬式は地域共同体的な絆で運営されたのでした。
 
近所の人に会ったらあいさつをするように親からしつけられました。
 
これはこれで、子ども心に煩わしく感じたこともありました。 
 
しかし、当時田舎では、人は世間と近いところで生きてきて、その恩恵を受けていたことも事実です。
 
たとえば、ご飯のおかずを近所の人がおすそ分けしてくれるといこともありました。
 
隣の人への関心が高かったのです。 

松尾芭蕉の「秋深き 隣はなにを する人ぞ」の精神が息づいていました。
 
そして、人が周りの人の感情とか周りの人がどう思うか、どう感じるかということに、かなり敏感だったのです。

 
でも、今の時代では、人はそれほど周囲の人びとのことを気にしなくても生きていけるようになりました。 
 
これは突き詰めると、周囲の人が何を言おうと、何を思おうと自分には関係ないという人が増えたということです。 
 
人との絆で助けられることが少なくなった分、人間の「怖さ」を知る機会も減ったという考え方もできます。 
 
この50年間で、日本の社会は大きく変化したというのが、私の実感です。
 
思えば平成の約30年間で昭和の時代の価値観がすっかり変化したのだと、いまさらながら思います。 
 
その日本社会の変化の中で、教育で、子どもが人とのつながりをどう結び、何を学んでいくかが、あらためて問われるのです。

遠回りをする

2020年03月28日 07時26分00秒 | 教育・子育てあれこれ


若い教員や現役の中学生に考えてほしいことがあります。

ものごと何でも、「コツ」をきこう、教わろうとする態度は改めた方がいいです。

「コツ」を聞きたがっているのは、すなわち、近道を手に入れようとしていることです。

ものごとが手っ取り早く成就することは、ほとんどない。

また、相手にとっては、コツを他人に伝えるということは難しいのです。

コツというものは自分だけの感覚であり、言葉にして表しにくいものです。

たくさん遠回りをしたらいいのではないでしょうか。

その人しか知らない道が見つかります。





流れるように

2020年03月27日 13時53分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
川や雲は一箇所にとどまらず、常に流れゆくものです。
 
すべてのものは流れゆくのです。
 
これを「行雲流水」(こううんりゅうすい)といいます。
 
心や動作を一箇所にとどめない生きかたがいいのかもしれません。
 
川の水や雲が流れるような柔らかで、私たちは自然に身を任せます。
 
血流は一箇所にとどまるようになると、血流障害となり、体に異変が起こります。
 
ですから、心や動きをひとところにとどめないと、心や体はほぐれます。
 
流れるような生きかたをしたいと思います。
 

コロナウイルス休校と部活

2020年03月26日 07時32分00秒 | 教育・子育てあれこれ

中学校では、3月はじめから部活動ができなくなり、今回あらたに春休みも部活動ができなくなりました。

新型コロナウイルス感染防止のため、仕方がないことですが、この休校による部活動停止がおもに運動面で、中学生に与える影響を考えてみます。

それは、体の動きがしなやかさを忘れ、不器用な動きに戻るかもしれないという影響です。

そもそも運動する人は、上半身と下半身、または背中や腕や脚などの各部分をうまく連動させればしなやかな動きができます。

実際、部活動をしている中学生の体の動きは、体育の授業のときでも、柔らかくしなやかな場合が多いです。

野球では「手打ちはよくない」としばしば言われます。

バットは、腰などの体幹部分を使い、下半身の力をうまく上半身に伝えることで鋭く振ることができます。

毎日短時間でも部活動をしていると、この全身の動きのコツというか感覚を身につけることができます。

しかし、1か月以上運動をしないと、今までにせっかく身につけたしなやかな全身の動きを忘れてしまうのでないかという危惧を私はもっています。

これは、運動だけでなく、吹奏楽の楽器練習も同様です。

運動も演奏も、毎日練習していても、今日はうまくいったという日もあれば、昨日はうまくいったのに今日はなぜか感じが違う・・・。

毎日やっていても、自分の体がうまく動かないときも、うまく音が出せないこともあるのです。それほど、自分の体はわからないことが多いのです。

だからプロのアスリートや演奏家は、その「わからなさ」とつきあい、大会や演奏会にあわせ、ベストな状態になるよう調整するのです。

今後、いずれ部活動は再開されるでしょう。

ドリブルやパス、シュートなどの実践的な動きを繰り返すうちに、また部員とともに合同演奏をするうちに、ようやく以前の感覚が戻ってくるでしょう。

ただ感覚というものは、その子だけにしかわからないものです。

ですから、その感覚を取り戻すまでには、けっこうな日数がかかると予想します。

なぜ毎日練習するのかといえば、感覚というものは繊細で、毎日少しずつ刺激しなければ磨けないからです。

60歳まではリハーサル

2020年03月25日 08時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
人は誰もが自分の中に何らかの可能性をもっていると思います。
 
 
ただ、その可能性を十分に引き出しいるかといえば、少ししかいかしていないのです。
 
生きるとは自分の可能性を引き出して伸ばしていくことになります。
 
そのためにはまずはやってみることです。
 
やっているうちに、できるようになることがあるかもしれないのです。
 
こう考えると、人間は死ぬまで才能を開発するチャンスがあります。
 
60歳が定年退職だとすれば、人生60歳までがリハーサルという考えもできます。
 
人生100歳時代といいます。
 
今、中学1年生の子どものおよそ半数は100歳まで生きるという説もあります。
 
定年年齢は今後引き上げられます。
 
また、兼職や副業が認められるようにもなるでしょう。
 
60歳までがリハーサルだとすれば、残りの40年間で健康と体力維持を図り、自分の可能性を引き出し、磨くことに傾注すれば豊かな人生になります。

教育に関していえば、学力向上も大切ですがら100歳まで生きるための健康な食生活と体力の維持を図ることか大切になるでしょう。
 

できないことにしよう

2020年03月24日 07時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
わが子が学習に熱心でない場合、親はふつう「うちの子はちっとも勉強しないの」と言います。 
 
学習するかしないかはすぐに始まるものではありません。小さい頃からの積み重ねがあります。 
 
学習したけど、思い通りの結果を出せなかったという経験が子どもを支配していることもあります。 
 
友だちとの関係で、自分の行った行動が相手にいいように思われなかったとか嫌われたりした経験をもつ子がいます。

その場合、人との関係で、よく思われなかったり、嫌われたりして傷つくぐらいなら、人との関係をつくらない方がいいと思っていることがあります。
 
同様に、学習してテストに臨んでもいい結果が出せなかった子は、最初から勉強しなければ小言を言われなくてもすむと感じてしまいます。 

そして、学習に取り組まないでおこうとします。
 
勉強しないとき、親がいさめると、いさめられた子は、「どうせ、私はできないし」と自尊感情を下げますし、自己への信頼感を下げてしまうと考えられがちです。

でも、本当は、自分の取り組むべき課題から目をそらすために、親がいさめたことを理由にしているのです。 
 
親は、子どもが意図的に学習しないようにしているのかどうかをみきわめ、子どもからの「挑発」に乗らないようにすべきです。 
 
学習するのは、子ども自身が取り組むべき課題であるので、親は子どもに「勉強は、自分のためにしっかりやりなさい」とブレずに話し込むのです。  

専門職としての教職

2020年03月23日 11時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ

お客さんが、ホテルに泊り外出するとき、またはチェックアウトするとき、フロントでホテルマンが必ずと言っていいほどいう言葉があります。

「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」

ふつう私たちは気に留めませんが、なぜ「お気をつけて」なのでしょうか。

映画『マスカレード・ホテル』で、その理由を説明する場面がありました。

お客さまがホテルにいる間、ホテルマンはプロフェショナルとして、精一杯の心遣いをして快適な生活ができるようにもてなします。

でも、お客さまがいったんホテルを出られたら、ホテルマンには無力なので、お客さまの無事を祈る。

だから、「お気をつけて」になるそうです。

このように言っていました。

なるほどと思いました。

専門性というのは、こういうものだと思います。

職場というフィールドにいるときは、その専門性を発揮して、最高のパフォーマンスで活動することが大切なのです。



ちなみに、私の考えですが、「専門性」と「専門職性」は、若干のニュアンスの違いがあると考えます。

たとえば、寿司屋の職人は「専門性」を発揮して、美味しい寿司を握ります。

いっぽう、医師は「専門職性」を発揮して、最高の医療や治療を提供します。

このように、専門性と専門職性を使い分けます。

どちらも専門であるのは共通しているのですが、どう違うかといえば、医師には医師会があり、医師会の見解や提言は社会的に認知され、一定程度の影響力を社会や世の中に対してもちます。

たとえば、新型コロナウイルスへの対策について、自治体は医師会の意見を考慮します。


 
それでは、教師はどうかと言えば、教師は教育のプロとして専門職性が必要とされるべきというのが私の考えです。

だから、教師が飲酒運転をしたら、懲戒処分があるのです。それだけ社会的影響力が大きいと考えられるからです。

しかし、私の意見では教職の専門職性は、いまだ確立されていないのです。

神戸市の小学校で起こった教師どうしの問題のように、専門職性には遠い面もあります。

でも、教師が教育のプロであれば、親御さんも安心して子どもを学校に預けることができます。

また、子どもの学習や育ちについて、親御さんが先生に相談して、「さすが」と思えるようになるように、教師は専門職性を磨かなければならないのです。





主体的に学ぶ

2020年03月23日 07時22分00秒 | 教育・子育てあれこれ
いまの中学校の授業や学習では、生徒が主体的に学ぶ過程を、たいへん重要視しています。

私は子どもの頃から、自然豊かな環境で育ち、大きくなりました。

そのため、自然の中に住む動物に親しんで育ちました。

中学のとき、理科の第二分野で脊椎動物の5種を学習しました。

いわゆる魚類、両生類、は虫類、ほ乳類、鳥類などを体系的に学びました。

これは恒温動物、あれは変温動物、卵生とか胎生、呼吸はえら呼吸、肺呼吸などを学習しましたが、知識が吸い込まれるように身につきました。

動物を扱った1年2学期の中間テスト(理科)は満点でした。
(もっとも、他の分野ではそのような点数は取れませんでしたが。)


そこで、思うことがあります。

自分の興味関心に根づいた主体的な学習は、なによりも切実さが違います。


興味関心がひきつけられ、学ぶことそれ自体が楽しければ、「覚えなければ」と意識しなくても、さまざまな知識や技能がおのずと身についてきます。


このような「結果的に身についた学力」は、頭から抜けていくことがなく、その後の人生のどこかで実を結ぶのです。


ところが、受験や定期考査のための学習は、「意図的につけた学力」と言えます。


過去問を重点的に解くことや試験範囲を集中的に学習してつけた学力は、そのまま生活に役立つことは少ないのです。

短期的な目的がはっきりしているから、試験が終わればその内容は頭から抜けてしまうことが多いのです。


体から湧き起こってくる興味関心は、学びたいという「衝動」であると言えるでしょう。


「ねばならない」という硬直した動機ではない、しなやかな動機です。


人の学習は、学校へ通う時期にとどまるものではなく、社会人になっても、シニア世代に入っても、生涯にわたって続き、「結果的に身についた学力」となります。












願望を育てよう

2020年03月22日 08時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ




「欲望」と「願望」を取り違えてはいけないのです。
 
 
どちらも望みであるのは同じです。
 
 
でも、欲望は自分の欲から始まっているものです。
 
 
一方、願望とはその望みがその人の願いから始まっているものです。
 
 
たとえばの例をあげましょう。
 
 
自分が英語ができると周りから思われたいために、中間テストの英語で100点を取ろうとするのは、欲望です。
 
そうではなく、将来海外で、学校に通えず学習の機会がない子に、教えるボランティアをしたいから、英語を学習するのは願望です。
 
そういった意味で、「願い」は「欲」よりもきよらかで、たくさんの人を幸せにするちからを持っています。
 
ただ、わたしもですが、人はとかく欲望をもちやすいもの。
 
だから、欲望をうまくコントロールして願望に育てていきたいと考えます。

「わからなさ」と向き合う

2020年03月21日 07時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ
この問題は、中学校数学の中でも、難問の部類に入ります。

問題と向き合って解こうとしますが、多くの中学生が難しく感じ、「わからない」と言います。

この「わからなさ」が、今回のテーマです。



大阪大学もと学長の鷲田清一さん(哲学者)は、次のように述べられています。

人がなにか一つのことを理解して、腑に落ちるまでには、それ相当の時間がかかります。

「わからなさ」を抱えながら過ごすのはスッキリしないし、もどかしい。

だからといって、すぐに答えを教えてもらうと、深い学びは得られない。

そもそも「わからないことを」をわかろうとするのには時間がかかるものなのです。


この説明は中学生の学習に当てはまると、私は思います。

中学生にもなると、教科の学習はかなりの思考力が要求されることになります。

そのうえ、即時性を重んじるといういまの世の中の流れがあります。

料理を注文したらはやく提供されること、サクサクとネット検索ができること、新幹線の東京-大阪間の所要時間短縮などに価値を見つけようとします。

学習においても、理解が早いことが評価されがちです。

しかし、「わからなさ」を抱えて、ああでもない、こうでもないと考え、やっと解き方を理解できた。

学習の本質はここにあるのだと思います。


学習だけではありません。

人は生きるなかで、さまざまな「わからなさ」に直面して、モヤモヤ感をもちながら、思案して考えます。試行錯誤をします。

その過程を通して、やっと納得できる答え(納得解)にたどり着くのです。

スポーツでも同じです。

選手はコーチや顧問にわかりやすい答えを求める傾向があります。

指導者の指導を求め、自分で考えない生徒がいます。

戦術を教わるのはいいですが、動きのコツは自らつかむしかない。

スポーツでの体の動きは、「今日は思い通りに体が動いた」ということもあれば、「昨日できたと思うのに、今日は体が重い」など選手は感じています。

たとえばフィギュアスケートの選手は、日々、自分の体の「わからなさ」とつきあっています。

楽器の演奏でも同様です。高らかに突き抜けるように吹けるときと、なぜかよどむような吹き方になるときがある。

人は試行錯誤しながら、主体的に取り組むことで初めて動きやパフォーマンスが身につき、感覚が研ぎ澄まされ、洗練されてくるのです。

中学生は、この経験を積むことがとても大切だと私は考えます。


大人でも、仕事や私生活で「わからなさ」に向き合い、モヤモヤ感をもちながら、納得いくまで考えることは大切です。

「わからなさ」があるから、人は課題に向き合い、工夫したり、試行錯誤したりして、どう対処するかをきめたり、パフォーマンスを高め、自分の感覚を身につけていくのです。



最後まであきらめない

2020年03月20日 07時09分00秒 | 教育・子育てあれこれ

いま、新型コロナウイルスの感染防止に、国や自治体、人々が躍起になって取り組んでいます。

 

学校関係者としては、早く感染が収束することで、学校が再開されることをとくに望みます。

 



さて、以前には、鳥インフルエンザが流行したことがあり、そのあと「感染列島」という映画が作られ、私も見ました。

 

そのストーリーでは、日本列島で新型ウイルスが蔓延し、映画の最後では末期的な状況を映し出していました。

 

その映画の最後に主人公が言っていたセリフが印象的でした。

 

「たとえ明日

世界が終ろうと、

私は今日、リンゴの木を

植えるだろ


でした。

 

もとは16世紀の「宗教改革」にかかわったマルチン・ルターの言葉だそうです。

 

リンゴはキリスト教では禁断の実とされていました。「腐敗した教会から迫害を受けても、私は啓蒙活動を行う」という意味が込められています。

 

ものごとは、最後まで希望をなくさず、今できることをやるというのが大事であると教えてくれます。


意見と人を離して考える

2020年03月19日 07時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ

10代の子どもによくあることですが、大人へ反抗する時期には、なんでも反発しがちです。


その一方で好きな人の意見は聞くけれども、嫌いな人の意見は聞かないという傾向もあります。

 

相手に好感がもてないなら、その人が正論を言っていても反発することがあります。

 

そこで、わたしからのアドバイスとすれば、そもそも意見というものは相手が誰であるかに関係なく、意見そのものを客観的に受けめるものだと思います。

 

だから、「誰が言おうと、正しい意見には従いなさい。まちがった意見には従わなくていいです」と伝えたいわけです。

 

相手の意見を聞くには、自分の意見をもっていなければなりません。


また、自分の考えが正しいとは限らないという謙虚な姿勢で、相手を尊重する態度が求められます。

 

自分の意見がそうであるように、相手の意見はその人が生きてきたストーリーや歴史から生まれていることも多いのです。

 

そのうえで、人の意見を聞いたとしても、最終の決断は自分でくだすのです。

 

その意味で、その決断した結果は、自分が引き受けなければならない。


そのような厳しさも求められることを、子どもには少しずつ学んでほしいと思うのです。

 

自分が聞きたくない意見には、意外にも真理がふくまれていることもあると考えます。


自分を信じる

2020年03月18日 08時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ

『鉄腕アトム』を生んだ今は亡き手塚治虫さんは次の言葉を残しました。

 

「人を信じよ。しかし、その百倍も自らを信じよ」。

 

自分のことを信頼する力を「自己信頼感」と呼びますが、平たく言えば「自信」という言葉に置き換えることができます。

 

この「自己信頼感」が低くなれば、「どうせ私にはできない」と感じて、ものごとへの責任をもてなくなり、周囲の人に依存しやすくなります。

 

自分自身で自分を信じることができてはじめて、他者に依存するのではなく、他者を信じることもできます。

 

この「自己信頼感」を高めるには、小さなことでもいいので成功を積み重ねていくことが大切です。

 

子どものうちから、この積み重ねをしていくことが有効です。

 

その際、成功したかとかうまくいったかどうかではなく、行動したかしなかったかに目を向けることです。

 

ふだんとちがうことができた。これがチャレンジすることにつながっていきます。

 

チャレンジした自分に対して、「よくやったね」と自己評価することが、「自己信頼感」を高める第一歩です。