箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

能動性は頼もしい

2019年09月30日 06時44分00秒 | 教育・子育てあれこれ








教員は生徒を指導する役割があります。

「〜しなさい」は、生徒によく使います。

宿題をしなさい。

掃除をしなさい。

時間を守りなさい。

友達に協力しなさい。

考えてみれば、じつにたくさんの「〜しなさい」を使います。

これらが、生徒のヤル気と意欲で行われるときは、教員から言われなくても、

学習するぞ(う)。

部活にがんばるぞ(う)。

遅刻しないぞ(う)。

高校に合格するぞ(う)。

人から言われるばかりでなく、自分の意志が働く場合は頼もしいものです。

これをサイをゾウに変えると言います。

受け身でなく能動性が、子どものヤル気を高めます。



50対50ではない

2019年09月29日 11時45分00秒 | 教育・子育てあれこれ









中学生は、きょうだい間で親の自分への愛情が同じであるかどうかを気にします。

そして、同じように愛情を受けているかを気にすると、50対50かどうかという見方になりがちです。

たとえば、兄と弟がいる家庭の場合です。

子どもはふつう、母の愛は兄と弟に対して、50対50たいう発想になります。

しかし、よく考えてみると、それは違います。
 
親のわが子に対する愛は、100:100です。

もうおわかりだと思います。

母の愛は、それほど深く、わが子に対しては、分け隔てなく同等で、それぞれが独立して、兄に対して100パーセント、弟に対しても100パーセントが注がれるのです。

兄と弟に愛を分けて、半分ずつ注いでいるのではないのです。


「公共の福祉」とは

2019年09月28日 11時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ






昨日は、箕面三中で、6限に3年生全クラスを対象にした研究授業がありました。

私は3年C組の社会の授業を参観してきました。

「人権と人権が衝突したとき、どのようなことに留意して対処するべきか」を考えるのが、学習のねらいでした。

日本国憲法第13条【個人の尊重、幸福追求権・公共の福祉】すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

「公共の福祉」に関する具体的な事例が、授業者から生徒に出されました。

ある町では、バイパスの建設計画が持ち上がりました。バイパスを通すと、毎日起きている交通渋滞が解消されます。
しかし、建設予定地には25世帯が暮らしており、立ち退きを要求されています。
うち20軒は40年以上そこで暮らしています。また5軒は農業をしており、農地が建設予定地に含まれています。その5軒は農業で収入を得ています。こういう事情で、25軒はバイパス建設に反対しています。

さて、あなたは立ち退きに賛成か反対か、また理由を述べなさい。

これを一人で考えたり、周りの生徒同士で意見を交流したり、グループでどう対処すべきかを考えました。

生徒たちは、熱心に考えて、意見交換をしていました。

授業者も、効果的な教材を用意して、生徒たちが深く考えるようなサポートをしたいました。

立ち退きしてもらわなくても済むように、バイパスを立体化して、予定地の上を通すとか、地下を通すとかと、考えたグループもありました。

また、十分な補償金を払い、立ち退いてもらうと考えたグループもありました。

私の考えは、次の通りです。

「公共の福祉」によって人権が制限されるというと、「多数の人の利益になるときには、少数の人は我慢すべきだ」と考えがちです。

しかし、それはつき進めると、個人よりは公共の利益が優先することになり、個人を尊重する理念(憲法第13条「すべて国民は個人として尊重される」)とあわなくなります。

したがって、個人の人権を制限できるものは、別の個人の人権でなければならないのです。

決して「国のために」とか「地域全体のために」少数の人に我慢させるのではなく、個人の具体的な幸福を考えた議論をしなければならない。

私は、基本的にこのように考えます。

「公共の福祉」とは、すべての人の人権がバランスをもって保障されるように、人権と人権の衝突を調整する概念です。

その意味で、「公共の福祉」による人権の制限を考えるときには、「誰のどのような利益を守るために人権を制限するのか」と具体的に考えるべきだと思います。

人権侵害は、常に多数派(マジョリティ)が少数派(マイノリティ)の人権を侵害することにより起こるのです。

この観点で、本日の授業で、もし生徒が「地域のみんなのために」バイパスを建設する前提で25世帯の人びとに我慢を強いらせるという発想でいたのなら、「公共の福祉」を濫用することになります。

本日の学習のめあて「人権と人権が対立したとき、何に注意して対処すればいいか」の行きつくところは、個人として誰もが幸福な暮らしをするという観点で、どう折り合いをつけるかという自分なりの考えをもってくれればいいと考えます。







何を言っても許されるのか?

2019年09月27日 07時33分00秒 | 教育・子育てあれこれ









最近は、ネット上には、さまざまな意見や感想、ものごとの見方が書き込まれています。

そのなかには、人を攻撃したり、客観的にみて悪意があるのではないかとも思える言説があったりします。

そして、その書き込みは「言論の自由です」という考え方を後ろ盾にしています。

事実を誤って捉えていたり、偏見に満ちている、デマでも、空論であっても、人はそれらを自由に言うことができるということが「言論の自由」である。

しかし、これは言論の自由を誤って解釈しているのでないかと、思われます。

「言論の自由」とは、そんな浅はかな概念ではないのです。

言論が行き交う場で、その場が言論を審査して、それに耐える考えや意見、言葉が後の時代にもずっと残っていくという原理を信じる環境の中で、責任をもって発言する自由のことだと、私は思います。

その審査を受ける覚悟で、人は言論する自由があるのです。

人を傷つけたり、攻撃したり、聞くに耐えないようなヘイト言説やデタラメな誤認情報を、「言論の自由」だと、何を言ってもいいなんてことはないのです。

保育料の無償化

2019年09月26日 06時56分00秒 | 教育・子育てあれこれ







夫婦の共働きがふつうになっている今、わが子を預かり、保育をしてくれる保育園の確保は親にとって大切です。

安心して保育園に預けることができると、親は仕事に従事しやすくなります。



国は今年の10月から幼児教育・幼児保育の無償化を決めました。

所得制限がなく、3歳から5歳までの子どもの幼稚園や保育園の保育料が無料になるよう、予算を投じます。


その無償化は、認可保育所や幼保連携型認定子ども園が対象になりますが、加えて、いわゆる認可外保育施設なども対象になります。

認可保育所と認可外保育施設の違いは、前者ではふつう全員が保育士免許を持つのに対して、後者は3分の1以上が持っていればいいという基準になっています。

ところで、最近、保育園などでは、子どもが大きなケガをしたり、場合によっては死亡する事故が増えています。

これを防ぐためには、本来なら、国の保育士の配置基準を引き上げ、待遇も改善することが必要になります。

子どもの安全のためには、多くの保育士がさらに必要になるからです。

だから、配置基準を引き上げるべきであり、そのためにはさらに保育士が必要になるので、待遇を改善して保育士資格をもつ人の雇用を促進すべきでしょう。

そこで、自治体によっては、独自に待遇改善に取り組んでいる場合もあります。

箕面市では、保育士資格を待ちながら、他の仕事をしている人が、保育士になれば毎月2万円を上乗せして3年間支給します。

また、退職したもと保育士の人に個別の復職支援を行います。

さらに、将来箕面市で保育士を目指す学生へのサポート制度を設けています。

その上に。待機児童をなくすため、保育所定員を増やそうとしています。



ただし本来は、保育料の無償化よりも保育士の配置基準の引き上げと待遇改善に、国が率先して先に取り組むべきだと思います。






余白が語る

2019年09月25日 18時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ











書道では、書く字の美しさ、うまさを問題にしますが、じつはそれと同じくらい余白を大切にします。

字体の美しさと余白のバランスが重要なのです。

見事な字は、余白が引き立てるというか、余白が物語るのです。


これは、人の生活の仕方や生き方にも通じるのでないかと思うのです。

字体が、人が行う言動だとすると、言外の意味を推し量るとか、あるいは、文脈を読むということにもつながります。

それは、日本古来から、日本文化が大切にしてきた価値観なのです。

英語は、表現されていることがすべてであり、文脈を読む必要はほとんどありません。これをLow Contextといいます。

一方、日本語は書いてあること以外に、伝えたいメッセージが隠されていることが多く、High Contextが基本としてあります。

もっとも、最近、日本文化でも、奥ゆかしさや言外の意味を読み取るということをあまりしなくなりました。

次期改定の高等学校の国語では、選択科目として、「論理国語」が導入され、文学を扱わなくなると危惧されています。

そこまで言うのは言い過ぎだと、私は思いますが、時代の流れは、グローバル人なら論理的文章を読む力をつけるには、やはりLow Contextの文書が読めないとね、という考え方に傾いてきています。

しかし、小説を読んで、High Cotextの文化に触れるとも、高校生には大切なことです。

中学生の頃、芥川龍之介の『トロッコ』に出てくる良平の心理の変化に触れ、私は触れました。

夕陽が山に沈みかけるときの「あまりにも遠くへ来てしまった。早く家に帰らないと」という良平気持ちと私の実体験が重なり、ビンビンと私の心に迫ってきたのでした。

余白の美しい生き方をするという文化に、中学生も触れてほしいと、私は思います。








人をつくる

2019年09月24日 07時36分00秒 | 教育・子育てあれこれ








中学3年生は、今の時期、部活を引退した生徒がほとんどです。

吹奏楽部も、この時期あたりに定期演奏会を開く中学校が多く、この演奏を一定の区切りとして、多くの3年生が引退します。


さて、部活には、結果がついてきます。

豊能地区で優勝(上位入賞)すれば、大阪府の大会。

大阪府の大会で優勝(上位入賞)すれば、近畿大会。

近畿大会で優勝(上位入賞)すれば、全国大会。

中体連の大会は、ほぼこのように最終は全国大会につながっています。

ですから、大会に出場すると、「結果」がついてきます。

みんなが、その結果で一喜一憂することになるのです。

しかし、その結果は、時とともに色あせてきます。

でも残るものがあります。それは思い出です。

3年の夏に近畿大会に出場できた。そして全国大会には及ばなかった。

この場合、中3の夏には近畿大会に出場したという結果が残ります。

「結果」は思い出として残るだけで、それ以上でもそれ以下でもありません。

上位大会に進むことができるのは、ほんの一握りの中学生であり、大多数の生徒は3年間部活をがんばったという努力を残して、引退していきます。

本当は、中学生が部活をする意味は、どんな結果を残したかより、日々の練習に励み、技術の上達をめざしたり、チームワークを築くなど、努力する過程にあるのでしょう。

部活は、さまざまな意味で、人を成長させます。


すなわち
努力の過程は人をつくり、結果は思い出をつくる。

となります。

試合に負けて、部活を引退したとき、努力はしたけれど、結果が出せなかった多くの部員たちは、人として成長できたと、本人が感じてくれればと思います。






足もとのゴミ

2019年09月23日 13時26分00秒 | 教育・子育てあれこれ









廊下を歩いていて、突然かがみこみ、落ちているゴミを拾う。

私がふつうのようにしていたら、見ていた生徒がいいました。

「校長先生、ゴミを拾うのですか?」

「うん、そうやで」

・・・・・・・・・・・・

私にしてみれば、ごくふつうの行動なのです。


いまでこそ、ほとんどありませんが、今から20年以上前、中学校が荒れていたころには、生徒はよくゴミを投げていました。

ちなみに私が教師になった頃は、中学校で全国的に吹き荒れた校内暴力が、少し落ち着き始めたころでした。

それでも、授業をエスケープして、廊下に寝転んでいる生徒がいました。

昼休みには、三角形のテトラパックの牛乳が5個ぐらいまとまって飛んできて、ガラスに当たる。

すると、パックははじけ、ガラスの表面は真っ白になり、ミルクの「滝」が流れました。

生徒指導に注力して、そんな状況はおさまりましたが、次はゴミの問題でした。

中庭はゴミだらけということもありました。

なかには、わざと紙吹雪を作ってベランダから撒いている生徒もいました。

配付したプリントは紙飛行機になって、ユーラユラと校舎と校舎の間を飛んでいたこともあります。

そんな状況だったので、教師は校内に落ちているゴミをゴミぶくろとハサミをもって歩き、ゴミをよく拾いました。

私にとっては、それが習慣というか、教師としての性(さが)のようになっていました。

ただ、どんなゴミが落ちているかで、生徒の様子がわかるということもありました。

行事が近づくと、プリントよりも、学校行事に関係したゴミが多く落ちていました。

定期考査が近づくと、学習プリントのゴミが増えました。

それにより、行事前の浮ついた気持ち、テストが近づくイライラ感を生徒が感じているのかと考えました。

その当時と比較すると、今はわざとゴミを投げる中学生はほとんどいなくなりました。


まあ、それでも、大勢の生徒が生活する学校では、廊下や階段にときどきゴミが落ちています。

さまざまな体験をしてきて、いま生徒に思うのは「足元のゴミにそっと手を伸ばせる人になってほしい」ということです。、

それは、環境教育というようなおおげさなものではなく、ゴミが落ちていたら、自然に拾うという人間的な行為です。

だから、私は黙々と掃除の時間、一人ででも、ホーキをもってゴミを集めている生徒には、惹かれるのです。

「ご苦労さま」と、ねぎらいの言葉をかけたくなります。

そんな子は、大人になっても、身の回りを整理する人になるのでないかと思います。



支えになる体験

2019年09月22日 06時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ








私たちは、毎日、たくさんのできごとや情報に接しています。

その接し方とは、見ることであったり、聞いたりすることがほとんどです。

見たり、聞いたりしたことを一つ一つ覚えていることはありません。

第一、それらを全部記憶していたら身がもちません。

それほど私たちは、たくさんのできごとや情報に、毎日接しているのです。

ただ、それらのうち、よほど印象に残ったり、とくに喜怒哀楽を感じたりしたものは、覚えているのです。

私が箕面三中に勤務した4年間でも、覚えているできごとと忘れてしまっているできごとがあります。

たとえば、着任したときのあいさつを全校生徒にしていると、体育館に阪急電車箕面線の電車の走る音が聞こえてきたことは、今でもはっきりと覚えています。

市内8中学校のうち、三中だけが電車の音が聞こえるのです。

こんなに電車に近い学校なのたと、新鮮な驚きでした。

また、生徒たちには、4年間でたくさんの話をしましたが、そのなかでも、とくに印象に残っているのは、「亡き母へのトランペット」です。

これは、東北地震で母を亡くした陸前高田市の女子高校生が、悲しみから立ち上がり、流された自宅あとで、トランペットで「負けないで」を一人で演奏して、亡き母へ捧げたという実話を全校生徒に語ったものです。

私も話しながら、胸がいっぱいになりました。

聴いていた三中の生徒が、「校長先生の話は、心に入りました」と感想を話してくれました。

ただ、このような語りは、その時の全校生徒の様子など、いまでも脳裏にしっかりと焼き付いていますが、多くの場合、人の記憶から消えていくケースが多いのです。

それほど、私たちは毎日たくさんのできごとや多くの情報に出会っていて、日々記憶は更新されているのです。

だから、私たちは、ふつう見たり聞いたりしたことは、いずれ忘れていきます。

でも、忘れないものもあり、それは見たり聞いたりしたことでも、受け手がとくに心を動かされたものは、覚えていきます。



それ以外に覚えているものは、自分が体験したことです。

つまり、見たり聞いたりしたことは忘れても、体験したことは忘れないのです。

そして、体験が人を成長させるのです。

とくに思春期の感受性が豊かで、鋭い時期に、体験したことは一生忘れることがないのです。

生徒たちには、中学時代に、さまざまな体験を重ねてほしいと願うのです。

その体験は、これから大人へと成長していく子どもたちの、人生のいしづとなります。

そして、体験したことが、なにか一つの言葉にまとめられて、凝縮して発せられた場合、言葉が残っていきます。

五木寛之さんは、そのように、後々まで残り、なにかの局面で思い出し、人生を生きる支えになることばを「杖言葉」と呼んでおられます。

三中を巣立っていった子や現2・3年生は「杖言葉」をもっているでしょうか。

(冒頭の写真は、インターネット上の「亡き母へのトランペット」の関連画像から引用しています。)

忍耐力をもつのは大人

2019年09月21日 17時25分00秒 | 教育・子育てあれこれ








私たちは、子どもにこんなふうな人になってほしいと願うのがふつうです。

子どもを育むおとなである教師や親御さんにすれば、当然、こんな力をつけてほしいとか、この資質を育てたいと感じるのは当然です。

だから、常に望みや願望をもち、子どもに要求することが多くなるのです。

教師や親が思い描く子どもにスクスクとなってくれればいのですが、そうはいかないのが子どもです。

実際のところ、子どもが成長するには時間がかかります。

教育や子育ての結果はすぐには現れないことが多いのです。

期待しても、なかなかその通りにならないのが、教育や子育てです。

とするならば、私たちは子どもに求めるだけでなく、自らが忍耐強くなければならないということに気がつくのです。

子どもの養育者の場合、

大人こそ「忍耐力」が必要である。


子どもたちが将来厳しい現実に立ち向かえるよう、私たち大人は忍耐力を持って教育・子育てをしなければならないのです。

このことを、改めて思う今日この頃です。

公教育への信頼

2019年09月20日 07時27分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 



 
 
さまざまな親御さんから聞いてみると、公教育、とりわけ公立小中学校への不信感を聞くことがあります。
 
これはメディアによるところが大きいようです。
 
「いまやOECD諸国の中で、日本の教育水準は低下した」
 
「グローバル社会では、それに対応できる人を育てなければならない」
 
「このままいけは、日本は世界から取り残される」
などと、メディアは国民を煽ります。
 
子どもは成人したとき、高学力で学校の成績が優秀で、英語が使えるのは当然、コンピュータを使いこなし、スポーツができ、芸術の才能もある。
 
このような「スーパー人材」にならないと、将来は生きていけない。
 
差し迫っているかのような脅迫感や切迫感を煽ります。
 
公立学校では不十分だ。小中学校は私学へ行かして、塾や習いごとに通わせよう。
 
では、日本の公教育の水準は高くないのでしょうか。
 
私は、そうは考えていません。

客観的に冷静に現実を見れば、日本の義務教育の水準はたいへん高いものであると考えます。
 
36年間公立中学校に勤務した経験から、私はそう思います。
 
とはいえ、公教育が今のままでいいとも思いません。
 
教師は、子どもの力を適切に引き出して、伸ばすような先生になるべきです。
 
ただ、中学校3年までの日本の公教育のカリキュラムは質の高いものです。
 
自国の歴史を学ぶことのない国が世界にはある中で、日本では、自分の国の歴史だけでなく、他国の歴史まで学びます。
 
海外での進学を目指しアメリカの大学進学適正試験を受けても、日本の子は高得点をとります。
 
教科書中心の学習でも、教育水準として心配はいりません。

私たちは、日本の公教育に、もっと信頼を寄せなければならないのです。

自信は根拠がなくていい

2019年09月19日 06時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ







私がいまの中学生によく言ったり、中学生の課題だと考えていることは、「自信」です。

自分を過信するのはよくないですが、自分はこれができるという自信をもつことは、学校生活を充実させるのには必要です。

自信は、意欲的な生活を送るうえで大切ですし、自己の考えを表明し、意見を言ったりする支えになります。

そして、何よりも自信があればチャレンジする子になります。

そのために、中学生にまず私が伝えるメッセージは・・・

根拠のない自信を持て。それを裏付ける努力をしろ

となります。


自信ができてからチャレンジするのでは、いつまでたっても、ものごとに向かっていくことはできないのです。

自信は後付けでよく、「できる」として、努力を続けると、本当にできるようになります。

気がついた時には、自信が生まれている。



生命保険会社に勤めている教え子がいいます。

「社内でトップの営業成績をあげる」

これを掲げて顧客を回ると、最初はなかなか契約が取れなかったが、誠意をもって努力を続けました。

期日間際に、本人も驚くほどかけこみのたくさんの契約を取ることができ、目標に達したとのこと。

弱気になりがちなときには、背中を押してくれるのが、根拠のない自信です。そして本人の努力なのです。

教育での待つこと

2019年09月18日 07時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ





教育や子育てで、子どもを育てるには、時間がかかります。

とくに、いま、学校教育では、子どもへの教育活動の効果に即効性が求められます。

こんなプランを立て、取り組みや活動をして、その効果を検証して、さらなるプランの改善を進めていく・・・。

いわゆるPDCAサイクルを、学校の教育活動に当てはめようとするものです。

しかし、いまやビジネス界でも、PDCAサイクルに疑問を呈する見方もあります。

それは、どんなにていねいにPDCAを組み立てても、実際にプロジェクトが始まるとPDCAを無視して問題なく進むこともあります。

また、PDCAにこだわると、プロジェクトが前に進みにくくなることもあります。

そもそも、子どもは多様で、誰一人同じ子はいません。

その場、そのときに子どもへ対応していくものであり、画一的な計画は、そのつど変更し、柔軟に向き合っていくものです。

それに、教職は経験則で回すものであり、画一的にこういう効果を期待して、こうすればうまくいくというものではないのです。

また、教育の効果はすぐに現れないこともあります。

こういえば、「そういって、学校の教師は、そのことを逃げに使う」と言う人もいます。

しかし、実際、卒業してからたくましく社会でがんばっている卒業生に会いますが、在校時にはそこまで成長するとは予想できない状況だった生徒もいます。

その意味で、「あとで、その生徒がどう変化するかわからないので、今の教育の成果を聞かれても、言えません」と、教師は「逃げ」につかってはいけませんが、少なくともPDCAサイクルを回すことで、学校教育が何でも改善されていくと考えるのは無理があります。

懸命に子どもの指導・支援に従事したうえで、待つことも教育です。

子どもが悩んだり、壁にぶつかっているとき、教員はもちろん、親もその子の可能性を信じて、焦らず見守ることが大切です。

教育とは、人間教育です。子どもの力を引き出し、伸ばしくことであり、画一的に一律に進めるものではないのです。


よどまない毎日

2019年09月17日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ





ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。(方丈記)


私は生まれた頃からずっと近くに小川のある生活をしています。

だから、都会の喧騒から離れ、川の流れる音を聞くと、妙に落ち着いた気分になります。


流れる水は清らかで、いつも新鮮です。

マンネリ化した日々を過ごしていると、気持ちまでよどんできます。

清らかな流れの川は、「ダラダラせず、いつも新鮮な気待ちでいるのがいい」というメッセージを伝えてくれます。

ルーティンワークは、毎日同じことをコツコツと重ねていきます。

当たり前のことを繰り返していくことは成長したり、力をつけるのに大切ですが、いつも新鮮な気持ちでとりかかることが大切なのでしょう。



年老いた親に対して〜敬老の日〜

2019年09月16日 07時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ



今日9月16日は、敬老の日です。

いわゆる「団塊の世代」の人たちが退職して職場から退き、地域に戻り暮らす人が増えました。

その中には、すべてだとは言いませんが、スーパーのレジで店員さんを怒鳴りつけている人がいます。

これもすべてだとは言いませんが、眉間にしわを寄せ、なにか難しい表情をしている人が、地域の高齢者の中にいます。

レジで待たされるのを見ていると不機嫌そうに見えます。

年老いて、若いときよりも怒りっぽくなり、人を責めている人が増えたというのが実感です。

人の落ち度を責めず、寛大になることを心がけたほうが、自分も楽に過ごせるのにと思います。

年老いると、寂しさに耐えられなくなるのかもしれません。

これは健康にもよくありません。

子は親の元へ行き、世間話でもいいから話をして、親の心情に耳を傾けたほうがいいようです。

私も、年老いた母にできるだけ話をするようにしています。

貝原益軒は『養生訓」のなかで、「友人と妻子と親しくし、恩を受けた親を遠ざけている。なんと愚かなことか」と述べています。

江戸時代に書かれた本ですが、300年以上たった今でも、その教えは私たちの人間関係のありように迫ってくるものがあります。

心のもち方が、健康にも大きな影響を与えていると説く貝原益軒は親と子の在り方について、今の時代にも通じる教えを残しています。

友人や妻・夫、子を大事にするが、父母に対しては、面倒がり、ほとんど話をせず、近づこうともしない。

自分が恩を受けた親を遠ざけることは、人として残念なことです。
自分もいつかは老いていくのです。