箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

子どもへの言葉遣い

2019年05月31日 11時34分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
私はこの4月から、教育専門員として、箕面市内の中学校をまわり、教職経験の少ない教員の授業を参観します。
 
参観後には、時間をとってその教員と面談して、コメントをして指導をします。
 
授業技術や授業内容について指導しますが、教員としての心構えや態度についても、コメントします。
 
 
 
今回は、私が教員の言葉遣いについて感じていることを紹介します。
 
授業では、中学生に敬語をつかわなくてもいいですが、友だち言葉ではなく、ていねいな言葉遣いをするべきだと考えています。
 
何かを子どもに頼むときは、「〜しろ」という命令ではなく、「〜しなさい」「〜してください」「〜してくれるとうれしいです」と言うように、若い先生に勧めます。
 
これを実践する教員は、そのように言ったほうが、子どもは、たいていの場合、気持ちよく頼みを聞いてくれることを経験します。
 
この経験をそのまま受けて、学習をしない子に「学習してくれますか」とか「学習してくれるとうれしい」と生徒に教師が言うのは適切ではありません。
 
でも、言ってみるなら言ったらいいでしょう。
 
ただし、もともと学習するかどうかの最終責任は、子どもが引き受けるべき問題です。
 
「学習してくれますか」というと、「先生のために学習するのではない!」と、反発心の強い子は言い返してきます。
 
「こう言えばあのように返してくるのか」。
 
日々、子どもから学ぶ。
 
このように試行錯誤を繰り返して、教師と生徒の人間関係は、以前と変わってくるのです。
 
そして、教員は育ってくるのです。

はみ出すのが人間

2019年05月30日 18時28分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
私が中学校の学級担任をしていたクラスに、ひとり親家庭の女子生徒がいました。
 
その子は、中学の途中から両親が離婚して、父親と住んでいました。 
 
私は、母親のいない悲しみを彼女が抱えているだろうと思い、何かと気にかけたことを覚えています。 
 
その時の私は、両親がそろっていると、男女というものがそれぞれ子どもに影響を与えて子どもが健やかに育つと思っていました。 
 
両親がそろっている家族の方が、ひとり親家庭よりもうまくいくものだと思い込んでいたのです。 
 
しかし、それは考え違いでした。 人間はそんな簡単で単純てはありません。
 
実際には、ひとり親の方がうまくいく場合もあるのです。 
 
たしかに、子どもは両親がそろっていないさみしさを感じるかもしれませんが、そのことがいろいろな心を育てるかもしれません。 
 
ひとり親は、数としては「マイナス1」ですが、「マイナス」が一人の人間の心を育てるはたらきは大きいのです。 
 
 
失敗をしない人より、失敗をした人の方が多くのことを学ぶかもしれない。 
 
お金に苦労しない人より、苦労する人の方が、物を大切にするかもしれない。 
 
病気をしない人より、病気になった人の方が、健康についてよく知っているかもしれない。 
 
これらのことから、マイナスの効用が期待できると思うのです。
 
じっさい、いま40歳前後になっている教え子が、ひとり親家庭の子であった、なかったに関係なく、社会で活躍しています。 
 
両親がそろっているというのは、観念的な理想型です。
 
しかし、人間の成長というものは、観念からはみ出すことが多いという事実を長年の教職経験から学びました。

光が当たらないところに注目する

2019年05月29日 07時55分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
わたしは5月12日のブログで、「闇に光を当てる」という話題を提供しました。
 
 
「とかくわが子はこれができないとか、あれが不得意という点に注目して、親は直させようとします。 
 
しかし、闇は動かすことも取り除くこともできません。
 
ではどうすればいいのか。それは光を当てればいいのです。
 
光を当てると闇は見えなくなります。 つまり、長所に注目していくのです。 」
 
 
以上が、5月12日のブログからです。
 
 
 
ところが、世の中には、光が当たると、かえって闇の部分が見えにくくなることもあります。
 
その一つは、先般の令和への改元騒ぎでのメディアの報道のしかたです。
 
新元号にかわり、日本中がこんなイベントをしていますというように、全国津々浦々で「令和騒ぎ」が行われていますというような報道をテレビをはじめとするメディアが展開しました。
 
しかし、実際は、全国の多くの場所では、いつもと変わらず、ふつうに5月1日の午前0時を迎えました。
 
つまり、メディアは令和のお祝いというメッセージを出したいときには、それに関連したイベントやニュースに集中的に取り上げ、ふつうに新元号を迎えたという記事は流しません。
 
このように、一つのテーマに集中して光を当てると、その周辺にあるものには光が当たらず、埋もれてしまうのです。
 
 
熱中症で子どもが救急車で運ばれたとなると、ここでもあちらでも熱中症が出ているという報道を固めて、メディアは流します。
 
結果的に、「今の時期熱中症対策が必要だね」という世論ができあがります。
 
しかし、この時期、まだ暑さに慣れていない人は熱中症を起こしやすいのです。
 
運動会や遠足が、熱中症を出さずにふつうに行われたという記事を目にすることはありません。
 
 
まして、いまのネット時代では、SNSを通して画一的な情報が恐ろしい勢いで広がるのであり、それは平成初期の比ではありません。
 
一つの投稿に、あっという間に膨大な数のアクセスが集中します。
 
いまや政治家をはじめとして、人はそれを自分の広報活動に利用します。
 
一方では、誰かの書き込みに対して、誹謗中傷が集まり「炎上」することもあります。
 
私たち情報の受け手は、報道されない、ふつうの、あたり前の事実にもっと目を向け、光が当たらない場所への想いを届かせないと、認識が硬直して同調を強いる圧力に飲み込まれてしまいます。
 
批判的に情報を読み、どの情報が正しくて、どの情報が誤っているのかを見極める習慣をつけなければならないのです。
 
これからの社会を生きる中学生なら、その習慣づくりはなおさらです。
 
光が当てられる周辺の暗い場所に目を向け、状況を客観的に、正確に把握する人になってほしいと望みます。

伝統は磨かれる

2019年05月28日 07時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 みなさんは「不易と流行」という言葉に何を感じますか。 
 
教育でもときどき「不易」と「流行」があると言われます。 
 
たとえば、タブレットや電子黒板のICT機器がいまの学校の授業で必要になるのは、高度情報化社会が進展しているなかで「流行」の部分です。
 
 一方、「教育は人なり」と言われるように、教師と生徒の信頼関係で教育活動が行われるのは、「不易」の側面です。  
 
この人と人が織りなす関係は、人工知能などでは補うことのできない、変わらない営みです。
 
 
さて、私は先日京都の料理店に行く機会がありました。 
 
そのお店で出される料理がおいしかったのはもちろんでした。 
 
ただ、私は運ばれてくる料理が盛りつけてあるお皿にも関心をもって1枚ずつ見ていました。
 
 「かわった柄だ。何焼きだろう」と感じていましたので、お皿の裏を見ると「有田焼」と書かれていました。 
 
「へー、いまは有田焼にも現在にマッチする様々な模様があるのだ」と感心しました。
 
 「有田焼」といえば、日本の伝統的な焼き物です。伝統的というと「不易」をすぐに連想しがちで、私がそうでした。
 
 しかし、そのあと納得したことがあります。 
 
それは、「伝統」というのは、一見ずっと変わらずに同じ製品を生産し続けるように思います。 
 
しかし、「伝統品」は、じつは多くの時代をくぐりながら、多くの個性のフィルターでろ過され、磨かれているのであり、そこには新参者では、まったく歯が立たないような厚みを持っている。
 
 これを伝統と呼ぶのではないかと思います。
 
 いまのインスタ映えする流行に敏感な陶器をつくったとしても、そのデザインの美しさが、伝統の陶器を超えるのは難しいのではないか。 
 
このように、私は感じました。
 
 
 
 
話題を教育に戻します。
 
年期を重ねた教員が実践する授業と、(がんばっている人には申し訳ないですが、)初任者の教員が行う授業とでは、当然厚みが違う。 
 
私は、いま経験の少ない教員の授業を見て指導しています。
 
 年期と経験が人を育てるのであり、教育が大切にする「不易」の部分を伝え、生徒との信頼関係を紡ぐ。 
 
また、人間同士の対話(「言語活動」といいます)を通して、生徒が考え方や表現力を深め、高めていけるような「流行」の学習指導・生徒指導をサポートしていきます。

損得に左右されない関係

2019年05月27日 10時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 この頃の中学生が、心がけていること。
 
れは、自分だけが目立ってはいけない、自分だけが突出しないということです。
 
 
 「空気を読む人」がよくて、「空気が読めない人」は揶揄されがちです。 
 
おとな社会でも同様です。
 
突出すると叩かれたりする。雰囲気を察して、それに合わせていける人がスマートな、人間関係のうまい人のように考える傾向があります。 
 
これほど、突出することはマイナスで異質な存在と考えられています。
 
しかし、これほどまで異質なものを排除する人間関係や社会に生きていたら、人はひそかに、自分の価値をどこかで表したいという欲求が高まってくるのではないでしょうか。
 
 私は、いまは、家族というものが突出してもいいものになっているのではないかと思います。
 
 親は自分の子どもを、よその子と取り換えていいなどとはけっして思いません。 
 
夫婦なら、ほかのパートナーでもいいかも、と思うかもしれませんが、親はその子だけしか自分の子とはみなしません。 
 
つまり、親子はかけがえのいない存在だと感じているのです。 
 
それは、損とか得とかという感情とは別のものです。 
 
このことが、いまという時代では、損得に左右されない普遍的な価値として、私たちの心をどれほど救っていることか。 
 
何かの機会に、子どもにも、「わが子っていうのはそういう存在だよ」と伝えてもいいのでないかと思います。        

勉強だけしていればいいのか

2019年05月26日 08時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
中学生にとって、受験は過酷です。親が、「たいへんだ」と思うのはもっともです。 
 
とくに受験が近づいてくると、わが子に「勉強さえしていれば」と思う気持ちはもっともです。
 
 親にしてみれば、勉強していればとにかくよしとしようと思う気持ちはわからなくもありません。 
 
しかし、考えてみてください。大人が「仕事が忙しくて」という場合、家に帰って家の仕事をしない場合が多いのではないでしょうか。 
 
仕事に精力を注ぎこむから、時間もないし、家の仕事はできない。 
 
でも、本音では、仕事以外のことをしたくないので、仕事が忙しいという理由を口実にしていることも。なかにはあります。
 
子どもが「学習しなければならないから」で、学習以外のことをしなくなると、学習以外のことは何もできない子になってしまいます。 
 
そもそも、家は共同体です。子どもであっても、家族の一員として当然果たすべき役割はあるのです。 
 
子どもとして家でやるべき仕事をやったうえで、学習にも励む。 
 
それが、本来の姿です。 そういった子は、社会に出ても、仕事も一生懸命にやりますし、自分が共同体で果たすべき役割もしっかりと果します。 
 
ボランティア活動とは、本来そういったものです。共同体の一員として果たすべき役割をちゃんとやり、そのうえで自発的に人の役に立ちたいと活動するのがボランティア活動です。 
 
しかし、いまやボランティア活動歴が、会社で採用されるための条件の一つとして重んじられる傾向にあります。
 
 その人たちは、家族の一員としてやるべきことをやらず、学習だけをしてきて大人になり、「大学でこのボランティアをしてきました」と自己アピールに使うというのが現状です。

教育・子育てに期待しすぎない

2019年05月25日 12時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
私の家は、同居でしたので、自分の子どもを育てるのに、おばあちゃん、おじいちゃんがいてくれて、助けてくれました。 
やはり、先人の知恵というものは大きなものです。 
 
同居は先人の子育ての知恵を受けられるという恩恵がありますし、ときには親の「肩代わり」も頼めます。 
 
しかし、世の中では、核家族が多く、余儀なく核家族になっている、または選んで核家族になった家庭では、核家族のプラス面を享受するのと同時に、マイナス面も引き受けなければなりません。 
 
親が仕事で忙しくても、核家族の場合は、育児は父親と母親の二人がその役割を分けあい、協力しあわないとかなりたいへんです。 
 
くわえて、今の時代は子育てや教育について、みんなの理想が高いのです。 
 
これでは、何ごとにも完璧を目指す親の場合、やりきれないだろうと思います。 
 
子どもは、次から次へと何かをしでかします。
 
親が育児不安や育児ノイローゼになる気持ちがわかります。 
 
周囲の人が、母親ひとりに重い責任を背負わせないことが必要です。
 
また、母親も、わが子のことで、あまり深刻にならない方がいいようです。 
 
のんきにしている方が、ホッとできます。 
 
私も、教育や子育てについて、真剣に考えブログを書いていますが、深刻には考えません。 
 
そもそもいまは、社会全体が教育・子育てに期待しすぎです。 
 
国までもが、「将来のIT社会到来に向けた人材の育成に向けて・・・云々」と教育の役割を重要視しています。 
 
私自身は、産業界で立つ人を育てることは、教育の役割でないとは言いませんが、ほんの一部だと考えています。
 
先人の文化を引継ぎ、維持し、発展させ、その人ひとりひとりの人格の完成を目指すのが、教育の本来の役割です。(教育基本法第1条)
 
 でも、考えてみれば自分が母親になる前には、果てしないほどたくさんの母親がいたのです。 
 
その大半の人は、育児不安を抱えながらも乗り越えてきたのです。 
 
だから、自分ものりこえられないことはないはず。「なんとかなるよ」くらいにのんきに構える方がいいのではないでしょうか。 
 
教育・子育ては大切ですが、あまり教育・子育てに過度な期待をかけないほうが、子どもは伸び伸びできますし、親も楽に過ごせます。 
 
平たく言えば、教育の目的とは「いい人間」になるように育てることです。

悩みの発端に立ち返る

2019年05月24日 13時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
中学時代の友だち関係は、けっこう難しいものです。
 
次のような悩みをもつ中学生がいます。
 
 
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いつも数人の友だちといっしょにいるのだけれど、自分の存在感が薄いと思っている。
 
「〜しようよ」「〜へ行こうよ」と友だちの一人が誘いかけるのですが、わたしではない別の子に声がかかる。
 
わたしはその決子たちのきめたことに従うことが多い。
 
なぜなのだろう? 友だちの中でのわたしの存在って小さいのかも。
 
というか、あまり好かれていないのかも。
 
なので、背伸びして目立つ服装をしたり、最新のケータイを買ってもらって友だちに見せようとするけど、なにかむなしい。
 
そんなつまらないことばかりしている自分に嫌気がさす。
 
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これが、自分を否定する「ダブル・ネガティヴ」です。
 
つまり、自分の友だち関係の中での「位置」がイヤ。また、それを気にしている自分がイヤ。
 
この二重の否定にはまり込むと、自分のことがイヤで、悩みが深くなるのです。
 
 
 
不登校の子は、学校に行きたくても行けない自分に悩んでいます。
 
さらに、それだけではなく、親にどれだけ心配をかけているのか、そんな自分がイヤ。
 
 
消えてしまいたいとまで、思いつめることもあります。
 
 
 
こんな場合、時間はかかるかもしれませんが、最初の段階に立ち返るのです。
 
消えてしまいたいと思うほど、自分がイヤになった発端は、学校に行けないことにあったのです。
 
だとするならば、最初の発端に戻り、どのようにしたら行けるようになるのかだけにフォーカスして考えるのです。
 
いや、待てよ。学校に行かないことがそれほど大きなことなのかと考えるなど、発端の行動だけに目を向けるのです。
 
以外と、自分の思い過ごしだったことに気がつくこともあるかもしれません。
 
このように考えることができるようになることを、私がよく中学生に伝えてきた「自分を見つめる」という過程です。
 
人は悩みの真っ最中のときは、その悩みや迷いにほんろうされていますので、自分を見つめる余裕などありません。
 
しかし、悩んだ末に、まるで第三者が自分を見ているように客観的に自分を見つめることができるようになったとき、その子の中に能動性の芽がでてきます。
 
一歩ふみだそう、と変わるのです。
 
そんな子が、再登校するようになったケースに、私は出会ってきました。
 
ただし、自分を見つめることができるには、多くの場合、傍でその子のことを気にかけてくれる大人が必要です。
 
「あなた一人で悩ませないよ。わたしが気にしているからね」。
 
こんなメッセージを送る人がいてくれることが望ましいのです。
 
 
 

大切な存在

2019年05月23日 07時44分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
子どもは、じつに天真爛漫です。
 
写真は・・・
 
おもむろにバスタオルを引っ張り出してきて体に巻いていました。
 
ぐるぐる巻きにしたら、帽子も被せろとせがんできたのでかぶせました。
 
すると、喜んでしばらくこのままでウロウロしました。
 
この頃の子どもは、自分が好きだとかきらいだという意識はまだないのかも知れません。
 
しかし、もともと子どもは自分のことが好きなのです。
 
ところが、大きくなるにつれて、好きになれない状況が出てきます。
 
子どもの成長には個人差があるのですが、親御さんは他の子とくらべ、「あの子にはできるのに、わが子はできない」
 
それを心の中で思っているならまだしも、「なんでできないの」と口に出して言ってしまいがちです。
 
このような発言が重なってくると、子どもは自分をダメな子と思い、意欲を失っていくのです。
 
あるいは、親御さんがそんな言い方をしなくても、他の友だちとの比較で、自分をダメだと思いはじめることもあるでしょう。
 
さらには、両方の場合もあるでしょう。
 
 
 
このようにして、中学生にもなると、自分が好きでなくなります。
 
そんな子には、言葉にして大人が伝えるのです。
 
「あなたは、大切な大切な存在だ」と。
 
私は、自信をもてない三中の生徒に、「あなたは大事な大事な三中の生徒の一人だよ」と伝えたことが何度かありました。
 
だって、三中は1万人をはるかに超える卒業生を出していますが、いま目の前にいる子は他のどの生徒ともちがう、かけがえのない存在だからです。
 
こんな大きな視点で子どもを見守るならば、その子は自分を取り戻す道が開けてくるのです。
 
 
 
 

中学生になって

2019年05月22日 06時31分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
箕面市内の中学生が、この春に書いた文を紹介します。
 
 🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀
 
 
中学生になって感じたこと」
 
4月8日に中学校に入学して、約1カ月がたちました。
 
私が中学生になって感じたのは「いそがしい」です。
 
小学校のときは45分授業でしたが、中学校では50分授業です。
 
その後に部活があって帰ると習い事があります。
 
いそがしい毎日ですが、とても楽しいです‼︎
 
クラスにも慣れて、もうすぐ宿泊学習があります。
 
そして、初めての中間テストもあります。
 
 
中間テストや部活などで、「中学生になった」という実感がわいてきます。
 
これからもいそがしくなると思いますが、少しずつなれていき、楽しい学校生活を過ごしていきたいと思います。
 
 🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀
 
これが中学生になった子の実感だと、私は思います。
 
 
このように、中学生になってちょっと誇らしく思いながら、前向きに意欲的な学校生活を楽しんでほしいと願っています。
 
いそがしくても(忙しくても)、こころ(りっしんべん)を亡(な)くさずに、中学校生活を楽しんでほしいです。
 
また、生徒のこのようなまっすぐな気持ちに、応えていく学校でありたいと思います。
 

正論を通すよりも、感情を伝える

2019年05月21日 08時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 
 
世の中には正論で自分の主張を通そうとする人がいます。
これはあるときには必要なことです。
 
ただし、教育や子育てに関しては、大人が正論を通す前にまず考えておきたいことがあります。
 
思春期の子どもを叱るときには、あまり神経質にならず、子どもを正論で詰めないほうがいい場合があります。
 
一般的に思春期の子は、幼い頃は素直に親の言うことを聞いていたのに、反抗するとか親がだめだと言っているのに、わざとやったりします。
 
あまり強く叱るとダメなのでないかと、親は悩み、迷います。
 
このようなの親の心理は、子どもが間違った方向に向いているので、叱ることで正しい方向に矯正しなくては、と思うことから生まれます。
 
この心理は学校の教師ももちやすいものです。
 
大人の言うことは正しい。
 
あなたは子どもであるので間違っている。だから大人の言うことに従いなさいと伝えているのです。
 
このとき、思春期の子や中学生は、大人からの強制力を感じて、素直に大人の言うことを受け入れることができません。
 
「正しい」のはあくまで大人側の判断です。別の人が聞いたら、「これは子どもの方が正しい」というかもしれません。
 
したがって、「正しい・間違っている」という大人側の「正論」をかざすよりも、自分の感情を直球で伝えるほうが望ましいのです。
 
 
「こんな場所(コンビニの店頭や電車のなか)で、人の迷惑を考えず友だちと大きな声で騒ぐのは間違っている」ではなくて、
 
「こんな場所で、人の迷惑を考えず友だちと騒ぐのは、お母さんはイヤだからやめて。でないと今度から一緒に来れないよ」と直球で伝えるのです。
 
親や先生にイヤな思いをさせている。このことを好む子はほとんどいません。やめた方がいいみたい・・・。こう感じます。
 
中学生の子どもは、命令や強制だと感じると反応の仕方は過剰になります。
 
しかし、人に迷惑をかけていると理解できると、やめておこうと判断する理性を持っています。
 
正論による理屈を話すよりも、大人の感情を伝えることが、中学生を相手にしたときは望ましいのです。
 
 

思い込みを捨てる

2019年05月20日 10時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
この絵はW.E.ヒルによる有名な「だまし絵」です。
 
若い女の人にも、老婆にも見えます。
 
最初に若い女性だと思った人は、しばらくは若い女性だと思い込み、歳とったおばあさんには、見えにくいものです。
 
これほど人は「思い込み」に影響されやすいのです。
 
 
 
子どもが自分の短所だと思っていることは、親も多くの場合気がついていて、わが子の短所だと感じていることがあるようです。 
 
たとえば、「私は落ち着きがない」ので、これがイヤだと子どもが思っていれば、親もわが子のことを「落ち着きのない子」と思い込んでいます。 
 
この点で、大切なことの一つは、「落ち着きのない」→いい・悪いの判断とは別である、と気がついていることです。 
 
つまり、子どもは、自分が落ち着きのないことをイヤだと思っていても、落ち着きがないイコール悪いのではないという点をはっきりと、親も子もわかっているべきです。 
 
イヤはその子のもっている感情だから、否定はできません。でも「イヤ」と「悪い」を明確に区別しておく必要があります。  
 
さらに、大切なもう一つのことは、イヤな点はその人すべてではないということも考えておくのです。 
 
たから、親が子どもに言う言葉は、「あなたは落ち着きのない子だね」ではなく、「あなたは落ち着きのないときがあるね(ところがあるね)」です。 
 
これは自分のことを落ち着きがない子だと思い込んでいる場合に、有効です。 
 
そして、大人は子どもに、落ち着きがない態度をいつとったかについて、思い出させます。 
 
思い込んでいる子は、自分のすることは何でも落ち着きがないことが関係していると思っていますので、その思い込みからリリースさせるのです。 
 
そうすると、じっさいは、落ち着きがないのはときどきであり、友だちに優しいとか、高齢者にためらいなく席を譲るということができていることに、子どもは気がつくこともあります。 
 
思春期の子どもに、私がよく言う「自分を深くみつめなさい」というのは、「ありのままの自分を深く見つめなさい」ということです。
 
こどもが客観的に自分を見れるようになると、自分を好きになるステップを踏み始めているのだと、親は喜んでいいのです。  
 
 
 
 

一人たりとも取り残さない

2019年05月19日 09時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
私は、いま教職経験の少ない教員を指導するため、「教育専門員」として、箕面市内の中学校をまわりアドバイスをしています。
 
おもに授業をみて、後で助言をします。
 
 
授業の内容以外にも、教員として大切にしなければならないことを伝えます。
 
 
生徒を、誰も取り残さないことを伝えています。
 
 
 
誰も取り残さないとは・・・
 
 
学習に後ろ向きな態度で、学習しない子をそののままにしておいてはいけない。
 
 
授業中に寝ている子をそのままにしない。
 
 
クラスの仲間関係になじめない子をそのままにしておいてはいけない。
 
 
 
取り残された子の気持ちに思いを届かせることは、教員としてあたり前の資質です。
 
 
放っておくと、取り残された側は、自分の存在が認められていないと、内心は思っていますよ」
 
 
こんなふうに言って、一人も取り残さないことを説明します。
 
 
「寝とったら起こすんや。授業の妨害をしていないので、授業者が、その子をスルーしてしまうと、相手はこれでいいんやと思うで」
 
公立中学校の教師は、誰にも同じように教育する。どの子も大事にする。
 
もし取り残されている生徒を見つけたら、なにかできないかと精一杯考え、行動を起こす。
 
そんな教師になってほしいと願っています。

自ら光を出す

2019年05月18日 07時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
昨夜は春のおぼろ月が、満月に満ちていました。
 
 
そもそも月は太陽の光を受けて輝いているのです。
 
むかし森鴎外が次のように言いました。
 
 
日の光を籍(か)りて照る大いなる月たらんよりは、
自ら光を放つ灯火たれ。
 
 
 
月は太陽の光があって、はじめて光を放つことができます。
 
 
それならば、小さくてもいいから、自分で光を放つ生き方を志したい。
 
人は、とかく「寄らば大樹の陰」のように、他者にたよるものです。
 
たよってはいけないというのではなく、人にもたれかかるのはよくないという意味に、私は解釈します。
 
他者とつながりながら自立する人というのは、そういうものです。
 
自分でできることは自分で行い、自分でできないときだけ人の力に頼る、そんな人間関係を豊かにもち合わせるのが自力です。
 
 
私は、森鴎外の言葉にある気概を、このように感じ取ります。
 
子どもを自立した人に育むのが家庭教育、子育てのめざすところです。
 
また、中学校教育のねらいを、個人という視点でみたとき、自立した個人に育てることをあげることができます。
 
 

大人との出会いなおし

2019年05月17日 08時01分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
児童養護施設・遥学園をご存知でしょうか。
 
私は、以前にこの学園を訪問したことがあります。
 
大阪府島本町のサントリーの工場近くにあります。
 
遥学園以外にも、大阪府にはいくつかの児童養護施設があります。
 
 
 
さて、子どもは、自分が他の人の役に立っていると感じられたとき、自分の価値を見出すことができます。
 
これは、大人も同じです。
 
この真実を心得た学校の教師は、日常的に生徒によく「ありがとう」と言います。
 
その教師が、生徒に「ありがとう」と言うのは、自分が他の人の役に立っていると感じてほしいから言うのです。
 
人は他の人に役に立てたと思えると、自分の価値を見出し、自分のことが好きになれます。
 
さらに、そのような体験をたくさん積んだ子は、自分が生きていくうえで立ちはだかる壁や課題にチャレンジして解決できるという自信をもつことにもなります。
 
ただし、ここで私たちが心得ておくべきことは、そんな役に立とうとする相手の人というのは、子どもにとって誰でもいいのではないということです。
 
その相手は自分にとっての「味方」になってくれる人でなければなりません。
 
つまり、いざというときには助けてくれる人でないといけないのです。
 
そうでなければ、そもそも子どもはその人の役に立とうとは思わないでしょう。
 
その点で、「ありがとう」と生徒に発する教師は、必要なときには必ず生徒を援助できる人になっておかなければなりません。
 
 
 
親子関係にあてはめるなら、親がまず自分の「味方」だと思える関係を築きあげるのです。
 
親をはじめとする大人を、子どもが自分にとっての「敵」だと思う、つまり大人不信に陥ってしまうと、子どもは、はなからそんな人の役にに立とうとは思いません。
 
大人との信頼関係がいかに大切かということです。
 
 
 
児童養護施設などに入っている子どもは、例外なく大人から裏切られた経験をもつ子です。
 
それを職員は温かい人間関係で包み込み、再び「大人は信頼できる」と感じることができるように、人との出会いなおしをする役割をもっているのです。