箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

つねに流れ続ける

2021年09月30日 07時44分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「火が燃えるように」よりも「水が流れるがごとく」が、わたしの信条です。

このブログを毎日発信し続けているのも、そういう考えからです。

校長の時は「校長通信」を毎週1回必ず出し続けていました。

よくあるのですが、学級担任が年度当初の4月に「学級通信」を熱い思いで,保護者に配るのですが、だんだん多忙になると、発行が減っていき、ついに最後には出さなくなってしまうのを何度か見てきました。

そもそも学級通信は必ず出すものと決められている教員の職務ではありません。学級担任がクラスづくりのため、保護者に子どもの様子や声を届けるため、自らの発意で出すのがふつうです。

出す以上は、子どもや保護者が楽しみにしているので、途中で出さなくなるのなら、最初から出さない方がいいです。

書きたいことがあって、燃え立つ炎のように元気よく発行しても、そのときは勢いがいいですが、すぐに燃え尽きてしまいます。

しかし、枯らすことなく、水が流れるがごとく、少量でも出し続けることが大切です。

翻って、人は年齢を重ねるほど、「まあ、今日はいいか、しんどいし・・・」となることが増えてきます。

たしかに人は歳をとると、若いときのように体力も気力も持続しにくくなります。

でも、「まあ、今日はいいか」は「今日もいいか」になり、やがてはまったくやらなくなるのです。そういうことが世の中では多いのです。

火はいつか燃え尽きます。でも水は「ゆく河(川)の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(『方丈記』鴨長明)と表するように、つねに動き続けているのです。

つまり、流れ続けるとは動き続けることです。立ち止まらないことです。

できないことより、できることに目を向ける

2021年09月29日 06時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ


コロナ災禍に直面して、「いま、こんな状況だから」、「コロナが収まったら・・・」と言う人がいます。

でも、今でもできることはまだまだあるという心持ちと態度でいるのがいいのではないでしょうか。

「⚫️⚫️ができない」ではなく、「◯◯ができる」と考え方をするほうが、いいのです。

例えば、ライブや演劇ができない、コンサートが中止になって大きな打撃を受けた人がいます。

これは仕方ないにしても、活動のできない期間中に新しい曲を作ったり、演劇に関する著書を書いたりしている人がいます。

また、ライブなど制限がある中でも、オンラインでファンとアーティストと会話できる企画を始めたり、観客の体温測定、マスク着用を徹底して、配席を一人とばしにして距離を確保し、コールなどを禁止した拍手による応援でライブを開催する。

学校教育なら、音楽で飛沫が飛びやすい合唱を室内近距離で行うのを差し控える、体育で近距離で組み合う活動を行わない、家庭科で近距離で行う調理実習をとりやめなどして、授業を行っています。

学校で子どもや教職員の感染者が出た場合、休校にして一人1台のタブレットを活用して、学校-家庭間でオンライン学習を行うなどです。

教職員も最初は慣れずに、とまどいやトラブルがあった自治体もありましたが、いまでは経験を積み、学習活動が成立しています。

このようにできることをやっている人がいます。人は災難や困難に出くわしても、工夫をしてできることをすることが必要なのだと、あらためて感じます。


相手をまるごと受け入れ、理解する

2021年09月28日 07時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ


共感するという概念は、社会の中、教育の分野、カウンセリングのフィールド等で大切にされます。

教育の分野でなら、児童生徒は、共感が生まれることで、「わたしの悲しい、つらい思いを、先生が(友だちが)わかってくれた」と感じ、理解者がいるという思いになり、その人を支えることになる大切な心の動きです。

その共感は英語ではsympathyと訳されることが多いようです。

しかし、sympathyには共感・理解という意味もたしかにありますが、「同情」という意味もあります。

わたしは、「思いやり」という心の動きも、同情の要素を含んでいる場合もあると考えます。

さて、人権は「思いやり」や「同情」で与えらるものではありません。だれしもが人間として対等に、生まれながらにして持つ権利であり、「いたわり」のように、外から与えられるものではないのです。

その点で、ある人の人権を尊重するという概念は、他者からのいたわりではないし、思いやりでも同情でもないのです。うまれながらもっている権利を行使できるようにサポートすることです。

では、「共感」をempathyとした場合はどうでしょうか。empathyはたとえ考えや感覚、価値観が自分とちがう人でも、その人の視点に立ち相手を理解する、知的な心の動きで共感をすることです。

そのなかでも、自分をその人の立場に当てはめるのではなく、他者を他者として、まるごと、そのまま知るというのがempathyを言いあてています。

とくに学校教育での児童生徒と教職員の人間関係は、その子をありのまま認め、受け入れるというempathyであり、「かわいそうだから」と同情することでもないし、いたわるものでもないのです。

誰もが生きやすい社会をめざして

2021年09月27日 07時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ


いま、日本で義務教育を受けることができていない外国にルーツをもつ子どもは推定でなんと2万人以上いると文部科学省は言っています。

不就学に至る具体的な状況は、親が子どもの学齢期前に地方自治体の教育委員会窓口で「日本語が話せないのなら入学は難しいです」と言われ追い返されるというものです。

この問題は制度を変えることで大きく解消に向かいます。

いま、親に就学を義務づけているのは日本国籍をもつ子だけです。それを「学齢期の外国籍の子どもは、必ず学校に就学させなければならない」とするだけで、地方自治体は法や制度を忠実に守りますから、入学が実現していきます。

これほど、法や制度というものは、役割や意味が大きいのです。

ただし、人間を国籍で区別し、外国にルーツをもつ人を「(多様性尊重社会にあって)日本が受け入れてやる」ととらえる意識は根強いものです。

だから、外国にルーツをもつ子どもが日本の学校に入学できたとしても、外国人市民を「お客さん」あつかいする習慣は残っていくでしょう。

ただ、制度や社会のしくみを変えるだけでも、かなりの効果はあります。

それは、法や制度を変えると、人の行動が変わる。行動が変わると意識も一定程度変わるからです。

たとえば、男女共同参画社会基本法が1999年に成立して以来、人びとの固定的な男女の役割分担意識はかなり変わりました。

一方で、東京オリンピック開始前には大会司式組織委員会内で「問題発言」がありましたが、それは固定的な見方から離れられない個人の問題が依然残っているということであり、ジェンダーに関する周りの意識が高まったからこそ、問題化できたととらえます。

このように、法や制度の整備は、人びとの意識までを変えるのです。

ただし、気になるのは、多様性の確保、さまざまなちがいを認めあい共生する社会の実現が、日本の事情(国内労働力の不足)で、受け入れないと日本の産業活動が回らなくなるからという事情で言われているという点です。

外国籍の人や外国人が無条件で受け入れられるのは、誰もが生きやすい社会を実現するためであり、多様性が社会を豊かにする可能性をもつからです。

見えにくい人のこころ

2021年09月26日 08時38分00秒 | 教育・子育てあれこれ


青いお空の底ふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまで沈んでる、

昼のお星は眼にみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。
(金子みすゞ『星とタンポポ』より)


昼間に空を眺めても星は見えません。でも、たしかに星は存在しているのです。

目に見えないものは、昼間の星以外にもあります。

人の思いやりとか、人と人のつながり、人にしてもらった恩、誰かに頼られること、人に愛されていること・・・。

その中に、自分が必要なもの、自分を助けてくれるものが存在するのです。

見えないものに助けられていること、救われていることに気づけば、人の態度や行動の変容につながります。

学校の「道徳」の時間は、このような見えにくい人のこころを扱い、人のこころのあり方を変え、行動を変化させるという学習時間であると言えます。

実際の「道徳」の教科書からの読み物教材を紹介します。

私の父の場合は、若いときに祖国を離れてしまったから、それだけ自分の生まれた国に対する想いが深いのだと思うが、父にとっては、祖国の想いがそのまま生きていいくうえでの心の支えになっている。

父が、父の祖国、中国を愛していることだけは、私にははっきりわかる。

だからこそ私は、父を悲しませてまで日本に帰化しようとは思わないのである。
               (王貞治)

<中学2年生教科書『自分を考える』(廣済堂あかつき発行)の道徳教材『国』(王貞治)より一部を引用>

人間どうしのふれあいができる「民泊」

2021年09月25日 06時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ


沖縄本島の近くに伊江島があります。

沖縄戦では、この島にもアメリカ軍は来襲さぞした。

艦砲射撃により、島の人びと約4000人のうち、約1500名が亡くなりました。

沖縄戦が終わってからでも、3年後の1948年にアメリカ軍の爆弾処理船が伊江島の港で爆発しました。

そのときちょうど沖縄本島からの連絡船が着いたところで、下船中の人が巻き込まれました。100名を超える死者が出ました。



さて、多くの犠牲者が出たその伊江島では、いま修学旅行生の民泊を受け入れいています。

民泊では、修学旅行生がホテルには泊まるかわりに、沖縄の民家に泊めてもらいます。

地元の沖縄家庭料理を出してもらったり、パイナップルを収穫したり、サーターアンダーギーを手作りしたり、農作物を取り入れたり、貝殻を集めたアクセサリーをつくったり、三線を教えてもらったり・・・。

このような体験活動をできるのが大きなメリットです。

民家さんは家族と同様に修学旅行の中学生を受け入れてくれ1泊2日を共に過ごしてくれます。

ホテルでは味わえないような地元のおっちゃん・おばちゃん・おじい・おばあ、また小さな子と人間的なふれあいができます。

わずか一泊ですが、生徒にとっては貴重な体験をすることができます。

民泊最後のお別れでは、次の動画のように民家さんとのお別れを惜しむ生徒がいます。





ただ、その島は76年前に1500名もの住民の命がなくなった場所であり、港はいまから73年前に100名を超える死者が出るという「悲しい現実」があった場所であることを、生徒たちは忘れてはならないのです。

それでも日常は続いていく

2021年09月24日 06時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ
人は生活を送ったり、生きていく上で、困難なことやつらい目にあうことは避けられません。

悲しいことに出会い、憂いを感じることもあります。

それはそれで、悲しかったり、苦しかったり、つらかったりします。

中学生なら、受験で不合格だったり、部活の試合で負けたり、友だちから裏切られたり、ケガをしたり、憂き目にあうことがあります。

それで苦しみ、悔しがり、腹立たしく、悲しくその日を過ごします。

そして、昨日の気持ちを引きずって翌朝になります。

すると、自分には昨日はたいへんだったのに、それとは関係なく何事もなかったかのように日常が続いていくのです。

とくに、大自然の営みはそういうもので、日が沈んでも、日はまた昇るのです。

その大自然の中に、とるにたらない「わたし」がいる。

結局、どんな苦しいことでも、時間がたったら
「まあ、そんなこともあったね」と、慣れていくというか平気になることも多いのです。

人が生きるとか生活するというのは、おそらくそのことを学んでいくことだと、わたしは思うのです。

「プレゼンテーション」の極意

2021年09月23日 08時54分00秒 | 教育・子育てあれこれ


プレゼンテーションは、企画やその意図を聞く人に理解してもらうための効果的な説明を行うことです。

パワーポイントは、もとは、プレゼンテーション(以下プレゼン表記)のために開発されたツールでした。

企業の企画会議や新商品の開発広報などでよく「パワーポイント」が使われます。

PCに「パワーポイント」(以下PPと表記)のソフトががインストールされ、プロジェクター等で画面をスクリーンや大型モニターに拡大して映しだして、説明をします。

日本では、およそ20年ほど前からPPよく使われ出し、その後研修会等でも講師がよく使うようになりました。

しかし、講師のなかには、自分が話す講演内容をすべてPPのスライドに流し込み、使う人もいます。なかには90分の講演で100枚以上のスライドを映し出す人もいます。

こういう使い方は、本来のPPの使い方ではないと、私は考えています。

そもそも、プレゼンは長すぎない方がいいのです。情報だけでなく、ストーリーが必要なのです。

スライドの枚数が多いと、聞く人は何が大切なのかわからなくなります。

だからつまらないプレゼンになります。私は30分のプレゼンをするのなら、スライドの数は10枚以内で十分だと考えています。

プレゼンターは不必要なことを削らなければならないのです。
念のためにこれも入れておこうと何でも情報を詰め込む、スクリーンが文章だらけになってしまいます。

詳細な情報が必要ならハンドアウトにして配ればいいのです。

シンプルに一番大事なエッセンスだけを伝えるのがプレゼンの極意と言えます。

プレゼンはシナリオづくりがものを言います。

私が考えるプレゼンの極意とは・・・。

①プレゼンは人の心を動かすためのものです。ロジカルであることが目的でないのです。
プレゼンは聞き手の感情に訴えたり、背中を押してあげたりすることが必要になります。

②情報を取捨選択します。聞き手はせいぜい3つぐらいまでしか理解できないので、聞き手の「理解のカゴ」の大きさにあった量になるよう、情報を取捨選択するのです。

③プレゼンが人の心を動かすためには「疑問を投げかける」→「結論を伝える」→「理由を加え、納得させる」の順番であることが必要です。

「疑問」を投げかけることで聞き手の興味をひき、「結論」で驚きを与え、最後に「理由」で納得を得るのです。

ただし、「疑問」はただ単に疑問を投げかければいいというものではありません。

「みなさん、この数字は何だと思いますか?」といきなりクイズをしても、「そんなんわかるわけないやろ」となってしまいます。

大切なことは聞き手と同じ土俵に立つことです。

学校教育での講演会なら、「最近の子どもたちの意欲は本当に乏しいですね。失敗するのがイヤだからチャレンジしようとしない。

ではこの数字は何でしょうか?」そして「どのようにしたら子どもたちはチャレンジするようになるのでしょうか?」と投げかけるのです。

「結論」では聞き手に驚きを与える結論を述べます。ここで当たり前のことをいったのでは聞き手は興味を失います。

理由を述べた後、気持ちに訴えかける要素が必要になります。「このように子どもが成長したのです」と感動的なエピソードを加えます。

そして、最後に聞いている人の背中を押すのです。「このようにすれば、どこでも、だれでもできますよ」と相手の背中を押してあげます。(じつは、これを言わずにプレゼンを終える人が実に多いのです。)

学校の存在意義と教職員のしあわせを語る

2021年09月22日 07時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ
おおまかにいって、1995年ぐらいから2005年ぐらいまでに生まれた人は、いま高校生から大学生または若い社会人になっています。

この世代は、生まれて物心がついた頃には、スマホが身近にある生活を送ってきた人たちです。

きめつけはよくないのはもちろんですが、この世代にある程度共通に見られる傾向があると、研究者は指摘します。

この世代はまず、SNSに慣れ、使いこなす人が多いといえるでしょう。SNSを駆使して、同じ志向をもつ人とつながります。

そして「社会に貢献したい」、「人の役に立ちたい」という思いが強いのです。

つぎに、時間や場所にしばられず働くことを望み、できればテレワークを好みます。

これは、夫婦で子育てをいっしょに担いながら仕事を考えるからです。

さらに、仕事と趣味の両方を重視し、副業ができれることを望みます。

そして、仕事は効率をいちばん重視します。ただし効率重視ですが、コストパフォーマンスよりもタイムパーフォーマンスを重視します。

そのため、「○○は面倒です」とよく言うようです。

また、生まれてからずっと自然災害続きで、東日本大震災や多発する自然災害を身近に感じて大きくなりました。

その意味で、身の回りにリスクや不備があるのは当然と考えます。

iPhoneのように、とりあえずは新作を開発して世の中に発表する。その後、出てきた不具合にその都度対応し、改善を重ね、優れた完成度の高い商品に高めていく。

このやり方を支持し、自らもリスクを当然と考える傾向があると言われます。

また、環境にやさしく持続可能な生活を求めます。




さて、もちろん個人個人による違いはあるでしょうが、全体的にこのような傾向がある人たちが教職に就くとどうでしょうか。私がいま教員志望の学生と接して思うことがあります。

これは、働き方改革を進める学校では、時間外労働の縮減を図りますので、タイムパフォーマンス重視の若い教職員は、学校に新しい風を入れるきっかけになることが期待されます。

また、学校でSDGsの学習を進めていく牽引役になることも期待できます。

ただし、とくに大阪で大切にしてきた「靴底をすり減らすほど」の家庭訪問を行い、保護者や子どもとつながっていくという旧来のやり方は、時間がかかるので「No thank you」というでしょう。

「教育の効果は時間がたってから現れる」というようなベテラン教員の現場感覚とは相容れないかもしれません。

しかし、人の役に立ちたいという願いは強いので、子どもたちが成長して、「先生、お世話になりました。ありがとうございました」という言葉をもらうと、これ以上ない満足感を得ることも期待できます。

このような時代にあって、校長は若い世代の教員に届く言葉で、学校の将来、子どもの未来を語ってほしいのです。

学校の存在意義が何であり、学校が教職員をどうしあわせにするかを、自分の言葉で語らなければ、教職員の意欲は高まりません。

将来の展望を語れなければ、若い教職員は不安を募らせ、離職していくことになります。

「子育て不安」はどこからくるのか

2021年09月21日 07時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私の母は昭和9年に生まれました。

当時、まだ日本は経済的に貧しく、第二次世界大戦に入る前で平和とはいえない時代でした。

食べ物が豊かでない時代で、その日食べるのがやっとという不自由な時代でした。

でも、その頃の親が今のように、子育てに不安を感じていたでしょうか。

いつの時代でも、お母さんになったばかりの人が子育てが上手だったためしなどないのです。

それでも、人は赤ちゃんを産んだらお母さんになっていたのです。「私にだってできる」と、そんなふうに子育てをしていたようです。

こんな思いや安心感はどこからきたのでしょうか。

当時は、まだ近所どうしのの助け合いが、ふつうにあった頃でした。

おそらく、自分の生い立ちの中で、近所の子どもたちが大人になっていく様子を見て、「あんなやんちゃだった子でも、たくましい大人になるんだ」と納得しました。

となり近所で助け合って暮らしていくのを見て、「誰かが助けてくれる」と安心してきた経験があったからでないでしょうか。

実際の例を見て、「子育て、なんとかなる」と思えたのでしょう。


ところが、それから80年以上がたち、日本社会は大きく変わりました。他者に頼り、頼られ、ときには迷惑をかけながらも子どもが大きくなってくれればいいという気持ちがなくなってしまったのです。

いまの社会は、わたしも迷惑をかけないので、あなたも迷惑をかけないでくださいね。
おたがいに「自己責任」でいきましょう・・・。

こういう社会では、子ども、障害者、高齢者はどれほど生きにくいでしょうか。子育てをする人にも生きにくいし、『ちゃんと育てないと』というプレッシャーが強くなります。

子育て不安というのは、このよう時代背景から生まれるというのが一つの理由です。

そして、子育てに不安をもつ人は、子どもとの関係に不安をもっているといえます。

その親子関係は、昔とちがって「閉じられた狭い人間関係」になってきています。

もし、子育てに夫の協力がない場合は、母子の二人だけの空間で子育てを、母親一人が担うことになってしまいます。

だから、子育てに不安を感じたら、人間関係を増やすのがいちばんです。

子育てサークルに入ったり、幼稚園の活動に参加して、ママ友をつくり、お母さん同士が交流する機会を増やすのがいいのです。

いまのように豊かでなかった時代には、人間関係がたくさんあったのでした。

頼る人がいるということを支えに安心感を高め、頼ってもらえることで自信をもつことが、親の不安を取り除き、子どもをのびのびと成長させます。

3つの目で見る

2021年09月20日 07時26分00秒 | 教育・子育てあれこれ


ものごとを、俯瞰して見ることが大切なときがあります。

あまりに近視眼的に見ると、その一点はよく見えますが、周りが見えにくくなり、その一点が全体の中でどのような位置づけにあるかを見失ってしまうからです。

それをうまくあらわした、レオナルド・ザ・ヴィンチの言葉があります。

どこか遠くに行きなさい。
仕事が小さく見えてきて、
もっと全体が
よく眺められるようになります。
不調和やアンバランスが
もっとよく見えてきます。


これはいわゆる「鳥の目」のことを言っています。

その一方で、「虫の目」もあります。ものごとをリサーチしたり、研究したりする時には、一つのできごとや現象をよく観察したり、集中的に調べます。

さらに、全体の流れ、時代の流れのなかで、ものごとのトレンドを見て、対応するには、水の流れを読む「魚の目」が必要になります。

この3つの目を兼ね備えていることが、組織を回す人には必要です。



「自分をもつ」ということ

2021年09月19日 06時37分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「自失」という言葉があります。事件やできごとに遭遇して翻弄され。、自分を見失ってしまうことです。

今の時代は、仕事に従事すると成果主義や能力主義に重きが置かれるので、その仕事が他者からどう評価されるかが気になり、自身を見失ってしまいがちです。

仕事をやった手応え、周りの評判、評価に一喜一憂しながらもがくことにもなります。

周りからの「○○さんは、こんな人だ」という「きめつけ」や身勝手な予想があると、実際の自分はそれとのギャップに苦しむのです。

しかし、考えてみれば、評価というものは他者の「判断」の集合体に過ぎません。それは実体のないものであり、本人がある程度は気にはしても、あまりにも振り回されるのは意味のないことです。

教育者としては、中学生に「まわりの評価を気にしないで」と伝えても、なかなか受け入れることができない人が多いです。

親御さんが中学生のわが子につたえても、なかなかそう簡単に受け入れられないでしょう。

それは、中学生は純粋だからです。少しずつ経験を積んでいき、私のような考えにいたるのかもしれません。

「自分のことは自分がいちばんよく知っている」と確信し、安定した気持ちで仕事をしたり、日常生活を送る方がいいと思います。

家族や友人と楽しい時間を過ごすのがいいのではないでしょうか。

そうすると、何ごとでについても、「見方はいろいろある」「スッと解決しないこともある」と気がつくことにもなります。

多様性を理解する学習

2021年09月18日 07時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ

このごろ、日本では「多様性」という言葉が溢れています。

東京オリンピック・パラリンピックでは、「多様性と調和」を華々しく掲げていました。

「多様性」(diversity)とはどのようにしたら実現できるのでしょうか。

外国にルーツをもつ人、障害者、性的少数者などを社会へ取り込むだけで、多様性が実現するのではありません。

とかく排除されがちなマイノリティの声を傾聴し、マジョリティを中心にしてまわっている社会で、「少数者」=弱者とされてしまう社会のしくみを変えていくという意気込みと態度がなければ、共に生きることは実現しません。

そのためには、学校教育の中で、マジョリティ中心にまわっている社会に気づくことで、多様性を理解する教育が若い次世代に必要になります。

たとえば、障害者問題でなら、あえて「聞こえない人は聞かなくていい」というような問題のある考え方を児童生徒に示して学習にとりかかると、難聴の人と共生する多様性を理解することができます。

先日、わたしはライブを見に行きした。(運営の側はもちろん感染対策を万全に行い、密にならない安全対策をしていました。)

そのライブには車いすの男性も見に来ていました。ライブが終わり、観客が帰るとき、出演アーティストが舞台上から「見送る会」をしてくれました。

客席の構造上、車いすの人は通れないので、いちばん先に退出することになりました。

そのあとで、一列目の観客から順番にステージに近づき見送りをしてくれるのですが、出演者も含めみんなが一列目の人びとに注目して車いすの男性のことは視界に入っていません。

そのとき、車いす介助の運営スタッフが、すかさず手を挙げ、「ここにもいますよ」というメッセージを発しました。

すると、出演アーティストをはじめ、観客みんがハッとして、車いすの男性を注目し、その男性のことを「思い出し」ました。

アーティストからは、「(ご来場)ありがとうございました」という声がかかり、その人は会場をあとにしました。

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このエピソードについて、学習者(児童生徒)がどう思うかをの考えをや意見を交流する学習をすればいいのです。


わたしは、このスタッフのとった行動とアーティストの対応が身近な多様性の尊重であると考えます。

このエピソードを教材にすると、「自分で歩けないなら、ライブに来なくていい」ではなく、「自分で歩けなくても、ライブに来ることができる」という学びから、多様性を理解することができます。

「悩む」と「考える」を分ける

2021年09月17日 07時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ


このコロナ災渦で、校長は修学旅行を実施するかどうかで考え悩むこともあります。

もともと「鍋ぶた式」と言われる学校の組織体制では、教職員が責任を持って職務にあたってくれても、最終責任はたった一人、校長がとることになります。

中学校の場合、1学期に実施予定だった修学旅行を、2学期に延期すると決めました。

ところが、デルタ株が全国的に猛威を振るい、感染が拡大しました。

「修学旅行を実施して、感染生徒が出たらどうしよう・・・」と、ああでもない、こうでもないと校長は悩んで、前に進めない状況に陥ります。

でも、悩んでいるだけでは、事態は前に進みません。「うまくいくだろうか。大丈夫だろうか」と思案するのは、ただ「悩んでいる」だけです。

それよりも、どういう対策をとれば修学旅行が実現するのかを調べたり、旅行業者と打ち合わせながら検討するのが「考える」ことです。

具体的には・・・
・行くならその前に何と何をやるべきか(生徒全員と引率教職員全員のPCR検査など)
・それぞれの行程での感染防止対策はどうするか
・万一感染者が出たときにはどう対応するか 

このように「悩む」と「考える」を分けることが、校長がすべきことです。

悩んで意味のあることと、意味のないことを分けます。そのうえで、今自分ができることだけに集中するのです。

「悩むのではなく、考える」という態度と姿勢があれば、どんな困難な事態に対しても、やるべきことはあると思います。

考えて、知恵を出せば、できることはあるはずです。

コロナ災禍という先がに通しにくい現状が続きしんどいですが、こんなときこそ自分の頭で考えることが不可欠だと思います。

大学生はロールモデル

2021年09月16日 07時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ
公立の小中学校で学ぶことの特徴は、家庭環境や価値観、学力状況のちがう子がいっしょになって学校生活を送ることです。

みんながちがうからいいのです。

人は本来、生まれ育った環境や家庭の経済力、生活環境で将来の可能性が狭められたり、閉じられていくことがあってはならないのです。

家庭の経済的状況が厳しいからオンライン授業を受けられなかったとか、進学できなかった、または夢を諦めたとかで、自分の可能性を否定してしまうことがない社会であるべきです。

しかし、社会には明確にはなっていない階層のようなものがあり、子どもがどの階層に属するかで、親の教育への投資に差が出ます。

保護者が教育の価値に重きを置く人とそうでない人によって子どもが教育を受ける機会がかわっていきます。

階層ごとの交流があればいいのですが、一つの階層だけにいると、固定的なものの見方になってしまいがちです。

ですから、子どもが多様な人びとと出会い、対話や経験を通して、多様な価値観を知り、学びあえる学校は大切な場であると考えます。

ただし、学校はよくも悪くも、先生と児童生徒という「タテの関係」か同級生という「ヨコの関係」を脱することはできません。

いまや同級生同士には同調圧力が働きます。
また中学の場合は思春期の子はタテの人に心を閉ざす傾向が一般的です。

そのとき、すこしだけ年上の大学生などは「ナナメの関係」にあたります。

大学生のボランティアは、中学生にとって少し年上のナナメの関係の人になります。

自分もがんばればあのような人になれるという「ロールモデル」として、大学生が中学生には映るのです。

これはタテの関係にしかなれない教師にはできないのです。

学校はいま旧態依然としたタテとヨコの関係ではなく、ナナメの関係を活用していくべきでしょう。

たとえば放課後になると、学習会が開かれ、大学生が横についてくれ、勉強を教えてくれる。

授業中も、学習サポーターとして、学習支援で大学生が入り込んで教えてくれる。

このようなしくみづくりが望まれます。