経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

             皇室の歴史(5)

2021-02-16 19:40:55 | Weblog
皇室の歴史(5)

 西暦673年天武天皇は即位します。彼の治世は兄天智天皇のそれと同じ方向でした。兄が敷いた中央集権化をさらに推し進めてゆきます。天武天皇は力で政権を捕りました。言ってみれば簒奪です。彼の政権奪取過程には多くの豪族が味方しています。しかし天武天皇は彼ら豪族にあまり報いていません。むしろ正反対とも言える方向をとります。壬申の乱で最も奮戦した豪族は大伴氏でしたが特に目立った報奨は受けていません。天武天皇が推し進めた政治形態は皇親政治というものでした。皇親つまり天皇の近親者が天皇を取り巻いて政治をします。幸い皇親はたくさんいました。大体天武天皇の皇后自体が天智天皇の皇女です。天武天皇には子供が多くいます。加えて天智天皇の子供もほぼ同数います。天武天皇は確かに大友皇子を殺して皇位に就きましたが、かといって兄天智天皇の系統を無視はできません。天武系天智系の皇子たちが政権の中枢を占めます。この事は皇族以外の氏族を少なくとも政権の中枢から排除する事を意味します。天武朝では大臣は置かれません。代わりに嫡出筋の皇子が皇太子として天皇の政治を補佐します。
 この天皇の政治のもう一つの特徴は一種の軍国政治でした。白村江の敗戦以来、唐王朝・新羅とは敵対関係にあります。いつ来襲されるか解りません。天皇は常に狩を催し、皇族諸臣を動員して、軍事訓練を催しました。当時の奈良盆地は未だ未開発のところが多く、鹿や猪がうようよしていました。狩はこれらの害獣を駆逐し農民のためにもなります。しかし680年ころから、新羅は唐王朝からの独立を開始し、新羅と日本は非敵対関係になります。軍事訓練は緊急のものではなくなります。
 天武天皇は天皇制の頂点を為す、偉大な天皇です。彼は皇族で権勢の中枢は握り、貴族豪族を軍事に駆り立て、造都はじめ多くの土木事業を起こします。彼は自覚的に自らを神格化しました。彼の和名称号は非常に長いのです。仮名で記すと「あめのぬらはらおきのまひとのすめらみこと」となります。この21の仮名文字の中に、神の世界から下った真実の人で世界統治の任にある者、という意味が抽出できます。古代ロ-マの最初の皇帝アウグスツスも非常に長い、そして自己の統治を正当化する表現の名前を自らにつけています。東西の差はあれやることは同じでしょう。さてここで天武天皇の事績を語ろうとして、固有名詞をつけられるような事績はあまりない事に気づかされます。要は基本路線は天智天皇の時敷かれており、以後の天皇はその路線上で統治し制度を作ってゆきました。
 天武天皇の御代で特記すべきことは皇后である、うののさららのひめみこ(後の持統天皇)の存在です。彼女は男勝りの女傑でした。天武朝は天武と皇后の共同統治ともいえます。天武は兄天智の子供を殺して帝位についたのでその正統性には疑問がつけられます。だからあんなに長い称号をつけ、独裁的に統治しました。彼の正統性を担保する存在が天智の子供であるうののさららのひめみこでした。
 天武天皇は自分の後継者に迷います。能力では大津皇子(天智天皇の皇女の子供、うののさららのひめみこは彼にとって伯母になる)ですが皇后の存在を考えると皇后の子供の草壁皇子になります。天皇は後継を決めずに死去します。皇后は非情でした。天皇死後の数日以内に大津皇子の反逆が云々され大津皇子は手早く処刑されてしまいます。肝心の草壁皇子は夭折しやむなく皇后が中継ぎの天皇として即位します。第41代持統天皇です。むしろこの天皇の時律令制の基礎が築かれたとも言えましょう。さすがに父親の名に恥じない皇女ではあります。
 持統天皇の課題は草壁皇子の子供に皇位を渡し天武天皇の皇統を維持する事にあります。持統天皇の在位はかなりややこしい。父親の天智天皇と同様です。初めの2年間は草壁皇子が若く称制という形になります。実質的には権力を持ちますが、天皇ではありません。草壁皇子死去後は草壁の子供が即位して文武天皇となりますが、持統天皇は若いそれも病弱な天皇の後見人・保護者として太政天皇として執政します。だから彼女の執政期は686年から702年(死去)までの16年間になります。天武天皇との共同執政を会わせると30年近く日本を支配したことになります。
 常々思うのですが、継体天皇から称徳天皇に至る約250年間の政治で誰が何をしたという事を各代の天皇ごとに述べるのはかなり難しいという事です。できないとは言いませんがあえてそうするとごちゃごちゃしてかえって解りにくくなります。政治的、当然経済文化的事績はごまんとあるのですがここでは一応皇統の推移のみ述べ、あとで一括してその事績を述べてみたいと思います。事績業績の類はごまんとあります。なにせこの250年間で極めて首尾一貫して国家が形成されたのですから。鎌倉開幕や明治維新に相当する、いやそれらをもはるかに超える大事業が飛鳥白鳳奈良と言われる時代に行われました。この時代の基本路線は政治の中央集権化です。この態度は一貫しており、ただ政権担当者が変わるだけです。その中でやはり特記すべきは聖徳太子と天智天皇でしょう。なお強調しておきますが、極めて長期に国家を計画的に形成した国は、日本以外はありません。シナにせよ、インドにせよ、西欧にせよ、彼らの国家形成はかなりゆきあたりばったりです。
 持統天皇の時代に特記することは大臣制度が復活したことです。大臣の下に納言を設け集団合議制の形を取りました。即位の時の事情から考えて持統天皇の政権の基盤は強いとは言えません。豪族の協力を必要とします。後は天皇の指導力だけです。
 この事と関連しますが持統天皇の時代に藤原氏が台頭してきます。藤原氏の初代である鎌足は幸いなことに壬申の乱の直前に死去しました。だから藤原氏は弘文・天武のどちら側にもつかなくてよかったのです。後継者不比等は幼かく、乱の際はどこかに隠れていたようです。持統天皇の時代に不比等は記録に現れます。持統天皇の側近をしていたようで急速に力をつけてきます。律令制の根幹である大宝律令と養老律令はすべて実質的には彼の主導によるものです。持統天皇にとっても鎌足(死去する寸前に最高位である大ショク冠を授けられています)との由来もあり、このような新興氏族は旧豪族層と妥協しつつ彼らの勢力を徐々に排除してゆかなければならない、持統天皇にとってはかっこうの存在であったと思われます。
持統天皇のもう一つの業績は藤原京造営です。昨今といっても二・三十年前の時代ですが藤原京の発掘調査でこの都は平城京に匹敵するくらいの大きさを持っている事が解りました。
文武天皇は、在位は10年ですが24歳の若さで亡くなります。後継の男子首皇子は6歳の幼児です。てんやわんやの末に文武天皇の母親で草壁皇子の正妃である阿閉(あへ)皇女が継ぎます。元明天皇です。元明天皇は天智天皇の子供であり、従って持統天皇の異母妹になります。ここで不改常典なるもの(天武天皇の遺言?)が持ち出されます。かなり怪しい文書です。この文書では、天武天皇と草壁皇子の直系子孫のみが皇統を継ぎうる、とあります。つまり次代は首皇子というわけです。後継者には天武天智系の皇子がたくさんいます。彼らとしては不快不満だったでしょう。元明天皇はクーデタ-におびえていたようです。その種の意図を表す和歌があります。元明天皇の時、平城京造営が決定されます。主導者は右大臣藤原不比等です。元明天皇の時に藤原氏は台頭してきます。元明天皇は8年在位し位を娘の氷高(ひたか)皇女に譲ります。元正天皇です。彼女は次の聖武天皇の姉に当たります。苦しい中継ぎの連続です。そして724年第45代聖武天皇が即位します。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行