経済(学)あれこれ

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            皇室の歴史(14)

2021-02-25 14:47:17 | Weblog
皇室の歴史(14)

後三条天皇の即位は一つの画期でした。天皇の母親は三条天皇の皇女で、ここで摂関家とかなり離れた血縁の天皇が誕生します。そのため皇太子の期間が長く、藤原頼道の冷遇を受け、廃位の危険に脅えざるをえない状況でした。幸いに後冷泉天皇はしかるべき後継の子孫を残さずに死去します。後三条天皇の政治は荘園整理と宣旨桝の制定にあります。記録荘園券契約所が作られます。それまでにも荘園の整理は行われてきましたが、その作業は国司レベルに留まっていました。後三条天皇はそれを中央の官庁で行おうとします。
宣旨桝の設定とは京市中の桝の大きさを確定する事です。この作業は天皇あるいわ上皇が積極的に京都市中の商業行為に参画する事を意味します。日本の農業・商工業は10世紀後半に入ってから成長が著しくなりました。それは大陸が宋王朝により統一されこの王朝は対外的には専守、対内的には内需増大の政策をとり、歴代の漢族王朝では文化そして経済では稀に見る繁栄を謳歌していました。この王朝は銅銭を作ります。貨幣経済が発展します。そしてこの銅銭は大量に日本に持ち込まれます。という事は日本にはこの銅銭輸入に対応する対価の商品ができつつあったことを意味します。事実このころ地方官であり収税吏でもあった受領は取り立てた租税(それは一程度官に収めれば残りは私有できます)を都中心に取引していました。その為にはすでに為替のようなものも使っていました。大仏建造のところで申し上げたと思いますが、そのころから日本は裕福でした。
 荘園整理ですが、これが何分ともややこしい。荘園とは私有地です。そこに蟠踞して地方を牛耳るのが土地開発経営者である武士です。中央の権門はこの私有地である荘園と本来国家直属の田畑である公領という相対立する二つの機構に乗っかっています。だから荘園整理を敢行すればするほど矛盾は深まります。矛盾の調停には強い(強引な)権力とそれを支える人材特に武力が要ります。こうして院政という機構ができました。院政を支える者は摂関政治では下ずみであった中下級貴族である、受領層に属する人たちでした。彼らを院の近臣といいます。源氏も平氏もこの院の近臣上がりです。
 後三条天皇が院政を実施したか否かは解りません。希望された事は事実です。院政の開始は次代の白河上皇からとしておきましょう。ともかく院政とは摂関政治などとは違いかなり強力な強権政治です。お面白い比較をしましょう。後三条天皇の治世はほぼイギリスのウィリアム一世によるノルマン征服の時期と重なります。この王様の時イギリス(厳密にはイングランド)は初めて中央集権的な土地台帳の記録整理を行いました。
 摂関政治は中央の貴族による合意、院政は中下級貴族および地方の武士を中核とする専制政治です。以前の歴史書では中世の開始を鎌倉幕府の設立に求めていましたが、現在では摂関政治までを古代、院政以後を中世とするようです。前記したように、矛盾の解決法として院政が始まりました。そして院政はこの矛盾をさらに増大させます。結果は武力による解決、保元平治の乱です。そして強権は独裁者を必要とします。また独裁者は自己の血統を専守しようとします。だから院政時代の皇統継承はおどろおどろしくスキャンダラスなのです。強調すべきことがもう一つあります。それは家族制度、婚姻制度の変化です。摂関政治以前はあまり家という厳格な機構は発展していません。正妻は複数いてもかまいませんし、婿入り婚でした。摂関政治により家、特に天皇家という家機構が元型として形成されます。パパママボクという関係です。この「家」の形成は次第に下層下部に及んでゆきます。社会状況の変化、特に武力の重視により、次第に父権が強くなります。院政という政治機構の出現の背景にはそういう事情もあります。
 父権でもって院政という政治機構を統括する独裁者が白河法皇です。白河天皇は藤原能信の養女茂子(閑院流藤原氏の娘)を母として生まれました。異父弟(村上源氏基子の腹)に実仁・輔仁の二人の皇子がいます。後三条天皇は白河天皇の次は実仁親王と遺言していました。白河天皇はこの遺言を無視し自分の皇子善仁親王を皇位に就けます。ただし善仁親王は皇太子ではありません。白河天皇が実仁親王に遠慮せざるを得なかったのです。天皇にとって幸いな事に実仁親王は夭折します。弟の輔仁親王は謀略(呪詛事件、この時代よく使われる手です)に引っかかり臣籍に降下して源姓を名乗らざるを得なくなります。こうして白河天皇は自己の直系を、子供堀川天皇(7歳即位)、孫鳥羽天皇(4歳即位)と受け継がせて行き、自分は上皇さらに出家して法皇として専制政治を展開します。なおここで閑院流藤原氏と村上源氏が出てきましたがともに皇統と縁の深い関係の家柄です。
 この間摂関家はどうしていたのでしょうか。まず肝心の頼道に嫡子が生まれません。彼は恐妻家で父親道長のように多くの女性との交わりは少なかったようです。やっと日陰の子師実に家系を継がせます。師実の子師通は有能で誇りの高い、「降り位の天皇(上皇のこと)なぞなにするものぞ」と豪語するほどの人物でしたが40歳にならずして急死します。後継は忠実でしたが未だ若く摂関家を統括する実力がありません。白河法皇の思いのままです。その上婚姻の事で白河法皇から閉門を命じられ逼塞します。また頼道以下の子孫は女児にも恵まれません。他の家柄の娘を養女として入内させます。院政の時代、村上源氏と閑院流藤原氏が女児を入内させる事が多かったのですが、必ず摂関家の養女という形を取りました。またこの二氏は事実上の外戚ですが、摂関にはなれません。内覧を希望した村上源氏の要求は厳しく退けられます。道長以来100年すでに摂関家の権威は確立していたのです。なお平安時代は政治が儀礼化し(だから院政という機構が現れたのですが)摂関のすることも儀礼化する傾向にありました。しかし先記したように儀礼も重要な政治の一部です。和歌、管弦、文学などは文化でありそれは政治に深く関係しております。政治の女性化といってもいいのです。だから天皇も摂関の存在も重要でした。院政の出現にはこのような背景がりあります。そして院政の最初の主である白河法皇は強引でおどろおどろしい政治を開始します。

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