経済(学)あれこれ

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           皇室の歴史(1)

2021-02-14 19:09:25 | Weblog
皇室の歴史 (1)

 元号が改正されて令和となった。秋には即位の大礼大嘗祭が挙行される。ここで皇室つまり天皇家の簡単な歴史的展望を試みてみた。特定の文献は用いない。著者の記憶に留まる範囲内の知識でもって語りたい。なお天皇あるいわ皇族への尊称は用いていない。記載が不自然になるらである。一つの区切りを530年前後の継体天皇の即位におく。それ以前の皇統は神話と遺跡に基づく部分が多く、確定したことは言えない。ただし古事記・日本書紀におけるこの部分の記述が無視できるわけでもない。順序として神武天皇(はつくにしらすすめらみこと)から語ろう。記述は天孫降臨の神話まで遡る。神武天皇は天照大神の孫である瓊瓊杵(ににぎ)尊の曽孫になる。記紀によれば神武天皇は日向国を出発して瀬戸内海を東進し大阪湾の正面からの上陸に失敗し紀州半島の南端熊野から大和に入り、そこの地を征服して樫原で即位されたと言われる。この伝承には少なくとも二つの真実が潜められている。古代3世紀から4世紀にかけては日本の中心勢力は北九州と大和近畿地方にあったらしい。北九州の勢力邪馬台国は大陸からの文化伝播に一番浴しその勢いでもって大和地方に進出したものと思われる。つまり北九州勢力の征服説は成り立つのである。しかしこれは極めて平和的な進出であり、征服というほどのものではなかったと言える。この事は記紀を読めばわかる。まず記紀の記載にはそう激しい戦闘場面はない。大和の先住民はあまり抵抗なく支配に服している。神武天皇の正妃は先住民の中の最有力者の娘である。征服ではなくむしろ北九州と大和は平和的に共存したと言える。この事は第10代崇神天皇の事績の中で明白に現れる。かって騎馬民族征服説というものがあり、大和(広く日本)は大陸の騎馬民族により征服されて国家ができたと言われたが、この説は現在では完全に否定されている。ともかく日本という国は極めて平和的に形成されたと思われる。まあ世界史上稀なる国ではある、日本は。
 第二代綏靖天皇の皇位継承に際しては争いがあったと言われる。綏靖天皇以下第九代開化天皇までの事績は記紀にはほとんどない。各天皇の婚姻関係のみ記載してある。天皇家(当時はむしろ大王・おおきみと言った)が土地の豪族と通婚し同時に同族を増やしていったのであろう。
 歴史学的に実在されるとされる最初の天皇は第10代崇神天皇である。この天皇から記紀の記載はぐっと増え具体的になる。崇神天皇は非常に興味をそそられる、そして歴史へのロマンを駆り立てくれる天皇である。崇神天皇は4世紀中頃くらいの時点で即位されたのだと思われる。この時邪馬台国の女王卑弥呼が大陸の魏王朝に朝貢している。三国志で有名な諸葛孔明が死去し西辺の状況が安定した魏は東部に進出し、この事態に卑弥呼の邪馬台国が反応したのであろうと推測される。また奈良県の纏向遺跡箸塚古墳は卑弥呼の墓だとも言われる。そして近くには皇室誕生の神聖な土地とされる三輪山がある。ここで崇神天皇と卑弥呼が結びつく。まさしく日本の歴史の誕生である。
 崇神天皇の代で特記すべきことは次のことである。国内に疫病がはやる。天皇が神託に伺ってみると、国内に住んでいる大国主命の子孫を祭れとある。天皇がその通りしたら悪疫は止んだと書いてある。大国主命は大和族の先住民である出雲族の最高神である。このような記載は大和と出雲の間に若干の争いはあったが、結局両者は和解した事を意味する。皇室の最高神は天照大神であるが、彼女は本来三輪山に祭られるべきところ、大国主命に遠慮して伊勢国に鎮座されたという事である。
三輪山には面白い神話がある。三輪山神婚談という。ある日土地の娘が極めて美麗な男性の訪問を受ける。毎日毎日彼女の家を訪れ交情する。夜明け前にはこの男は消えてしまう。不審に思った娘は男の衣服に針をつけておき、針についている糸を手繰って行った先は三輪山であった。この事実を知った娘は死んでしまう。このお話は色々な修飾をされて日本各地で話されている。この神婚談を若干神話学的に解釈してみよう。男が家に現れて娘と交情
するという事は王家が土地の豪族有力者と通婚し勢力を広げる事を意味する。この解釈は万葉集冒頭の第21代雄略天皇の歌に現れている。「籠もよみ籠もち、ふくしももち、名乗らさね」の歌は雄略天皇の求愛の歌であり、この娘は土地の有力者の一族であると推定される。意味は三輪山神婚談と同じである。
 崇神天皇の代から具体的な歴史の検証に耐えそう事績が語られてくる。この天皇の支配する版図は大和摂津河内そして山城の南半くらいであったろうと言われている。同時に四道将軍が派遣されている。いよいよ全国制覇の過程が始まる。以上のような事実から歴史上実在する天皇は崇神天皇をもって嚆矢とすると私は思う。忘れていた131人の天皇の中でその名称に「神」が着くのは他には初代神武天皇と応神天皇のみである。学者によっては崇神天皇の事績を過去に遡らせて神武天皇という像ができたのではないかとも言われている。
 第11代垂仁天皇のころから官僚制が整ってくる。大臣大連の制度が記載されている。大臣野見宿祢とある。垂仁天皇には哀話がある。天皇の后は大和の有力者の妹だった。ある日妃は兄から天皇謀殺の企てを打ち明けられる。迷った末に兄の館に立てこもる。天皇は反逆者を攻める。この時天皇は后と皇子を取り返すように部下に命じる。妃は天皇の意図を予知して、衣服を引き裂かれやすくしておき皇子を渡した時、自分の衣服が破れて兄の館に立てこもり兄と運命を共にする。この話も大和政権内における合従連衡・根方術数を物語る。大王はこうして征服地を増やしていったのであろう。
 第12代景行天皇の事績は東西への勢力拡張だが、この事績は日本で最初の英雄である日本建尊(やまとたけるのみこと)の活躍でほぼ全面的に語られる。日本建尊は景行天皇の皇子で、天皇に命じられてまず九州の熊襲を討つ。熊襲は現在の熊本県南部から宮崎県と鹿児島県に蟠踞していた。日本建尊は女装し、熊襲の首領に近づき殺害する。帰途、尊は山陰の出雲建を謀殺している。ついで尊は父天皇から東方の関東の征服を命じられる。この時日本建尊は、父帝は自分を遠ざけたいのだ、自分は二度と大和の地を踏めないのではないのかと思い、悲しみくれつつ東征に出かける。伊勢神宮の斎宮であった姉の大和姫から剣をもらい、この剣で敵の火攻から逃れる。三浦半島と房総半島に間の海峡、走水の渡しで暴風に会い、妃の弟橘姫が海中に飛び込んで海神の怒りをやわらげ無事関東を征服する。この時尊が火焚き守の翁と交わした歌が連歌の始まりといわれる。大和に帰る途中美濃国で山に入り山の神から悪風を吹き付けられ発病し伊勢まで来たとき死去する。ついに大和には帰れなかった。尊を葬った墓から一和の白鳥が飛び出し、大和を目指して飛び立ったと伝えられる。こういうと日本建尊はか弱い女性的な性格の人物になるが、その実態は極めてたけだけしい人だったようだ。父である景行天皇がある皇子をよんで来いと命じたところ尊は、兄がいう事を聴きませんので殺しました、と復命する。このことで景行天皇は尊を恐れた。父子の間にある権力闘争だ。尊は悲劇死するが、どういうわけか彼の子供が第14代仲哀天皇として一代置いて即位する。
 仲哀天皇は九州南部を征討しようと企てる。夢に神が現れて託宣する。なぜ南九州・熊襲のような辺狭な土地にこだわるのか、むしろ海北の朝鮮半島を責め取れと。仲哀天皇はこの託宣を理解できず無視する。その夜天皇は頓死する。天皇の后が神功皇后である。神功皇后は腹に子供宿したまま出陣し、新羅を攻めて属国となし凱旋する。征討中生まれた子供が第15代天皇である応神天皇だ。応神天皇の名前には「神」という字がある。つまり彼は神に擬せられ、新たな王朝の創始者と解釈されうる。応神天皇は北陸地方と深い関係がある。北陸は大陸・朝鮮半島に近い。そして新羅征伐。応神天皇の時代に、日本(まだ日本という名はないが)と朝鮮半島の間には、複雑な権力・財貨・人間の交換があったものと推察される。つまり朝鮮半島南部を巻き込む形で日本の権力機構の再編成が行われたのだろう。こう考えてくると先の仲哀天皇の頓死も別様に解釈されうる。仲哀天皇はこの権力の再編成(つまり新たな国家・王朝の出現)の過程で抹殺されたあるいは敗北した、とも解釈できる。ここで崇神天皇の王朝は絶え、「神」の名称を持つ新たな王朝が誕生したのかも知れない。なお神功皇后の実在は疑問視されている。邪馬台国の卑弥呼に比定されることもある。「愚管抄」では慈円はその実在を認め女性天皇の第一号としている。ちなみに応神天皇の時半島から「論語・千字文」つまり漢籍と漢字が王仁によりもたらされたと言われる。この事一つをとっても応神王朝の歴史における意義が、それも革新的意義が看取される。
 第16代仁徳天皇は天皇の中で一番人気のある天皇だ。難波高津宮から摂津河内方面を望見し、民のかまどから煙が立っていない事を憂い、3年間無税とし、経済を復興させたと言われている。現在の政府の増税派に効かせてやりたい話だ。しかしその皇位継承はそうすっきりと行ったわけでもない。仁徳天皇は兄弟の一人を殺し、別の兄弟ウジノワキノイラツコの禅定を経て皇位に就く。このウジノワキノイラツコ(漢字で書くと読みにくいのでカタカナにする)には逸話がある。応神天皇の御代だろう、新羅か百済の使者が来貢した時、日本人には漢語が解らないとあなどって無礼な表現を使った。ウジノワキノイラツコはそれをすぐ見破り使者を叱責して表現を変えさせた。応神・仁徳天皇のお墓は大阪府にある。世界で一番大きな陵墓だ。仁徳天皇の陵墓は最近世界遺産になった。両天皇のお墓は古墳時代の頂点をなす。如何に両天皇の時代に強い権力が形成されたかが解る。仁徳天皇の国見の逸話も大阪平野が大規模に開発される事の反映だろう。巨大な陵墓、漢字伝来、朝鮮半島との交流などなどの事績は応神仁徳朝がそれ以前とは別個の王朝である可能性を物語る。なお仁徳天皇には艶麗な逸話があります。それは次回に。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行