経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

     皇室の歴史(13)

2021-02-24 15:22:50 | Weblog
皇室の歴史(13)

 奈良時代から平安時代中期までの官制について概括します。奈良時代は天皇の下に左右大臣と大納言からなる議定官がありました。5-6人くらいで合議します。結論は天皇に奏上されますが、多くの場合天皇は裁可しました。後に中納言や参議の官職が設けられ彼らも参加します。また大納言以下には権官が設けられます。例えば権大納言といえば大納言の席が空いていないので、権に(仮に)に大納言にしておくという方式です。こうして議定官は増え平安時代には最高30人弱に達したこともありました。
 議定官の下に行政官として中務・民部・兵部などの各部門が八つありました。八省といいます。また少納言と弁官及び内外の外記が事務局を構成していました。地方は国司郡司でもって治められました。国司は守介掾目の四つの階級がありましたが、前記したように長官である守に権限が集中し受領になって行きます。下級の国司は土地に在住し土地有力者として国衙に結集します。
 大体そんなところですが律令制に無い職務が追加されてゆきます。令外官(りょうげのかん)といいます。代表が蔵人所と検非違使です。前者は天皇の側近秘書のようなものですが、仕事が仕事であるだけに実力をもってきます。特に長官である蔵人頭(くろうどのとう)が近衛の中将を兼ねると頭中将と言われ出世への踏み台でした。この職務を務めると参議に昇進できます。検非違使は都の警察機関です。実際の任務は地方出身の武士たちが担いました。
 どんな官職でも必ずその実際的職務は変遷し形骸化します。行政機関である八省などは真っ先に形骸化しました。ただ式部省のみが実体として残ります。理由は役人人事の考課は絶対に必要であるからです。菅原道真は式部大輔に任じられてから実力を発揮します。紫式部の父親藤原為時は式部丞(三等官)に任じられた事を終生誇りとします。軍制も形骸化します。本来はなんらかの形で徴兵しないといけないのですが、当時の日本は外国と戦争する可能性が低かったので中央政府は軍事を地方の武士たちの一種の請負にしました。武士たちは都で一応、衛門尉などの官職に任官しますが、実態は部下を率いて給料無しで執行しました。ですから都の治安は結構悪かったのです。一条天皇の時にも二度宮殿が焼けています。放火の可能性は充分にあります。
 令外官の代表が摂政関白です。摂政は天皇が幼少の時に政務を代行します。関白は天皇が成人した時、下の意見を天皇に取り次ぎます。どちらも事実上天皇の政治行為に対して、代行・掣肘・助言などの役割を持ちます。人臣初めの摂政は藤原良房で、最初の関白は基経です。その時その時の力加減と天皇との距離に応じて勝った方が摂関になります。道長の代で帝血と道長の系統の血が混ぜ合わされて摂関家ができます。以後道長の系統の嫡流が摂関家を継ぐことになります。摂関政治で重要な事は、この家柄のみが天皇の後宮に正妃を送れることです。反対の方向の血の移行はありません。こうして政治は天皇家と摂関家という首位と次位の家が交流し通婚する事になりました。権力というものはどうしても血の凝縮つまり血縁でもって固まろうとします。近親結婚極端にいえば近親相姦です。摂関政治はこの近親相姦を認めつつ、同時に血の移行を一方向に制限して、緩和します。こうして両家でもって政治の実権を握ります。摂関政治の成立は以後の日本の政治に大きな刻印を押します。権威と権力の分化です。この事は先記し土地制度と密接に絡みます。荘園、名主、武士団が発達します。実際の地方統治はこの武士団に握られていました。この地方勢力のまとめ役が中央の貴族でした。外敵の心配がないので大量の兵力を中央に結集する必要はありません。せいぜい数百人の武士で充分です。こういう中律令制とそのソフトである仏教の興隆に一番熱心である藤原氏が勃興し天皇家との通婚を介して特別の家になりました。この藤原氏の台頭を絶対に阻止する必要はあり得ません。藤原氏は天皇家には良き同労者であります。こうして藤原氏(といっても主流傍流併せて無数の家系がありますが)は中央の官職をほぼ独占しました。かといってそれで困ることもありません。官職は地方にも(むしろこちらが重要なのですが)配分されるのですから。摂関政治成立の背景はそんなところです。摂関政治が整うにつれて流血を伴う政争は激減しました。奈良時代以前なら政争は必ず流血を伴います。810年の薬子の変から1156年の保元の乱まで上下の貴族や官吏で処刑された人は居ません。政変は起こりますが、せいぜい地方への配流ですみます。伊周の配流など甘いものです。
 一条天皇の時代を頂点として村上天皇から後三条天皇に至る100年余の時代平安女流文学の絶盛期でした。蜻蛉日記(右大将道綱の母)、和泉式部(和泉式部日記)、枕草子(清少納言)、源氏物語・紫式部日記(紫式部)、栄花物語(赤染衛門)、更科日記(菅原孝標娘)等々枚挙にいとまがないほどです。歌人に至ってはゴマンといます。最も秀逸な歌人は和泉式部でしょう。女性歌人の伝統は万葉以来ですが、まだまだ続きます。このようにこの時代女性が文学で活躍したのは世界史の奇観です。
(日本はにこの種の奇蹟が多いのです。東大寺建立における行基などの民間勢力の協力、平安時代30年・江戸時代250年の平和、緩慢な下剋上による階層の流動性、宮座・村方騒動に見る大衆社会の平等性・民主性、連歌・茶の湯・歌舞伎・浮世絵などの大衆文化、識字率の驚異的高さ、鎌倉新仏教における事実上の世界宗教の創設、徂徠・尊徳・梅岩に見られる経済学の創造などなどです。日本人自身が気づかないだけなのです。天岩戸の前で女神が裸で踊り国が創設された事、そして万世一系の天皇制などもこれらのうちに入るでしょう。)
 女性が文学の分野で活躍したのには理由があります。この時代は女房の時代でもありました。律令制が崩壊し荘園制に移行するにつれて、貴族階級は大きく上下二つに分かれます。
上位は摂関家を中心とする上級層で基本的に議定官の職を独占します。下層は地方の国司つまり受領階層で原則として五位です。この受領階層の子弟は上級階層の貴族に家礼として仕えました。もちろん彼らの子女も同様です。このように皇族や上級貴族に使えた女性たちを女房といいます。平安女流文学はこれらの女房層によって担われました。彼女たちは上級貴族に仕えいろいろな仕事をしました。その中には主人の家庭教師や秘書参謀そしてスパイのような仕事も含まれています。紫式部はその点で最も優れた(あらゆる意味で)女房でありました。ですから平安女流文学を単なる文学史の次元で捉えるのは危険です。女房はそういうわけで政治的実力を持っていました。時代が下ると乳母という階層が実力を発揮してきます。紫式部の娘である藤原賢子(大弐三位)は後冷泉帝の後宮で乳母として隠然たる力をもちました。時代は下りますが保元の乱において清盛の動向に強い影響力を発揮したのはやはり乳母女房層にあった池禅尼です。
 平安時代の精神性の一つの特徴は怨霊への恐れです。それも中途半端なものではありません。平安時代最大の怨霊の主人公は三人います、早良親王と菅原道真と後の崇徳天皇です。ここでは紫式部時代を中心として三つの挿話を挙げてみます。藤原コレタダと朝成の蔵人頭の地位をめぐる争いがあります。朝成は伊タダに、貴方は若く家筋もいいのだからこの地位を私に譲ってくれ、と頼みます。地位が地位ですから伊タダは断り蔵人頭に就きます。朝成はすごく恨みます。そのせいか否か伊タダは若死にします。そのために摂関家を作る機会を失います。伊タダの孫である行成にも朝成の話は伝えられており、ある夜行成は夢で朝成が朝廷で待ち伏せしている情景を見ます。行成はその日の出仕を見合わせました。
 藤原頼道は摂関家の嫡流でした。父親道長の跡をついで摂関になります。ところで頼道の正妻隆子は極めて嫉妬深い人でした。頼道に他の女を近づけさせません。道長は頼道の正妻
(必ずしも一人とは限りません)として頼道に三条天皇の皇女禎子内親王を娶らせようとしました。皇女ですから破格の待遇です。血統の王化を求めていた道長には非常に重要な政策でした。頼道は隆子と道長の間に入って動揺混迷します。挙句の果てに頼道は幼児の言葉しか話せない状況になってしまいました。精神が退行し一種のヒステリ-状態になったのです。加持祈祷が施されます。結果は側近の女房に霊が乗り移り、隆子の父親である具平親王の霊が道長に、貴方は娘を不幸にしないと約束したではないか、娘の現況を見ると居ても立ってもいられない、と怨みを述べます。道長も降参してこの縁談はなしになりました。とたんに頼道は元気になります。そして頼道隆子の夫婦生活は幸せに行きました。しかしこの事は頼道と摂関家に大きなマイナスをもたらしました。頼道に正嫡の男児がなく後継に苦労し女児もなく後宮に入れる子女に事欠いたからです。
 書いていてふと気づいたのですが「怨霊が関係のない他人に乗り移り発言する云々の現象は決して迷信だけでは説明できません。天に口無し、人をして言わしめる(天声人語)という格言がありますが、憑依怨霊などの現象はまさしく声なき声、民衆の声なのです。古代の人たちはこういう形で自らの意志を表出しました。
 三条天皇の子供である皇太子敦明親王と道長との取引については先に述べました。道長の条件の一つが、道長の娘寛子を親王(後の小一条院)の室に入れる事でした。親王にはすでに延子という正妻がいました。親王は若い寛子に夢中になります。延子としてはさんざんです。天皇の正妃になれると思いきや、その夢もかなわずそして若い寛子に夫を奪われてしまいました。延子もその父親の為光も怨みを抱きながら死んでゆきます。後、寛子が危篤に陥った時寛子は父親道長をよびます。そこで道長が見た情景は、女房達に憑依した延子父子の霊であり、この霊は快哉を叫んでいました。寛子が息を引きとった時これらの霊から出た言葉が「今ぞ胸あく」つまりやっとすっきりしたという言葉でした。平安貴族の怨霊談を三つあげました。彼らはこのようなメンタリチイ-で暮らしていたのです。
 一条天皇から後三条天皇までには天皇自身の逸話は少なく、むしろそれを取り巻く貴族女房の事績のほうが目立ちます。換言すれば天皇はこのような貴族に取り巻かれて結構和気曖曖に過ごしていたのです。
 一条天皇から後三条天皇まで政治を領導したのは頼道と上東門院彰子でした。むしろ彰子の方が影の実力者であったようです。この間の重大事件としては僧兵の強訴と前九年の役があります。両事件とも重大なのですが、これらの話は以後の院政時代の時述べましょう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」 


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